人間を愛した竜 (本文サンプル・序盤01)※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。 ※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。 「やぁ、いらっしゃい」 頭上から、絶世の至福を与える声が降ってきた。 「…………」 男は一歩前へ踏み出し、声の方向へ顔を持ち上げる。 男の被っていたフードが、後ろに落ちた。薄墨色の髪が揺れる。薄青のような、薄紫のような不思議な色合いの瞳が、直に差し込む光に眇められる。 男の眼前には、大きな門があった。白亜の門に、金色の縁取りと銀色の模様が施されている。不思議な風合いで、素材は分からない。中空に浮いていて、手を伸ばせば届く距離なのに、蜃気楼のように触れられなかった。大門の両端は、先の見えない山のように灰色の岩が積み重なっている。 「いらっしゃい」 その岩山の中腹に、声の主はいた。 突き出た岩に、浅く腰かけている。膝に肘をつき、細い顎を乗せている。無表情だ。 「いらっしゃい」 何も考えていないような顔とは裏腹に、声の主は、優しい声をしている。 「…………」 男は、黙って頷いた。 「いらっしゃい。金色は水先案内人」 水先案内人は、男を迎え入れるという意味で、四度目のいらっしゃいを与えた。 黄金色の髪と眼と、淡く琥珀に光る体をした水先案内人は、その体と同じ色で編まれた衣を身に着けていて、男の目を眩ます。長く裾を引きずる足元は、金魚の尾びれのように揺れている。装飾は少なく、簡素に見えるが、金色の金魚はその存在だけで十分に美しかった。 ただ、綺麗な顔立ちなのだろうが、妙に整い過ぎていて印象に残らない。ただ、綺麗だ、という概念だけが脳味噌に入ってくる。歳が幾つかも把握できない。子供にも見えるし、青年にも見えるし、女にも見える。 水先案内人は、金の衣をひらつかせ、岩山を飛び降りた。音もなくかろやかに石畳に着地すると、背の高い男を見上げる。 「さぁ、人間……どこへ行きたい? 金色は水先案内人。どこへなりとも連れて行こう」 水先案内人は薄く金に輝く手を、男に差し出した。 「…………」 男は、逡巡した。 「怖気づいたか人間、引き返すなら今の内だ」 淡々とした口調で、水先案内人は男を見据えた。 人間なぞには興味がない、帰るなら帰る、行くなら行くで早く決めろと言いたげだ。 「その先は上界か」 「下界の人間はそう呼ぶ。ここから先は死者をも拒む場所。この場所だけが死者の場所」 「…………」 ここから先は上界。一度でも足を踏み入れたなら、人間ごときちっぽけな存在は二度と戻って来られぬ場所だ。 「さぁ、言うがいい、人間。お前の願いを聞こう」 「連れて行け」 男は傷だらけの手を持ち上げ、その手に乗せた。 金色の手は思ったよりも大きく、しっかりしていたが、男の手に比べれば宝石と泥濘ほどの差があった。 「では連れて行こう」 水先案内人は優しく微笑むと、鷹揚にひとつ首を縦にした。 導くように、男の手を前へと誘う。 その先には、宙に浮かぶ大門があった。果ての見えない門が邪魔をして、その向こう側に何があるか分からない。 「後先考えぬ人間よ。お前の宿業を見極めるがいい」 水先案内人が、大門の前にもう片方の手を翳す。 次の瞬間、そこは光に包まれた。 * 「何をしに来たんじゃ、うっとぉしい。帰れ帰れ帰れ。帰れ!あー……鬱陶しい! 去(い)ね!! 人間臭ぉてかなわん! 早々に下界にとって返すが良い! あぁ、鬱陶しい!! 去ね!!」 しっしっと男を追い払う。追い払った手は銀色に輝き、はらはらと銀の鱗粉が零れ落ちる。