最初でなくて何が悪い （本文サンプル・書き下ろし分・文頭）※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。 ※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。 １ 男女のけたたましい笑い声。とんてんつんと三弦の音。遠くから、近くから、どこにいても、するりと耳に入り込んでくる。聞き慣れた夜の音だ。 闇に揺れる灯籠に照らされ、人影が、廊下に長く伸びた。大きな一つの影にも見えるが、それは二人分の影が一つに重なってできたものだ。 廊下には、二人の男がいた。一人は着流しを着た男で、羽振りは良さそうだが、お世辞にも容貌が良いとは言えない。 もう一人は、白い開襟シャツと、黒いズボンの男だ。皆からはシツと呼ばれている。愛想のない顔だが、美人ではある。 廊下の暗がりで、シツは男の足元に跪き、奉仕していた。鬱陶しげな前髪に隠れた先には、伏し目がちな瞳があり、薄く涙で濡れている。 「……ンんっ、ぅぁ」 喉の奥を突かれて、息苦しい。唇から、ぐちゅ、じゅぷ、と後ろを犯されているような音が立つ。 「男のくせに、随分とまぁ旨そうに咥えやがって」 「んっ、ぐ……」 後ろ頭を掴んで、強引に前後される。自分の呼吸とは異なる速度に呻いても、男は手をゆるめない。 「しゃっきとしろ」 「……っ！」 意識が遠のくと、ばちんと頬を張られる。頬よりも、鼻っ柱を殴られたようなもので、鼻骨が酷く痛んだ。 「……ぇ、っあぅ」 ぐらりと視界がぶれた。涎や鼻水とは違う水分が、鼻腔から滑り落ちる。男の性器にもそれが伝い、口中を出入りするのに合わせて、シツの中に入ってきた。鉄錆臭くて、不味い。 あぁ、これは鼻血だ。 「飲め」 男のものは今にも吐精しそうで、びくびくと震える。 「……っ」 男が言うや否や、苦いものが舌の上に広がった。 嫌な顔一つせずそれを嚥下すると、男は満足そうに、深く息を吐く。射精が終わると、舌を絡めて、清めた。 男の呼吸が落ち着いた頃に、御馳走様でしたと頭を下げ、男の着物を綺麗に直す。 「よし、残りの金だ」 「どうも」 頭を下げて金を受け取ると、ズボンのポケットに突っ込んだ。 「分かっていると思うが……」 「誰にも言いません」 シツの答えに安堵して、男は、そそくさと自分のオンナがいる部屋へ戻った。 あの男は、この娼館で他の女郎を買っているくせに、どうにも不満足だったので、シツに相手をさせた。一つの娼館で二人のオンナを買うのはご法度だが、内緒で味見くらいなら、よくあることだ。 「……クソ不味い」 口端に残った精液を、手の甲で拭った。鼻血はすぐに止まったが、精液と混じって嫌な味がする。 「なんや、ここは廊下でも客とるんか？」 きし、と廊下が軋んだ。 「…………」 視線をそちらへ向けると、別の男が薄笑いを浮べて、シツを見ていた。今しがた、シツと客がしていたことを見ていたのだろう。そういう目で、シツを見ている。 男は、シツと同い年くらいの見た目をしていた。格好こそ、最近流行りの洋装だが、こんな悪所に出入りするにしては若過ぎる。笑がちな表情が、性格を悪そうにも、軽薄そうにも見せる。 「部屋が分からんのやったら、案内しますけど？」 男の視線を無視して、シツは従業員らしい態度をとった。 この娼館は広い。和洋折衷の内装に、同じような廊下と扉が続くから、間違う客も多かった。 「いいや、迷子とちゃう」 「そうですか、ほな失礼します」 「まぁ、待ちや」 「なんですか？」 男の脇を擦り抜けたところで、腕を掴まれた。 「誰とでも、あぁいうことするん？」 「さぁ……なんか、見間違えたんとちゃいますか？」 「そうか、見間違えか」 「そうです」 「ほなまぁ、これも……見間違えやな」 「……ふ、っが」 がぶりと鼻を噛まれた。 「変な声」 吃驚して固まるシツを、男は意地の悪い顔で笑う。 