第五十一話〜咆哮〜


 それは幸せの否定 嘗ての、否定

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 夕暮れ時の空の下。今日も今日とて、鋼性種が行く。
 その鋼の様な銀板で夕焼け空の赤を弾き、湖と、その湖にかかった橋を照らしあげている。
 その橋の上に人影二人。一人は、自らの身長よりも長い棒状の物体と、大学部の指定制服に身を包んだ不均等な黒髪の女性。
 方や、彼女から離れる事十五歩後方。ソコには、自らの身長と同程度の長さの長刀を二本携えたツインテールに髪を纏めた凛とした顔立ちの女性。
 近衛木乃香と桜咲刹那は、お互いに純粋な大和撫子の雰囲気を携えたままで橋を渡っていた。
 遠目から見る者がいれば、まさに一枚の絵。それほど優雅な出で立ちの二人であった。

 だが、両者の思う心はバラバラだ。
 特に、近衛木乃香。彼女は、後方から着いて来る剣士に対し、あまりに複雑な思いを懐いていた。
 別たれた道。後方の剣士は、自らの未熟を嘆き、自ら京都は神鳴流付属の女子校へ転校。
 その後、本山での修行も相極まり、神鳴流でも序列筆頭にも挙がるかのような剣士となったのだ。
 だが、その剣士の付く薙刀使いの近衛木乃香もまた然る者であった。
 剣士は、恐らく、ソレを知らない。近衛木乃香が薙刀の全国大会で準優勝まで上り詰めた事。
 その技術力は、神鳴流の剣士の実力のソレに、勝るとも劣らないと言う事を。

 二人の心は違えたまま。違えたままで、彼女達はこうして再び出会ってしまった。
 再会ならぬ再会。再会の感激も、再会の憤慨も、ソレら全てが、同時に現れたかの鋼化した親友の発ち起こした風で薙ぎ払われてしまったかのよう。
 だからこそ、二人とも何一つ言葉が出なかった。
 近衛木乃香の思い。彼女は、何故自分を置いて出て行ってしまったのか。
 だが、彼女は知っている。そんな理由は、彼女は知っているのだ。
 桜咲刹那と言う女性の気質を知っている近衛木乃香。その彼女が導き出した、桜咲刹那と言う女性の結論。

 背中の傷が、ぐずりと痛む。その傷の痛みを覚えるたびに、彼女は、あの日の事を思い出す。
 近衛木乃香が背中を断ち切られたあの日。
 彼女を守る筈の剣士は、一瞬だけ躊躇した。飛び出し、『敵』に不用意に近づいていった己が幸せの証。
 それを守る為に飛び出さなければいけなかったというのに、一瞬だけ、剣士は自らの身を案じた。
 行けば死ぬ。剣士の心はソレで満たされた。
 それが明らかな後手であり、『守る者』として思ってはいけない絶対の定義であった事を、全て、彼女は脳内から排除されたのだ。

 そして飛び出したときは既に遅い。剣士の体は頭部を鷲掴みにされ、落雷じみた衝撃を叩き込まれて卒倒した。
 そうして眼を覚ましたその時には、命に別状は無いが意識不明の状態であった、守らなければ成らなかった筈の、者。
 そうして彼女は去ったのだ。自らを叱咤した吸血鬼の少女へ一度だけ御礼を告げ、他の人間には何一つ継げず、彼女は行ってしまった。近衛木乃香は、それだけがずっと気になっていたのだ。
 近衛木乃香は馬鹿ではない。だから剣士の少女が去った意味を理解していた。
 幼馴染で、幼い頃に共に居、お互いを見ていた間柄の二人には、相手のことなど手に取るようであったに違いあるまい。

 近衛木乃香が悟った、桜咲刹那失踪の理由。それは至極簡単であり、だからこそ、近衛木乃香は悩み続ける羽目と成った。
 守れなかったというのが単純な理由。桜咲刹那が、近衛木乃香と言う少女を守っていたのは、少女自身も知っていた。
 だが、あの日、剣士はそれを違えてしまった。守れる筈の、守れねば成らない筈の存在より、一瞬だけでも、自分自身を守りたいと幻想したのだ。
 剣士はソレが赦せなかった。守ると誓い、しかし守れなかった者は重傷。
 守りたいと誓い、しかし守るに至れなかった自分は軽症。
 それが赦せず、剣士は、単純に力を欲した。

 それが、桜咲刹那と言う女性が京都へ戻った理由であった。
 そんな事。近衛木乃香は知っていた。知っていて、それ故に嘆いたのだ。
 そんな事など良かった。そんな事でなくても、一緒に居てくれたのであれば。
 桜咲刹那にとってはそれは自身にとって赦せぬ事であり、けれど、近衛木乃香には、それだけで充分だったのだ。
 守る者と守られる者の心のあり方は、驚くほど行き違っていた。
 違えた二つの心。そうして道は別たれた。お互いに思う心はまったくの真逆。それが、二人の袂を別ったのだ。
 近衛木乃香の足が止まる。それに準じて、桜咲刹那の足も止まった。

「なぁ、せっちゃん」

 桜咲刹那は口を開かない。ただ俯き、目じりにかかる程度の長さの黒髪によって表情が確認できなくなる程度まで俯き、ソレでいて何も言わない。
 振り返った近衛木乃香の眼に映るのは、申し訳なさそう頭を垂れているようにしか見えない桜咲刹那の姿だった。
 それを見て、近衛木乃香は一度、本当に一度だけ、生涯、もう二度とはすまいと思えるほどに、歯を軋ませた。
 それは怒りの感情に近い。憎悪にも等しい怒りだったのかもしれない。
 仲紡いだ仲だからこそ赦せぬことがあった。目の前の剣士は、ただそれを成しているだけの様にしか見えなかったのだ。
 だがそれをギリギリで押し留め、彼女は幾つかの質問を交わす事にした。
 それは、彼女の最後の一欠片。目の前の剣士のなんたるかを知る、最初で最後の、一欠片。