まるで蝶だ。 白銀色の豪奢なドレスを身に纏ったその存在は、四阿にいた。周囲に様々な竜を侍らせ、大きな態度でふんぞり返っている。 自分より大きな竜の腹に凭れかかり、右隣の小さな竜を撫で、左脇でごろごろ腹を見せる竜の顎下を擽り、首に巻きつく水蛇に頬ずりを許し、肩に乗る翼竜の羽根を整え、足指で竜の赤ん坊に構ってやっている。 どの竜も、その銀色に懐いているようで、四阿周辺は、天も地も竜で溢れていた。どの竜も、行儀良く順番待ちをして、きゅぅきゅぅと嬉しそうに啼いている。 銀色の態度は、竜に対するそれと男に対するそれで大違いだ。 「人間はそんなに嫌いか?」 「……臭い!」 銀色の瞳を、ぎょろりと男へ向ける。爬虫類のように縦向きの瞳孔が、ぎゅっと窄まった。 「こわいな」 「食らうぞ!」 ガバリと顎まで口を裂き、銀色の牙を剥く。顔の下半分が竜に変わっても、上半分が驚くほど美形なので不思議と醜くない。 「綺麗なもんだな」 「このっ……!」 「怒るな、綺麗なものが幾ら怒っても綺麗なだけだ」 「気色の悪い!! 頭からバリバリと食らうぞ!」 「食あたりを起こすぞ」 男が笑うと、銀色は、金色へ向き直った。 「金の! これ捨てて来い!! 臭い!! 汚い!! 銀はこれが嫌いじゃ!」 「そう言わずに……」 水先案内人は、まぁまぁと銀色を宥めた。 「金の、貴様もわざわざそんなものをここに連れて来るでないわ! 見よ、薄汚れて血腥い生き物じゃ! ……あぁ、金も、必要以上にそれに近寄るな! 汚い!」 銀色は、その人間から離れろと水先案内人に指図する。 「銀の、気持ちは分かるけれども……」 「捨てて来い!」 「そうは言っても、来たからには願いを叶えてやるのが上界の決まりなのだから……」 「ならば、早う願いでも何でも叶えて下界へ返せ!」 「だから、金か銀で願いを……」 「銀はいやじゃ! お前がやれ! あれには報せるな! あれは下界の生き物が大嫌いだ!」 「分かっているよ。だから、金と銀でこの男を……」 金色と銀色は、人間の男を無視して会話を進める。 「…………」 男は、きぃきぃと啼くような金色と銀色の掛け合いに、耳を傾けていた。傾けてはいたものの、いつまで経っても話し合いの結論が出ないようだ。 男は暇を持て余し、四阿から出た。 金色は、「川の上流へは行ってはいけない」と男に申しつけたが、単独行動を咎めはしなかった。どうやら、不機嫌な銀を取り成すことのほうが大切なようだ。 四阿は湖で囲まれ、蓮の葉に似た植物が浮かんでいる。深い湖底がはっきりと見えるほど透き通り、そこに泳ぐ生き物は、人魚、原色の魚の群れ、男の何倍も大きい怪物と様々だ。周辺は水草が生い茂り、潅木があり、花が咲き乱れていた。 下界や、中界の各地を旅してきた男だったが、ひとつも見知った植物がない。その花の蜜に群がる、羽が何十枚も折り重なったような虫の名も、目が宝石の妖精の名も知らない。男の耳元で、きゃらきゃらと羽音の誘惑が、木霊する。 男は、構って欲しそうな妖精の頬を指の背で撫で、ざくざくと木々の生い茂るほうへ分け入った。 ぐにゃりと視界が歪み、平衡感覚が狂う。立ち止まり、数度瞬きをすると、風景が変わっていた。見たことのない樹木と共に、男が見知った樹木が増えていた。まるで男の心情を推し量ったように、「見たことのあるものを見せて安心させてやろう」という配慮に思えた。 ただ、少し大雑把と言うか、下界では南方にしかない樹の袂に、北方の春にしか咲かない小さな花があった。 古代紫の葉に腰掛けた猫の形をした妖精が、赤い宝石の目を光らせる。