人間を愛した竜-さんおくと (本文サンプル・後半)


※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。
※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。

 
 
 白暦(はくれき)三七三一年。
 大通りの一等地に店を構えるカフェ。
 そのカフェの一番奥に、アテミヤとグイシェはいた。
 貴族の婦女や、良家のお嬢様が主客であるカフェに、男の二人連れは少し浮く。女性達は、羽つき帽子に、足元まで隠れるようなドレスのウエストをリボンで締め上げ、きらきらの宝石で飾り立てている。上流社会ではこれが一般的な格好だが、アテミヤやグイシェのような下層階級の人間は、そうはいかない。普段の二人は、擦り切れたジーンズとシャツにスニーカー、寒ければパーカーを羽織る程度だ。
 ユイシェダ王国の首都ユイは、王侯貴族などの上流階級、中流階級、下層階級、そして奴隷の四つの身分に分けられる。
 その下層階級に位置するのが、アテミヤやグイシェだ。
 二人は、身分とは場違いなこの場所に似つかわしい小奇麗な身なりをしていた。アテミヤは白のリネンにリボンタイと共布のスーツ。グイシェはグレイのスーツに臙脂のネクタイだ。
 アテミヤは身長が百六十五センチ程度の十代半ばの子供で、グイシェは百九十センチ程もある三十手前の大男だから、並んで座ると凸凹だ。その上、アテミヤは美少女のように可愛い顔をしているから、とても目を引く。
「アテミヤ……時間だよ」
 グイシェが、カフェの出入り口に視線を流した。
「あぁ」
 妙に大人っぽくアテミヤは頷くと、読んでいた雑誌をテーブルに置いた。ダートチャートというゴシップ雑誌だ。
 その時、一人の女が、共も連れずに店内に入ってきた。
 その女が何をしたわけでもないのに、女達のお喋りが鎮まり、水を打ったように静かになる。
 扉の前に立つのは、銀髪の女だ。長い髪を絹のリボンで編み込み、後ろでひとつに纏めている。真っ黒のドレスに、毛皮のコートを羽織っていた。体つきは細く、腰の位置が高い。まるでモデルか高級娼婦だ。右手には、オーストリッチのクラッチバッグと雑誌を持っている。ダートチャートだ。
 女は、きょろりと店内を見回すと、店の案内係を断り、まっすぐアテミヤ達のほうへと足を向けた。
「すみません、今、神様はご在宅でしょうか?」
 女は雑誌を手に、ハスキーボイスで尋ねた。
「ご不在ですよ、お嬢さん」
 グイシェは立ち上がり、女の為に椅子を引く。
「それはようございました」
 女は会釈して腰かけた。
 近くで見なくても分かる。女はとても美人だ。色素がないかと思うほどに真っ白な肌で、眼は金色をしている。常に口角を持ち上げ、微笑を絶やさない。目鼻立ちのはっきりした顔だが、どこか物寂しげな印象が目立つ。多分、眉を顰めて笑うからだ。
 女は雑誌をテーブルに置いた。
 ダートチャート。
 アテミヤが読んでいた雑誌と同じもので、最近、名の売れてきた女性ジャーナリストが、『もう、この世界に神はいない』という見出しで、特集を組んでいる。
 この時代、この世界で、神の存在を否定することは即ち、代弁機関に対する宣戦布告だ。それは、国家連合と世界に対する反逆であり、死刑確定の重犯罪だ。裁判を受けることもなく、竜騎士団による排除対象に分類される。
 昨日の夕方に発売されたこの雑誌は、その数時間後には発禁処分となり、ジャーナリストは現在行方不明だ。
 この不吉な雑誌を所持していることと、神の不在を口にすることが、待ち合わせの符号だった。
「お嬢さんのように、普通の世界で生きておられるような方が、我々、運び屋に一体、何のご用件でしょうか?」
 グイシェは、女にメニューを差し出しながら尋ねた。
「簡単な用件です。私を、サンシンの街にいらっしゃる、とある方の元まで運んでいただきたいのです」
 メニューを開きながら、何気なく女は仕事を依頼した。
 少し考えて、給仕係にカフェモカを注文する。
「運ぶ……誰の元へです?」
「ユイシェダ王国貴族、ヴィダフトゥラ公爵閣下の元へ」
 女は、眼を細めてにこりと笑う。
「しかし、ヴィダフトゥラ公は……」
 グイシェは言い淀む。
 ヴィダフトゥラ公爵は、神の存在を否定した咎で、数年前、代弁機関直属の竜騎士団に処刑された。
 届け先が永久に不在であっては、この依頼は成立しない。
「閣下は生きておられます。閣下が処刑されたという情報は、代弁機関の流したデマです。……さて、期限は十日。その日を過ぎれば、依頼の成功、失敗にかかわらず、依頼は終了です。尚、成功報酬として、こちらの箱をあなた方に差し上げます」
 女は、バッグから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。
 手の平に乗るくらいの小さな宝石箱だ。真っ白の大理石に、鳥の羽が彫刻され、螺鈿と象嵌で細工されている。
「これが報酬?」
「はい」
「……アテミヤ、どうする?」
 グイシェは、黙って聞いていたアテミヤに話を向けた。
「箱の中身はなんだ?」
 アテミヤは、子供とは思えないような冷たい目で、女を睨みつける。
「あなた方が人を殺してでも欲しいと思っているもの」
 その言葉に、アテミヤとグイシェは、一瞬だけ真顔になる。
「大体の予想はつくが、箱の中身を答えれば引き受けてやる」
 声だけは無感情を装っているが、アテミヤのその大きな黒い眼は、宝石箱を凝視していた。
「神様に嫌われた者」
「……っ」
 女の静かな声に、アテミヤの顔が引き攣る。
「箱の中身は、神様に嫌われた者、不老不死、二種類の内の一種類……それらを造り出す研究とその成果です」
「箱の中身を保障する証拠は?」
「ありません。……ですが、あなた方は必要でしょう? この箱の中身が」
「お嬢さんは……俺達のことを知ってるようですね」
 グイシェは警戒を強めた。
 この女は、普通の女ではない。
「えぇ、少しばかり。裏の世界では有名な運び屋さん……というより、残虐非道な不老不死探求者さん、でしょうか?」
「アテミヤ」
「あぁ」
 引き受けないわけにはいかなくなった。
 アテミヤとグイシェはお互いに頷き合う。
 大人のグイシェと、子供のアテミヤなのに、二人の関係はまるで対等な相棒のようだ。
「では引き受けてくださるのですね」
 女はにこりと笑い、宝石箱を手元に引き寄せた。
 大事そうに、愛しそうに、胸の中で抱き締める。
「お嬢さん、お名前をお伺いしても? 俺はグイシェ、こっちはアテミヤと言います」
「私、名前をシカバネと申します。どうぞ宜しく」
 そう名乗った女は、にこりと微笑んだ。
 それが偽名だろうことは、尋ねるまでもなく明白だった。



