抜けるような青空の昼下がり。
俺は一人船の上にあるみかん畑の陰でぼんやりと雲を眺めていた。
いつもは五月蝿くてかなわねえこの船だが、今はシンと静まり返っている。寄港している港の喧騒が、波の音の向こうで微かに聞こえるだけだ。
ナミとビビはウィンドウショッピングとやらに出かけ、サンジは食料調達へ。チョッパーはそのアシスタント……ようは荷物持ちだが……について行き、ウソップとルフィは探険よろしく飛び出しちまって……要するに特に用事のない俺は留守番役を押し付けられたって訳だ。別に何時もの事だし、落ち着いて昼寝できるのは嬉しい限りなので不満は無い。
俺は大きな欠伸を一つしてから、本格的に眠りの体勢に入ろうとした。その時だ。
「ゾロ」
聞き憶えのある声が俺を呼んだ。
驚いて体を起こすと、港側の手摺りににゅっと手が伸びてくるのが見えた。そのまま間を開けることなく、手と声の主が姿を現す。
まったくなんつー登場の仕方だ。
呆れる俺に構わず、現れた人物……ルフィは跳ねるような調子であっという間に俺のもとへ辿り着いた。
「ゾロ」
そしてもう一度俺の名を呼ぶ。
「何だ?」
答えると、ルフィは嬉しそうに笑い俺のそばに腰を下ろした。
「ゾロ、一人で何してたんだ?」
「留守番だろ。お前こそ町に探険に行ったんじゃなかったのか?」
「んん、行ったけど、ウソップとはぐれちまったし、もしかして先帰ってねえかなって」
「まだ誰も帰ってねえぞ。も一回行ってくるか?」
「……んん、んや、いい。俺もゾロと留守番する」
ルフィはそう言って、ゴロンと仰向けに転がった。俺もあわせて横になり、頭の後ろで腕を組んだ。
「いーい天気だなあ」
「……ああ」
「でも二人だと静かだな」
「いつもがうるさすぎんだよ。おめえも人一倍うるせえんだぞ。自覚なさそうだけど」
「そうかあ?」
ルフィは心外そうに言った。
「……お前わりと寂しがりなとこあるしな。賑やかな方がいいんだろ?」
「んー、まあみんなとワイワイやってんのすげー楽しいけど……」
「けど?」
てっきり当然だと肯定されると思ったのに、ルフィは語尾を濁らせる。そして普段よりずっと小さめの声で言った。
「海に出たばっかりの、ゾロと二人だけの時も、楽しかったぞ」
意外な言葉に、俺は何も返せなかった。何かむず痒いものが胸の奥にわき出てきて、どうしていいのか判らない。無言でいる俺に、ルフィは特に気にした様子も無かった。言うだけ言えば満足したようだ。
しばし二人の間に沈黙が続いた。船上を柔らかく過ぎる風に揺れるルフィの麦藁帽が目の端にうつる。
唐突に、俺は思い出す。
そうだ。確か以前、こんな時間を二人で過ごした事がある。
小さな船で二人きりの航海に出て、お互いまだ慣れてなくて、風任せの船上に二人ただ無言で寝転がり、流れる雲を見てるだけだった。そのうち、ぽつりぽつりお互いの事を話すようになって、意外に気が合うことが判って、この不自由な共同生活が割合苦ではないと思えるようになった。そして……。
海に出て何日目のことかはっきりとはしないが、今日みたいに風の穏やかな日だった。苦痛じゃない無言の時間を二人で過ごしていた時、特に意識もせず、俺が組んでいて痺れかけた腕を緩めた先にルフィの顔があった。無防備だったルフィの頬を俺の手がすっと撫で下ろし、狙ったように奴の唇に触れたのだ。
「あ、スマン」
咄嗟に手を引いて体を起こした俺を、ルフィは呆然と見上げていた。真っ黒い大きな瞳で。その唇は文句を言う事もせず、薄く開かれたままだった。
俺は……何故だろうか、目を逸らせなくなってしまったのだ。その瞳から、その唇から。そして、もう一度、ルフィの唇に触れていた。今度は手ではなく、自分の唇で。合わせるだけの軽いものだったが、時間的には結構な長さだったように思う。記憶が曖昧なので、本当の所は判らないが。
そうして唇を離して、俺はまた横になった。ルフィの顔を見る事も、何故か出来なかった。ルフィも何にも言わなかった。
お互いに何も言わないまま、その出来事はまるで夢だったかのように、時間の彼方に追いやられてしまっていた。
それを、俺は今、思い出してしまった。あまりにも今の空気があの時に似ているからか。
ルフィは……どうなのだろうか。思い出しているのか、思い出していないのか……思い出したくないのか。
だが、今思い返して見ると、あの日以来、言葉にする事は無くても何かが変わった気がする。必要以上に二人でいる事が多くなった。無言の時も、話に夢中になっている時も、いつも身体を寄せていた。それは他に仲間ができてからも同じ。ただなんとなく、そばにいるのが心地良くて。
でも、完全に二人きりになる事は最近では滅多になかった。今日こうしているのは本当に久しぶりだ。すぐ隣にルフィがいる。気持ちを集中すれば、その体温も微かな息づかいさえも感じ取れるほど近くに。それが妙に心地良い。
ふと、思う。
ルフィはあの事を、どう、受け止めているのだろうか。嫌だったのか、そうでなかったのか……。本当はずっと訊いてみたかったのだ。
ルフィは、責める事も、ましてや喜んで見せる事もしなかった。ただ、黙っていた。その真意を、聞いてみたい。嫌ではなかったと思う……少なくとも俺は。もちろん、自分から 仕掛けておいて、否も応もないのだが。
思い切って訊いてみようかとルフィを振り返ったとき、思い がけず奴と目が合ってしまった。
見ていたのか、俺を?一体いつから?