人の形をした幹に、羽毛のような枝と蝉の羽のような葉を繁らせ、繭玉のような花と骨のような実をつける。 「大盤振る舞いだな」 男は、小さく笑った。 森の奥から、ぱしゃん、と魚の跳ねる水音がした。耳を澄ますと、風と共に、さらさらと水の流れが鼓膜を撫ぜた。畦道を行くと、細く、長い、清流が、男の視界いっぱいに広がった。 ぱちゃり、海星の肌と砂色の鱗を持つ人面魚が飛び跳ねる。 男は、川面の左右へと顔を巡らせ、その流水の流れに逆らい、極彩色の森を遡った。 「…………」 ふと視界が暗くなったので上空を見上げると、鳥がいた。 真っ白な緞子のように重厚な羽毛と、溶けた飴のように透明な胴体を持つ鳥が、男の頭上を飛んでいた。 白い鳥は、死ぬまで聞いていたくなるような声で啼きながら、男の前を低空飛行する。人懐こいのか、男が近付いても怖がりもしない。つかず離れずの距離を保っている。 時々、男をからかうように、頭に乗ったり、肩に乗ったりしたかと思えば、坂道で男を励ますように、背中に頭を押しつけて押してくれた。 早く早くと急かすように、男を前進させる。 白い鳥は、この世界を、男に案内してくれるようだった。 進めども進めども、男以外に人はいない。 この上界において、人間の形をした生き物は、三匹の竜しかいなかった。 言葉を操り、智慧を有した上で存在できるのは竜だけと決まっている。竜以外は言葉を持たず、竜は全ての言葉を知るが故にどの言葉も必要なく、困りもしない。 竜は三界の全てを知っている。 この男が、竜以外で言葉を操る最初の訪問者だった。 少々の坂を登り、川の流れを尻目に、男は白い鳥を追う。 底が磨り減るほど履き潰した長靴が、限界を訴える。土と草の感触が、靴底から足の裏に伝わってくる。道端にごろごろと転がる正円の真珠や、手鞠刺繍の模様をした岩石、一筋縄ではいかない悪路が男の足を取った。 男が一歩進む度に、下界から持ってきた土埃と、こびりついた昔の血が、この世界を穢していく。 「……?」 振り返ると、虹色の毛皮を持つ獣が、男の外套の裾にまとわりついていた。着古した外套は綻びていて、上界にはない汚いものが珍しいらしい。 男は、ほつれて用をなさなくなった服の紐を一本抜き取った。それを、魚に蚯蚓をやるように獣の前でひょろひょろと動かすと、ぽい、と遠くへ放り投げる。虹色の獣の兄妹が燐分を撒き散らしてそれを追いかけていった。 男は、血と、垢と、埃と、穢れにまみれた襤褸の襟を形ばかり整えて、再び歩き出す。 男は、原色の世界で一人だけ、草臥れた色をしている。 初めて上界へ踏み込んだ人間の服装にしては、上出来だ。 男は、この綺麗な世界にやって来た初めての人間だ。 誰しもが憧れを抱いたものの、決して手に入らない世界だと、そこへ到達することを考えもしなかった。その場所に、男は、最初の人として足を踏み入れた。 男には、たいした目的がなかった。世界を手に入れるだとか、巨万の富を得たいだとか、誰かを救いたいだとか、そんな大きな野望は持ち合わせていなかった。 ただ、ここへ来てみたかっただけだ。 遥か大昔から、寝物語に聞かされてきた世界。 そこへ人間ごときが足を踏み入れれば、さぞかし竜も驚くかと思いきや、金色は、男を全く気にしていないし、銀色は全く眼中に入れていない。上の世界の存在にとって、人間の男がやって来たくらいでは動じないようだ。 「…………長い」 いつまで経てども終わりのない坂道だ。 この場所がどういった位置にあるのか皆目検討もつかない。 所在を確かめる為にも、ここより一層上の高台を目指し、そこから見下ろしたいのだが、ちっとも先が見えない。 「なぁお前、何か知っているか?」 