 *



 アテミヤとグイシェは、運び屋だ。
 依頼さえあれば何でも運ぶ。
 商売を始めて十数年、現在に至るまで、幾つもの依頼を達成してきた。死体を運んだこともあれば、条約に引っかかる動物、薬物、臓物、情報を運んだこともある。
 二人は、幼い頃から生活を共にし、運び屋として金を稼ぎ、助け合い、一緒に暮らして来た。裏社会で生きることは容易ではないけれど、二人でいるから頑張れた。
 運び屋としてのキャリアはそこそこで、商売上の信頼も勝ち得ているが、二人は、それ以外のことで有名だった。
 二人は、稼いだ金の全てを、神様に嫌われた者、つまりは不老不死に関する情報を買う為につぎ込んでいた。不老不死を探求する者として、その為には手段を選ばない二人組として、名を馳せていた。
 不老不死の情報を手に入れる為になら何でもする子供と大人の二人組、それがアテミヤとグイシェだ。
 シカバネと名乗った女は、二人が登録している斡旋業者の仲介で、接触してきた。それは、この裏社会では普通のことだ。だがシカバネは、二人が不老不死の情報を収集しているという話を知った上で、依頼してきた。
 初めから、依頼が断わられることがないと算段をつけて。
「この箱の中身は、私か、閣下でなければ取り扱いできません。ですから、箱だけ奪っても無駄です。……あぁ、お二人はそんなことなさらないでしょうが、念の為」
 シカバネは自衛の意味を込めて念を押し、二人を、外へ連れ出した。
 アテミヤとグイシェが連れて来られたのは、王侯貴族御用達の高級ホテルだ。その最上階にシカバネは宿泊しているらしい。
 リビングに通されると、部屋付きメイドが、二人に、茶と菓子を供する。シカバネ自身は着替えの為、別室に下がった。
「アテミヤ……あの女、どうしよっか?」
「どうするも何も……仕方ない。殺したら、箱の中身が分からないんじゃ手が出せない」
「だよねぇ」
 グイシェは、ふかふかのソファに凭れかかる。
 少しでも情報が手に入るなら、それを看過できないのが、二人の現状だ。
「あの女、何者だろうな」
「お金持ちだよね。育ちも良さそう。……多分、頭も悪くないし、体も鍛えてる。後、悪いことも笑顔でやりそう。こわいね」
「それはあの女個人についてだろ? 知りたいのは、あの女の背後関係だ」
「ヴィダフトゥラ公爵閣下の愛人とか?」
 グイシェが、下世話な想像をする。
「否定はしません」
 メイドの開けるドアの向こうから、シカバネが現れた。
 真っ白のスタンドカラーシャツに絹のリボン、上等のベルベットのベストと上着を身に着け、細身のズボンとブーツを履いている。これで鞭でも持たせれば、完璧、女王様だ。
「これは失礼……でも、本当に愛人?」
 グイシェは肩を竦めて、シカバネの言葉に問い返した。
「えぇ、私は閣下の愛人です。ついでに申しますと、閣下と共に、不老不死の研究をしていました」
「アンタも一緒に?」
「はい。私と閣下は、代弁機関の研究室に在籍していました。私、こう見えても王立大学を主席で卒業していますのよ」
「そりゃご立派。……で、アンタも、不老不死になりたくて、そんな研究してるのか?」
 射殺さんばかりの冷たい視線で、アテミヤが睨みつける。
 アテミヤは、代弁機関が大嫌いだ。
「どちらかと言えば……そうですね」
「どちらかと言えば?」
「言及するならば、不老不死になりたいのではなく、死ぬ運命を改変したいのです」
 シカバネは、アテミヤの視線から逃げることなく見返す。
「馬鹿じゃねぇの?」
「おい、アテミヤ」
「お気になさらず、グイシェさん。……それでも、アテミヤさん、あなたも不老不死についての情報を集めているのだから、それほど馬鹿に変わりはございません。……さぁ、そんなことより目的地へのルートについて説明させてください」
 シカバネはメイドを下がらせると、一枚の地図を取り出した。
 アテミヤとグイシェは身を乗り出し、地図を覗き込む。一般に流通している東大陸の地図だが、そこかしこに赤でバツ印が入れられていた。
