第二十九話〜予兆〜
旅に出ろ。お前たちは世を知らない
僅かに一日だけが過ぎ去った学園。エヴァンジェリンは、心底に不安そうな顔立ちで目前の座席の絡繰茶々丸を見つめていた。
だが、視線はエヴァンジェリンからだけではない。教室の至る所から、絡繰茶々丸に心配そうな眼差しが送られ続けている。
無理もあるまい。
絡繰茶々丸が倒れ、葉加瀬聡美の調査を受けた翌日。やはり絡繰茶々丸は事ある毎に膝を付いて苦しそうにあえぎ、またその姿が学園中で視認できていたのだから。
それはどこででも起きた。
朝も。授業中も。昼も。午後も。帰り道でも。
あらゆる場所、あらゆる時間を無視して、絡繰茶々丸は明らかな体調の不慮を体現していた。
心配されるたび彼女は「大丈夫です」と微笑んで返した。
その様相は人間そのもので、多くの人間は心底に不安になった。クラスメイトの殆ど――それこそ、楽観視していた葉加瀬聡美――も含め勿論、担任のネギ・スプリングフィールドもその一人であることは言うに語るまい。
絡繰茶々丸に葉加瀬聡美、超鈴音が問うも、痛みがあるわけではないらしく何処か身体の動きが鈍い、と言うのを訴えるだけであった。
強行の調査さえも出来ない。既に絡繰茶々丸は、機械的な制御と言うものが通じないほどの変化を見せていた。
ある工学部の生徒は言った。まるで、まるで生物のような変化だと。
だがエヴァンジェリンはそうではないと訴え続ける。
生物のような変化程度ではない。エヴァンジェリンが感じるとおり、最早コレは生物的な変化そのものを超越していた。
進化と言うよりは変異。
順応と言うよりは適応。
あまりに劇的な変化であった。
だが、生物ではないが、生物はそれほど劇的な変化に身体は瞬時には適応しない。
あまりにも劇的な変化は、変化した肉体の主そのものに危険を齎す。今の絡繰茶々丸はまさにそれであった。
痛みがあるわけではない。絡繰茶々丸には痛みを感じる部位はない。
だが、身体が動かないのだ。
見ているほうが辛くなるほどの鈍さ。半身は麻痺したかのようであり、片手で何かを持つ事すら億劫。それが、現状の絡繰茶々丸の状態であった。僅か一日で悪化した、絡繰茶々丸の状況であった。
「茶々丸さん? ホントに大丈夫?? 休んでもいいんだよ?」
「アスナさんの言うとおりですわ。茶々丸さんも女の子なんですのよ? もし何かあっては……」
幼馴染であり、絡繰茶々丸が見るクラスメイトの中では特に仲が良いと判断し、記憶している二人の言葉を、何故か絡繰茶々丸は嬉しいと感じていた。
不思議な気持ちであった。身体がロクに動かないと言うのに、心の内の波は酷く落ち着き荒いではいない。
肉体、その肉ではないモノで構築された身体は生物で言う瀕死に匹敵するほどの鈍さであると言うのに、不思議と、絡繰茶々丸の心情、とでも言うのか。ソレは至って正常あり。冷静で、人間の様な朗らかさ。
「大丈夫です。ご心配をかけてしまっているようですが、私は平気ですので。有難う御座います、神楽坂さん。雪広さん」
礼儀正しく。あの絡繰茶々丸とは変わらぬ様相でそう返されては最早何もいえまい。
心配し続けている二人を嗜め席に戻す。腰掛けていた絡繰茶々丸が方向を変えるのは容易い事ではないところまでいっていた。
一歩間違えれば腕や脚が折れるのではないのかと言うほどに鈍い動き。誰でなくても手を貸したくなるその動きに。
「茶々丸、無理はするな」
クラスメイトが目を丸くする。
無理もないだろう。普段は我関否を貫き通す、あのエヴァンジェリンが自ら手を貸したのだ。驚くなと言う方が無理であろう。
同じように、絡繰茶々丸もまたその表情を一瞬僅かに曇らせた。
彼女は自らの主がどのような人物で在るのかを知っていた。
常に己一人。しかし、常に誰かと共に居る時こそ、清々しく楽しそうにしている主。
彼女、絡繰茶々丸はエヴァンジェリンと言う少女に仕える従者である事を自覚していた。
手を貸される立場ではなく、常に手を貸す立場。主の危急に駆けつけ、主の望むことを常に最優先で行う有能な従者として行動してきた。
絡繰茶々丸は助けられる立場にいるのではなく、助ける立場でなければいけないのだ。
絡繰茶々丸は知らないが、エヴァンジェリンは先日。それこそ、絡繰茶々丸の状況が一気に悪化した昨日の時点で、普段絡繰茶々丸が行っている事の半分をこなした。
勿論、普段やってもいない行為だ。
有能な従者でもある絡繰茶々丸程上手くは行えていない。
それでも、エヴァンジェリンは普段しなれないことをやった。それは何故か。
それは不安だったのだろう。
永く。この地。この、見知らぬ土地で生活を初め、思い親しんだ男の帰りを待ち続け、しかし、戻っては来なかった時の不安。
永く一人であり、初めて優しくされた男が帰ってこなかったときに感じた孤独。
孤独は永く、十数年の月日を数えた。そんな折、魔力と科学の研究に暇つぶし程度で付き合った相手からの連絡が入った。
研究中だった素体がついに完成したと言う知らせに、声の主は興奮気味だったが、彼女は至って冷静にその結果と言うものを見にいった。
それがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと絡繰茶々丸の出会い。
出会った時、その瞳に自分と同じものを感じたエヴァンジェリンは彼女を、否、ソレを引き取り、自らの従者とした。
それは何故だったのだろうかと、エヴァンジェリンは今でも時折考え。そうして一つの結論へたどり着く。
それはやはり不安。
一人と言う。孤独と言う。生まれの地も生みの親さえも思い出せず生きているだけのモノになりかけていた事への不安。
誰でも良かったのだろう。
彼女は、自分の存在を証明するたった一つが欲しかった。
それが、絡繰茶々丸と言う存在であっただけなのだ。
何も難しい事などない。
その後二人は今のような関係を築き、変わらず、主にとっては数度目の。絡繰茶々丸にとっては初めての中学生生活を開始した。
エヴァンジェリンは絡繰茶々丸に手を貸し、しっかりと黒板の方へと見向かせた。
僅かに頭を下げかけた従者に片手でソレを諌めさせ、背後の自らの席に座る。
そうして、その背中を見つめた。不安に。暗闇に怯える赤子のような眼差しで。
何故エヴァンジェリンは普段絡繰茶々丸が行っていた事を一通りこなしたと言うのだろう。