男は立ち止まり、三歩先を飛ぶ白い鳥に声をかけた。 鳥もまたその場で羽ばたき、ふわふわと綿毛のように浮いている。男は、鳥のその向こう側に、白亜の城があることに気付いた。白い鳥と保護色になって、今まで気付かなかったらしい。 とりあえずの目標はそこだと、男は足に力を込め、今一歩、前へ進み出す。 鳥は嬉しそうにひと啼きすると、男の歩幅に合わせてふわんふわんと危なっかしい飛び方で前を行く。 「お前、そんな飛び方で大丈夫か?」 きゅぃ。 鳥は頷き、首を縦にする。 「言葉が分かるのか?」 きゅいきゅい。 「どこへ連れて行ってくれるんだ? 良い所か?」 きゅぅ。 「お前は可愛いな」 きゅぅう。鳥は男に擦り寄り、きゅんきゅん啼く。男の唇をやわらかく啄む。男は、お返しに、鳥の頭を撫でた。 「……っ!!」 突然、男の周囲一帯で、旋風が巻き上がった。 「人間、その竜を起こすな!」 「それに触れるな!」 男の頭上に、二匹の竜が現れた。 金色の竜と、銀色の竜。 男は空を見上げ、その空が白いと思うより先に、竜の世界で竜が飛んでいると、思わず笑った。 「すごいな、俺の世界にいるどの竜よりも大きい」 鳥に話しかけると、白い鳥は眠そうに、くわぁと欠伸をした。 * 男が瞬きする間に、景色が変わった。 金色の竜、銀色の竜、そして男は、強制的に場所を移動させられたのだ。 誰に? 何に? 「……竜に」 男は口端を吊り上げ、自分を取り巻く環境を確認した。 薄暗く、大きな宮殿だ。真っ白の石を積み上げて築かれている。恐らく、外から見ていたあの白い城だろうが、真っ白すぎて目が眩み、くすんで見えた。 足を一歩踏むだけで、カツンと澄んだ音が響き、ひと声発するだけで、うわんと空間全体に広がる。天井が高く、幅も奥行きも果てしない。ずっと先のほうは、どれだけ目を凝らしても、針のように尖って見えるだけだ。同じ景色が、ずっと永遠に続く。無装飾な空間は冷え冷えとして、あたたか味がない。 男の左右後方に、巨大な二匹の竜がいても尚、四方八方全て、果てが見えないのだから、余程、広大だ。 「二人とも、何してるの?」 金色とも銀色とも異なる声が響いた。 その声で、金色の竜が諦めたように、その口から金粉混じりの細い息を吐いた。六枚の蝙蝠翼を器用に畳み、その場に腰を落ち着ける。長い尻尾をぐるりと巻いて、寝そべった。 銀の竜は、不本意なのか、不機嫌なのか、それとも元からこうなのか、ぐるる……と恨みがましく唸り、男に牙を剥く。それでも、これ見よがしに、ばっさばさと骨のような羽を羽ばたかせたかと思うと、それに包まり、そっぽを向いてしまった。 「ねぇ、だから二人とも何を騒いでる?」 どこからともなく、声が響く。 「二人と言うでない。竜と呼ばんか」 ギシギシと歯を軋ませ、銀色が応えた。 「そんなことどうでもいいよ」 怠そうな声が返ってくる。 びたん。魚を地面に落としたような音が聞こえた。 「竜と人間を混同してはいけないよ」 金色が、声の主を窘める。 「うるさいなぁ、もう……細かいことなんてどうでもいいよ。大体、二竜ともどうしたの? なんて物凄く語呂が悪いし、傍から聞いていたら滑稽じゃないか……なぁ、人間?」 声の主は、男に話を振った。 「…………」 男には姿形が見えない。どこに向けて返事をすべきか迷う。 「あぁ、人間……こっちこっち。奥だ、奥」 たんたん。何かで床を叩く音が、反響する。 男は、言われた通り奥へ目を凝らすが、見えない。 「金銀、それをここまで連れてきて」 たんたん、と床を鳴らす。 とことん自分では動かないようだ。 「白、人間で遊んではならん!」 「そうだよ、白、決して人間と関わってはいけない!」 