「私達がいるのは、ここ、ユイシェダ王国首都ユイです。ここから、このルートを使って皇国側に入り、ユイシェダと国境を接する都市サンシンへ向かいます」
「公爵はそこに?」
 専ら話をするのはグイシェで、アテミヤは黙っている。
 質問役はグイシェ、依頼主やその周辺を観察するのがアテミヤの役目だ。長年、二人で培ってきた杵柄だ。息をするよりもよっぽど上手に、二人は連携している。
「予定では、閣下はサンシンにいらっしゃいます」
「予定では?」
「十日後に落ち合う約束になっています」
「十日後ってことは、俺達との契約期限の日ですね?」
「はい」
「でも、ここからサンシンまでは、車を使えば三日で到着する。馬車でも一週間あれば十分だ。早く着くと思いますよ?」
「早く着くことは不可能です」
「その赤い印のついた場所を避けて、サンシンへ向かうからですか?」
 グイシェは、無数に存在する赤い印の一つを指し示す。
「そうです。私は、この赤い印のある場所付近には近寄れません。ですから、この印を避けて、そして、出来るだけ目立たないように、サンシンへ向かわなくてはならないのです」
「この赤い印は……代弁機関の施設がある場所ですね」
「よくご存知ですのね。……そう、私は代弁機関に見つかってはならないのです」
「それはどういう意味でしょう?」
「殺される、という意味だとお考え下さい」
「理由は……聞かなくても明白かな。……不老不死の研究?」
 不老不死の研究。
 つまりは神の存在を疑う研究。
「はい。閣下は、代弁機関に出資して設備を整え、公的認可の下、不老不死研究を始められました。私はそのお手伝いを……。ですが、代弁機関との間に問題が発生し、結果、排除対象となってしまったのです」
「アンタは? どうして生き延びてるんだ?」
 アテミヤが口を開いた。
「閣下が逃がしてくださいました」
 シカバネと公爵は、ユイシェダ王国第二首都チユにある代弁機関の不老不死研究所にいた。そこでの研究が大詰めを迎えると、研究結果の外部流出を恐れた代弁機関と竜騎士団が、シカバネと閣下の排除に乗り出した。
「閣下と私は、研究成果を入れたこの箱と共に逃げましたが、閣下は、竜騎士団に捕まりました。私を逃がす為に……」
 悲しい顔で、微笑む。
 シカバネは、喜怒哀楽の全てが微笑でしか表現できないのだろう。悲しむ方法が分からない、そんな表情だ。
 グイシェはなんとなく、シカバネの状態を察した。
 彼女は、とても、アテミヤに似ている。
「公爵は死んだのか?」
 グイシェの心中に構わず、シカバネに配慮することもなく、アテミヤは率直に尋ねた。
「いいえ」
「そう言い切れる理由は?」
「そのような運命ではないから」
 シカバネは、微笑と共にきっぱりと明言した。
 何の揺らぎもないほどに自信を持って、抽象的な理由を、理由として使った。
「お前が持ってる宝石箱の中身が、不老不死研究の成果なんだな?」
「はい。それを、成功報酬としてお渡し致します」
「俺は、箱の中身さえ手に入ればいい」
「ありがとうございます」
「ひとついいですか?」
 グイシェが、大きな図体で二人の間に割り込む。
「何でしょう?」
「あなたは公爵閣下の愛人とは言え、代弁機関から命を狙われているし、財産もない。そんな状態で、どうやってサンシンまで行くつもりです?」
 金がなければ、サンシンまでの路銀もない。アテミヤとグイシェは、稼いだ金の全てを不老不死関連の情報を買うのに使ってしまうので、預貯金は一銭もない。
「それは問題ありません。この部屋を見て頂いても、それはお分かりになるでしょう?」
「……まぁ、確かに、この部屋はお高そうですけど……」
「閣下の隠し財産は色んな国の銀行に預けてありますし、何より、それを使わずとも、私、この体一つで随分と稼げますのよ?」
 シカバネは、つんと胸を反らして、妖艶に笑う。
「娼婦?」
「パトロンの皆様方は、私の心を手に入れるのに必死ですの」
 私の心は閣下の物なのに。
 そう言わんばかりに、シカバネは幸せそうに微笑んだ。