「はっ、ふ……ぁっ」 生乾きの鼻血を舌先でこそぎ落とされ、こびりついた血液を、唾液でやわらかくされる。ずず、と鼻腔の奥にたまった鼻血を吸われた。 鼻の通りは良くなったが、男の喉がこくんと上下して、戦慄した。この男、他人の鼻血なんかを飲んでいる。 「御馳走様でした」 男は、べぇ、と舌の上に広がった赤い血を見せつけ、嫌味たらしく頭を下げた。 その一連の動作は、シツが客に奉仕していた時の順番通りだった。あの場面を一部始終観賞して、それをそのままそっくりシツにしてきたのだ。 とてもじゃないが良い性格ではない。 「アンタ、何を……」 「アンタやのぉて、綺麗にしてもろてありがとうございます、やろ？」 「アンタも、さっきのお客と同じことして欲しいんですか？」 涎まみれの鼻を、手の甲で拭う。さっき拭った精液と一緒になって、変なにおいがした。 「よその男の精液臭い口でされたいと思うか？」 男の腕が、シツに伸びる。 「……っ」 殴られると思った次の瞬間、前髪の乱れを直された。 「綺麗な顔、二階の廊下で客とるには勿体無いなぁ」 男は言うだけ言って、来た道を戻って行った。 ※ 大坂新町は花街だ。 東の吉原、京の島原と並ぶ三大遊郭の一つで、遊女を置く置屋、遊女を呼んで遊ぶ揚屋などが立ち並ぶ。 その中に、置屋と揚屋を併設する醒睡楼(せいすいろう)という娼館があった。女郎以外にも男娼も売り物にしている、少し毛色の違う売春宿だ。 二階には、一般人でも手が出る程度の女郎と男娼を置き、三階には、金持ちしか手が出せないような高級娼妓を置く。そうして、醒睡楼は、手広い商売をしていた。 儲かればそれで良いという主義なので、それなりの決め事があるこの世界では格式がないと言われ、異端扱いされていた。 店の造りは、最近流行りの洋館で、地下一階のある四階建て。地階は食料品の備蓄庫や折檻部屋がある。 一階は、経営者の女将がいる帳場の他に、調理場、座敷、待合部屋、住み込みの雑魚寝部屋となっている。 店のど真ん中に大きな螺旋階段があって、二階へ上がると、緋毛氈を敷いた板張りの廊下が続く。そこには、襖で仕切られた小さな和室が幾つもあり、ここで、価格の安い端女郎や男娼が、代わる代わる客をとっていた。 螺旋階段を更にぐるりとめぐって三階へ至ると、部屋付きの高級娼妓が、客と一晩を過ごす場所となる。高級娼妓には男も女もいるが、総じて、容姿や芸事は当然のこと、話術や知恵にも優れていた。 高級娼妓にも身分があり、上から太夫、天神、鹿子囲(かこい)の三つの階級で、当然、位の順に良い部屋を独占していた。 醒睡楼には、太夫が一人、天神と鹿子囲が二人ずついた。その内、天神と鹿子囲の一人は男だ。 シツは、二年ほど前から、ここで働いていた。 階級も付いていない、場末の男娼だ。男を相手に股を開いて、金を稼ぐしか能がない。二階で客をとり、一晩に、二人も、三人も回す日もある。 仕事ぶりは真面目で、文句も言わず黙って働き、頭の回転も悪くないが、客におべっかを使わないし、甘えないし、媚びも売らない。可愛いげもないので、上客がつかずにいる。 その上、滅多に笑わない無愛想で、何を考えているかよく分からない。かと思えば、客に請われれば、どんなことでもさせるので、同僚からも少し変人のように扱われていた。 昨日の夜もそうだ。 客が廊下で口淫しろと言えば、平気で咥える。客は、暴力を振るったり、手っ取り早く欲求を処理したり、特殊な行為をしてみたい時に、シツを買う。 シツは、殴られても、文句を言わない。 つまり、そういうのが専門だった。 時には、酒に酔って手がつけられない客に、好きなようにシツを使わせる。 通常、娼館側も、店の商品が鼻血を出すまで殴るようなことは許さない。一つの店で、二人のオンナを買うのも違反だ。だが、黙認している。高級品を傷つけられるより、シツに処理させたほうが丸く収まるからだ。 シツも、それで文句はなかった。