「エヴァちゃんのこと、知ってるん? エヴァちゃん、自分でちゃんと決着付けたんよ」

 桜咲刹那は何も言わない。相変わらず、無口。
 申し訳なさそうに目を伏せたままに。その顔に影を落としたままに、無口。

「幸せと剣、どっちも選ぶ言うたんよね? どうして、どっちも止めてしもうたん?」

 赤い夕日が、二人を差している。二人の姿は赤く染まったままに。
 それでも、真摯な面持ちのままの近衛木乃香と、俯いたままの桜咲刹那は変わらない。

「どうして、ウチと口訊いてくれへんの? ウチの事、嫌いになったん?」

 相変わらずに無言。だが、桜咲刹那には返答の意思など無かった。
 彼女は自身に出来る事はたった一つだけであると思っていたからだ。
 それを以って彼女は謝罪を訴えていたのだ。あの時の事。今までのこと。そして、これからの事を。
 彼女は、近衛木乃香と言う女性を守りきる事で、かつての己の酬いを払おうとしていたのだ。
 それは、桜咲刹那の勘違いにも等しい。近衛木乃香はその事で怒ってなどいないし、かつての事などどうでも良かった。
 ただ、今会えた事。再び帰ってきてくれたという事。そして、かつての、彼女の持っていた欺瞞。それを晴らそうとしたかっただけだったのだ。

 言葉は交じり合わず、両者の複雑な視線すらも射合わない。
 桜咲刹那と近衛木乃香。両者は、完全に立っている場所が別の場所であり。そして、思う心も別だった。
 近衛木乃香の表情が曇る。向かい合っている剣士同じく、彼女自身も俯き出し、その前髪で瞳が見えなくなるまで俯く。
 他に人は誰もなし。長い長い端の上には大和撫子と呼ばれるほどに優麗な雰囲気を佇ませた女性が向かい合っているようかにも見え―――唐突に、近衛木乃香の身体が流れた。

 桜咲刹那の顔が上がる。伊達に、この数年間を剣の道に賭けて修行してきたわけではない。
 先にも述べたとおり、彼女は今では神鳴流の筆頭剣士が一人。もう、あの時までの未熟な彼女ではないのだ。
 だからこそ、彼女は反応できたに等しい。
 生半可な人間では、音も立てずに接近する近衛木乃香の動きには対応できない。
 研ぎ澄まされた反応速度を持っていたからこそ、桜咲刹那は反応が間に合ったのだ。
 顔を挙げた桜咲刹那の目に映った光景。
 彼女は、それに戸惑いと困惑と混乱を覚え、しかし、長年で鍛え上げられた戦闘感覚が、それに瞬時に反応して見せた。
 腰から抜かれる長刀。夕凪と言う、彼女の愛刀である。
 それが瞬時に引き抜かれ、目前まで迫っていた、魔力による強化の成された薙刀の一撃を防ぎきった。

 思わずたたらを踏む。それほど強い打ち込みであった。
 一撃の重みは、努力の賜物。嘗ての桜咲刹那に、勝るとも劣らない。

「お、お嬢さ―――」
「お嬢様なんて―――言わんといてぇなぁ!!!」

 弾かれる。とてつもなく強い力で弾かれ、桜咲刹那の体は木の葉のように舞った。
 弾き飛ばしたのは、薙刀使い。否、剣士が守りたいと、守ろうと願っていた女性。その自身が、桜咲刹那を突き飛ばしたのだ。
 故に、剣士の混乱は此処に極まった。守ろうとした女性。守りたかった女性。
 人の形ではないモノでありながらも自身を慕ってくれ、そして、多くの友との仲を紡いでくれた筈の女性。その女性が、自らを拒否するかのように―――

「お、お嬢様、どういう事で―――」
「お嬢様言うないってるやろぉ!!」

 駆ける。
 薙刀を構えた黒髪長髪の女性の体が独楽の様に捻られたと同時か、捻りを加えられた足に篭められた膂力は一気に解き放たれ、桜咲刹那の眼前まで瞬動の如く到達して見せた。
 振り抜かれた一閃。魔力を込めた一閃は鋭く、剣士の女性を驚愕させるまでの勢いも有る。
 一撃は僅かに後退した桜咲刹那の額上の髪の毛を数本薙ぎ払い、近衛木乃香は背を向け、しかし、その勢い殺さぬまま再び一歩踏み込んで、今一度横薙ぎを放とうと―――
 身構えた所で、白刃と薙刀の柄がかち合う。
 木製と鋼製の筈のソレがかち合っても、木製のソレは軋みもしなければ、刀との鍔迫り合いで斬れる様な素振りすらも無い。

 それは、近衛木乃香の魔力強化故の頑強さ。
 かのサウザンドマスター以上の魔力を誇るという近衛木乃香の魔力により強化された薙刀の柄は、既に鋼のその領域を淘汰しているのだ。
 筋力は互いに互角。桜咲刹那も、近衛木乃香も筋力強化など行っていない。
 その余裕が無いのか、はたまた。桜咲刹那は、混乱故に強化などと言う領域まで頭は働かず、近衛木乃香は、冷静だが桜咲刹那に自らを以って思い知らせるが為に。
 双方は、肉体の強化を行っていなかった。

 鍔迫り合いの中で桜咲刹那は見る。
 火花飛美散る程の鍔迫り合い。その火花の向こう側で、泪に暮れている近衛木乃香の、その泣き顔を。
 それに目を取られたが隙。薙刀の角度が微妙に斜め下を向き、刀が地面へ向けて流される。
 それに気付いた時は既に遅いか。近衛木乃香の体は独楽のように廻り―――何時か、彼女の親友と呼べる少女が教えてくれた蹴りのかまし方で、桜咲刹那の腹部を穿ちぬいた。
 苦悶の表情を浮かべる桜咲刹那が敏捷な動きで距離を離す。
 だが、その腹部の痛み。相当な勢い、かつ鋭いまでの角度で打ち出された一撃は、剣士の腹部に鈍痛を患わせていた。
 距離は13メートル台。膝を付き、腹部の痛みに耐える苦悶の表情を浮かべる桜咲刹那を、泪に暮れながら見下すように見つめている近衛木乃香が居る。
 その薙刀使いが、一歩踏み出す。