それは先にも言ったとおり不安。その不安が彼女を行動へと引き立てた。
つまりは、エヴァンジェリンは、弱弱しくなっていく従者を見ているだけなど出来ず、その不安感を払拭するかのように行動で紛らわせようとしたのだ。
丁度、嫌な事があった人間が、別の行動でその身に起きた出来事を忘れるようにと。
だが、所詮は一時凌ぎの行為。絡繰茶々丸の体調は良くなる事は遂に有らず、今の状況へと至る。
不安は最大のものになっていた。
目の前に座っている筈の従者の身体の一部を何処かで掴んでおかなければ、消えてなくなってしまいそうな焦燥感にエヴァンジェリンはかられた。
肩を掴んでこちらに顔を向けさせたい衝動を押さえ込み、瞳を閉じる。
確認するのはエヴァンジェリンと言う魔法使いから絡繰茶々丸と言う従者へと流れていく魔力系の確認だ。
確認すればどんな魔法使いとその従者よりも深い。絆の様なもので繋がれているかの様な堅固さを様相させる。
それを確認すればエヴァンジェリンは安堵する。
仮令離れ離れになろうとも、この魔力系の繋がりが残っていれば何処へ言っても見つけられる。
近いからこそ繋がりは堅固なものとなっているが、離れればその堅固さも徐々に擦れていくだろう。
それでも、その繋がりだけは決して途絶える事はない。それは魔法使いとその従者なら至極当然なのだった。だが。だというのに。
エヴァンジェリンは不安を隠せない。
その繋がりさえも絶たれてしまいそうな事が起きると予感する。遅かれ早かれ。否、きっと早いうちに、それが起きると言うのをエヴァンジェリンは予測し、しかし、必死に否定もしていた。
絡繰茶々丸は自分の元から居なくならないと。絡繰茶々丸は自分を裏切ったりしないと。
か細く。縋る様に願っていたのだ。
「起立」
教室入り口から響く無機質な声。
エヴァンジェリンは訝疎な顔つきをしてその男の方を一瞥した後、起立し、日直の判断で礼。
挨拶の声は出さずに、そのまま席へ座る。
彼女の視線は男を既に見てはいない。ただ、立ち上がり、座りだけにでも鈍く行動している正面の従者の背中だけを見つめ続けていたからだ。
「出席を確認する」
無機質な顔立ちの男・機能得限止は相変わらず。
絡繰茶々丸の状況に気付いているのか居ないのかどうかの判断さえも感知させず、淡々と出席番号を取っていく。
クラスのこの曇天とした雰囲気なども同じ事。機能得限止には、大してどうでも良い事だからであろう。
だから、弱弱しい絡繰茶々丸の挨拶にさえも、何時もと何ら変わらずに出席だけを取ってく。
機能得限止には生徒の体調などはどうでも良かった。
休みたいなら休めばいいし、出れるのであれば出たと判断するのが機能得限止だ。
絡繰茶々丸は自らの席について授業を受ける意思を見せている。機能得限止が確認する事はそのことのみ。
絡繰茶々丸本人の体調や状態などは、まったくと言っていいほどに気にはしていない。機能得限止にとっては、まさにソレがどうしたと言う事でしかないのであろう。
出席確認が終わる。昼過ぎの空は青い。教室の中はしかし暗く、何処か重い。
その重さも暗さも、外の空の青ささえも無視して、機能得限止は黒板へ向けて白炭を走らせる。
何時もと同じの授業風景を当たり前のように繰り広げる機能得限止へ反感を持つ人間は居ない。それが機能得限止なのだから、反感するような人間は居ないだろう。
白炭が置かれる。黒板に書かれたのは経った一文字。
『進化』
生物学における究極の理論の一つ。生物そのものの体質さえも変異させる、エヴァンジェリンにとって今まさにその例があるとも言える、一理論であった。
「本日の授業は進化論について解説する。ここもまた重要な部分となる可能性が考慮出来る。
ノートに取るなり、頭の片隅へしっかりと記憶しておくか程度の事はやっておけ。では授業を開始する」
いつも通りに機能得限止は授業を進めていた。それが逆にAクラスの人間の意識を集中させる。
何時も通りなのだと言う幻視を錯覚させる言葉。
しかし、現実では絡繰茶々丸は侵食されていっている。機能得限止は意図せず、しかし、その事実を隠蔽させる発言を行ったのだった。
「さて進化とは何か。それを言う前に先ず進化と言う言葉が指し示すものの説明から入ろう。
そも生物が進化するという考えを提唱したのはイギリスのチャールズ・ロバート・ダーウィン博物学者。
"種の起源"を画き、当時は人類を神聖視する動きは強く、ヒトとサルの繋がりは宗教界から多大な批判を浴びせられた。
だがそれを以って尚、自然選択説による進化論を提唱。つまりは我々のような生物学者の基礎ともなった人物だ。
進化とは、生物…生命体が最初に現れてから、今日、確固たる生命体になるまでの過程・経過の事を指す。
一般的には時間の経過により、単純な構造でしかない存在が、より複雑な一個体へと移行していくようにも見えるが、その逆の工程もありえる。
これは退行的進化と言うものだ。これは後々に説明するとしよう。
だが違えてはいけないのがただの身体上の変化だけが進化ではないという事だ。
法則性のようなものは確認されていないが、ある種では注目され。ある種では疑問視を受けている。
こうした進化現象は個々の一小部分で発生するものもあるが、多くは集団的に発生する要素の一つである。
先にも述べたとおり、この進化現象は形態だけに依存するものではなく、その集団的な種族内での習性そのものにすら変化を及ぼすこともある。
また進化とは現在進行形、未来完了形に取られがちな言葉だが、過去の生物だけでなく、現行地球上に存在している生命体の幾つかは、いまだに進化し続けているとも言われている。
教義にはある程度の法則性の見られる突然変異だけをだけを扱うが、それは、量的な場合…アナゲネーゼである時。質的な場合…クラドゲネーゼである時。そのどちらでもない場合…スタシゲネーゼである時の三つに区分される。
この他には定方向進化・非可逆的進化・大進化・小進化などに区分され、各進化の速度はホールディンより提唱された単位、かの進化論の提唱者の名前である『ダーウィン』が用いられている。
なお、進化論と進化説は同一のものと見られがちだが、正確には区分されなければいけない。
では進化論と進化説は如何様に違うのか?