「……ル……」
「ゾロ」
問い掛ける俺より先に、ルフィがしっかりとした声で俺を呼んだ。大きくて真っ黒い瞳が俺を見つめている。真剣そのものといった様子で。心なし潤んで見えるのは俺の気のせいだろうか。
「ゾロ」
もう一度、俺の名前がその唇から飛び出した。薄く、形のいいそれ。いつも笑みの形をつくり、真っ白い歯を覗かせている。その唇が、俺の名前を紡ぐために動く。
俺はそれを魅入られたように見つめていた。そう、あの時確かにこの唇に触れた。どんな感触だったのか、夢のようにあやふやで思い出せない。
もう一度、確かめたい。
そう思った時には、もう体が動いていた。片肘で身体を起こし、なかば奴に覆い被さるような形で、俺はルフィの唇に自分のそれを押し付けていた。ルフィは驚いているのか抗うことはしなかった。それをいい事に、俺は行為を進めていった。
温かい唇から、ため息のようなものが漏れて鼻をくすぐった。今までに抱いた女達とはあきらかに違う、柔らかいだけではない張りを持った唇。船上の風を受けてわずかに潮の味がするのがいかにもルフィらしくて、俺は妙に興奮していた。合わせるだけのそれから、角度を変えて、徐々に深く。応える事のない、しかし抗うこともないルフィの唇を自分のそれで侵していく。白い歯列を割って舌を割り込ませると、初めてルフィの体が小さく震えた。声を出すと何かが壊れてしまいそうで、俺は何も言わないまま唇を押し付けていく。しかし心の中では何度も奴の名前を呼んでいる自分がいた。上がっていく鼓動の早さと、合わせた唇から漏れる吐息の熱さが、俺を追い上げていく。
思う様ルフィの唇を味わったあと、ごく自然に、俺の唇は奴の顎をすべり小麦色に焼けた健康的な首筋に落ちた。吸い上げると薄く赤い痕がついた。が、その色はあまりにもルフィの肌には不似合いなように思える。首筋に沿って舌を這わせ、辿り着いた鎖骨に軽く歯をたてる。潮とは違う、汗の味がした。
赤いシャツの胸元に手をかけても、奴は反応を返さなかった。俺の舌が与える感覚を追うのが精一杯という所だろうか。構わずにボタンを外し、胸をあらわにする。当然そこには女のような豊かな膨らみはない。小さな二つの突起だけが存在している。見慣れたはずの、胸。だが今は僅かに汗ばみ、ルフィの呼吸と共に上下して妙に艶めいて見えた。まず手のひらで肌の感触を確かめ、次いで唇で色づいた突起に触れた。
「……っ」
ルフィが、言葉にならない声をあげた。見上げた顔は羞恥に染まり、黒い大きな瞳は快感に揺れていた。
「ゾ……ゾロ……」
ルフィが俺を呼ぶ。普段からは想像もつかないほど濡れた声で。
期待して?それとも不安なのか?
