最初でなくて何が悪い (本文サンプル・書き下ろし分・中盤)


※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。
※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。

 

 二人で、朝まで起きていた。
 睦言も交わさず、寝台にあがることもなく、絨毯の上に座り込み、額を突き合わせて、本の修復作業をした。
 会話も三弦の音もなく、まるで、学生さんが静かに試験勉強をしているような、そんな雰囲気。かといって、切羽詰まった悲壮感はなく、ゆるく穏やかな空気が漂っていた。
 たまに、ふと我に返って手元の本から顔を上げると、セカイと視線が絡む。どちらからともなく、額をこつんと合わせて、面映ゆい表情を浮かべる。
 あぁそうか、これが唇を重ねる雰囲気か……、とシツは漠然とそんなことを思って、気付いた時には、唇が触れ合っている。
 絨毯に置いていた手指が絡んで、きゅ、と繋ぐようになる。セカイの左手が、後ろ頭を撫でて、手前に引き寄せられる。もっと深く唇を寄せて、小さな息遣いだけが行き来する。
「……っ、ン」
 目を瞑って、セカイに委ねた。
 身も、心も、とても落ち着いている。悪いことだと分かっていても、商売抜きで、とても良い気持ちがした。
 恋人のようなふりをしても、本気になってはいけない。本気のような恋を演じて、自分に首ったけになるような駆け引きをする。お客様を満足させるのが商売女の仕事。お客様に満足させてもらってどうするのだと自嘲するけれど、やめられない。
 あぁ、これはあれだ、因果な商売だ。とてもじゃないが、これから先、まともなイロコイはできそうもない。
「シツ?」
「もういっかい……」
「えなげな奴やなぁ」
 優しく微笑んで、髪を梳いてくれる。
 名前を呼んで、愛してくれる。
 それと同じことを、本物の恋人にもしていますか? 優しくして、大事にして、名前を呼んで、抱き締めて、唇を重ねて、手を重ねて、額を突き合わせて、微笑み合って、肩が触れあうくらい傍近くに寄り添って、こんな風に穏やかな時間を過ごしますか?
 死ぬまでの一生を……。
 俺とは、別々の世界で。
「ほら、またそんな顔して……」
「幸せすぎて、困ってる」
 頬を撫でるセカイに、微笑みかける。
 この人と添い遂げる人は、きっと、幸せになるだろう。そして、この人が、その人と幸せであれば、それでいい。
 多分、そういうものだ。
 住む世界が違うのだから。
「お前の笑い顔は、どうにも、幸が薄そうで見てられんわ」
 笑ってばかりで何も言わないシツに、今度は、セカイが困り顔になっている。
「ほら、なんでもないから続きしよ?」
 明るい顔を作って、シツは、本に向き直った。
 そうやって、明け方まで二人で過ごした。
 この時間は、とても素晴らしい時間。
 それでも、所詮は終わる夢。
 セカイが、自分のことをどう思っているかは分からない。それを尋ねて、今のこの時間を壊すような愚かはしない。それくらいの分別はついた。
 分別のつく、自分が嫌になった。一度くらい何も考えずに、思ったままを口にできたなら、それはそれは小気味良いだろう。
 くだらない感傷で胸が締めつけられて、幸と不幸を一度に味わった気分だった。
 