「ウチせっちゃんのなんなん!? 保護されているだけのお姫様なんか!? お姫様は黙って従者の皆に守られてればええん!?」

 一歩。また一歩と近づく。

「そんなん、ウチはやや!! そうや、ウチはややった!! 皆から守られてばっかり!!
 京都の修学旅行の時も、他の時もそうや!! ウチ、皆に守られてばっかりやった!!
 せやから、ウチ、魔法使いになれるかも言われた時、嬉しかった!!
 これで皆の力になれる! これで、皆の為になれる思うた!!」

 薙刀が構えられ、前傾姿勢をとる。

「せやけど、せっちゃんそんなウチにも気付いてくれへんかった!! ウチを守りたい言うて、ウチを強くさせてくれへんかった!!
 なぁ? ウチ、そんなに頼りなかったん!? ウチ、そんなに皆の足手まといにしかならへんような存在だったん!?」

 足に篭る魔力。それが、一瞬後の瞬動に備えられた。
 そう、今桜咲刹那の前に立つ近衛木乃香は、嘗ての彼女ではない。
 似て、非なる、同じものだ。

「そんなん。そんなん、ウチは―――ややっ!!!」

 撃ち出された砲弾の様に、近衛木乃香は桜咲刹那に肉薄する。
 一瞬。まさに一瞬で、近衛木乃香は十数メートル間は無視される。
 その勢いから繰り出された打突を、桜咲刹那は寸でで回避しきってみせた。
 単純な突撃。それならば、回避のしようがあったからだ。だが、攻撃は回避できたとしても―――胸を抉る言葉の槍は、決して、避ける事も、防ぐことも出来ない。
 突撃してきた近衛木乃香の背後に廻るも、瞬時に近衛木乃香は反応する。
 あまりの鋭さ。その鋭利な気配に、桜咲刹那は戦慄する。
 あの温厚な雰囲気だった少女とは思えぬほどの成長。
 戦士としての危急への反応。戦闘者としての純粋な覚悟の極み。
 大人として、何より、人間としての成長がそこにあった。
 だからこそ、桜咲刹那の頭は、混乱のままだった。

「ち、違いますっ……!! 私は、私はお嬢様を思っていたからこそ…………!!」

 それが間違えだと、彼女は気付かない。

「なら! もうウチはせっちゃんなんてもう要らへん!! ウチを守ってくれるだけのせっちゃんなんて、ウチは要らへん!!
 ウチは、強うなったんもん!! せっちゃんや、ネギ君や、明日菜や!!
 皆に守ってもらう必要なんてないん!! ウチは、ウチで自分を守れるん!!」

 吼える。あの、近衛木乃香が吼えている。
 温厚だった近衛木乃香は、ここに居なかった。
 桜咲刹那と神楽坂明日菜、彼女たちと微笑み、皆を幸せに出来るような笑顔を浮かべていた近衛木乃香はそこには居なかった。
 居たのは、長年押さえ込まれ続けていた感情。
 守られ続けていた者の、押さえ込まれていた想い。彼女は、我武者羅に、それを解き放っていた。

 我武者羅に振るう刃は鋭い。
 神鳴流の剣士ならば見切りは容易い筈の斬戟だろうが、桜咲刹那の眼にはその太刀筋が読み取れない。
 太刀筋を読み取るより先に、耳に届く独白があった。
 避けて、押さえ込もうとする一瞬の間に、耳に届く叫びがあった。
 それを、桜咲刹那は避けきれない。言葉の槍を、桜咲刹那は受け入れるしかない。
 それが桜咲刹那に隙を生んでいく。その隙を突いて、近衛木乃香が攻め込んでくる。その応酬だった。
 その繰り返し。不毛な争いである。決着など無い、あるのは、ただ、互いに互いを傷つけあい、傷口を抉る言葉の繰り返し。それだけだった。

「ウチはお姫様ちゃう!! ウチは、ウチや!!
 近衛木乃香言う一人の人間や! だから何でも出来るようになったん!! 強くもなった!!
 だから、せっちゃん! もう、もうっ…………!!」

 その先を如何に続けようとしたのか。
 近衛木乃香は嗚咽と共にそれを飲み込み、尚も駆ける。駆けて、薙刀を振るい、桜咲刹那に迫っていく。
 一撃毎に、桜咲刹那の胸元は締め付けられた。
 その言葉の意味。繰り返される言の葉の槍。それによって穿ちぬかれる、自らの心。
 何が間違えているのかではない。
 近衛木乃香と桜咲刹那の間の齟齬。それがあるだけであり、そして、近衛木乃香はただそれを訴えていた。
 言葉では伝わらなかったのだ。だから、近衛木乃香はこの方法を選んだ。
 確実に桜咲刹那に届く言葉の嵐。撃の嵐に垣間見える、近衛木乃香の切実なまでの思いの丈の全て。それを、彼女は解き放っていく。

 必要ないといわれた桜咲刹那。
 剣を糧とし、剣を是として生きてきた少女に、その言葉がどれ程の傷を生み出すのかなど、近衛木乃香は知っていた。
 だから、これは、復讐だったのかもしれない。
 近衛木乃香の復讐ならざる復讐。彼女が成せ得なかった、長年の思いの全てを込めた復讐。
 自分の想い。ソレに気付く事無くいってしまった桜咲刹那への。
 それを告げる事無く行かせてしまった、己自身への。二人分の、復讐。

 桜咲刹那を嫌いになる事など、近衛木乃香には出来ない。
 嫌いになることも出来なければ、憎悪を懐くなどよほどの事でも不可能なことだった。
 だからこそ、思いの丈をぶつけるのは桜咲刹那だけにではない。
 己自身。近衛木乃香の桜咲刹那への独白は、近衛木乃香自身すらも傷つける。
 幼馴染で、一番大好きだった者へ打ち付ける打突と言葉の槍。
 それは、近衛木乃香の筋肉を軋ませ、近衛木乃香の心も抉っていくのだ。