簡潔に言えば進化論はダーウィンなどの学者が個々で提唱したものであり、進化説は『それらの進化論を説明する為に提唱された説』と考えるのが正しい。
進化論はただ一人で提唱されたものであり、多少の違いも無い。
だが後者の進化説は少々異なってな。進化説は多くの進化論に述べられたものが元になっている。
この二つの大きな違いはやはり進化の経路に遺伝子学と言うものが介入するかどうかの違いだろう。
この進化説には幾つかの派が存在していてな。今でも対立関係が続いているらしいぞ。
それは一先ずいいだろう。
此処で一つ質問をしよう。出席番号八番に問う。生物は―――何ゆえに進化する? 答えは今までの話の中。書かれた黒板の中にある。捜せ。起立」
神楽坂明日菜は立ち上がり、一度だけ絡繰茶々丸の方に視線を向けた。
立ち上がりながら絡繰茶々丸に向けられた視線に、機能得限止は興味を懐かない。
興味を懐いているのは神楽坂明日菜の発言だけであり、他の事には何ら興味も懐かないのが機能得限止だ。
神楽坂明日菜は思考する。
意識は体調の悪そうなクラスメイトに割かれているが、授業にも割かなければいけない事を知っているからだ。
だが、思考に思考を重ね、黒板に書かれた機能得限止の発言を見ても、何故か答えが浮かんでこない。
それも当然だろう。何故生物は進化するのか。その根源的な原因は未だに解明されていない。おそらく今までの生物学の授業において最大の難問を、神楽坂明日菜へ投げかけたのだ。
だが、機能得限止は神楽坂明日菜に対し、すべての生物学者が納得できるかのような正論など蚊ほども求めてはいない。
個人の意見など所詮はどうでもいいものだ。
個人の意見で良いのは本人だけだ。本人だけが納得する意見など、他の人間から見れば蚊ほどの意味も無い。
故に機能得限止が求めているものは、生徒としての神楽坂明日菜の発言のみ。個人的な神楽坂明日菜ではなく、生徒的な神楽坂明日菜に問うているだけなのだ。
「ええっと…単純な……なんっていうのかなぁ……フツーの状態って言うか、形から、より扱いやすいって言うのか……複雑化する為に…っかな…?」
ソレが神楽坂明日菜が全力絞って導き出した結論だった。神楽坂明日菜にしては知的な回答。雪広あやかは思わず振り返ってしまっている。
「穿ち過ぎな点は否めないが良し。着席。
出席番号八番の告げたとおり、進化する理由は簡潔な形態からより複雑化する為の時間経過であるというのが進化であるとされる。
では何故簡潔な状況からより複雑化するのか。何故簡潔な形態のままではいけないのか。
進化の疑問はそこだ。何故進化するのか。それはよりよく生き残れる確率を増やすためであると結論している。
尚、これは自己の判断によるものだ。生徒らのお前たちは覚えなくて良い。将来生物学者となるのであれば、参考程度、資料程度には聞いておけ。
先ず基本となる生命体がある。
コレは有機的かつ無機的な存在であり、あらゆる面。遺伝子。形質。形態。DNAなどの基本的要素をすべて内包した存在と仮定する。
即ち、我々現行地球上で存在し、生命活動を行っているすべての生命存在の基本。起源的な生命体であるという事を付け加えておこう。
この基本生命体…仮称として『第零世代』と呼ぶとしよう。
この第零世代の生命体は酷く簡潔な体組織しか持っていない。抵抗力は弱く、あらゆる衝撃などの外的要素、ないしは体内へと侵入したウィルスなどの内的要素に弱い、ただ生きているだけでさえも困難な生命体である。
だが、この第零世代は手段を講じる。それは何か。あらゆる要素に対し微弱かつ、抵抗ともいえないような抵抗力しか持っていないこの第零世代は生命体の存在レベルで生存を目的とする。
何故生存を選ぶのかの判断は出来ない。その知能を持たないが、この第零世代はただ純粋に生存する事を目的として行動する。
そうして、この第零世代が取るべき行動。それはこの第零世代が難問としていた各要素に対して強力な抵抗力を持つ世代への変異。外的。内的。環境的。あるいは、まだ存在してはいないが、後々に誕生するであろう人為的要素へ拮抗できるほど強力な抵抗力を持った世代へ"進化"する事であった。
この第零世代より派生した抵抗力を持った生命体を『第一世代』と仮称しよう。
ちなみに。ここで勘違いする連中が現れてしまっては困るから付け加えておくが、我々人間と言う生命体を初め、その他現行地球上に存在している生命体が該当する世代はこの『第一世代』である事を忘れるな。
この第一世代は第零世代では持ち合わせていなかった要素を持っている。強靭な抵抗力だ。
だが、幾つもの分布をしたこの第一世代は各個に欠損があった。
例えば、第一世代αは外的要因…衝撃や熱さ。寒さや電気などには強靭な抵抗力を持っているが、内的要因には非常に弱い。
第一世代βは環境の変化に対し優れた順応性を誇るが、逆に人為的な操作による変化にはまったく順応出来ない。などだ。
第零世代より進化した第一世代でも、この様な欠損を持っている。
そこから第一世代は更なる飛躍を目指した。存在レベル。生命体レベルで刻み込まれた生存への欲求がソレを命じる。
よりよく生きられるように。より深く生きていけるように。生存する為に生きるため、第一世代は代を重ねるごとにその複雑化を増していく。
人間ならば知能を進化させ、しかし、純自然的な要素を廃する。
獣であれば純自然的な要素を鋭敏化させ、しかし、人為的、ならびに知識的要素を廃する。
このように第一世代は進化に進化を繰り返し、今に至る。
初め発生した第零世代が刻み込んだ生存への欲求は今だ我々の裡に眠り続け。より生きれるように。よりよく生きられるようにと進化を続けている。
だがしかし、それであっても我々は欠損を懐いた存在のままだ。
即ち、どれだけの進化を重ねようと『第一世代』と言う枠組みには当て嵌まったままなのだ。
第一世代は不完全なまま活かされ続ける。
それもそうだろう。第零世代と言う生命体にとって、我々第一世代の生命体など所詮は試作品。通過点の一つに過ぎない存在だ。
では第零世代は第一世代を以って何処へ至ろうというのか。
それは即ち完全にして完結な存在への進化。
より良く生きられる為に。更に良く生きていける為に。
この世のどの生命体よりも生き残る事が可能な生命体への進化。
即ち。『第二世代』への進化の完了を遂行する事が最終目的である。
この第二世代は完成形であり最終形を意味する。