「あーもうシロシロうるさいなぁ。犬の名前じゃないんだから……連呼すんな!!」 バンッ! 今度は大きく叩きつけるような音がした。 びぃん、と鼓膜が張り詰める。 「おいで、人間」 とん、と軽く床を打ち鳴らす。 * 「さぁ呑め、人間。酒は好きか? これはどうだ? 肉魚はないが菓子ならあるぞ?」 豪華で、贅沢で、優美で、典雅で、華麗で、緻密で、豪奢で、絢爛で、上等で、最高の玉座……の、真下。 玉座でふんぞり返る人の形をした白い竜。 その足元に胡坐を掻き、酒を飲む人間の男。 「これだけ獣がいて、肉も魚も食わないのか?」 「人間は食うぞ」 男の問いに、白い竜は答えた。 「…………」 「特に、あの銀色は、よう食らっている。銀は、竜以外が嫌いだからな」 「…………」 「安心しろ、お前は食わない。……ささ、呑め、食え」 「あぁ」 男は、勧められるがまま食事に食らいつく。 酒と野菜ばかりだったが、空腹には代えられない。 「人間、お前、中々根性あるな。よし、こっちもお前にやる」 白い竜は、これっぽっちも料理に手をつけず、真っ白な足先で、男の前に皿を押しやった。 男の前に並べられた数限りない御馳走は、せっせかせっせか金色によって給仕されたものだ。 「金のー……、そっちの器が空っぽだ」 たんたん、と白い尻尾で床を叩く。 男を呼ぶようにずっと聞こえていた、あの床を打ち鳴らす音は、この尻尾で叩いた音だ。上機嫌の時も、不機嫌の時も、全て、この尻尾ひとつで分かる。 「金! 聞こえてるかー?」 「聞こえているよ……」 金色は、白の好きにさせているが、その表情は難色を示していた。好い加減のところで、気が済んだら人間に関わるのはやめろ、と態度で示している。 「人間、ここはどうだ? 気に入ったか?」 白が、男に尋ねる。 男を見る竜の眼はぎょろりとして白く、どこを見ているのか分からない。瞳孔も、虹彩も、睫毛も、全て白一色。着ている服も、髪も、爪も、指の先から足の先まで白い。 大門で陣取り、訪れる人間を篩いにかける竜の全てが金色であるように。庭園にいて、悪しき人間を食らう竜の全てが銀色であるように。白い城におわす竜は、全てが白い。 「白はここが好きなんだ。お前はどうだ? 好きか?」 「そこそこ」 「そうか、そこそこか!……なぁ、聞いたか、銀の? この男、そこそこと言ったよ?」 白は得意げに、銀色に報告する。 銀色は、玉座への階段の中途に腰掛けていた。今にも男を噛み殺しそうな顔で睨みつけている。白がいなければ、きっと今頃、人間の男は肉塊になっていただろう。 その証拠に、白の尻尾が男を守るように大きく取り巻いていた。この男は白の物だから、金も銀も手出し無用。どうやらそういうことらしい。 「人間、いつまでここにいる? 長い間いられるだろう?」 足先で、器用に空の器をへりへ押しやり、ほんの少し身を前へ傾ける。 「白! そこから動くな!」 銀が怒鳴る。 「いや」 銀色の言葉を拒み、白は玉座から身を乗り出した。 これが、初めて、白が玉座から体を動かした行為になる。 それまで、世界一、三界一、怠惰に振る舞っていた竜が、一人の男の為だけに、その身を動かした。 「白の問いに答えろ、いつまでここにいる?」 「いつまでいて欲しい?」 「…………困る。白には分からない」 きれいな顔をぷぅと膨らませて、たしたしと床を叩く。 「どうして分からない?」 「白はここにいるしかない」 「何故だ?」 「白は世界を支えているから」 「それは、金色も銀色も同じだろう?」 「白は、白は……自分から何かを……」 「白!」 「…………」 銀色の鋭い一声で、白はぐっと押し黙った。 