第四十五話〜年月〜


 ここで始まり、ここで終わる。

 それは、今から五年前の夏の日の事。
 此処、麻帆良学園都市は炎に包まれ、多くのものが失われた。
 建築物。自然。絆。本当に多くのものが失われていった。
 全被害が報告されたのは、実にそれから一年後。
 私は中等部の一年に戻り、かつてのクラスメイトの何人かが、無事に高校へ進学した後であった。

 被害総額10億6500万。学園都市の学園にあたる位置の損害は特に凄まじく、実に四年。私達は仮設校舎での授業を行わざる得なかった。
 総被害者数は未だに推測不明。ただ、アレだけの大災害でありながら、重軽傷者数千名で済んだのが奇跡だとすら言われている。
 だが零ではない。行方不明者が数人、その後、死亡扱いとなった者が数人居た。
 神楽坂明日菜。当時15歳。
 絡繰茶々丸。当時15歳推定。
 機能得限止。当時28歳推定。
 そして、嶺峰湖華。当時18歳。
 以上四名が、その災害で失われた者たちであった。

 だが正しくない事など、当に知っている。死んだ者はたった一人。
 今なお。凍りついた、あの家屋の奥で待ち続けるだろう永遠の少女。
 仄かに温かい血流を持ち、しかし、二度とは動き出す事の無い体の少女。
 彼女だけが、災害唯一の被害者だった。

 麻帆良学園都市は心底に変わった。
 世界初の鋼性種共生学園都市となり、今や世界中の注目を集めてる一大都市となっている。
 いや……だが本当に何より変わったのは、世界そのものではなかろうか。
 鋼性種。鋼の性を持つ種と呼ばれる存在が、一挙に地球の全土で確認されたのだった。
 今の今まで姿を隠していた筈の正体不明の生命体に、世界中の人間は恐れ戦き。
 愚かにも、ある大国と、ソレと競合する幾つかの国が、『人類未来』の大儀を掲げて攻撃を仕掛けて、ここに世界初の異種族間戦争が勃発したわけであったが――――

 世界大戦にまで発展するといった研究者は、誰だったか。
 人類の存亡をかけて。そんな大義名分を掲げたのは、どこの国だったか。
 半年で戦争は終わった。
 戦争? 否。そんなものにも発展しなかった。あからさま過ぎるほどにスペックの差がありすぎる。
 半年後、攻撃を仕掛けた国はあっさりと、一匹の鋼性種も駆逐できぬまま、翠の底に沈んだ。今では、砂漠だった場所さえも七割が緑の園だ。
 鋼性種と呼ばれる存在が地球そのものの代行意思的な生命体であり、一種の自然活性化要因を孕んだ自然現象生命体である事が発表されたのが、皮肉にも攻撃を仕掛けた38の国が翠の底に沈んだ後だったのは、ある意味で狙いであったのかもしれない。

 発表者は麻帆良学園都市総合指導員高畑・T・タカミチ。
 正しくは、その男の持ち出した一枚の資料こそが、鋼性種と呼ばれる、現地上席巻にして地上支配の種となった存在の全てを熟知していたであろう、機能得限止と呼ばれる男が最後に残した、たった一つの足がかりだった。
 何時か、何かを残せる人間になれと私たちに言った男は、文字通り、何かを残していたのだ。

 数億単位の人間の命は翠に食われ、土に食われ、星に帰り、鋼性種の糧となった。
 しかし、代わりに、鋼性種は多くのものを私たちへと与えたのもまた事実。
 ……世界は頗る平和で、今日も今日とて、戦争もなく、貧困も無く、裕福も無く。世界は、美しい水と空気。それで満ち溢れた。
 人間以上に繁栄したのはやはり自然界的な生命体。
 肉食動物や草食動物の急増も、しかし、謀の様に全てが上手く往く。
 そのあまりに上手くいく地上の在り方に恐怖するのも、また事実。
 幸い、肉食動物も、草食動物も一切人間へは手出ししなかった。それが、鋼性種の意思なのだろうか。
 意思など存在しない完全生命体に、人間の判断を当て嵌めるのは上手くあるまいが。

 尤も、と。時折考える事がある。
 それは肉食生物も、草食生物も。もう、人間と言う生物には何の価値も見出していないのではないだろうか。
 鋼性種の手の上で生かされていることを認知してしまった知的生命体には何の価値も無い。そう判断したからこそ、彼らは、私たちに介入などしないのではないだろうか。
 その考えもわからない。そこまで私は頭の良い人間ではないし、良く出来た人間でもない。
 いや、今は人間だったか。かつて、よくもまぁ人間のクセに人間以外で人間以上などと言えたものだ。心底に、そう思う。

 今は、多分平和ではない。
 平和に見えているが、実に危うい均衡の上だ。
 そうとも。人間同士が争い合わない時代こそ、もっとも戦乱の時代と言えるのだ。
 人間同士で戦うような余裕さえもない。それが、現状だ。