第零世代では得られなかった全てを得ている存在。
第一世代上において、生存の為に必要ではないものを廃し、しかし、第一世代上でより良く生きていける事が可能な機能だけを保有し、第零世代で拮抗できなかったすべての要素に拮抗する究極系。
人類の理想であり、しかし、人類の理想は未だに幼稚であり、第零世代の目指している存在とは程遠い。
第零世代が望むのがより良い生存のみだとすれば。恐らく、その第二世代を目指す第零世代にとって人間は先ず真っ先に切り捨てられる存在だろう。
人間の知識は生存だけに特化しろと言う第零世代の規定からは外れている。
解るか。人間は知識だけに特化した生命体であり、自殺などと言う下らない行為さえする。
知識はお互いにお互いを殺し合う道具を生み、第零世代が当初自分の身に降りかかる要素を克服する為に派生させた他の第一世代にさえ克服できないようなさらなる要素を生み出してしまった。
起源でもある第零世代から見れば、これは失敗作そのものだ。
第零世代・我々の起源足りうる存在の目的が"生存"であるというのであれば、この時点で人間と言う第一世代は第二世代への進化の完了を遂げられない生命体として第零世代の天秤から振り落とされる。
即ち、起源そのものからの放棄だ。それが発生する時、人間は生命体として瓦解する。
依然話した気もするな。
自己・非自己の関係。
我々の裡に眠る第零世代の遺伝子情報。
あらゆる全ての生命体が持つ第零世代の生存目的への生存欲求。
最も深く、最も根源的なその部位は常に第零世代の欲求に応じられる部位を探す。
生存により適応した部位。生存する為に必要な部位を探索し、より良い第二世代へ至る第一世代の発生を要求するのだ。
だが、もし第零世代の生存欲求に満たされない生体を持つ第一世代が発生してしまった場合。
第零世代の生存欲求と言う遺伝子情報部がその生命体の消去にかかる。
知っているだろう。今までの歴史の上で例外なく消えていった生命体が在る事を。
ミッシング・リンクと言うものだ。消失して言った進化の暦。
また人為的なものも介入せず消えていったこれらの生命体は、非自己による自己の否定。自ら自身による『生存維持機能』の否定。
生存する為に必要な部位を否定した生命体に第二世代に至る価値はないという第零世代の狡猾なまでの選別作業。我々の内にもそれは存在しているかもしれない。
では進化の完了した第二世代はどうなるのだろうか。
進化する事をそのものを放棄したその生命体は一体どうなるのだろうか。
それは誰にも解らない。きっと人間では至れないだろう。
明日にでも自己と非自己関係による自己の瓦解を迎えるような生命体だ。第零世代はそれを選出しない。
第零世代の目的は語っているように"生き残る事"。
全ての生命体に根源的刻まれている筈の生き残る為だけの遺伝子、ないしはソレより尚深いもの。
それが生き残る事に至らない能力しか持たないと判断した瞬間、自己は非自己と判断され自らによって処断される。
しかし、第零世代による選定作業が執り行われていないと言う事は、我々はまだ第二世代を目指せる立場にまだ在れている、と言う事だ。
個人個人で目指すも良し。このままいつか己が内の第零世代に食いつぶされるも良しだ。好きにしろ。
それらは我々には最早判断する事が出来ない。
個人と言う人格を宿した一個生命体として確立している我々にこの進化に介入できる事は、恐らくは一生涯あるまい。所詮はただ生かされているだけのようなものだ。
だがただ―――そうである事がかつての己の夢だったような気もしたか」
その時の機能得限止の表情の変化を見取れたのは僅かに二人だけ。
神楽坂明日菜とエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの二名のみが。その時、僅かに陰りの差した機能得限止の表情に感づいた。
普段から何かと無感情で無機質。あらゆる事に無興味を貫き通す筈の男が唯一見せた、僅かながらの己の感慨。
神楽坂明日菜とエヴァンジェリンだけは、その感慨に触れたような気がしたのだ。生物そのものの是非を問うような男に対し。
「…先生にも、夢とかってあったんですね」
神楽坂明日菜は思わず一人ごちた。
耳には届かないほど小さな声だったのだが、機能得限止にはしかと聞こえていた。
だが、普段ならばソレさえ気にせず聞き流すような筈の機能得限止は、今日に限ってはそうではなかった。
「夢ではない、現実だ。
万人の持つ夢とは現実で叶えられるとでしかない。ヒトの概念で叶えるべき願いを夢と言うだけの話だ。
夢ならば手に掴むことも出来ない。叶わぬ夢を語るなとはそう言うことだ。
そうとも、だからこそ今もまだその叶わぬ現実を見つめている。
第一世代を超え、第二世代へ。
己はそれを見てみたい。生物学者としてではなく、生物としてだ。
そうとも、自分の理想がそうだった。
自分は生き残るためだけに生きている。誰よりも強く生きることを優先する。
余計な感慨を持つまでもなく、ただ一個の生きているだけで充分な生命体として育まれる事が生涯の己の命題となった。今も叶わぬまま見続けている己の理想。
以前お前たちに何かを残せる人間になれ。そう言ったな。そこで自分の残した足跡だけを残そうと考えたものが殆どだろう。
だが己は違う。何かを残せるようになれと言った。何かを。その何かとは何か。何かを自分の足跡そのものとして考えるから間違えなのだ。
そう、あるいは自分は―――自分を生涯残したい。
自分と言う存在が在った証を残すのではない。
その足跡を造り出す自身を残すと言うのが、かつての己の理想だった。そして、今も尚願い続けている願いだ。叶う筈もないがな。
己は生まれながらにしてそうでありたかった。
ただ生きているだけの存在でよかったはずだった。だがヒトとして生まれた。ヒトとして生まれたのならば、ヒトとして最後まで生きていくのもまた一興。そう思うのが関の山だな。
まぁお前らも叶わない夢は見続けるべきものではない。叶わないと思ったら、即座に諦めろ。
己は諦めるぞ。即座に諦める。諦めの悪い馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
いかにタイミングよく諦めることが出来るのか。それが重要だ。
諦めない人間が最後まで残るのではない。
言っただろう。諦めの悪い馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