 桜咲刹那は反撃には転じれない。反撃など、彼女の頭の片隅にもありはしない。
 目の前で打突と薙ぎを繰り返す女性。あまりにも鋭く、あまりにも成長した姿をしていようが、目の前の黒髪の女性は守るべき対称なのだ。それは違えない、たった一つだけの事実。
 だが、それは正しいのだろうか。目の前の女性はそれを込めて打ち込んでいた。
 守らなければならない。それは、目の前の女性が訴えかける言葉と同じなのだろうか。
 それは違った。紛れもなく違っていた。
 桜咲刹那と近衛木乃香の本心は真逆であり、まったくもって異なるものなのだ。

 目の前。薙刀を構え駆け続け、振るい続ける女性は、守られたくないと思っていた。
 彼女は、強くなったのだ。自らを自らで守れるほどに強く。故に、既に保護などいらなかった。
 だが、彼女が大好きだった人間はソレを是としていた。守ると言うこと。
 それこそが、なにより桜咲刹那と言う存在を成り立たせていたのだから。

 振るわれた薙刀の一閃。それが、僅かに胸元を掠めたと同時だったか。
 近衛木乃香の体は、桜咲刹那の前で竜巻の様に捻られた。
 今まで振るい続けていた撃の勢いを最大限に込めたのか。その勢いは、まさに風の集まりといっても過言ではなかった。
 横薙ぎに振るわれた体勢から、切り上げのようなモーションへ可変しつつもなお、桜咲刹那は反応できなかった。
 唐突な襲撃と、胸を抉る言葉の数々に、彼女は、完全に戦意など失って―――
 否、彼女は、初めから戦意などなかった。ただ、泣きながら振るわれる撃を避けつつ、胸を抉り、心に突き刺さる言葉を受けていたのだ。

 故に避けれなかった。
 長年、それこそ、あの日より重ね続けられていた研鑽により、彼女は紛れもなく強くなったというのに、その一撃だけは、彼女は回避に至れなかった。
 強い衝撃。ソレと共に、強い金属音がなった。
 夕焼け空の下。相変わらず、鋼性種は下界の人間如きを眼中にも居れず、空を白鳥と共に行っていた。
 その空に舞い上がる剣一本。白刃を煌かせ、血を浴びたかのように紅く、しかし、血の穢れなど一片とも見当たらない剣。
 夕日の光を弾いたが故にそう見えたそれが、風を切って空へ舞い上がり、同じように、風を切って、地に突き刺さった。
 振り上げられた薙刀の一閃で、桜咲刹那は其処へ倒れ臥している。
 真紅の湖、その橋の上。一人は倒れ臥し、一人は、その倒れ臥した者の喉元へ―――躊躇いなく、魔力強化の施された薙刀を突きつけていた。

 奇しくも、それは、五年前にこの学園であったまほら武道大会で桜咲刹那が激突した臙脂の髪の少女の状況と同じ。
 喉元へ突きつけられたのはハリセンであったが、構図はまったく同じだった。
 ただ、大きく違う事は何か。突きつけていたのは、桜咲刹那と言う女性が剣を本格的に学び始めた原因にもなった、守るべき人であり。
 突きつけられていたのは、冷徹さと悲壮さが混合した魔力に満ち満ちた、一本の薙刀だった。
 桜咲刹那は、五年前も、そして今も本気ではなかった。
 本気になれるはずも無い。かつて戦った時の臙脂の髪の少女はまだ未成熟な戦う力など持っておらず。
 しかして、今。彼女の喉元へ薙刀を突きつけている女性にいたっては―――

 動悸が早いのはたった一人。
 薙刀を構えた近衛木乃香の息遣いだけが早く、嗚咽まじりに口から吐かれている。
 桜咲刹那の胸元は動悸による蠢動もない。
 無論だろう。彼女は全力などではなかったからだ。明らかな油断。そして、明らかに本気など出せなかった、その心。
 喉元に薙刀を突きつけたまま、その薙刀から魔力が抜けていく。
 何時か、桜咲刹那はこの体勢から姿勢を正し、反撃に転じたが今回は反撃にも転じられない。
 腰には今だもう一本の刀が納まっているが、それを引き抜いて反撃に転ずる気力など、彼女にはない。

「―――せっちゃんの言うお嬢様は、もうおらへんのや。
 ウチは、ウチや。近衛木乃香言う、ちゃんとした大人なん。
 せっちゃんの言うお嬢様や、ウチは、ない」

 吼えるような独白。それは、桜咲刹那の見た事も無いような近衛木乃香の姿だった。
 あの、和やかとした雰囲気はなく、自身と同じように研ぎ澄まされた気配。
 それが、目の前の、かつてお嬢様と慕った女性の今の姿だった。

「………………お嬢様………………私は…………」

 その言葉が吐かれたと同時に、近衛木乃香は走り去った。
 薙刀を瞬時で引き、踵を返すと、振り返る事もなく走り去る。
 その踵を返す間際。仰向けになっていた桜咲刹那の頬に、一滴のしずくが落ちる。
 唇間近に落ちたその一滴は自然と唇の中に入り。それは、妙な塩加減の味を桜咲刹那の口の中へ広げる。
 湖にかかる大図書館へ伸びた橋の上。
 桜咲刹那は、紅い赤い空と、果てを行く、銀色の塊を見上げ続けていた―――

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――深夜:市街地


 日も沈みきった夜。暗闇とは言えど、鋼性種は相変わらず空を行っていた。
 その暗闇の真下。そこに、三人分の影が在った。
 一人はスーツ姿の男性であり、一人は、長身で深くローブ被った人物であると認識できる。
 そして、最後の一人は、木の根元で蹲っている人物像であると確認できた。
 木の根元で蹲っている人物。闇と一体化するほど黒い髪の毛を携え、その手元には二本の刃を持った女性。
 ツインテールに纏められた長い長い黒髪。優雅で美しい黒髪であったが、しかし、その女性の表情は冴えないままだ。
 桜咲刹那は膝を抱えたまま木の根元に座り込み、間もなく来るであろう魔法使いの少年。
 今では、とうに青年となったであろう人物を待っていた。