 世界についての話は此処までにしよう。多分、知りたがっているのは私達の事だろうからな。
 あの事件の後、3-Aは解体された。
 理由は単純な生徒不足。絡繰茶々丸行方不明。神楽坂明日菜行方不明。桜咲刹那転校。
 30人以上での運営が鉄則となっていたが故、29人以下となった―――元々、相坂さよは居ないにも等しかったが故、数人が居なくなっただけでも3-Aと言うクラスは運営不能に陥っていただろうが。
 クラス解体に最後まで反対した人間は僅かに四人。タカミチ。ぼーや。しずな。そしてじじいの四人だけ。
 他の教員は、生徒の示しが付かないと言う理由で解体を推し進め、結果、卒業まで半年も無いというのに、3-Aのクラスメイトらは散り散りになった。

 ぼーやは一英語担当教員となり、3-A以外の担任に任命される事は無かった。
 最も既にマギステルとなれる拝命書を渡されている身。教員などやらずとも、マギステルになるには充分だった筈。
 故に、私がぼーやと在ったのはクラス解体後僅かに二回。クラス解体日と、ぼーやが、ウェールズへ帰っていく日の二日だけだった。

 私は流れるままに生き、次の瞬間、鋼性種に滅ぼされる瞬間を想定しながら生きていた。
 それは、周囲のかつてのクラスメイトたちも同じだったのか。それとも、まるで違ったのか。
 少女たちは少女たちなりに、時にぼーやの言葉を教訓とし、時に機能得限止の言葉を教訓として五年目の春を迎えていた。
 私は中等部の二年生。中等部の総合委員長に自ら進んでなったのは、残り僅かと成ったであろう、自らの人生に少しでも餞として彩を携えようとしたからか。

 不死者であった私はもう居ない。
 『深き死』の影響は、思いの他に深く、私は、真祖の吸血鬼としての力も、悪の魔法使いとしての力も全て失い、歳を取らないだけの、ただの、普通の人間と同じになってしまった。
 平和に包まれていた。世界は、至って平和だった。かりそめにも近しいが、それでも平和だった。
 戦争はない。不幸などない。生きていくのであれば、充分すぎるほどに環境は整った。
 故に、餓え死ぬ事もなく、乾き死ぬ事もない世界。それが、世界を包んでいた。
 戦いがあった。途方もない戦いだった。三人は、お互いにお互い、敵ならぬ敵に挑んだ。
 アイツは、憎しみならぬ憎しみの果てに
 神楽坂明日菜は、想い果てならぬ想いの果てに。
 そして、私は、苦しみならぬ苦しみの果てに。

 戦う意思を持って戦場に立ったものに女,子供の区別などない。私は、そう言った。
 言ったが、その果てに用意されているものが、そこまで凄惨なものだったなんて、あんなにも悲しい戦いがあったなんて、私は、知らなかったんだ。
 永く生きただけ苦しみを味わった筈だった。永くこの世に在った分だけ辛さを味わった筈だった。
 だが、所詮は人の生だった。人として生きただけの話であった。
 私は、結局、最初から最後までただの人間で。人間の苦しみと、悲しみと、辛さの狭間で生きていただけで、それを吸血鬼だからと言う逃げ口に逃げ込んだに過ぎなかった。

 つまりは、そう言うことだった。
 銀と、金の混じった髪が風に揺れる。
 時折、綺麗だと撫でてくれる人間―――トモダチ、とでも言うべき存在が、最近、漸く煩わしくなくなり、漸く、五年前以上に笑えるようになった。

 それでも変わらぬ私は、相坂さよの席の真横。教室の窓から、春の空を見上げている。
 窓から差し込む光は木漏れ日で、鬱蒼と多い茂った桜の木は、何処か、鋼性種の掌に掴まれているかのような錯覚を覚えさせる。


 ああ。もう、アレから五年も経ってしまったんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ―――2008年。4月末日。月齢満潮。
    京都。関西呪術教会総本山―――近衛邸。

 粉塵が上がる。遠目から見ても、それは充分に理解できた。近めによれば、狂ったように咲き誇る桜の花は無残にも落花と化して散っていくだろう。
 数人の巫女が矢を射る。それが、土煙の向こう側で蠢いていた幾つかの影を射抜いたと同時に、断末魔の叫びと反撃の咆哮が響く。
 矢と、得体も知れぬ撃の応酬。それが繰り返されていた。
 それに慌てた様子で応対している者など誰も居ない。誰もが既に当たり前となり、しかし、恐怖の表情と、必死の形相で相対している程度だ。
 襲ってきていたのは、異形の鬼に始まり、古来より京都周辺に生息していた烏族、狗族の集団であった。

 鋼性種の自然界大繁殖。それが影響を与えたのは、人間の生活だけではない。
 影から影に生きていた鬼らの生活をも一変させるその事態。自然界に手を出せば、容赦なく下される鋼性種による粛清。
 それを掻い潜り、自然に手を出す事の出来なくなった鬼らに出来る事といえば、もう、人間でも襲うしかなかったのだ。
 だが、人間とてそれを安易に許す事は出来ない。科学技術の発達が急激に遅れたとは言え、かつての呪術、魔術の関係は未だに健在。
 鋼性種に対してはまったくの無力ではあるソレだが、鬼らへの攻撃には充分すぎるほど有効であった。