「言えないことか?」 「言えないことだ」 男が引き下がると、白は少しホッとしたように苦笑した。 竜でも、苦笑いをするのだな……と男はそんなことを思った。 「俺は、お前が望むまでここにいようかな」 「本当か? 他に望みはないのか? 願い事はそれでいいのか? 何も決めてはいないのか?」 「何も決めずに来たからな」 「じゃあ、本当に目的もなくここへ来たのか?」 「さぁな」 「さぁな……、ではこの白もさっぱりだ」 唇を突き出して考え込み、白は、金色に向き直った。 「金の。お前、この人間の願いを聞いたか?」 人間が上界に来たがるのは、自分の願いを竜に叶えて欲しいからだ。世界の支配者である竜が、どんな願いでも聞き届けてくれるから、人は、上界を目指す。 「いいえ、まだですよ」 水先案内人はせっせと食器を奥に下げている。 三界を統べる竜の一匹が、賄い婦まがいのことをしているのだが、誰もそんなことには触れない。人間の男だけが、その絶妙な不釣り合いを面白そうに見ていた。 「銀の。お前は?」 「…………聞くわけなかろう」 銀色は不貞腐れて目も合わせない。 「なんだ、銀も聞いてないのか。……二竜とも、折角、人間が来たのに何もしてないのか」 白は、二竜を強調して、呆れ果てる。 「悪いな、人間。金も銀もお前の物ではないようだから、この白がお前の望みを叶えてやる。さぁ、どうぞ」 白石の玉座に背中を預け、男の望みを尋ねた。 男は、白をじっと見つめた。 真っ白の竜。白い髪、白い眼、白い肌、白い鱗、白い翅。人を疑うことのない白い心。 この白い竜は、その白い皮膚の内側も白いのだろうか。 それとも、人と同じように赤いのだろうか。 「帰る」 男は立ち上がった。 「……人間、待て。この地に来て何も望まぬと言うか?」 金色が、男を呼び止めた。 もう、その手には、空の食器を持っていない。 「早よう帰れ。ここは貴様のような下賤のおる場でないわ」 銀色は、自分の真横まで階段を降りてきた男を、しっしと追い払う。ぐるぐると喉を鳴らして威嚇も忘れない。 「人間、お前、何を企んでいるのだろう?」 金色が、男を問い詰めた。 「無為を弄さず、来た道を直ちに取って返すが良い」 銀色は、二度とここへ足を踏み入れるなと牙を剥く。 「……金の、銀の」 白は、金色と銀色の態度を咎めた。 「黙っていろ、白」 「さようじゃ、白、お前は黙してここにおれ」 金がぴしゃりと黙らせ、銀がきつく押し留める。 白は、今にもこの場から立ち去りそうな男を見つめた。 白い竜は、完全に玉座から身を離している。 男は、ここに来てから初めて笑った。 それから、男は望みを告げる。 「止めろ、人間! 白を不幸にする気か!」 「おいそれと竜を望むでないわ!」 二竜は、白を背後にして男の前に立ちはだかった。 竜の姿で。 「過保護だな」 男は、不敵に笑い飛ばす。 「…………この男、笑いよった」 「不愉快極まりない!!」 金色と銀色が露骨に憤る。 この男は、三界の統率者である竜を恐れていない。 この二竜如きでは、男の脅威には成り得ない。 「恐ろしくないものは、怖くない。お分かりか? 金と銀の」 「竜を呼び捨てにしよった!」 「不届きもの!」 「金の! 銀は、これを喰らうぞ!」 「喰らえ! 下界、中界のどちらにも二度と生まれて来れぬよう、存在そのものを食ろうてやれ!」 「それを望んでいるのは、お前達だけだ」 男が、金と銀の背後を顎でしゃくる。 二竜の背後にいた白が、玉座から立ち上がった。 「白!」 「動くな!」 「屍という」 白は、男に手を伸ばす。 「来い」 男は手を差し伸べた。 屍の綺麗な顔に、感情が溢れる。