出来ない事はやるな。出来る事だけをこなせ。そう言うものだ。
諦めるタイミングを見計らう事が出来る人間と言うもののみが、人間として生きていけるだけだ。
生きることにさえも。自分自身にさえも。
周辺の全てのものに対してさえも諦めを懐いてそれでもそれを続けるのは真剣に生きている奴らにとって障害物でしかない。疾く死ぬのが良策だろう。色々と考えておくのが良い。
尤も、これは自分の思考だ。押し付けるような真似はせん。お前たちはお前たちの在り方で生きて行けば良い。
お前らの生はお前らのものだ。誰の物でもない。誰にも触れる事は出来ない。
そう所詮他人など―――あってないようなものだ。それだけは忘れず、教訓に携えておけ。
他人とは自己ではない。常に自己を否定する"非自己"であると結論して行動せよ。では今日の授業はここまでだ。日直」
何時ものような流れで授業の終了を継げる機能得限止だったが、今日に限っては少々勝手が違った。
日直が起立の挨拶をかけて礼を行うまでの数秒間に、教室の後方端で大きな音がする。
クラスの目がその一転に向き、数人が顔を顰める。変わらないのはただ一人。機能得限止のみ。
エヴァンジェリンの前の座席の絡繰茶々丸が両膝を地面に付き、大きく肩を揺らしている。
息は荒くはないが、まるでその様子は数キロ間を走り終えた、スタミナのない人間のしぐさにも似て苦悶を感じさせるものであったのは間違えなかった。
「茶々丸っ!」
「出席番号二十六番。行動は不許可。他生徒も正面を向け。授業終了の挨拶中だ。
出席番号十番。体調が優れないのであれば手洗いに行って来い。顔を冷水ででも冷やせ。それで体調が良くならなければそのまま保健室へ行き休め。保険委員起立。手洗いまで同伴許可」
駆け寄ろうとしたエヴァンジェリンを諌め、機能得限止は絡繰茶々丸と保険委員の和泉亜子に退室を促す。
絡繰茶々丸はそれに頷きだけで応じ、和泉亜子に付き添われながら教室から外へ出て行こうとする。
機能得限止の発言には優しさは微塵もない。
常に効率が良く行動するのみだ。そうであるというのなら、機能得限止にとってはいたって普通のことであった。
絡繰茶々丸を知る者はそんな無意味な行為をさせたくなかった。
絡繰茶々丸はロボットなのだ。保健室ではどうにも出来ず、手洗いに行ったところでどうする事も出来ない事を知っているのだ。
だが、機能得限止の発言には何も言えない立場上、去り行こうとする絡繰茶々丸を見守るしかなかった。言った所で―――機能得限止は"それがどうした"で切り捨てるだろうからだ。
当の絡繰茶々丸は、そんな機能得限止に気を割く事もせず、後方の出入り口に手をかけ、一度、心配そうな眼差しを向けている主と、髪を纏めた二鈴の少女クラスメイト。そうして心配そうな数人に微笑みかけ、教室を後にした―――
―――――――――――
「茶々丸さん、大丈夫?」
「はい。私は平気ですのでお早くお戻りを。キノウエ先生の事です。全員が揃わなければ授業終了は宣言しないでしょう」
それもそうやな、とどこか辛そうな笑顔で笑う和泉亜子を絡繰茶々丸はやはり笑顔で送り出す。
途中、何度も心配そうに振り返っては大丈夫、と声をかけてくる彼女に、やはり絡繰茶々丸は笑顔だけで応じて送り出した。
絡繰茶々丸は鏡で自分の顔を確認する。
変化はない。だと言うのに、絡繰茶々丸は想像を絶するような動作不慮を懸念していた。
整備を受けたばかりだと言うのに身に降りかかっているこの動作の不慮を思考できない。
彼女を生んだ葉加瀬聡美と超鈴音の二人に不備があるとは考えなかった。
彼女たちは常に完璧に絡繰茶々丸の体調を管理する。よって、今回もミスは無いであろうと絡繰茶々丸は結論付けていたのだ。
その掌を水につける。何も感じない。否、何も感じない、筈だった。
絡繰茶々丸は不思議な感触をその手に味わっていた。
初めて味わうような感触に、絡繰茶々丸は戸惑いを覚え、一度手を引くも。再びその手を水の下に晒した。
水道の蛇口からあふれ出してくる水。透明なその液体が皮膚を打つたび、絡繰茶々丸は言いようもない感触に戸惑い、しかし、仄かな心地良さも感じていた。
だが、これは異常だと絡繰茶々丸は気付けなかった。
絡繰茶々丸はいったとおりにロボット、ガイノイド、人工体である。
機械の塊であり、人工の機能の塊。
成長するとはいえ、人工知能としての学習成長であり。そして、その成長では決してたどり着けない知識があるものである。
だが、ここ数日間の絡繰茶々丸の成長は成長とは言えなかった。知識の蓄積、学習ではない。
肉体の、変異異変だった。
絡繰茶々丸の肉体にかかっていた異常。
クラスメイトもエヴァンジェリンも感じていた通りの、人間のような異変。
だがそれは人間のような異変と言うよりは、生命体のような異変と呼称する方が正しいであろう。事実、絡繰茶々丸の状態悪化の態度は人間のソレそのものなのだから。
それが何を示すのか。絡繰茶々丸も。他の人間もそれを理解する事は出来なかった。
ただ、絡繰茶々丸の内で何か変異が起きているだろう程度のものであった。
その異変もいつかはどうにかなる。恐らくは、そんな理想を数人は懐いていただろう。
水の感触を不思議に感じ、絡繰茶々丸は顔に冷水を僅かにだけ、水滴ほどだけ擦り付ける。
その頬が感じるものは冷たさと流体。水独特の湿っぽさと言うものと、それが頬から顎まで伝わり垂れていくと言うまでの感触を、絡繰茶々丸は初めて味わった。
ガラスを見る。そこには無表情な絡繰茶々丸の顔があるが、僅かに紅くなっているようにも見えた。
絡繰茶々丸自身はその表情を何度か知っていた。
自らの主。エヴァンジェリンがよく風邪などを引いた時に見せる朱の混じった顔。
機械の塊である絡繰茶々丸では決して紡ぎ出せない筈の表情。その表情が、何故か鏡の中にはあった。
絡繰茶々丸はまるで人間のようだと感じて、僅かに微笑んだ。
聖女の様な美しい笑顔。人間でしか出せない、その軽やかな笑顔を見せた絡繰茶々丸が頭を僅かに下げたその瞬間であった。
バン、と絡繰茶々丸は後頭部を強打されたかのような衝撃に身を奮わせた。
足元がおぼつかない。
絡繰茶々丸は倒れそうになったその身体を必死にその両足で何とか支える。
感じたのは衝撃だけであり、痛みはなく、違和感はなかった。
だが何故、と絡繰茶々丸は思考する。