 早い話が、いざこざであった。
 人を襲い、喰らおうとする鬼と、ソレを防ごうとする人間のいざこざ。
 表立っての大きな戦争などが起こらなくなった世界において、この様な事態は珍しい。
 ただ、世界はソレを完璧に無視している。鋼性種が支配するようになった、支配ならざる支配世界。
 それは、自然界にさえ介入が無ければ、全てが許可されている世界であった。

 砂煙と爆音が盛大に上がる。本山正門。砕けた鳥居の破片が飛び交う土煙の中、傷ついた巫女達が治療を受けるべく大柄の鬼らの手で運ばれ、本山の奥へと運ばれていった。
 今し方彼女たちを救った鬼らは人間へ協力を申し出た鬼の一団である。人間に使役される応酬に、施しを分ける事を約束した一団だ。
 その、頭が良く、人の世で生きてきた鬼の一団は、人間に組みするを良しとし、生きながらえる事を選んだのだ。

「はようはこびやっ!! 次が来たら後はあらへんでっ!!」

 眼鏡を掛けた肌蹴た着物姿の女性が、凛とした声で四方八方へと指示を出していく。
 彼女の名は、天ヶ崎千草。数年前には東西の転覆を図った呪符使いであったが、今は関西呪術教会本山の護衛を任されている、序列一位の式神使いでもある女性だった。
 鬼は彼女の指示に従って、傷ついた者たちを土煙の向こうから本山奥へと運んでいく。
 それを最後まで見届けつつ、彼女は退いた。指揮官としての仕事。負傷者がいない事を確認して、下げられた防衛線へと退いたのだ。
 本山の防衛線は既に六度下げられている。今まで幾度もの襲撃に耐えてきた本山でも、今回の襲撃には苦戦を強いられていた。
 それほど必死なのだろう。手負いの獣は容易くない。そんな言葉を、天ヶ崎千草は思い出していた。

 唐突に土煙が晴れる。目を見開いた天ヶ崎千草が振り返った時には既に遅い。
 大柄の、全身を矢で射抜かれて瀕死の状態だった鬼の一匹が、か細い天ヶ崎千草の体など襤褸切れのように吹き飛ばせそうな鉄根を振り上げ、断末魔の入れ混じった怒号と共に、一撃を見舞おうとしていたのだ。
 咄嗟に振り返り、胸元から符を引き抜くも、遅い。
 全員が無事に退けたと思った一瞬の気の緩みが致命傷であった。
 彼女に出来る事といえば、最後の一撃を打ち下ろそうとするこの鬼に、自身の持てる最大級の符術を相打ちで打ち込む事ぐらいしか出来なかった。
 目を閉じ、彼女は符を投げつける。次の瞬間には潰され、グダグダとなるであろう自身の体を想像しつつ、恐怖に僅かに体を震わせて符を見舞う―――

 鬼の断末魔。正真正銘、最後のソレが響くのを、不思議と彼女は聞く事が出来た。
 相打ち必至だった筈でありながら、彼女の体は潰されていない。
 それを不思議と思い、目を開き、風に吹かれて消えていく消灰の如き鬼の姿の向こう側に―――

「千草さぁ〜ん? ご無事どしたかぁ〜〜??」

 蜂蜜とガムシロップをぶっ掛けたかのような甘ったるい声の、しかし、身からは研ぎ澄まされた刃の如き殺気を放つ、血染めの二刀流の担い手がいた。

「…月詠はん。人が悪いわぁ。もっとはよう助けに来てくれてもええんと違うか?」
「ごめんなさぁい〜。でもでも〜神鳴流の総本山でも攻撃を受けとりまして〜。それで援軍が遅れてもうたんです〜。
 何とかウチ一人が抜け出てきましたから〜。頼りないとは思いますけど、よろしゅうに〜」

 ぺこりと頭を下げた長身の剣士。
 そう、長身。アレから五年も経っているのだ。身長も変わるだろうが、少々変わり過ぎかもと天ヶ崎千草は思わざる得なかった。
 それほど、目の前に立つ純白にして血染めのゴシックドレス姿の眼鏡の剣士はアレから変わっており、そして、美しく成長していた。
 その身から放たれている闘気は五年前以上。斬撃の音さえも響かせず、鬼を二分して屠ったその実力は、既に想像するには難くない。
 頼りないなどと言うのは見かけの問題だ。実力は充分であり、この場には心強い助っ人であった。
 同身長の剣士と符術師が並ぶ。その背後には、彼女が指揮する鬼の一団と矢を構えた巫女の一団。
 最終防衛線の引かれた門の前に立ち、天ヶ崎千草は小さく吐気する。
 担い、傍らの月詠もまた、可憐な女性の出で立ちでありながら、実に愛らしく、それでいて艶やかに呼気を繰り返した。

「いくで!! ここが正念場や!
 なるべく死なへんよーにしぃや!!」

 呼気と共に放たれた決意の言葉。
 それを告げた天ヶ崎千草に、月詠、十数体の式となっている鬼が応じ、後方援護を担当する弓術巫女部隊も小さくつばを飲み込む。
 正門向こうには、血に飢えた野良鬼の群れが今正にこちらに飛びかからんとしていた。
 口火を切って、天ヶ崎千草は符を引き抜く。同時に放ぜられた十数枚の符が一斉に爆ぜた。

