悪食 (本文サンプル・中盤)※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。 ※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。 シンドバッドは部屋を出て、厨房へ向かった。 厨房では、丁度、エウメラ鯛のバター焼きとパパゴラス鳥の丸焼きが仕上がっていた。少し前にジャーファルが注文していったらしい。シンドバッドは大皿に乗ったそれを受け取り、小脇に酒瓶を抱えて部屋への道を戻った。 ジャーファルと入れ違いになることはない。シンドバッドはジャーファルを探さずとも、それとなく居場所が分かっていた。 厨房から宿泊棟までの間に、大きな中庭がある。そこでは、木の実を啄む小鳥の姿こそ見かけるものの、散歩をする人の気配はない。その奥にある水時計の前に、ジャーファルがいた。石造りの噴水と水時計がある場所で、周辺に巡らされた水路へと、さらさらと流水が溢れている。水盆に溜まった水が、朝陽をキラキラと反射させていた。 「……っ、げぇえぇっ……」 その綺麗な風景の中で、ジャーファルが嘔吐していた。 酒臭い胃液と、つい先ほど食べたばかりの朝食を吐き戻している。指を喉の奥まで突っ込み、舌を出す。腹の底から空気と一緒に、潰れた蛙のような呻きを間断なく漏らしている。 「……ぅぐっ、ぅぉ、ぇぇえっっ」 ごぼ、と固形物を吐き出したと思ったら、それで胃の内容物は空っぽになってしまったのか、酸味の強い液体ばかりが口端から垂れた。細い顎先に唾液が滴り、薄く開いた唇を濡らす。 噴水のふちに凭れかかるように地面に座り込み、シンドバッドに背を向けて、いつまでも吐瀉し続ける。 「……相変わらずだなぁ」 シンドバッドは、そんなジャーファルの隣に腰を落ち着けた。 料理の乗った皿を地面に置き、酒瓶を抱いて、ぼんやり空を見上げる。 「……そこ、地面だ。汚れるから上に座れよ」 ちら、と横目でシンドバッドを見て、ジャーファルは口元を手の甲で拭う。吐き疲れてげっそりした表情で、それでもシンドバッドの服が汚れることを気遣う。 「そうだなー……」 「だから、……てぇか、アンタ、酒! 朝っぱらか……ぐっ、ぅ、ええげぇえ」 小言を言おうと開いた口を手で押さえたかと思うと、また吐瀉物の山に、更に小さな山を作る。ほとんど何も出ずに、だらりと粘性の高いものだけを垂らす。 「お前、ほんとに俺が食ったもんしか食えないもんなぁ」 吐き続けるジャーファルを尻目に、シンドバッドはパパゴラス鳥の丸焼きに齧りついた。もっちゃもっちゃと肉を噛み切り、酒をあおって、流し込む。エウメラ鯛の尻尾を掴み、頭からバリッとかぶりつく。そしてまた、酒で喉を潤す。 「……くせぇよ」 「美味いぞ?」 「知るか」 できたての温かい料理の香しい匂いも、嘔吐するジャーファルにとっては悪臭でしかない。 悪臭でしかないが、嫌いではない。 元々、ジャーファルはなんでも食べられる。今でこそ人間様が口にするものを同じように食べているが、その昔は、他人の残飯の更に残飯や、鼠や虫を食べて生きてきた。本当の意味で、この世にある大抵のものはなんでも食べられる。 悪食で雑食。 毒があろうが、耐性と免疫のついた体が分解する。飢餓には困らないが、何を食べても味がしないし、美味しいという感覚も分からない。こればかりはもうどうしようもない。精神的な問題ではなく、味覚がないのだ。幼い頃から大量に投与されてきた薬物の数々が味覚障害を起こし、内臓機能を偏執させ、消化器官は少量の食品でも生き残れるように燃焼比率と代謝を変えた。 「ほら、ジャーファル、食え」 シンドバッドは、吐いている人間に食事を勧めた。 食べかけの鶏の脚を、ジャーファルの眼前に差し出す。 「…………っ」 ジャーファルは、それをひったくり、かぶりついた。 吐瀉物に汚れた口元から犬歯を覗かせ、がぶっ、と肉を噛み切る。がつがつと貪る姿は、まるで飢えた子供だ。餓鬼のように必死の形相で、手づかみで肉を食らう。 「はっはっは、良い食べっぷりだ」 その姿にひるむこともなく、シンドバッドはこれもまた自分の食べかけの魚をジャーファルの前に皿ごと差し出した。 「……っぅ、ぁあっ」 シンドバッドの足元で、ジャーファルは皿の中に顔を突っ込む。シンドバッドが齧った部分から続けて、猫のように魚の身を毟る。右手には食べくさしの鶏の脚を握ったまま、バターと脂とソースで口元を汚して、がっつく。 「あぁ、……ぅっ、ぐ、ぁああぅ」 いつもは小さな口なのに、あー、と大口を開く。 頬袋をいっぱいにして、次から次へと食べ物を詰め込む。おあずけくらった犬が餌を貪るようだ。餌皿に鼻を突っ込み、ぐちゃぐちゃと犬食いをしている。 「喉に詰めるなよ、ジャーファル」 「ぁ、あぅ……あっ、ぐ、ぅえっっ、ぅ」 「ほら、ちょっと食べるのをやめろ」 「ぉ、えっ」 「鼻水、垂らすな」 勢い余って、気道に料理が詰まり、息苦しそうだ。