判らない。判っているのは、今、俺が、ルフィにはっきりと欲情している事。自覚して、俺はたまらなく熱くなった身体で奴の身体を掻き抱いた。決して華奢ではないが、綺麗に筋肉のついた男にしては細めの体がすっぽりと俺の腕に納まった。首筋に埋めた顔にルフィの髪が触れる。ルフィは驚いたように身体を強張らせたが、すぐに力を緩め、やがておずおずと俺の背に手を回してきた。俺達はしっかりと抱き合って、しばらくお互いの体の熱さと呼吸だけを感じていた。
「ルフィ……」
耳元で呼ぶと、ルフィが小さく身じろぎする。腕を緩めそっと覗きこんだ瞳は切なげに伏せられていた。ゆっくりと、深く、唇を重ねる。今度はルフィも自然に受け容れてくれた。
熱い。たまらなく。吐息も、絡められた舌も、重なった肌も。熱さに追い立てられるように昂ぶった自分自身に眩暈がする。
もう、止められねえ。
熱く猛った自分のモノを布越しにルフィに押し付けたとき、突風が船上を吹き抜けた。その風は俺達二人の体の間にも割り込み、そして、ルフィの麦藁帽を巻き上げた。
「あ!」
空へと連れ去られた麦藁を見上げ、ルフィが声をあげる。
「ゾロ!」
次いで、取り戻すために俺の身体を押し退けようとした。だが、俺は奴を抑えこんだまま動かない。行為の途中だという事もあったが、ルフィの大切な麦藁帽に……それが示す人物への幾ばくかの嫉妬が、俺の身体を支配していたのだ。
「ゾロ!ゾロ!」
ルフィは俺の名前を呼びながらもがく。その間にも奴の宝物は空へと飛び去っていく。俺が動かないと悟ったか、ルフィは最後の手段に出た。そう、奴の奥の手だ。
「ゴムゴムのーっ!」
掛け声と共に勢いよく伸ばされたルフィの腕はしっかりと麦藁帽を掴み、上空から奴の手元へと戻ってきた。そうして大切そうに頭にかぶせる。
「「ふう」」
二人同時にため息をつく。ルフィのは安堵のそれ、俺のため息はすっかり気が削がれてしまった事を意味していた。風に邪魔されたってとこか。
俺は身体を起こし、奴の隣に座った。何を言っていいか判らず、ガシガシと頭を掻く。ルフィも無言で起き上がった。大事そうに深くかぶった麦藁帽のせいで、奴の表情は窺えない。はだけられたままの赤いシャツの胸元にはしっかりと俺のつけた痕が残っているのだが、妙に現実味がなかった。かといってこのままの姿でいられると、いつ又妙な気を起こすとも限らない。俺はルフィのシャツのボタンを止めてやった。ルフィは大人しくされるままになっている。衣服を整え終わり、引き戻そうとした俺の腕を、ルフィが掴んだ。
「……ル……フィ?」
表情は、まだ麦藁帽に隠れていて、判らない。
「俺……」
「ん?」
「俺、ゾロの事、好きだぞ」
一言一言、噛み締めるように、はっきりと、ルフィは言った。掴んだ腕が微かに震えている。
いや、震えているのは、俺の方か?
ルフィはゆっくりと息を吐き、顔を上げた。潤んだ瞳が、桜色の頬が、それでもまっすぐに俺を見つめてくる。
「ゾロは?」
オレ、ハ?
もしかして、ルフィも、あのときからずっと俺にそう問い掛けたかったんじゃないだろうか。俺がルフィをどう思っているのか。
俺は……。
男相手なんて初めてで、体の方が先に反応しちまったけど、問い掛けられてはっきりと気付いた。
「……俺も、お前と同じだ」
ルフィは一瞬目を見開き、そして、いっそう顔を赤くした。
「なんかそれ、ズリィよ。ちゃんと言えよ」
口を尖らせて言う。言葉とはうらはらの、甘い声色で。
「好きだ」
ルフィの、子供っぽい仕草に、素直にそう言えた。
「ホントか?」
「俺が嘘ついた事あるか?」
「ない」
「信じろ」
「ん」
ルフィは納得したようにひとつ頷いて、にっこり笑った。
「信じた!!」
言うなり俺に抱きついてくる。俺は無理な体勢を支えるのがやっとで、抱きとめてやる事はできなかった。ルフィは構わず俺の首にぶら下がってニコニコ笑っている。俺はガラにもなく暖かい気持ちになっていた。体勢を立て直し、ルフィの体を抱きしめ、唇を合わせようとした……のだが。
「おーい!ルフィー!帰ってかー?!」
船の下から聞き憶えのある声が響いてきて、思わず硬直してしまった。
「おー!帰ってっぞー!」
ルフィも素直に返事をする。俺はがっくりと脱力してルフィの体を離した。
「ウソップだ」
「言わんでも判る」
「……何か怒ってる?ゾロ?」
「別に」
ルフィはんーと唸りながら首を傾げる。
「早く行ってやれよ。待ってるぞ、長っ鼻が」
俺はそのまま仰向けに寝転がる。
「ルフィー!!荷物が重いんだよー!手伝ってくれー!」
ウソップの声が響く。
「わりー!今ゾロとちゅーするから待ってて……もがっ!」
「阿呆ぉ!!」
俺は慌ててルフィの口を塞いだ。
「あー?なんだってー?何でもいいから早くしてくれよー!じゃないと持病の重いもの持てない病が……」
幸いウソップには聞き咎められなかったようだ。
「早くしろってよ」
「馬鹿!」
「……これって、言っちゃまずいのか?」
「……」
思わず口篭もる。何と言えばいいのか……。
「じゃ、ナイショな」
困ってる俺に、ルフィは軽くそういった。
「ああ、そうしてくれ」
今は、それで良いだろう。いずれはバレる事かもしれないが。俺もルフィも隠し事が得意ではないから。
「じゃ、俺ウソップんとこいって来る」
「ああ」
答えて再び横になった俺に、突然ルフィが唇を押し付けてきた。
「ル……」
「ししし……じゃな!」
驚いている俺を置いて、ルフィは元気よくウソップの元へ駆け下りて行った。すぐに奴らの会話が聞こえてくる。それを遠く聞きながら、俺はこみ上げてくる笑いを抑える事が出来なかった。何だか妙に、笑えてしまって、しょうがない。
見上げた空は、どこまでも高く、青い。風は俺の髪を揺らし、俺の笑い声と共に船上を吹き抜けていった。
ゾロル。色々手探りな感じで。