 それが皮切り。式となった鬼と、月詠の風の様な疾駆。応じるように穿たれる巫女たちの弓による雨の様な援護攻撃。
 方や、咆哮一斉と土煙から飛び出す鬼に烏族、狗族の一群。
 斧に剣。歪な形の凶器を振り上げて向かってくる一団と、白い影を先頭とした一団は土煙の中激突し、土煙は、瞬時に血霞と化す。正門前は、文字通りの阿鼻叫喚と化す。
 京都の一角は紅蓮に包まれた。知る者が居れば、恐らくはこう応じたであろう。
 かつての麻帆良。あの、五年前の紅蓮の炎と同じだと―――

「裏門! 第十五番護衛隊壊滅!! 武装狗族の一団が十七番区画まで侵入しました!!」
「東門! 第七区分隊、第十二分隊と合流! 再交戦を開始しました! 8:4の割合です!!」
「西門! 第九符術兵装隊戦力八割二分まで低下!! 接近戦分隊を送ります!!」
「正門! 天ヶ崎千草主力部隊集中敵攻撃部隊と応戦再開!! 神鳴流月詠師範代が応援に駆けつけた模様です!!」

 運ばれる怪我人ら。それらの上げる悲鳴に混じり、四方八方から飛び交う怒号の様な報告を、近衛詠春は、眉一つ動かさず、傍らにかつての愛刀を置いたまま、正座に待っていた。
 本山最奥の集中司令室に該当する場所。近衛詠春は兆しを待ち続けていた。
 数十年前の大戦。その時と同じような境遇で学んだ事だ。
 窮地の時ほどに冷静となるべし。彼の仲間らも同じように冷静であった。
 故に、あの凄惨な大戦であっても生き延び、今日まで生を繋げて来れた。

 しかし、それも今宵まで。
 近衛詠春は静かに思う。五年前より大きく変貌した世界。人間的に見ればでの話であり、超世界規模で見るのであれば些細なまでの変化でしか無い世界。
 ただ、その変化は、人間にとって死活問題にまで発展する変化であった事。
 故に、五年前より、野良の鬼や狗族の活動は激しくなった。自然界が全てを支配するようになった世界は、彼らにとって、人間が支配していた時以上に住みにくいだけの世界となり、それまで平行線を辿っていた人間との関係を、数世紀前まで戻すには充分すぎる要素だったのだと。
 五年の間に受けた襲撃の回数を、近衛詠春は既に数えていない。
 それだけの回数攻撃を受け、そのたびに退かせるも、多くの犠牲を出してきた。
 それも、今宵まで。近衛詠春は愛刀を眼前まで掲げ、僅かに引き抜く。白刃に写った自らの顔を見定め、彼は決意を固めた。

「本山内全部隊分隊へ緊急打診!! 全部隊を此処、総本山総司令部へ集中!!
 私が前線で直接指揮を執りましょう。皆さんも、戦闘配備についてください。
 なお、怪我人は最優先で地下の緊急避難所へ! 彼らの目的は捕食行為でしょう。充分な備蓄のある地下施設ならば、一月は越せます。急ぎなさい!!」

 近衛詠春の言葉に、周囲がざわめいた。
 しかしソレも一瞬。歩み始めた彼の左右脇に一際重武装の巫女二人が付き、伝令を行っていた巫女らも、次々その場を後に壁に立てかけられていた弓を取って続いていく。
 過去幾度にも及ぶ襲撃に、関西呪術協会は限界と言うワケではなかった。
 今の今まで押さえ込めてこれたのは、偏に呪術協会としての力あってのモノであろう。
 だが、それも今日で終わりにせねば成らなかった。
 此処で犠牲を出して退けるは容易くも、退かせれば退かせただけであり、鬼らは確実に再び此処を狙う。
 京都を護衛している総本山の襲撃は、京都市内を襲う前の保全として行われている事。
 鬼らは、此処を潰せば、京都中の人間を喰らい放題喰らえると踏み、幾度と無く襲撃を行ってきていたのだ。

 それを、近衛詠春は此処で終わらせるべく、自ら出向く決意を固めた。
 退かせるでは最早生ぬるいと。完全に殲滅せねば、ただの堂々巡りとなり体力的な面から見ても人間と鬼らでは大きく異なっている以上、何れは人側が駆逐させるであろう事。
 近衛詠春はそれを予知し、故に、此処で、この生存競争に勝ち抜くべく、自ら出向いたのだ。

「神鳴流本山の様子は?」
「はい。現在も襲撃した鬼の一団と交戦中の模様です。
 月詠師範代もドサクサに紛れて脱出し駆けつけただけのようで……暫しは援軍は期待できません」

 傍らの重武装の巫女の言葉には真実しか含まれていない。
 せめてあと数人、京都最強の戦闘集団神鳴流の援軍があれば、無駄な犠牲も出せずに済むのだろうが。
 ありえない期待を切り捨て、近衛詠春は袴の上着を撒くり上げ、刀の鞘を投げ捨てた。
 最前線で戦うというのならば、最早体裁に拘る必要も無いのだろう。かつて、大戦の時の出で立ちそのままに。近衛詠春は、司令部を出ようとした。
 その、刹那に。