「………………エヴァンジェリンと木乃香さんは……」
「エヴァは来ないだろうね。知ってはいるとは思うけれど…………しょうがないか」

 高畑・T・タカミチの言葉に、それも仕方ないともローブの人物は思っていた。
 この時間帯、そして、今、この学園の外れに迎えに来て欲しいと申し出たのは魔法使いの青年であり、そして、そのことは誰にも伝えて欲しくないというのも、また青年の言葉だった。
 それを、アルビレオ・イマは困惑しながらも受け入れた。
 堂々とこれない理由。夜の暗闇に紛れ、盗賊のように来訪する意味。そのワケを、アルビレオは充分に認識していた。

 一年間と決められていたとはいえ、当時少年だった魔法使いの彼は、何一つ告げる事無く、この地を後にしていった。
 その結果として残されたのは、彼の担当した生徒たち。
 少年の気持ちを、アルビレオは理解できているつもりであった。
 少年が去った後の事。自分の所へ魔法を教えて欲しいと来た綾瀬夕映と、それから暫くしてここで働かせて欲しいと現れた宮崎のどか。
 そんな、彼女達の気持ちも理解していたつもりだった。

 確かにとも思うだろう。青年は早い話が、置き去りにしていったにも等しい生徒達とこの学園そのものに顔を会わせ辛かったのだ。
 だからこそ夜に来訪する事を告げ、こうしてアルビレオと桜咲刹那の二人にだけ、今日来訪することを告げていたのだ。
 それは、正しいことなのか。それは誰一人として判らなかった。
 ただ、一つだけ言える事は。この五年と言う年月は、彼女らにも、青年となった少年にも、人として過酷なものであったであろうと言うことだけだった。

「…………時間ですね」

 懐から取り出した懐中時計を開き、時間を確かめる。
 時刻は日付も変わった僅かな頃。そのアルビレオの言葉に、桜咲刹那も顔を挙げて立つ。
 そうして三人が見上げるのは、月。白い白い岩の塊。
 その白い月を凝視すれば誰であっても見えるだろう。地上から見るにはあまりに遠いため、その正確な形状までは捉えきれないが、ソレは、紛れもなく、立体菱形の物体であった。
 未来完了は空に居る。それは、数年前に発覚したことであり、それ以後、人間の多くは、月を見上げなくなった。
 漆黒の物体。未来完了。
 人を滅ぼしつくす要因である鋼性種の頂点に位置すると言う、機能得限止曰くの『第二世代』。ソレは、月に程近い場所に存在し続けていた。

 その月を見上げるたびに、タカミチと桜咲刹那。そして、アルビレオも己が無力さを痛感させられる。
 人間と言う生物の非力さ。この星の上で、既に人間が語れるような物語はなく、全ては、未来完了の赴くままに。それが、現状の世界の成り立ちでもあった。
 その月から、何かが降りてくる。トレードマークの様にもなった小さな眼鏡。真白のローブに身を包み、杖に跨って降りてくるその姿。
 それは、あの頃から差ほども変わっていない少年の。しかし、今では青年となった。
 ネギ・スプリングフィールド。その人であった。

「…………お久しぶりですね、ネギ君」

 アルビレオ。そして近づく桜咲刹那とタカミチの目の前に、ゆっくりと杖は降下して、その上から赤い髪の、まだやや幼さの残る顔立ちをした青年。いや、まだ少年と呼んでも過言ではない人物が降り立った。
 風が撒く。少年の属性であったその魔力は、以前桜咲刹那とアルビレオが感じた時以上のものである。
 以上であるというのに、不思議と二人は驚いてなど居ない。それ以上のものを、見すぎてしまっていたからだ。
 杖に詰まれていた幾つかの荷物。それを背中に背負いなおし、あの時から身長も伸びた。
 だが、ソレにも増して背の伸びた桜咲刹那よりもまだ小躯なその少年は、二人を見て一度だけ礼儀正しく頭を垂れた。

「アルビレオさん、刹那さん。タカミチ……本当に……お久し、ぶりです……」

 そう告げて、少年は頭を垂れたままとなって俯いてしまった。
 その理由。少年は、正直三人にさえも顔を会わせ辛かった。
 散々父の事だけで精一杯だった自分。果てには、親しかった幼馴染の言葉によって漸く自分が生涯に目指すべき道が何処へ続いているのかを知った時には、既に時はなく、少年は、全てを置いてウェールズへと舞い戻った。
 そうして始めたマギステルとしての活動も、徐々に無意味と化していく。
 鋼性種の自然浄化作用は、最早魔法使いの何たるかを完全に無意味化するには充分すぎる事だったからだ。
 少年は父を捜すことも、マギステルとして精力的に活動できることも、そして、元の様に先生として活動することも出来なくなって、今日と言う日を迎えた。

「……さぁ、ネギ君。立ち話もなんだ。何処か、休める場所ででも話そうか?」

 そのタカミチを提案をネギは首を横に振って跳ね除ける。そうして上げられた顔立ち。
 青年としての勇壮さよりも、少年としての悲壮さの方が目立つ顔立ちを向け、己が意思を訴える。
 その余裕は無いと。自分は、唯一つをなしに来たのだと言う意思を、その悲壮混じりの眼差しで。
 アルビレオはその顔を見つめ、桜咲刹那へと目配りを行う。
 それを受け、桜咲刹那が取り出すもの。それを受け取り、アルビレオはその場でそれを開始した。