手酷い目に遭ったりもするが、その分、稼ぎも良くなる。 それに、機嫌の悪い高級娼妓に八つ当たりされても、シツは笑って許せる。裏で、自分の客が寝取られているとも知らず、偉そうにしている奴を見ていると、あぁ、こいつ馬鹿だなぁ、と少しだけ溜飲が下がるからだ。 「シツ、ちょっとこっち来てや」 「はい、御用ですか？」 女将に呼ばれて、シツは帳場に入った。 襟を抜いた着物姿の女将が、舶来物の椅子に腰かけ、一服つけている。 「アンタ、この間、呉服問屋のかつら屋さんが不渡り出して潰れるから、早い目にツケ回収しといたほうがえぇ、……そう言うてたやろ？」 「はい」 「ほんまに不渡り出しはったわ。アンタの言う通りして、ツケは回収しとったから、とりっぱぐれんで済んだけど……アンタ、どこからそのネタ仕入れたん？」 煙管を片手に、女将は不思議そうな顔だ。 「かつら屋さんは、一年前にもいっぺん不渡り出してます。最近、新町でも若旦那の顔をお見かけしませんでした。それと、大分前から、新聞で養蚕業があかんと書いてありましたし、絹の値段も上がってます。噂によると、同業者に商品を買い上げてもらってるようでしたし、あそこの若旦那は、愛人に店を持たせようとしてたみたいですから」 「新聞読んで、蚕の相場と世情を読んで、噂話を聞き逃しもせず……アンタは、ほんまに頭が回るなぁ」 「女将さんが、かつら屋さんの様子がおかしい言うてたんで、ちょっと考えただけです」 「ほんまに惜しいわ」 女将はそう言うと、溜息をついた。 「何がですか？」 「頭はえぇし、顔は美人やし、肌も白ぉて肌理細かい。髪かて伸ばして、綺麗に結うて、豪勢に着飾ったら、そら目ぇ瞠るで？ 愛想がないから太夫職は無理かもしれんけど、天神にはなれるし……せやのにアンタ、ずぅっと二階の住人で……」 「俺はこれで充分です」 女将は、シツをなんとかして三階の住人にしたいが、シツにはその気がない。その気のない人間を三階に上げて、店が押し出しても、本人にやる気がなければ、意味がない。 「アンタ、端金で、廊下の隅で男に股開いて、殴られて、それで一生終えるつもり？ ……階級付きで売ったら、借金も早う返せるで？」 「あぁいう客ばっかり相手してでも、そこそこ稼げますから」 「年季が開けるまでに、アンタが死んでしまうがな」 「そうならんようにします。……話が終わりでしたら、仕事に戻ります」 まだ何か言い足そうな女将に一礼して、帳場を出た。 「アニさん、アニさん。アネさまが呼んではるから、三階まで来て下さい」 帳場を出た先にある螺旋階段の上から、禿(かむろ)に声を掛けられた。 禿は、太夫や天神に付く、遊女見習いの幼女だ。この禿は、三階の住人、天神のカガミ姫に付いている。 カガミは今、部屋で客をとっているはずだが、身分が上の人間の呼び出しを無視することはできない。 シツは三階へ向かった。 「アニさんは、こっち」 「どこ行くんや？」 禿に手を引かれて、別室へ誘われた。そこは、カガミの支度部屋だ。鏡台や桐箪笥、洋箪笥もある。 部屋には、カガミの妹分である女郎と男娼の二人、ハイコとナガヤスが待ち構えていた。 「ここ、座って。カガミ姫のご命令だから」 「さっさと服脱いで、それ着ろや」 二人の言動で、これは、いつものカガミの嫌がらせだとシツは気付いた。 カガミは、外面は良いが、下の者にはよく意地悪をする。特にシツのことを嫌っていて、目の敵にしていた。シツが、カガミのことを相手にしないから、余計に鼻につくらしい。 何をさせられるかは、何となく想像がついた。 女物の着物を着せられ、白粉をはたかれ、紅を引かれ、猫毛には櫛が通される。シツは、加虐趣味か、特殊性癖の客しか相手をしないので、肌なんて手入れしていない。色が白い分だけ弱くて、がさがさだ。 背も大きく、骨っぽいので、女の格好なぞ似合わない。似合わないと分かっているのに、女の格好をさせて、座敷に引き摺り出される。