「お、お待ち下さい! 詠春様!!」

 慌てたような伝令担当の巫女の一人が冷や汗を浮かべながら、かつ、蒼い顔をしながら近衛詠春らを呼び止める。
 今正に戦場へと赴こうとしていた詠春、巫女らは歩みを止め、振り返る。息を荒げた伝令巫女は、衝撃的な言葉を吐いた。

「う、裏門から侵入した武装狗族、並びに、空中から襲撃してきた武装烏族の一団が第八区画進入と同時に壊滅……!!
 同時刻、性格には刹那の一刻後に西門襲撃中の大型の鬼の部隊も壊滅しました……!!
 そ、それと…たった今入った情報ですが、正門、天ヶ崎千草主力部隊と交戦中だった敵総合部隊が……全滅しました……!!!」

 近衛詠春の目が見開かれる。同時に、その場に居た全ての巫女たちは口々にざわめき始めた。
 誤報ではないかと言う誰かの言葉にも、まったくの真実ですという応答しか行われない。
 それに、近衛詠春は頭脳回路をフル回転させた。何故全滅したのか。如何なる理由で殲滅させられたのか。
 神鳴流の援軍かとも考えたが、それは、集中攻撃を受けている筈ではありえない。では、何故と。

 何より、近衛詠春は妙な感覚を感じていた。
 伝令の巫女は、刹那の一刻後に西門の敵が殲滅したと言った事である。
 刹那の一刻後。正に、一瞬後の事であるという事だ。それだけの一瞬で敵を駆逐できる存在など、近衛詠春は知らない。
 かつて共に戦った者たちでも、一瞬で関西呪術協会総本山を取り囲んでいた数万以上の軍勢を打ち倒す事は出来ないだろう。
 しかし、それを、あっさりと成しえて見せたその存在を、近衛詠春は想定できず、しかし、一体だけ、現地球上でそれが可能な生命体を知っていた。

「……ソレを、行ったのは?」

 近衛詠春はゆっくりと伝令を送ってきた巫女に近づく。彼女は、僅かに目を閉じ。

「……現在第五正門まで後退した天ヶ崎千草主力部隊の伝令巫女が情報を送ってきました……
 他の門を護衛していた分隊から送られてきたものと、まったく同じです。全滅させたのは…た、単独です…」

 結論が出た瞬間だった。近衛詠春は刀を床に向け、その先を促す。
 彼は感じたのだ。総本山外周を一蹴した存在。ソレ相手には、最早自分の剣術など足元にも及ばないであろう事を。
 故に戦意は既に無く、しかし、最大級の緊張感に包まれ、巫女の一言を受けて―――

「………せ、殲滅したのは……少女です……薄臙脂の髪の……獣耳の少女………
 ―――鋼化生体第二種ですっ!!!!」

 近衛詠春は、正門に向けて駆け出した。


 つい先ほどまで怒号と悲鳴の入れ混じっていた戦場とは思えないほどに、正門前は静まり返っていた。
 それほど。それほどまでに、唐突に現れたソレの姿は壮絶であり鮮烈だった。
 薄臙脂の髪。太陽と黄昏の様な色の髪を、その身長と同程度まで伸ばした姿。
 頭部の皮の下から直接生えている、大型の獣耳。
 しかし、その手に握られた異様な形状の鉄の塊。それが、目の前に居る少女を、少女とは見せない要因であった。

 準戦闘態勢で、巫女たち、月詠、鬼、そして、天ヶ崎千草は警戒していた。
 特に、月詠と天ヶ崎千草は知っていたのだ。三年ほど前から噂になっている、世界中から報告されている臙脂髪の獣耳。
 裏の世界で知らぬものは無く、ふらりと現れては、嵐のように全てを薙ぎ払っていくという、バケモノじみたその存在。
 鋼化明日菜。それが、ソレの通称だった。
 曰く、かつて人間であった名と、共に付き添う巨大な獣の名から取られたその通称。
 『限りある生に死を下す夜故に明日など無し』故に『明日無』。
 そのモノの名には、そんな皮肉が込められていた。

 土煙が晴れていく中、ソレの姿は異様だった。
 ボロボロの体躯。だというのに美しく、しかし、それは、野生的な美しさだった。
 全身を覆う筈の甲冑は、具足と篭手だけであり、何故か襤褸切れとしか言いようのない布を胸元に巻きつけているだけの姿。
 その姿は。けれども、酷く彼女に似合っていた―――
 低い唸り声。僅かに踵を返したソレの口端から、異様に長い犬歯が窺える。
 それを見た瞬間、その場の全員は覚悟した。死ぬ事を。即死を覚悟した。
 死ぬと。目の前に立っている存在の領域が違う事を思い知らされる。
 そして知っていた。その存在感の凄まじさ。それは、かの、五年前より世界を支配した完成種。あの、鋼性種と同じ気配だと。