「……ではネギ君。現状からお話しましょう。それで良いですね?」

 頷く少年。アルビレオは一息おいてから、それを話し出した。

「……鋼化した明日菜さんの気配は未だに学園内に留まり続けています。
 本来、鋼化した生命体は一箇所に留まるような真似はせず、直にでも別の天地を目指して出立するのですが、今回だけは何故か出立はしていません。
 ……残念ながら明日菜さんのマジックキャンセルの能力は健在。それどころか、鋼性種としての特性まで備えた特殊な生命体と化しています。
 恐らく、私がパクティオーカードの力を用いたとしても、止めることは出来ないでしょう。
 ……明日菜さんを魔法の力で元に戻せるかどうかの可能性は限りなく低いと思われます。
 ですが、今まで何度か方法は挙げられておきながらもソレを実行に移さず、明日菜さんをあそこまで重度の鋼化現象まで追い込んでしまったのもまた事実。
 成功率は五分以下。それでも承知で、やりますか?」

 紙に書かれた幾つかの項目。
 鋼化した神楽坂明日菜の持つ剣の特徴から、鋼化現象による鋼化前の能力保持機能。
 ソレに始まる魔法の影響などが全て記された紙を刺しつつ、アルビレオは詳細を語る。
 状況は、やはり良いものなどではない。
 良い状況など、鋼化した生命体、あるいは、鋼性種そのものには期待など出来ない。
 そんな事は、ネギも、桜咲刹那も、アルビレオでさえも自覚していた。
 下手な小細工など、アレを前には意味を成さない。鋼性種に鋼化生命体とは、つまりはそう言うものであった。

 だが今回以外に他に選べる時は無かったのもまた事実。
 なぜかは解らないが、五年越しに鋼化した神楽坂明日菜は帰還し、恐らくは限死も居る。
 人類初の鋼化生命体である二種は、既に裏の世界では常識的な重度危険生命体に登録されている二体であり、既に幾度もの攻撃、排除勧告を退けてきた二体でもあったのだ。

 時間はなく、猶予も無い。ここで元に戻す事が出来なければ、遅かれ早かれ神楽坂明日菜と限死は無差別な攻撃を繰り返し続けるだろう。
 それが魔法界の出した結論であり、各国共通で行われる事となった鋼化生命体二種への対応でもあった。
 此処で行うしかないことなど、皆知っている。
 既に世界の各地で捕縛活動の失敗、排除勧告の不成功などが何度も報告されているのだ。
 鋼化した神楽坂明日菜と言う少女を元に戻す手段は、最早今回まで。
 今回を逃せば、二度と見つけ出す事は叶わず、鋼化した明日菜はまた無差別な攻撃を仕掛ける事は否めない。今の状況は、そう言うものであった。

 少年は一息つかずに頷く。決意の秘められた眼差しに宿るのは、五年前の炎と同じ光だ。
 だが、今回は相手が違う。相手は、人間程度でどうにかできるレベルの問題の相手ではない。
 それを、少年は知らないわけではない。知っていて頷いたのだ。
 相手が如何なるもので、如何様な存在であるのかを熟知していながら、少年は頷いたのだ。
 鋼化生命体。魔法使いですら、手を出す事はご法度。
 今の今まで、滅びて朽ちたと言う話は、一度として聞かされていない、究極の完全生命体。それの次世代に、彼らは挑む。

 アルビレオは溜息もつかずにソレを受け入れた。少年ならば、頷くであろうと踏んでいたからだ。
 少年は諦めない。五年前同様、諦めずに真っ直ぐに前を見据えて行くだろう。
 それが、アルビレオと桜咲刹那の知るネギ・スプリングフィールドなる少年であり、今も代わらぬ少年の姿なのだ。

「……承知しました。では実行に変更はなしで参りましょう。今日はもう遅いですから、明日の夜に行うのが良いでしょうね。
 それでは、タカミチ。君は私に付き合ってください。明日の準備を行いますので」

 アルビレオは相変わらずのマイペースさで事を進めていく。
 尤も、今現在のネギ・スプリングフィールドも長旅の疲れも残っており、いきなり実行など不可能。
 それを理解しながらも、アルビレオは少年の逸る気持ちを押さえ込んだ。
 そうして去り際。アルビレオは、思い立ったかのように立ち止まり。

「ああ、ネギ君。暫く桜咲さんと夜の散歩などに廻るのも悪くないでしょう。何しろ五年越しですからね。積もる話も、あるでしょう」

 振り返りつつも、それだけ告げて、二人は夜の闇に消えた。

 残されたのは二人だけ。ネギ・スプリングフィールドと桜咲刹那の二人だけ。
 お互い肩を並ばせて立ち尽くし。一度だけ、相手の顔を確認した。
 少年から見て、目の前の女性は大きく変わっているようで、しかし、よく察してみれば変わっているところなど外見ぐらいなものだと認知した。
 美しい黒髪も、やや大きくなった身長も、全てはあの時から大きく変わっていながらも、その内から放たれる気配。
 それは、初めて桜咲刹那と声を交えた時の、あの鋭利さ。あの鋭いまでの気配と同じであり、だが、それは、何処か折れた様でも在った。

「……少し、歩きましょうか」
「……はい」

 肩を並べて歩き出す。
 二人の身長はほぼ同じ程度であり、少年から見て女性は女性としては平均的であり、だが、その線の細さが、普通の身長の人間よりよっぽど華奢に見せる。
 一方、それは少年も同じだろう。少年の身長は、あの時から比べれば大きく伸びているとは言えど、今の桜咲刹那と同程度である。だからこそ、お互いに肩を並べて歩けるのだが。
 麻帆良を、二人並んで歩いている。これが恋人同士であり、恋に恋する年頃であればお互いに顔を赤らめるような事もあるだろう。
 だが、今の彼女ら、彼らにはそんな余裕など無い。明日死ぬか、明後日には滅びされるかの境界線に立っている。それが、彼女達の状況なのだから。

