前へ進め01 上 (本文サンプル・書き下ろし分・えろ)


※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。
※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。

 
 
 今夜、ヒンメルライヒは総括部長室にいた。眉間に皺を寄せることもなく、相も変わらずの無表情で机に向かっている。
 サキスイは、本日までの報告を終えたところだった。ツラヨリの試用期間が終了するまで、全員への監視は続くが、定期的な報告は怠らない。トレダムとの言い争いや、デリラとの密会を報告し、それらをハレに伝えるなと口止めもした。後はヒンメルライヒの裁量次第だ。
 ヒンメルライヒは、自分の部下が不利になることはしない男だが、サキスイ自身はヒンメルライヒを信用していない。もし、ヒンメルライヒがハレに報告することがあったとしても、その時に困るのはツラヨリやインで、サキスイではない。
 次は、ハレに報告をしに行かなくてはならない。アイリッシュケーキの手前、何も言わないでおくが、報告という形だけはとる必要がある。にもかかわらず、サキスイはここから動けないでいた。ヒンメルライヒへの報告は終えているのに、退室許可が下りない。他に言いつける仕事があると言って、それまではソファに座って待機と命令された。
 サキスイにそんな余裕はない。ハレへの報告の次は、研究棟へ戻って検死結果を聞き、その足で旧市街へ赴き、イエローダイヤ捜索班と合流。翌朝、日の出まで捜索を行い、一時間程度の休息を置いて、ツラヨリとイン、トレダムとアジクートの状況を確認して、午前八時には進捗状況をハレへ報告、新たな命令を受け、その後、再びイエローダイヤ捜索に入る。考えつく未来の全てが仕事で埋まっている。
 元々、眠らないでも保つ体にしているが、さすがに、こうしてただソファで待機していろと言われると、眠りたくもないのに瞼が落ちる。

「……、っ……!」
 驚いた。驚いて、ひゅ、っ……と細く息を吸い込み、息を止めてしまう。一泊遅れて、心臓が跳ねた。無意識の内に、左の手でシャツ越しに胸元を掴む。
 ふと気が付くと、目の前にヒンメルライヒがいた。驚いて声を失うのは久しぶりで、咄嗟のことに固まってしまった。両腕を組み、足を組み、ソファに凭れかかった状態で両目を見開く。
 他人がいる場所で瞼が落ちたのも、他人が接近して気付かなかったのも何年かぶりだった。それだけヒンメルライヒが訓練されているということだが、よりにもよってこの男の前で寝落ちしてしまったことに気持ちが追いつかなかった。
「大丈夫か?」
 そう言ってヒンメルライヒは、自分の上着をサキスイにかける。
「…………」
「今のは寝落ちではなく、気を失っていた」
「……は?」
「声をかけても、揺り動かしても起きなかった」
「…………」
 つまりサキスイは気を失った状態で、ヒンメルライヒに接近を許し、あまつさえ皮膚接触を許したことになる。気持ち悪い。怖気が走って、吐きそうになる。
 サキスイは胸元を掴む手に力が篭もる。ヒンメルライヒの上着ごとシャツを手前に手繰り寄せ、心臓を握り潰すような動作をする。強く、強く、指先が真っ白になるまで力を込めた。
「具合が悪いなら今日はもう休め」
「……ひっ」
 ヒンメルライヒが、頭上から覆い被さってくる。逃げる腰にヒンメルライヒの腕が回る。するりと胴囲を一周するようにして片腕で抱かれる。もう片手を首元に添えて、ソファに横たえさせられる。お姫様を扱うような一連の動作に、サキスイは本気で恐怖して、逆らうことさえ思いつかなかった。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!! 
 触られた!!
 シャツの上から皮膚に爪を食い込ませ、指が足りないことを悔しく思う。指が全部あったなら、今すぐこの心臓を取り出して、潰して、床に投げつけるのに……。
「やめろ」
「触るな……!」
 ヒンメルライヒに握られた手を、大袈裟なまでに拒絶する。
「キワラ?」
「……あ、あっち行け、こっち来るな!」
 足で蹴ろうとして、その足を掴まれた。じたばたすると逆に動きを封じられて、ヒンメルライヒが体の上に圧し掛かってくる。
「暴れると、縛るぞ」
「…………」
「大人しく寝れば解放してやる、寝ろ」
 ソファの端に腰かけて、サキスイの首筋を撫でる。蟻の入れ墨を撫で、顎下の骨をなぞるように耳元を擽り、髪を梳くようにして頭を撫でる。
 サキスイは、できるだけヒンメルライヒに触れられないように、体を小さくした。本気でいやがっていて、脅えた表情がヒンメルライヒの加虐心をそそる。
「さ、わるな、……きもち、わ、るぃ……」
「そこまで毛嫌いされる理由がないはずだが」
 どれだけ気持ち悪いと言われようと、ヒンメルライヒには思い当たる節がない。ヒンメルライヒに存在する感情は、コレはアレと同じもの、という呵責の念だけだ。他の情念の一切が立ち入る余地はない。
「俺は、……好きで、ここにいるんじゃない……」
「そうだな」
「分かってるなら、必要以上に、近づくな……」
 サキスイは、無理矢理カンパニーに連れて来られて働かされている口だ。ほぼ強制で、自分ではどうにもできない。
 まるでヒンメルライヒの犬だ。ヒンメルライヒがいる限り、逆らうことも裏切ることもできない。できるとすれば、憎まれ口を叩いて、仕事に支障の出ない範囲で暴虐を繰り返す程度。惨めだ。だが、何よりも許せないのはヒンメルライヒの下で働くことだった。