鼻にまでソースが逆流して、涙目になっている。 「……ひ、っン……シン、もっ……ぉあ、あっ」 食べたい。食べたい。 ジャーファルは顔中を食べ物でぐちゃぐちゃにしている。皿の料理は鴉に食い散らかされた残飯のように、見るも無残だ。 「待て、先に口の中にあるものを飲み込んでからだ」 「……ん、っ、ぐぅ、んン、ぅ」 ごくん、ごくん……と大きく喉を上下させる。それでもまだ細い喉にはつかえるのか、気持ちが悪そうにしている。 「ジャーファル、おいで」 「ぁ、ぅ」 地面に手をつき、犬のように四つん這いでシンドバッドの膝まで移動する。 酒を含んだシンドバッドの唇が、ジャーファルと重なった。ジャーファルは、油と吐瀉物で汚れた手でシンドバッドの頬を包み込み、流し込まれる酒を嚥下する。濃い紫の髪に指を絡め、べとついた手で何度も撫でる。 シンドバッドはそれをいやがりもせず、ジャーファルの気が済むまで大人しくなされるがままだ。むしろ、満足そうで、食べかすだらけの口元を舐めてきれいにしてやる。 「……っ、は、ふ……ぁ、ぅ」 ジャーファルはシンドバッドから与えられるものを一滴たりとも零さぬようにと、必死になって唇を重ねてくる。それこそ、発情した犬のように荒い息で、白皙を真っ赤にしていた。 「ほら、ジャーファル、食え。食事が終わっていない」 「も、いぃ……早く続き」 「勝手に盛るな、食うものを食ってからしか与えない」 「…………シン」 「甘えた声を出しても無駄だ。食ってからだ」 「……はい」 「よし、食え」 シンドバッドの許可を得てから、ジャーファルは四つん這いでまた食事を再開する。 ここが屋外で、運が悪ければ誰かに見られるかもしれないというのに、まるでそんなことは些末な事だとでもいうように、ただひたすら忠実にシンドバッドの命令に従う。 食事を摂る。 「よしよし、ゆっくり食えよ」 人間サイズのペットを可愛がるように、ジャーファルの頭を撫でる。後頭部を押さえつけて、食べきるまでそこから顔を上げないように強いる。 それさえ嬉しいのか、ジャーファルは一所懸命、舌を使って野菜を手前に引き寄せ、細切れになった肉や魚の皮に至るまで舐め上げる。 悪食で雑食のジャーファル。 小さな頃から、すさんだ生活を繰り返してきた。 食事マナーが身についておらず、行儀が悪い。人前でも問題がないように躾直しもしたが、根本的な部分は治らない。 そのせいか、長じた今となっても人前での食事は避け、空腹でも我慢している。無理に、食事マナーを強要すれば、ただでさえ味も感じないジャーファルには食事は苦痛でしかない。 それならばいっそのこと、こうして人目に隠れて好きなように食わせてやるほうがまだ栄養が摂れる。 第一、ジャーファルは、シンドバッドが与えた料理しか食べられない。 他の料理は信用できない。だから、朝食の席でもほんの数口で食事をやめてしまうし、食べた物は全て吐く。そういう癖になっている。シンドバッドから与えられたもの以外は口にしない。例え、それで死ぬことになっても、構わない。 逆も同じだ。シンドバッドは、ジャーファルが食べた物しか口にしない。ジャーファルは毒見役だ。だから、例え臣下の残り物を食らう王だと言われようとも、それを食う。ジャーファルが食ったものが、信用のおける食べ物だ。 「……は、ふ」 けぷ、と腹を抱えて、ジャーファルはシンドバッドの足元でころんと地面に寝転んだ。 昨日の夜から今朝まで徹夜をしていた割に、酒しか飲んでいなかった。空きっ腹に詰め込んだ食事は、あっという間にジャーファルの腹を満たす。 それでもまだシンドバッドは食事をやめてよいと許可していない。ジャーファルが、シンドバッドのことをシンドバッドより分かっているのと同じように、ジャーファルよりもシンドバッドのほうがジャーファルのことをよく分かっている。ジャーファルの腹がきっちりと満腹になるまでには、後もう少し食べる必要がある。 ジャーファルは寝転んだまま、まるで飽食を謳歌する貴族のように、その姿勢で食事を再開した。 「……ん、ぁぷ」 ちゅ、ちゅ、と鳥の骨をしゃぶり、指の間に滴る脂も啜る。 「ジャーファル、食べながら勃起するのはやめなさい」 「では、少々ご迷惑をおかけ致しますが、あなた様に踏んで頂けましたら勝手に射精致しますので、ほんの少しばかり、王のおみ足をばお借りしても宜しいでしょうか?」 慇懃無礼な口調でジャーファルはお願いする。 誘うように舌を出して、三十センチほど上から口中へ向けて、肉を落とした。 「行儀が悪い」 苦笑しながら、シンドバッドはジャーファルの脚の間を踏みつけた。 朝から堕落の限りだが、これが二人の日常だ。 以下、同人誌のみの公開です。 2012/12/12 悪食 (本文サンプル・中盤) 公開 |