 だから二人とも表情が暗いというわけではない。
 二人の表情を暗くしているのは、別の要因だ。
 桜咲刹那の方は、最早承知の事実であろう近衛木乃香との関係。では、少年、ネギ・スプリングフィールドと言う人物の表情を曇らせている要因とは何なのか。
 それは、宮崎のどかの事であり、神楽坂明日菜との事であり、そして、何より、すごすごと此処へ帰ってきてしまった、自分自身への嫌悪でもあった。
 静寂が支配する中で、二人の口火を切るような話題が無かった事に二人は妙な緊張感を抱いてしまった。
 そこに、桜咲刹那は気付く。あの、この様な場面ならば黙っていない筈の存在の気配を。

「あの……カモさんは?」
「あ……えっと……その、日本に着くや否や、何処かへ駆け出していっちゃって……」

 なるほどと桜咲刹那は妙な納得を以って静寂に再び見える。話題は途切れる。
 二人の間には、また暫く微妙な空気が流れた。その結果に出た言葉など、月並みの言葉だ。

「……お久しぶりですね。ええ、本当に」

 桜咲刹那にすれば本当に久しぶりだった。最後に会ったのが何時であったかなど思い出せないほどに過去。
 二人が最後に顔をあわせたのは、そんな時であり、そうして、二人とも既にソレは覚えていなかった。
 少年もソレは同じ。本当に久しぶりに会った剣士の女性は、自分が想像していた以上に美しくなっており、
 けれど、それに胸動かされる事も無く、自分も、彼女同様に逃げ出した人間だと言う事を自覚させられた。

「はい……本当にそうですね」

 苦笑とでも言うのか。少年は星を困った顔立ちで見上げ、直に俯いた。
 顔を挙げている事が億劫と言うよりは、顔を挙げては歩けないほどに情けない。それが、二人の心を占めている全てであった。
 深い深い呪縛。それが二人の胸を縛っていた。此処から離れておきながら、二人の心は此処につながれていた。

 まるで、此処に縛られ続けているエヴァンジェリンとは真逆のように。此処に待ち続けた近衛木乃香とは真逆のように。二人は、離れながら此処に縛られていた。
 皮肉な事であろう。離れた二人が縛られ。離れなかった二人が思う未来を選んだのだ。
 自由になった筈の二人こそが多くの未来を選べた筈なのに、唯一つ野道しか選べず。
 自由ではない筈の二人こそが数少ない未来しか選べなかったにも関わらず、思う未来を選んだと言うのだ。その事実。それを知らずとも、少年の剣士の女性は、自覚していた。

「あの…………木乃香さんとは?」

 幼さも残る青年の顔立ちで、少年は問うた。
 あの、剣士の女性が一際に仲を良くしていた和風の女性との関係。それがどうなのかを、雰囲気で接していながらも聞いてしまった。
 だから、占めたのは後悔だけ。何故こんな事をと言う後悔だけが、少年の心を締め付けるほか無かった。
 黒髪の剣士の女性は、腰に治めた刀をゆっくりと引き抜くと、かの白く輝く、ただ浮いただけの白い巨岩の下に晒す。
 誰も守れなかった刀。今度こそ守ろうと新たに承った刀。
 しかし、今度は必要なしと突っぱねられた刃。そこにあったのは、そう言うものだった。

「……知っては、いたのです」

 白い月の下。白い羽の剣士は静かに語る。

「そう、知ってはいたのです。お嬢……いいえ、木乃香様が、このちゃんが、既には昔の彼女ではないのだと言うことは、知っていたのです。
 数年越しにお言葉を交えたあの頃。私は遠くからこのちゃんを守っているだけだった、あの頃。
 修学旅行を境に、私とこのちゃんは元のような関係に戻れました。そう、明日菜さんに、ネギ先生。そして、多くの方のお力添えがあってからこそ。
 ですが、知ってはいたのです。修学旅行で、いいえ、それは、ひょっしたら、初めてこのちゃんと出会った時から。
 あるいは、川に溺れたこのちゃんが、何も出来なかった私を赦してくれた時から。私は、知っていたのかもしれません。
 お嬢様は。このちゃんは、弱い人間ではないのだと。
 このちゃんは、優しくも強く、多くの人々を笑顔に出来るお力を持った人だと。
 そして、それは。決して、誰かに守られているだけでは解放することの叶わない力なのだと。
 それを認めたがらず、私はこのちゃんを守り続けました。
 そうです、私は、卑怯で、卑屈で、矮小で、結局は自分の存在を証明したいが為だけの、下らない、折れた剣の担い手だったのです……っ!!」

 刀が強く握り締められる。その白刃は、無言に月光を弾き。
 数滴落ちた涙の後など一筋すら残さず、地面へと、落とした。

「だから、鋼化した茶々丸さんに敗北し、このちゃんが重傷となった時。私の折れた剣は完全に砕かれました。
 一緒に居るだけで満足していた私。このちゃん……近衛木乃香と言う人の強さを認めたがらず、彼女に寄り添い、彼女の剣などと自ら自身に訴え続け、そうして、もう一度彼女の剣に成れる様にと……
 ですが、得られたものなど所詮は大層なものではありませんでした。
 相変わらず鋼化した明日菜さんには勝てず。このちゃん自身からさえも拒否の意思を突きつけられ、折れたままを以って、また戻ってきてしまったのです」

 それが桜咲刹那の真実。彼女が、誰一人にも何も告げずに此処を出て行ったワケであった。
 彼女は、自身を認めて欲しかったのだろう。
 翼のある異形の存在であり、しかも、その翼ある一族の中でも更に奇異な存在であった桜咲刹那。
 数え切れないほどの虐待と、数え切れないほどの自己の否定の繰り返し。
 それが繰り返される中で、彼女は、自身を自身として確立させたかったのかもしれない。
 桜咲刹那と言う名の一人。
 それを認識して欲しいが為に、彼女は縋ったのかもしれない。
 近衛木乃香と言う少女に、縋りついたのかもしれない。
 自分を確立させる為に。自分自身は此処に在ると言うことを、しかと認識する為に。