「俺は、お前のこと……人間的に嫌い、な、んだよ……」
「それはよく知っている。何度も聞かされているからな。……だが、理由を訊いたことはなかったな」
「……お前、前の戦争で仲間を見殺しにしただろ?」
「どこで聞いた?」
「……っ」
 無表情から、より一層表情が消える。本能が、逆らうなと訴えかける。これは生理的に受けつけない。こわい。サキスイは目を逸らした。
「お前はどこまで知っている?」
「ゃ、め……」
 細い顎を掴まれ、ヒンメルライヒのほうを向かされる。
「答えろ」
「…………」
「キワラ」
「……お前が、元傭兵部隊所属で、……戦争で、大勢殺して、仲間を裏切って、一人だけ生き延びた。それだけしか知らない」
「隠すな」
「ほんと、に……それだけだからっ、だから、もう離せ……気持ち悪い」
 裏切る人間は嫌いではない。ただヒンメルライヒが嫌いなだけだ。存在自体が受けつけないのだから、触れられるだけで嘔吐をもよおすのも仕方がない。
 その想い相まって、「必要以上に傍に寄るな、触るな、俺に話しかけるな気持ち悪い」と罵詈雑言を浴びせかける。それだけ言ってもヒンメルライヒは眉一つ動かさないので、余計に気持ちが悪い。ヒンメルライヒはサキスイを見ているようで、その向こうに別の誰かを見ている。
「離せ……」
「離したくない」
 ソファの背に腕をつき、距離を詰める。サキスイの瞳は、人工照明の下では単なる灰色だが、陽光の下で見れば、少し色が変わって見えることをヒンメルライヒは知っている。
「こっち見んな、……もう、なんなんだよ、気持ち悪い……」
 大きな体の陰に隠れてしまうのは、一種の恐怖だ。詰め寄られてしまうと逃げ場がない。じっとヒンメルライヒを見上げて、今からされることをただ待つしかできない。
「明日以降の全日、二十二時から二十六時までここで待機していろ」
「……待、機?」
「こちらの仕事を手伝え。ここから一歩も出ることは許さない」
「無理、だろ……」
 そんな余裕はない。第一、ヒンメルライヒは殆どこの執務室にはいない。どこかしらへ出向いていて、席を温める余裕さえない。サキスイが手を貸すような仕事もないはずだ。ましてや四時間も同じ空間で過ごすなんてことは、拷問にも等しい。
「命令だ」
「……そんなの、誰も許さない」
「私の立場で、誰かの許可が必要だと思うか?」
「…………」
 髪に、指が絡む。触り心地を確かめるように、指の腹で抓む。手入れのされていない髪は根元の色素が薄く、毛先へ進むにつれて灰色が増す。何度も何度も髪を梳き、手の平で額のあたりから後ろへと、撫でつけられる。
 ただそれを無言で繰り返されることの恐怖と言ったら、尋常ではない。両腕で顔を庇うようにして、身を捩る。それでもヒンメルライヒは止めない。他人から向けられる謂われない情愛は、気が狂いそうになる。何が目的か、何が狙いか、何をさせたいのか、何の為か……。
「……ウルトレーヤ」
「……?」
「ウル……」
 ヒンメルライヒは、サキスイ以外の名前を呼ぶ。とてもとても愛しいものを愛でるように囁きかける。その名前を呼ぶ時だけ、表情の失せた顔に優しさが滲む。
 あぁ、そうだ、これがヒンメルライヒを真に嫌う理由だ。
 出会った当初から、そうだ。ヒンメルライヒは、サキスイを見ながら、サキスイの向こうにいる別の誰かを見ている。それに恋をして、想いを募らせて、思い詰めて、愛して、愛して、愛して、愛している。別の誰かのことをずっと考えて、その誰かにできないことを、今こうしてサキスイにしている。
 だから、サキスイは気持ちが悪い。精神的に追い詰められる。想いが重た過ぎて耐えられない。それを、今日初めてここまで露骨に押しつけられて、許容量を軽く超えた。
「……ぅ、っ、ぐ……っ」
 耐えられない。それを自覚した途端、胃の奥から胃液がせりあがってきた。両手で口元を覆う。隙間だらけの手指から胃液が溢れて、流れた。ソファに寝転んだ体勢で、上手く吐き出すこともできず、何度も噎せ込む。
「ぐっ、ぇ……ぅ、ぅうっ、げ」
「人が優しくしてやっているのに吐くとは、失礼極まりないな」
「……ひぐっ、ぃ……ぅ、ぅうぇ」
 口元を覆う指を一本一本、丁寧に剥ぎ取られる。途端に異臭が増す。固形物の少しだけ混じった吐瀉物で、口元が汚れている。粘性のあるそれが、喉から首筋へぬたりと伝った。なめくじが尾を引いたような痕が、昆虫の跡を辿る。







 以下、同人誌のみの公開です。



2011/12/28 前へ進め01 上 (本文サンプル・書き下ろし分・えろ) 公開