カガミはそうして、シツを自分の引き立て役にするのだ。そんなことは幇間にでもさせれば良いのだが、カガミは、シツにやらせる。 客も、カガミの性格の悪さを知った上で贔屓にしている。そういうところが、客からすれば可愛いく見えるらしい。 カガミの部屋は、支度部屋こそ洋室だが、客を迎えるのは和室だ。座敷に緋毛氈を敷き、漆塗りの膳と、得意の三弦で客をもてなす。 「失礼します」 シツは正座をして、深く頭を下げた。 「あぁ、やっと来た。……竜(りゅう)護(ご)の旦那、これが今夜の余興です」 「カガミ、これは男やぞ」 「そうですけど、それが何か？」 カガミは、自分の旦那にふんとそっぽを向く。 カガミの今日のお相手は、弁護士の幸代(ゆきしろ)先生だ。我儘でツンとした性格のカガミを、殊の外お気に召していて、足繁く通っている。 「それも、シツやないか。……よぉ、シツ、元気か？」 「はい」 シツは頭を下げるようにして頷く。ちょっとした縁があって、シツは、竜護と何度か話をしたことがあった。 「竜護、シツやなくて僕のほうを見て」 カガミの声音に不機嫌さが増したのは、竜護とシツが会話をしたからだ。カガミは、シツと竜護が仲良くするのを嫌がる。 「ああ、分かった。すまんすまん。……なぁ、カガミ、今夜は俺やなくて、こいつを愉しませたってくれ」 「承知してます」 カガミが答えた。視線を流した先には、禿に酒を注いでもらう男がいる。 男は三つ揃えの背広姿だ。少し暑いのか、ネクタイをゆるめていて、喉仏が見え隠れする。まくった袖から見える腕は、筋肉質でしなやかだ。手首に嵌めた腕時計は、服装と同じく高そうで、懐も強そうに見えた。 「幸代さん、俺はこの余興、好きかもしれませんよ？」 男は幸代にそう言い、シツに目をくれた。男の鋭い視線と笑がちな口元が合間って、性格が悪そうにも見える。 「…………」 廊下で会ったあの男だと、シツはすぐに分かった。 だが、シツは無視を決め込んだ。余計な繋がりが分かれば、カガミや幸代への説明が面倒だ。 「初対面とちゃうのに、つれへん奴やなぁ」 男は、そんなシツの考えなど察してはくれない。 「呼戸様、お知り合いで？」 「知り合いも何も、こいつとは、ついこの間……」 「部屋を探しておられたんで、ご案内致しました」 男の言葉を遮って、シツが答えた。 「そうそう、迷子になったから案内してもろた。あの時は助かった。ありがとうな」 「いいえ」 男は、意味深な視線をシツに向けてくる。借りを一つ作った気分になって、シツはあまり嬉しくなかった。 「なんやお前は、愛想ないなぁ」 「申し訳ありません」 「折角の別嬪さんも、そんな調子やったら上客がつかへんで？」 「二階の住人ですから、そんなもんは不要です」 「二階て……お前、位は？」 「見たら分かるでしょう？ このナリで階級なんかありません。アンタの目は節穴ですか？」 客を相手に、失礼な態度をとる。 そんなシツに、カガミは怒り心頭だろうが、客の前でおくびも見せない。 ただ、いつもなら、唄や踊りを披露してみせろだとか、無理難題をシツに押し付け、シツは、それはできませんと謝り、カガミは、ならばわらわが披露しましょうと、得意の三弦を弾き奏でる。そういう流れなのに、この夜は、早々に下がって良いとお許しが出た。この男の視線が、完全に、カガミからシツへ向いてしまったことが許せなかったようだ。 「それでは、お目汚しを失礼致しました」 居住まいを正して、真っ直ぐの姿勢になり、畳に両拳をついて頭を下げた。 「お前はほんまに、その武士みたいなお辞儀をしよる。その癖、直らんなぁ」 「失礼致しました」 幸代の言葉に慌てて、指をついて、頭を下げ直した。 座敷の引き際にちらりと部屋を見やると、まだ、あの男がこちらを見ていた。 ・ ・ ・ ・ ・ 以下、同人誌のみの公開です。 2011/10/03 最初でなくて何が悪い （本文サンプル・書き下ろし分・文頭） 公開 |