後頭部に感じた衝撃は壮絶であった。恐らく、普通の人間であれば痛みで転げまわるほどの衝撃であっただろう。
あるいは、出血して卒倒しても可笑しくないほどの衝撃であっただろうと絡繰茶々丸は考え、その頭を持ち上げ始めた。
頭を上げていく過程の視覚範囲内に、絡繰茶々丸は妙なものを見た。
水滴。だが先ほどまで顔にこすり当てていた透明の液体ではない。
粘り気のある、黒い液体。それが自分の頬を伝って、どうやら俯いていた顔の真下にあった洗面台の上に落ちているのだ。
オイルでも漏れたのかと、絡繰茶々丸は頭に手を触れた。
完璧だった整備に疑問を持ったのではない。ただし、彼女はその時だけは―――触れるべきではなかった。
後頭部に触れた絡繰茶々丸はワケが解らなくなった。
後頭部にさえも、粘り気のある黒い液体が付いていたらしく。気味の悪い水音。粘り気のある液体音を出し、後頭部に触れていた絡繰茶々丸の手が離れる。
その手を見て、絡繰茶々丸はその目から光を失いかけた。
後頭部へ回した右掌が粘り気のある、コールタールの様な黒ずんだ液体まみれになっているのだ。
目の前に持ってきたその液体はぼだぼだと不快な音を立て洗面台の上に頬を伝って落ちた黒い液体同様に堕ちていく。
絡繰茶々丸は卒倒しそうな衝撃と、不可解な目の霞に倒れそうになり、なんとかそれを思いとどまらせる事に成功した。
蹈鞴を踏んだかのように数度後方へと後ずさり、彼女、絡繰茶々丸は。初めて、自分の顔を映し出していた鏡の中の世界。自分の背後を含む―――自分の異形を目の当たりにした。
それは惨事であり、惨状であった。
絡繰茶々丸の後頭部から流れ出たであろう黒い液体が手洗いのあちこちへ飛び散り、手洗いを一面、漆黒で塗りたくっていたのだ。
不快な、それでいて粘り気のある音を立て、絡繰茶々丸から飛び散ったであろう液体が床に。あるいは、出したであろう絡繰茶々丸の全身を汚す。
「『―――え? あ―――』」
絡繰茶々丸は自分の状況を理解するのに十数秒を有した。
既に何故か先ほどまで絡繰茶々丸を襲っていた異常な状態悪化はない。
ただ、全身を汚すに汚していく粘り気のある黒い液体の出を理解するのに数秒。
何故そのような状況になったのかに数秒。
そして、これが、自分にとって『良くないもの』であると認識するまでで、十数秒を有した。
踵を返す。絡繰茶々丸の後頭部からはじけた黒い液体は、既に手洗いの床を完全に埋め尽くしていた。
その中を歩む存在、即ち絡繰茶々丸足元もまた、ドロドロに汚れていく。
歩んでいく中で、絡繰茶々丸は気付きたくもない事に気付き、自分の状態を確認した。
黒く粘り気のあるその液体。それが何であるかは理解できなかったが、少なくともそれは衣服にとっては無害であるらしかった。
事実、足元を汚す黒い液体は靴や靴下には一切粘らず、異様なことに、それら同様無機質な筈の絡繰茶々丸の肉体を構成しているフレームのみにこびり付き、粘りついているのだった。
一歩歩めばぎちゅりと。二歩進めばぐじゅりと鳴る。
靴の中は既に黒い液体で溢れ、歩んだだけで、靴の中から液体は溢れた。
常人ならば歩くのさえも不快な世界で、絡繰茶々丸は気が遠くなるような時間――しかし、実際は十秒程度で出入り口にたどり着き、その戸を開いた。
倒れ込む。倒れた衝撃で、絡繰茶々丸は自分の内側が致命的に壊れている事に気付いた。
数回目の前がノイズで、世界が狭い。耳は片方しか働かず、聴覚システムにも異常を知らせるアラームがひっきりなしに頭の中で響いていた。
それを無視し、開けたと同時にあふれ出た黒い液体に両手をついて、立ち上がる。
粘る黒の液体に拘束されるような状態で立ち上がり、顔も、手も、足も、フレームの全てを黒い液体で汚された絡繰茶々丸は何とか壁に手を着いて、自分の教室目指して歩みだした。
ずるずるなどでは生ぬるい。ぐずりぐずりと、粘りつく黒の液体を引きずるようにして、絡繰茶々丸は自分の教室を目指した。
粘る黒の液体は手洗いから絡繰茶々丸が進んできた道をなぞるように廊下に続き、まるで黒い運河のようになっていた。
とても他の教室で授業をやっているとは思えないような静けさの中で絡繰茶々丸は一人進む。
日中の、授業中とは言えど異常なまでの静けさの中で絡繰茶々丸はひたすらに自分の教室を目指していた。
孤独と言うものを感じたことなく、恐怖と言うものを感じた事ない絡繰茶々丸はこの時。初めて、孤独と恐怖というものを味わったに等しかった。
数歩進んで、窓の外の青さすら汚すような黒の液体の所在を確認する。
相変わらず全身。服の中にまでも侵食し、全身を汚している。
後頭部へ手を触れれば、いまだごぽりごぽりと液体が噴出しているのに絡繰茶々丸は恐怖する。
身の毛がよだつ、でもなければ。不快と言う恐怖でもない。
それは得体の知れない何かが自分を突き破って出てくるような。そんな、意味不明からくる恐怖であった。
もう一つ感じているのは孤独。とても深い孤独を絡繰茶々丸は味わった。
意味不明なものに犯されていく自分。
何処かの教室へ駆け込めば助けてくれるかもしれないと言うのに、何故か壁一枚通し、しかも不快過ぎる音をたてながら傍らの教室を通り過ぎていくと言うのに、誰も気付けかない。
バン、と壁を叩いても掌にこびり付いた黒の液体がその音を掻き消しているのか。
教室内の人間は、誰一人、廊下をひとり歩く絡繰茶々丸のその状況に気付かなかった。
絡繰茶々丸は進みながら何かを理解した。
それは自らの主の事。絡繰茶々丸は初めて、自らの主が自らが生まれる前から感じていたものを、その身を以って自覚した。
明日は我が身と言う諺通り、絡繰茶々丸はその身を以って味わってしまった。
『-――-―マ――スター ―――』
ぐぢゃりと言う音に、絡繰茶々丸は僅かに顔を後方へ向けた。
見れば、自らの耳についていたアンテナの一つが根元からへし折れ、黒の液体にずぶずぶと沈んでいっていた。
取れたアンテナのあった位置を絡繰茶々丸は手で確認する。確認するまでもなく、そこにあるべきものがなく。
頬を触れようとしたら、その頬がごっそり抉られていたかのような喪失感を味合わされた。
更に、折れたであろうアンテナの位置からは黒い液体。ごぽごぽと言う不快な音は相変わらずに。絡繰茶々丸の半身を瞬く間に汚していく。
ノイズで霞む視界。
雑音で何も聞こえなくなっている聴覚機能。
ガタンと言う音は肩口から。右の腕が肩から丸ごと黒の液体の粘り気に負け、引きちぎれた音であった。