破顔して、泣きそうな顔で、笑う。重苦しい華美な装飾の衣服と尻尾を引き摺り、白い竜は階段を降りた。 「白っ!」 「やめよ!」 「今更、何をやめろと言うのか」 白い竜は笑みを浮かべ、尻尾を床に叩きつける。 びたん! 音が鳴ると、金と銀が反射的に目を瞑った。 次の瞬間、地響きが起こり、旋風が巻き上がる。 二匹の竜は、大きな図体をその翼で守るように小さくなり、衝撃に耐えた。男もまた、吹き飛ばされそうなその豪風に死を覚悟したが、その風は男の周りだけを避けた。 ごうごうと鳴り響く轟音と豪風が止むまで耐え切ると、二匹の竜は、恐る恐るその目蓋をこじ開けた。 眩しい。城の天井から、光が差し込んでいた。天井部分が丸ごと消えてなくなり、空であって空でない世界が、視界一面に広がっている。 白い竜は、男の傍らに寄り添っていた。 四対の真っ白の鳥の羽、白い血管、白い竜鱗、白い皮膚、白い爪、白い牙、白い眼球、白い舌。真珠色にも見える白い竜が、男を護るように尻尾を巻いている。 「人間、屍は大きくなったぞ」 大きな図体に変わった白い竜は、男の首筋に鼻先を擦りつけ、愛嬌を振りまいた。 「可愛いものだな」 男は古傷の多い手指でそれに応え、撫でてやる。 「そうか、屍は可愛いか」 「あぁ、可愛い」 「そうかそうか、屍は可愛いか」 「あぁ、とても可愛い」 「人間、屍が可愛いか?」 「三界で一番可愛い」 「屍もそう思う」 「俺もそう思う」 「人間、もう一回」 「屍が一番可愛い」 「うんうん。もういっか……」 「あぁあああ!! いちゃいちゃするでない!!」 銀色の竜が叫んだ。 今、銀色が人の姿だったなら、頭を抱えて発狂していただろう。それくらい取り乱して、バンバン! ばんばん!! 銀色の尻尾で床を叩く。白亜の石畳が、銀色の周囲だけ完全に崩壊していた。 「白が……白、白が……どこぞの得体の知れない馬の骨に誑かさっ……たぶ、た、誑かされ……っ!!」 「金、しっかりせぇ! 狼狽えておる場合か!」 「銀の! 殺そう! あの人間殺そう!! 今すぐ殺そう!」 「殺してやる! 落ち着け、殺してやるから落ち着け!」 「金は何事にも公平でいられるが、あの男だけは……!!」 「人間、早よう乗れ」 白い竜は、金と銀のやりとりを無視して、男を促した。 「放っておいていいのか?」 「いい。金は、あぁ言っていても全てに公平だから、絶対に屍を追って来られないし、銀は、悪い人を食らうしか能がないから、屍を食らうことも、お前を食らうこともできない」 「そうか」 男は、竜の鉤爪に足を掛け、その背に飛び乗った。 「ちゃんと掴まっててね」 「あぁ」 竜は、骨のように真っ白な翼でぶわりと空を薙ぎ、一気に上昇した。城外へ出ると更に上空へ、そして一気に垂直落下する。 竜は大声で啼き、空であって空でない白一色の空間を飛んだ。 下界へ向けて。 竜が住むのが上界で。 神が住むのが中界で。 人間が住むのが下界。 この三界が出来て以来、初めて上界に足を踏み入れた人間は、白い竜をひと目見て気に入り、竜浚いをすることにした。 この三界が出来て以来、初めて目にした人間を見て、真白き竜は、ひと目で大好きになり、一緒について行くことにした。 初めて来た人間は、竜浚いをした男。 初めて会った人間は、竜の為にやって来た。 白い竜はただ飛ぶだけ。 後のことは何も考えず。 男は、ただただこの時の為だけに生きていて、上界まで旅をして、ようやっと辿り着いたのだと、その確信と満足を永遠に手に入れた。 白い竜を、手に入れた。 以下、同人誌のみの公開です。 2014/03/09 人間を愛した竜 (本文サンプル・序盤01) 公開 |