 その手に握られた鉄塊。良く見れば、恐らくは剣であろうソレ。
 外見上は片刃に見え、しかし、両刃にも見える剣状の鉄塊。
 それは凄まじい重量なのか。体の向きを変えようとする少女が数歩歩むだけで、彼女の体は数センチ、地面にめり込んでいた。
 血染めに立つ獣耳の少女を、皆即死を覚悟で見つめている。
 誰一人口を挟むものは無く、誰一人、助かる可能性など皆無であろう事を確信した。それほどに、目の前のソレは壮絶だと認識してしまったからだ。
 動いただけで身体が数センチ沈むような鉄の塊を、魔力により極限まで強化された筈の視覚ですら捉えきれない速度で振り回し、一瞬。
 まさに一瞬で、あれだけ追い込んでいた鬼の軍勢を一匹だけで切り伏せたというのだ。その相手が此方を向いているだけで、彼女たちは生きた心地などしなかった。

 獣耳のソレの表情は確認できなかった。
 我武者羅に伸ばされた臙脂の髪は、その少女であろう表情を覆い尽くし、まったくその顔立ちを認識させない。
 ただ、一言だけ言えることは。少女は少女ではなく、少女の形をしただけの、大型の獣であるという事だけだった。
 近衛詠春が駆けつけたが早いか。一同。それこそ、その場に存在していた全ての人間の視界から、その獣が消えた。
 人間としての能力では限りなく限界に近い領域まで至っている月詠。人としての能力では大きく上回っている式の鬼。
 そのほか、その場に居た気によりあらゆる感覚器官が研ぎ澄まされている筈の天ヶ崎千草、近衛詠春ですら、その動きならぬ動きに追いつく事は出来なかった。

 その動きは正に光ですらなかった。消え、そしてそこに居た。その表現が最も近いだろう。
 そうとしか言えなかった。他に表現すべき言葉などは見つからない。
 それは人間には知覚できぬ動き。故に表現の仕様はない。
 全員が、その消えた箇所を見つめている中で、姿を消した少女の形の獣は、一瞬でその群れの中心に飛び込み、剣を振るおうとし―――

 反応したのは僅かに四人。近衛詠春。天ヶ崎千草。月詠。そして、五年前に召喚された鬼の首格であった大柄の鬼。
 その四名だけが、飛び込んだソレの影に反応し、回避しきれない事を悟った。
 だが、それを受け入れるような真似はしたくなかったのか。彼らと彼女らは全身全霊で体を動かす。
 自分たちの周囲に居る巫女や仲間ら。それらを、一人でも多く救おうと、両手いっぱいに広げ、押し倒すように後方へ力を込める。
 だが、ソレも遅い。瞬間的なその作業も、さらに刹那の一刻で行われる横薙ぎの大剣一閃前にはあまりに遅すぎるのだ。
 確実に全員が切り裂かれ、絶命するであろう。
 その撃は、それだけの勢いで振りぬかれたのだ。故に、誰も回避しきれない。それが、まったく以って自然だった。

 唯一つの例外が生ずるというのならば、それは、今し方移動した鋼化明日菜と同じ性質を持つ存在。
 即ち、初代鋼性種転醒種限死。あるいは、鋼性種そのものだけだ。そして、鋼性種に近しい存在は―――人間に価値観も、存在意義も求めない。
 故に、今正に剣を振りぬこうとする少女の撃をとどめる手段を持つ人間は、この場に存在していないことに等しい。
 それは、即ち、この場に居る人間の全滅を意味する事に限りないのだが―――

 その例外が、ここで発生する。

 刹那の一刻。その一瞬も一瞬の狭間で、発生する例外。人間的な生命体では反応できない刹那の一刻に反応した一撃が、鋼化明日菜の足元へ向けて、撃ち出されていたのだ。
 爆ぜる。流星の様に落下してきたその撃の衝撃で、大勢を突き飛ばすカタチだった四名の体も、巫女らの体も大きく弾き飛ばされた。
 その中で一人、鋼化明日菜のみが立つ。刹那の一刻の狭間で行われた攻防の中で、かの存在だけは、今の撃が何処から下されたのかを見分けていた。
 他の者には見えぬ双眸で、彼女は空を見上げていた。
 それに続き、近衛詠春もまた、空を見上げている。
 正しく言えば、その場に居た全ての人間、生命体が空を見上げていたのだ。
 月夜の空。雲ひとつない満天の星空は異様だった。今日の京都の天気予報は曇天。
 だというのに、晴天のように晴れ渡った空。雲は円形に抉られ、その中心に月が輝いていた。

 その月の下。誰の目から見ても、人間の目から見てではあるが、その月の光の中に影ひとつ。
 真紅の星が輝いている。あまりの高度なのか、その場に居た全ての人間には、その明確な詳細まではわからない。
 ただ、近衛詠春、天ヶ崎千草、月詠に見とれたのは―――それが、飛空機のようなものだ、と言う事だ。
 ただ、その飛空機の様な姿を、獣の少女は確かに見つめ、確かに、歯を擦り合わせていた。