右手で壁に手をつき身体を支えていた絡繰茶々丸にとって、右腕の損失は体のバランスを崩すには十二分な条件であり、絡繰茶々丸はそのまま倒れ込む。黒の液体の中に。
倒れた状態でも、絡繰茶々丸は冷静であった。
振り返れば廊下は異常なほど長く感じ、その廊下のあちこちは完全に黒い汚濁で穢れきっていた。
それを絡繰茶々丸は冷静に見つめていた。自分で汚してしまったからには自分でなんとかしなければいけませんと。
だがそれは自分が大丈夫ならばであり―――今の絡繰茶々丸は無事で終わる事はなかった。
それを絡繰茶々丸は理解できていない。
自分の身に起きている事がなんであるのか。彼女はソレを理解出来ない。
それは生物的であった絡繰茶々丸ではなく、紛れもなくかの絡繰茶々丸。
あのガイノイドとしての絡繰茶々丸に他ならない。他ならないが―――
左の腕を何とか動かし、絡繰茶々丸は前進を開始した。
匍匐全身のような動き。脚に既に力が入らない事を絡繰茶々丸は理解していた。這いずって行く。それでしか、最早先へは進めなかったのだ。
「マ――スター―――ネギ先生―――」
黒い汚濁を引きずりながら進む。
絡繰茶々丸を先に進ませまいと思わせるほど粘りつく黒い汚濁を引連れ、進む。
そうしてたどり着く。
その場所。彼女が帰らなければいけない場所。帰るべき場所。主の待っている場所であり、絡繰茶々丸の想い慕う少年が担任を勤めるクラスが見える。
あと数歩。歩けないのであれば、身体を引きずっていけば十数秒で着く距離。その距離を這い蹲って進む。
「―――で、何処に行く」
声。無機質な。酷く無機質なその声に、絡繰茶々丸は顔を窓へ向けた。
青空に一ミリも栄えない姿がある。
黒い髪。石膏のような顔。頭から足元まで黒いその男の姿に、絡繰茶々丸は表情を歪めることなく。だが、そこから動き出す事は出来なくなっていた。
窓際に立つ機能得限止は、あまりに無機質に。
だが、どこか今までの絡繰茶々丸を見るとは違う目で汚濁にまみれた絡繰茶々丸を見つめていた。
『―――帰ります。あそこに、待っている人が居ます。だから』
「だから帰りたいというのか。やめておけ。もうあそこはお前が帰っていい場所ではない。お前は別ものだ。
己から見れば、哀れだな。出席番号十番絡繰。お前は人ですらなければ、生物ですらない」
機能得限止はあっさりと断言した。
事実を。生物でないものに。人ですらないものに、あっさりと人ではないと断言したのだ。
それは正しい。間違えてはいない。
生物理学上で言えば絡繰茶々丸は生物ですらない。ただの部品の塊でしかないのだ。
だがそれは製作者を初め、絡繰茶々丸自身も理解している。
だから否定されても苦ではなかった。それより今の絡繰茶々丸にとって重要なのは―――
「それでも、私はあそこが帰る場所です。私は、あそこに、帰らなければいけません」
「違うな。あそこはもうお前が帰る場所ではない。
お前の今の体の状態をよく見ろ。見れるか。見れなくてもどのようなものか解る筈だ。
体組織の著しい変化が見当たるな。今までのお前ならまだしも、これからのお前ではあいつらと居ていい部位は一ミリもない。
あんな連中など切り捨ててしまえ。お前は、今第二世代へ近づきつつある生命体になりつつあるのだからな」
『―――第二、世代?』
機能得限止の手が伸ばされる。
石膏じみた白さの手。それが顔を握りつぶすかのように伸ばされ、数秒。絡繰茶々丸はその掌を見つめるのみであり、機能得限止は数秒その行為をし続け、再び這いつくばったままの絡繰茶々丸を見下ろした。
手を貸す様な素振りは一ミリもない。
何時もの通り。無機質な目線で絡繰茶々丸を見ているのみ。
違うのは、今の絡繰茶々丸を生物としてみている。それだけであった。
「そうだ、第二世代だ。
お前の内には限りなく第二世代に近かった生命体の根源的情報が何らかの要因で混ざり合った。
その限りなく第二世代に近い第一世代は自らの体組織を一時的にお前と混合。そうして開放。今お前の肉体の著しい変化はソレだ。
第二世代に限りなく近い第一世代。ソレが更なる第二世代への扉を開こうとしている。
喜べ絡繰。お前は人ですらなければ生き物ですらなかった。
だが今日と言う日を持ってソレは大きく変わる。
お前の体組織の変化は生命体の進化そのものだ。お前は生物になるのだ」
『それは―――私が、あの教室へ戻れない事と関係あるのでしょうか』
「大きく在る。
お前の内に混在した第二世代に限りなく近い第一世代……仮称として『次未来完了』とでも呼ぶか。
お前のうちの『次未来完了』は第零世代の使命に従い、どの生命体よりも生存に特化した生命体へ進化するようになっている。
本能的に。存在レベルで登録されている条件。
本来機械である筈のお前には。本来、自然界からではなく、人為的要素で誕生したお前は第零世代の生存の為の遺伝子的本能的すり込みが発生していない。
だがそこに生存を何より重視する第零世代の欲求を満たす限りなく第二世代へ近い第一世代の要素が介入すればどうなるのか。
何も無いお前。精神を持たず、知識は中途半端な成長しか見せておらず、人格もなければ感情表現機能すら希薄。そんな人間の形をしていながら人間として不完全なお前が『次未来完了』に憑依されればどうなるのか。
当然生命体として強い方に引かれるのは当然だろう。
人の想いや感情など、所詮は二次的なものだ。
生あってこその想いであり。生あってこその感情だ。
生きているからこそ多くを得られ、生きているからこそ多くを与えられる。
ならば、それらの感情が優先するのは想いではない。
何よりも先ず生き残りたいと言う欲求。
良かったな絡繰。お前のうちにもソレが芽生え、お前さえ自覚しない間に増幅。そして、今解き放たれた。誕まれたのだ、絡繰。
そうなればお前は最早人の手で作られた『単なるモノで、人ですら、生物ですらない』モノではなくなるのだ。
明確な第二世代を目指せる新第一世代の新生。お前の体組織の変化はソレを指す。
そしてお前の質問の答えはまさにソレだ。
言っただろう。第零世代は第一世代へ至れないような生物は生かしてはおかない。
自己・非自己の関係。人間の持つ能力は、限りなく生存とは無意味なものだ。
得た力は振るってみたい。
得た知識で作ってみたい。
そんな欲求は不要だ。ただ生き残る事のみに特化する。それが第零世代の欲求条件だ。
お前はソレを満たしつつある。