 だが、それは崩れた。その事実は、崩れてしまった。
 近衛木乃香は強くなり、最早桜咲刹那の剣は必要ないと言う。
 縋りついた松明は、担い手を拒否し、自ら燃え始めたに等しい。
 折れた剣。彼女は、自身をそう比喩する。
 夕凪は健在であり、新たに担ったもう一本の刀も未だに健在。
 この五年間、京都を襲撃した狗族、烏族、鬼の類を悉く退け、神鳴流でも一流の剣士となった彼女。
 しかし、その真実は、酷く人間的であり。何も残せなかった自身を、疎む様でもあった。
 静かなまでに。しかし、吼えるように嘆く桜咲刹那の本心。
 それを知ったネギ・スプリングフィールドは、終始黙っていた。黙って、そして、空を見上げる。
 満天の星空。その中でたった一つ、巨大な白い岩塊。そこを一閃、紅い彗星が通り過ぎていった。
 それを見送り、少年も、また。

「僕だって……同じです。いえ、刹那さんほどじゃ全然無いです。僕は、もっともっと無頓着で、バカだったんです。
 父さんばっかりを追っていて……一番近くで見てくれている人たちのこと、何時だって蔑ろにしてしまっていました。
 それを、アーニャは真っ直ぐ正面から教えてくれたんです。
 選べるのは一つだけだって。それを選べるのはアンタだけだけど、選んだ道が本当に正しいとは限らないって。そう、言っている様に思えたんです。
 そうやって考えてみたら、どれを選んでいいのかが解んなくなっちゃったんです。
 どうしてマギステルマギを目指していたのか。
 それは、父さんを追いかけていたからで、マギステル・マギ本来の役割である、“多くを救う”と言う規定から外れているんじゃないのかって。
 僕は、父さんを追い続けていたばかりに、父さんと同じになりたかっただけなんじゃないのかって、気付いちゃったんです。
 そしたら、すごい、恥ずかしくなって……情けなくなって……僕は、何を考えていたんだろうって。
 マギステルに、そんな卑しい理由でなろうとしいたのかって、申し訳なく、なって…………っ」

 嗚咽が空へ響く。傍らの剣士は黙ったままに空を見上げ、再び通る、赤い彗星を臨んだ。

「……そうやって考えて考えて……でも、結局答えなんかでなくて……一年が過ぎちゃったんです。皆さんとお別れする、あの時が……
 知っていたはずだったのに。一年経ったら、僕は行かなくちゃいけない。
 そんな事、知っていたのに。僕は、皆さんを散々に巻き込んじゃっていたんですよね……
 アーニャがあれほどいったのに。魔法使いになるんだから、孤独でも大丈夫な様にしなさい。
 魔法使いは、普通の人に観止められずも世の中を良くしていくお仕事なのよって。
 そんな事も忘れて、僕は沢山の人を魔法使いや、沢山の事件に巻き込んでしまっていた。
 赦されない、幾つもの事を皆さんにしてしまっていたんです……
 アーニャが言ってしまう間際、僕にくれたマギステルの認定書。それに、僕の失態は全然書かれていませんでした……
 知られれば、確実にオコジョにされる筈の事が、何一つ書いてなかったんです。
 アーニャがそうやって残してくれたのに、僕は何も解ってなかった。マギステルを目指す事の意味。
 此処で先生と言う役割を担っていた意味。そして、父さんを追いかけているだけだった、その意味を。僕は、何一つ、理解できてなかった……ですっ……」

 少年の目から落ちる幾つもの水滴。レンガ製の地面を打ち、なおも落ちていく泪を、傍らの女性は押しとどめられなかった。
 泪を流す事が、弱さに繋がるとはもう思ってなどいない。
 涙と弱さは別の場所にある。流す泪は泪であり、決して弱さなどとは繋がらないのだ。
 女性はそれを知っており、そして、理解していた。

 二人が見上げる空。果無の空であり、五年前以上に星が輝くようになった空。
 二人は。何時もこの星を見上げ、思っていた事がある。
 桜咲刹那は、今も木乃香お嬢様もこの星空を見上げていらっしゃられるのだろうか、と。
 ネギ・スプリングフィールドは、今日もこの空の果てには神楽坂明日菜と機能得限止は何処かの夜を旅しているのだろうかと。
 二人の思ったことは互いに的確。近衛木乃香は夜毎に窓から星を見上げ、何時帰ってくるかも解らない者達を待ち続けた。
 神楽坂明日菜と機能得限止だったモノは、夜毎の星に照らされた道を歩み、五年間を旅し続けてきた。
 再び集った五年越しの再会。
 神楽坂明日菜にとっては理解できず、しかし、その『理解』と言う衝動が完全に消え去る間際に願った再会であり、他の者たちにとっては、願い願わずに関わらずして叶った、五年間でのたった一度きりの再会だった。

「……明日菜さんは、元に戻るでしょうか?」

 ぼそりと呟いた桜咲刹那に、少年は即座には反応できなかった。その可能性は限りなく低い。それを、かつての父の仲間であった人物から教えられていたからである。
 少年もまた、生半可でアレが元に戻る事など、考えていなかった。
 少年は、五年前程楽観的な考えは持っていない。
 それが如何に危険であり、また、叶わなかった時に如何に深い傷口になるかを、五年間で学んだ結果だった。

 だから、必ず治るとは思ってもいなかった。必ずなど、この世には無い事も知っていた。
 ましてや鋼性種の支配している現行地球。何が発生するのか知覚不可など、昔から全ての人間が知っていることである。
 それでも、少年は信じたかった。楽観的な考えは出来ず、元に戻せる可能性など皆無にも等しいと言うのに、諦めたくは、なかった。
 手が伸びる。はや届くことの叶わない空に向けて伸ばされる掌。全てを選ぼうとして、結果、一つも選べなかった、その腕。
 だから、今度だけはと。今度だけは、どうかこの手で。

「必ず、戻して見せます…………っ!」

 二度と取り逃がす事が無いようにと。赤い彗星の走る空に、決意の掌を翳した―――

第五十話 / 第五十二話


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