 風と共に桜の花が一斉に散る。それが兆しか、獣の少女の姿は既にソコには無かった。
 ただ、極少数のその光景を見ていた者達だけが、何処へ消えたのかを認識していた。東へ。あの、少女の形をした獣は、東へと去っていった。
 近衛詠春が空を見上げる。曇天の雲は椀の様に穿たれ、巨大すぎるほどの大きさを誇る満月だけがある。
 そう、既にそこには、あの月光の中心に在った真紅の星の姿は無く、ただただ白光を地上へ降り注がせる月と、その場には、傷ついた者達だけが残った。
 天ヶ崎千草がボロボロの体を奮い立たせ、式たる鬼たちへと指示を仰ぐ。
 応じて、右往左往していく鬼らの中、近衛詠春だけは、何時までも空を見上げ、そして、口火を切って告げる。

「―――天ヶ崎千草。関東魔術協会総本山麻帆良学園都市へと打診を打ってください。
 月詠師範代は、神鳴流本山から一級の剣士を一名選出して、東へ送ってくれないでしょうか」

 眼鏡の符術師と、眼鏡の剣士は一度だけ顔を見合わせ、お互い頷きのみで応じ、その場から離れていく。
 空は満天の星が広がるのみ。今日の一夜を、地球は蚊の屍骸ほども気にかけてはいない。
 それは、人の物語だからであろう。人程度の物語に、世界は一意の感情も感寸も懐きはしないのだ。
 だが流星が落ちる。東。北北東の地平線の果てに、一筋の流星が落ちていった。
 流れ落ちた流星の色は、赤。燃えるような深紅だったのを、近衛詠春はその目に焼き付けた。

「―――彼女たちが、帰ってきたのですか……」

 刀を強く握り締め、近衛詠春は思う。
 再び、嵐が来たと。全てを薙ぎ払うような嵐。あの、五年前の嵐が、また―――

 

 不 死 鳥 飛 翔
 突貫魔法少女U ―ホライゾン・バースト―

 突貫魔法少女―ホライゾン― 最終章 TURTH CHAPTER:片翼

 第四十五話〜年月〜


 年月と言う名の、別れ


 ゆっくり目を開ける。一切の音もない静寂の中で、ウチはほんにゆっくり目を開けた。
 窓の外の風景は流れてる言うんに、全然風景が変わらへんのは当たり前。
 昨年から此処、麻帆良学園都市に設けられたモノレールは、一層大きくなってもうた麻帆良学園を全体を廻らないかんの。
 せやから、今は湖の上。遠めに図書館島が見えるのが、何よりの証拠。
 車両の中にはウチ一人。他には誰もおらへんで、一人ぼっちで静かに静かに運ばれてく。

 すごい静か。雑音一切ない、静寂の最中で運ばれてく。
 誰一人の声も聞こえへんくて、日曜やし、鋼性種も飛んどるから仕方ないと思う。
 せやから、目を閉じて、右に置いとった防具入れに首を預ける事にする。
 昨日、全然眠れへんかった所為か、フツーに眠る事が出来る筈やと思ったから。
 目を閉じて、どっかに体預ければ、直にでも夢ん中。そう信じとったんに、全然眠れへん。

 きっと、昨日見た夢の所為や。
 薙刀部の試合が終わって疲れていたんが悪かった所為や。
 そうでなかったら、ここまで寝つきが悪い事なんてあらへん。
 こんなに疲れているんやもん。何時もやったら、直にでも眠れる筈や。
 だから、きっと、この寝つきの悪さは―――昨日見た、明日菜にネギ君。それに、せっちゃんの夢の所為や。

 無理して、寝る事にした。
 両の目をしっかり閉じて、窓の外から刺してくる日の光。湖の青い水が弾く光を一身受け止めて、眠る。
 寝たら、嫌な事、全部忘れられるやん。全部、無かった事に出来るやん。たった一時でも。それでも構わへんかったから―――
 両目閉じて、眠る。閉じる最中に、一筋、水滴が落ちたような気がした――――
 モノレールが麻帆良へ向かってく夢を見る。高い所から見下ろしているような麻帆良は、翠と桜と、そして青に満ち満ちていた―――

 防具と薙刀を背負って、モノレールから降りる。
 駅員さんに切符切ってもらって、一言も言わずに、先を急いでいく。
 木の根が張り、崩れかけたかのような駅。
 生えに生えた木々に狭間から刺す自然光が街灯代わりで、でも、完全に人工物を飲み込みかけてるん自然ずくめの駅構内。そ
 れなんにこうしてちゃんと使えてるんわ、これが普通だから。これが、もう慣れてしまった光景やから。
 殆どがレンガ造りとなって、中世どころか紀元前前ぐらいの作りになってもうてるのは、時折現れる鋼性種のせいでもある。
 鋼性種がどんな動きをするんか予測できへんから、こうやって直し易い総レンガ造りにしてるん。
 せやないと、突然現れてまた壊されたら、折角一年前に直したばっかりの新校舎の意味もあらへん。