だが、あのクラスの人間は違うな。己を含めて、ただの人間だ。
第零世代より何れは切り落とされる可能性が最も高い生命体。お前のうちの『次未来完了』は余分なモノは全て切り離そうとする。
柵は全て潰えさせようとする。
あのクラスは今のお前にとっては第二世代へ至る道を阻む敵でしかない。
進むべき道を塞ぐものは全て敵だ。家族も。友人も。恋人も。自分でさえも。
敵は、殺さなければいけない。今あのクラスへ戻れば、お前はそれを自覚しなくてもソレを実施する。
お前の内に発生した第零世代の意思がそうさせるのだ。
お前はあそこへは帰れない。行くのであれば――更なる高みを目指していけ」
窓が開かれる。
青い空だった。黒い汚濁にまみれた絡繰茶々丸には眩しすぎるほどに。
彼に言わせれば、更なる高みと言うのだろうか。雲の向こう。あの空と地平線が交わるよりも、更に向こう。
あの、地平線の向こうへ―――
意思ではなく、本能が絡繰茶々丸の肉体を動かす。
ありえないものが、絡繰茶々丸の記録と思いを簡単に凌駕する。
本能と言う名の潜在に刻まれた使命。それでは、想いなど容易く潰されてしまうのだ。
幻想を磨り潰す巨大な壁。現実の壁がある。
どれだけの力を持つものも、ソレの前には如何様にも出来ない。
現実の壁に磨り潰されていくのだ。
都合の良い存在などありえない。現実は、ソレを容易くひき潰すのだから。
絡繰茶々丸は自分が何を考えているのか知覚出来なくなった。
何故考える事が出来ないのかが解らなくなる。
そして、それすら考えられなくなっていく。最後には、考えると言う行為が何で在るのかさえも。
黒の汚濁を引き連れて進む。
教室ではない。窓へ。あの空の彼方へ。
目を背けたくなるほどの汚濁を引きつれ、見ほれてしまうほど青い空の下へ出ようとしている。
そんな傍らの少女を、機能得限止は最早見ていなかった。
興味がないのではない。絡繰茶々丸と言う存在が選んだ道を阻む必要がないと判断したからだ。
今の絡繰茶々丸は機能得限止にとっては人形ではない。
生物。どの生物よりも美しく、生きることのみに執着する、どんな生命体より気高く高位な存在だ。
今もし、誰か別の第三者がこの絡繰茶々丸を阻もうとすれば、機能得限止はそのものを消しても構わないとさえ考えている。
だが、不気味に廊下は静まり返っていた。
余りに異常であった。
授業は終わっているというのに、廊下には機能得限止と汚濁塗れの絡繰茶々丸の姿しかないのだ。
機能得限止は廊下の遥か彼方に目を向ける。銀色のソレが在る。
左舷。銀色のソレが居る。
そして窓の外。残った片腕だけで体を起こし、窓の縁にしがみ付いた絡繰茶々丸の有機的な眼差しが向けられる青い空の彼方。
其処に、漆黒の四角錘結晶体。四角錘を上下合体させた黒い物体が、絡繰茶々丸を誘うように浮いていた。
廊下に現れない人影。
時が止まったかのような静寂。
これらは鋼性種の仕業であると、機能得限止は結論した。
鋼性種は絡繰茶々丸を鋼性種にしようとしているのだ。
どんな生命体よりも第二世代に近い第一世代。即ち、鋼性種。鋼の性を持つ種たち。
その機能は、既に人知と呼ばれる域を当の昔に淘汰した絶対的な存在。
生物としてのレベルの違いを、機能得限止は思い知らされ、同時にその生きる為に必要な能力の殆どを取り揃えたその存在を敬意する。
絡繰茶々丸の手が伸びる。
絡繰茶々丸は泣いていた。レンズの洗浄液が、黒い汚濁と交じり合って頬を伝う。
身体を伸ばし、窓の外へ。自殺するかのように、しかし絶対に自殺にはなりえないだろうと機能得限止が結論しているその仕草。
なぜなら、中空に浮かんでいた漆黒の物体は、既に窓際まで降臨し、絡繰茶々丸が手を伸ばせば触れられる距離にまで在るのだ。
その漆黒の物体が、開く。
二等辺三角錘の形状に八分割し、その中心にはエメラルドグリーンに輝く、『何か』が在る。
手を伸ばす絡繰茶々丸の全身に、緑色の光がまとわりついていく。
触手の様に。柔らかく包み込む風の様に。何より、母のように。
黒の汚濁の涙を流す絡繰茶々丸。心底安らいだかのような顔つきをした彼女は、次の瞬間。それに食われた。
――――――――――――――
「………!! キノウエ…何をやっている」
廊下に飛び出したエヴァンジェリンは、今しがた廊下に出たばかりの機能得限止が窓の縁に寄りかかっているのを見た。
青い空。人で溢れていく廊下。何時もどおりの日常が広がる世界。
だが、エヴァンジェリンは不安を感じていた。
今はソレを実感している場合ではない。手洗いに言った絡繰茶々丸が中々帰ってこないことに、エヴァンジェリンは焦りと不安を感じたのだ。
既に全ては終わりを告げたと言うのに。ソレさえ知らず。
そう、それは、何時か。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと言う少女が、約束を放り出されて、この地に留まり続けなければならなくなった原因を作った、かの、サウザンドマスターと同じように。
「何をしている、か」
開きっぱなしの窓。
廊下には、絡繰茶々丸が垂れ流した黒の汚濁の後は微塵もない。
廊下の端々に構えていた鋼性種の姿も。窓の外にあった漆黒のアレも。最早影も形もない。
機能得限止は窓の外に目をやった。
雲が深く、田舎の空のように青い空。
向日葵が咲いているのに、機能得限止は気付く。
息づいている命。生きていく為に咲かせる華。
花は何時か散るが、多くの種を残して更に生き続けるだろう。
ソレを機能得限止は感嘆する。人間以上に生物らしいと。どんな生き物以上に生き物らしいと。
エヴァンジェリンのほうを見て、機能得限止は言い放った。
まったくの真実を。しかし、エヴァンジェリンには、まったく理解出来ない言葉を。
「窓の外から鎖に繋がれていた飼い犬が鎖を引きちぎったのを見ていた」
怪訝な顔立ちのエヴァンジェリンは、そんな一言の意味など理解せず駆けて行く。
目線で数秒機能得限止を睨むように見つめた後、手洗いに向けて。
エヴァンジェリンの姿を追うもなく、機能得限止は生物準備室へ向けて帰路を返す。
準備はもう良いと。最早、待つ必要はないと。
道は違える。
教室から出てきた数人のAクラスの生徒がエヴァンジェリンの後を追う。
擦れ違い間際に、神楽坂明日菜だけがただ一人振り返った。
道は違えたのだ。
背を向けて進むもの同士は、まるで、同じ地点から始まりながら遠く離れていくだけの線にも見えた。