 明け方、セカイが帰る時間になった。
 セカイは、その本を業者に頼んで修復してくれると言った。古書なんかを扱う専門のところへ頼めば、表紙の裂け目を修復して、当て布や皮の張替えを行い、ページをバラして、皺やよれをアイロンで伸ばし、乾かして、また綴じるということをやってくれるらしい。
「ほな、預かるな」
「お願いします」
 表口までセカイを見送って、シツは頭を下げた。
 セカイは、別れ際を誰かに邪魔されるのが嫌いなのか、女将や丁稚の見送りを遠慮している。だからいつも、シツだけがセカイを見送っていた。
 そうは言っても、表では、丁稚が水を撒き、帰りの客や、その迎えが出入りするので、落ち着いた雰囲気ではない。
「仕上がるまでにひと月くらいはかかるから、えぇ子で待ってろや」
「うん。何日かかっても良いし、お代も、なんぼかかっても構わせんので……」
「律儀な性格やな。たまには旦那に甘えろや」
 セカイは、シツの頬を指の背で撫ぜる。くすぐったい、ふわふわした気持ち。胸の内で、燻る。
「次は、いつ来る?」
「あぁ、それは初めて訊いてもらえたな」
 セカイはとても嬉しそうに破顔した。
「……や、その、今までも訊きたくなかったわけではないねんで……忙しいみたいやから急かしたら悪いな、って思って」
「早く俺に会いたいか?」
「会いたくないわけではない」
「素直やないやっちゃなぁ」
「悪かったな」
「ま、そこが可愛ぇと思えるくらいには、お前のこと可愛いから安心せぇ。……そうやな、次は頑張って……二週間後かな」
「二週間か……」
「長いなぁ……」
 シツが思っていたことを、セカイも思っていた。そして、セカイは、素直にそれを口にする。それが、シツには嬉しい。
「待ってるから」
「おおきにありがとう」
「気ぃ付けて帰って、今度来る時も、気ぃつけて来てや」
「お前はえぇ嫁さんになるわ」
 名残惜しげにシツと手を繋ぎ、頬に唇を寄せる。
「シツ」
「……はい?」
 セカイとは違う男の声で呼ばれて、笑った顔のまま返事をした。
 セカイの肩越しに、シーエの姿が見えた。
 シーエは、セカイとシツの、その仲睦まじい様子に何とも言えぬ表情を浮かべている。
 シツはと言えば、お付き合いしている人と自分が一緒にいるところを、予想外の場所で、自分の保護者に見られてしまった、という風に気まずかった。
「シツ、知り合いか?」
 セカイが尋ねる。
「うん。兄ちゃんの親友で、俺のこと心配して……たまに、様子見に来てくれてる人」
「そうか。……どうも、朝早くから……」
 セカイは、シツを背に隠して、シーエに目礼した。シツは少し顔を斜めにして、セカイの背中越しにシーエを窺う。
「あぁ、君は……?」
「これの旦那ですけど?」
 これみよがしに、シツと繋いだ左手を見せる。
「客の一人か……」
「十把一絡げにされるのは、不本意です」
 言動こそ変化はないが、セカイが、シーエの言葉に、少なからず苛立っているのは分かった。
「そうか、では認識を改めよう。……シツ、元気にしているか?」
 セカイに興味がないとでも言うように、シーエは、セカイの後ろに隠れているシツに微笑みかけた。
「はい、元気です。あの、でも今日は?」
「普通に訪ねても会えぬようなので、客として来た」
「客って……、あかん、そんなことしたらあきません!」
 セカイの背から一歩前に出て、シーエに駆け寄った。
 シーエが来ても、女将に断ってもらっていた。会いに来るなら、金を払えとも言った。でもそれは、本当にそうして欲しかったからではない。
 ここは、シーエが来る場所ではない。シーエは、自分の時間も、労力も、金銭も、シツの為に使うべきではない。恋人の弟というだけで、そんなことをしてはいけない。兄の大事な人を、これ以上、こんな悪所へと足を運ばせてはいけない。
「シツ、お前に会う為なら、俺は……」
「こんなことさせる為に、拒絶したんと違うんです」
「分かっている。だが、その上で俺は……」
「話途中で邪魔して悪いが……シツ、俺はそろそろ行くな」
 セカイが、シツから離れた。
「え、あ……セカイ……、セカイ!」
 呼び止める間もなく、セカイは、シツに背を向けた。
 あぁ、しまった、セカイに悪いことをした。シーエに気をとられて、セカイを蔑ろにしてしまった。
「シツ?」
「いえ、なんでもありません」
「そうか、では、部屋へ案内してくれ」
「あの……」
「あぁ、お前を買う」
「…………」
「そんな顔をするな。話をするだけだ。そういう目でお前を見ていない」
 シーエは物悲しそうな瞳をシツに向け、先に店の門を潜った。
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 以下、同人誌のみの公開です。



2011/10/03 最初でなくて何が悪い (本文サンプル・書き下ろし分・中盤) 公開