 せやからレンガ造り。直し易く、逆に壊れやすい造りにする事で、最小限被害を少なくして、費用も少なくするようにしたん。おじいちゃんは、確かそう言っとった。
 レンガ造りの、空中庭園みたいな造りの駅構内を抜ければ、一面湖の広がる新麻帆良学園都市の東側が一望できる。
 ほんに空中庭園みたいで、ちょっと高い場所のバルコニーに立ったんなら、百数メートル下の湖の透明が見えるほどや。
 変わりに変わった麻帆良学園。世界初の、鋼性種準競合校舎。
 鋼性種ちゅう特殊完全生命体との共存を是とした大都市学園で、世界中から別の意味で視線を集めている学園ゆうのは承知の事実。
 五年前、散々暴れまわってくれた筈の存在やのに、憎しみも怒りも覚えへんのは、やっぱり、それだけ自然的で偉大なんやなって思ってしまえる。
 五年で、沢山変わってもうた。学園も勿論そやけど、変わったのはそれだけやあらへん。
 ウチに、夕映に、のどかに……沢山おる。Aクラス言われてた人間の大半はごっつ変わってもうて、今では大学に行ってる人や、外国へ留学した人。ちゃんと仕事に付いた人もおる。

 ……明日菜にせっちゃんは知らへん。二人と別れて、もう五年。ネギ君とも別れて五年。
 ウチは、今年の初めに二十歳になって、こうして大学二年生をしっかり頑張っとる。本当に、頑張っているのかどうかは、正直曖昧やけれども。
 鋼塔の外周。それに付着するみたいになってるんが、昨年に完成した新校舎。
 五年前吹っ飛んでしもうた世界樹跡。そこに現れたんが、この鋼塔言われとる、鋼の塔。
 鋼性種と殆ど同じ鋼性分ちゅう『単一性元素肥大式』で構築されている、天まで届く、大きな塔。
 それを活用して、麻帆良学園都市は再生した。正しく言うんなら、復元かもしれへん。
 兎に角、麻帆良は鋼性種が残したモノを最大限に活用して、壊れに壊れきった都市や校舎を復元。今に至っとる。

 レンガの通りを歩いていく。太陽の光が時々遮られるんは、鋼塔のもっと高い場所を飛空しとる鋼性種の所為。
 春の日差しも、鋼性種にとってはあんまり関係ないようで、桜の花びら舞い上げた風が、静かにウチの頬を撫でていってくれた。
 鋼塔の北側から、東側に見える麻帆良を見通す。町並みなんて殆ど見えへんで、翠と桜の花の色だけが酷く栄えて見えてまう。
 自然界に飲まれた、森に食われた、かつての麻帆良。一番変わったんは、この町や。この街が、一番鋼性種の影響を受けたんやろな。
 階段を数十段降りたなら、もう翠の下。木漏れ日差し込む、周辺には、漸く軌道にのったレンガ造りの店舗が出回っとる。
 五年前まで世界樹広場前のカフェテリアで栄えとった此処も、今では人通りは疎ら。そんな事言うたら、学園中何処もそうやのにね。

「あ、近衛センパーイ!!」

 道路の反対側で聖ウルスラの女子校制服姿の子が、何人か手を振ってくる。
 先日まで一緒に試合やっとった同部の子。その子が、何人かの友達と一緒になって歩いとった。
 それに、静かに笑って手を振り替えし、にっこりその子が笑ったのを見届けて、歩みを進めてく。
 無口になったとは思わへん。でも、五年前より笑えなくなったんは間違えあらへん。
 これは、絶対や。色んな人、いなくなってもうた。大切だった人も。弟みたいだった子も。大好きやった人も。皆、遠くへ行ってもうた。

 せやから、悲しい気持ちとか全部、全部捨ててくことにしたんや。
 苦手で、初めの一年はすごくきつかったけれども、二年目から、漸く慣れて、些細な事でも感情は露にしないようには慣れて、それでも、ウチを笑顔にさせようって頑張ってくれる友達が嬉しくて、色んな気持ちに板ばさみになって、こうやって生きてきた。
 今では結構慣れて、感情の表現能力の調節はお手の物。笑いたい思うたら笑って。
 怒りたい思うたら怒って。それを繰り返しながら、上手く上手く使い分けながら、生きとる。自分に嘘付いて、悲しい気持ち、全部ないがしろにしてこうやって生きとる。
 ドン。結構、強い勢いやったかな。

「あ、ご、ごめんっっ……って、うわ、うわわっ!!」

 変な事考えて歩いとったら、正面からぶつかられた。深く帽子を被った、黒髪の人で。
 なんやかとっても急いでいたみたい。せやから、その勢いでウチにぶつかってきたもんやからその人が前のめりになって転びそうになるのを、何とか片手を伸ばして引っつかんだ。

「おっ……とと……あははー。ごめんごめん。修羅場逃れだったもんでさー。それにしても力強いわねー? 女の子でしょ? ん? んん??」

 まあるい帽子の女の人。帽子の下には眼鏡で、ちょっと痩けた感じの顔の女の人が、丸い目をぱちくりさせていて。
 その顔見て、ウチも気付いた。最後にあったんは、一年前だったかもしれへん、その人。中等部、同じクラスやった―――

「このか……だよね。うん、やっぱりこのかじゃん!!」
「―――久しぶりやね、ハルナ」

第四十四話(後編) / 第四十六話


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