 *



 代弁機関。
 神様の言葉を代弁する機関。
 それは、ユイシェダ王国にも、それ以外の国にも、全ての国に存在する。国家機関ではない。国家の利害から独立した代弁機関という組織が存在し、その支部が各国に点在している。
 教会のようなものだ。
 神様の声を実際に聞いて、それを、民衆や国主に向けて代弁するのだから。
 代弁機関は、基本的に二種類に分けられる。
 神の声を聞き、その言葉を代弁する神子と、それを助ける神職者達。
 神の存在や、神の言葉を否定し、神に従わない人間を処罰する竜騎士団の騎士達。
 神の声は、一分おきに与えられることもあれば、何年も音沙汰がない場合もある。
 神の声は神子を通して神職者へ、神職者から各国の代弁機関へ、代弁機関から各国の王へ、王から民衆へと伝播する。
 その内容は様々だ。天災や人災にかんすることもあれば、稀に、政治的分野に間接干渉してきたりもする。
 神が最も多弁になるのは、不老不死に関連することだ。不老不死否定論者の否定。不老不死が存在する社会を憂いる言葉の否定。不老不死研究をする者に対して危惧を促すような言葉。
 それらはつまり、神が与えた不老不死という存在を否定する者に対する言葉である。神を否定する者にこそ、神は存在するという正しき理解を与えよ、ということだ。
 往々にして、神の存在を否定した者は、代弁機関直属の竜騎士団によって処断される。
 それは仕方のないことだ。
 この世界において、神の存在は肯定されている。
 この世界には、神様の存在を証明する人間が存在するのだから。神様の世界に不要だと判断され、神様に嫌われた者が実在するのだから。不老不死が、実際に生きているのだから。
 人間社会において、不老不死は、数千年以上前に端をなすと言われている。どういった確立で不老不死が出現するのかは、未だに解明されていない。
 ただ、不老不死は実在する。
 不老不死となった者は、事故、病気、飢餓、戦争、恋愛、自他殺、老化、衰弱、何が起きても、死なない。
 百年前から姿の変わらない女優、五百年間ずっと国家を治めている元首、千年前から生きている大学教授。近所の主婦も、旦那は八十年前に死んでいるのに、主婦だけは三十代のまま生き続けている。小学校の友達が、何十年経っても小学生の頃のままだという事例もある。
 不老不死は誰もが認めている事実だ。それも、けっこうな割合で身近に存在するから、疑う余地はない。
 不老不死は存在する。
 だが、神の存在を誰が見た? 
 不老不死は目の前にいても、神は目の前にいない。
 神の存在を疑うのは、そこに目をつけた人間だ。この世の偶然で不老不死が出現しただけで、神などという存在は存在しないと、そう思った人間だけが、神の存在を否定した。代弁機関や竜騎士団なんていうものは、単なる政治の道具だと。
 だが、それを口に出した者は皆、いなくなる。
 竜騎士団に殺される。神の鉄槌として、神罰として、不老不死以外は殺され、不老不死は思想犯として投獄される。
 それが罷り通るのが、この世界だ。
「でもね、私、死ぬ運命を改変したいんですの」
 シカバネと公爵が研究しているのは、そういうことだった。
「けれど、神様の否定なんて記事は、ゴシップ誌かスポーツ新聞にしか載せてもらえないような記事ですものね」
 車の後部座席で、シカバネはダートチャートを読んでいた。
 山中の悪路で、細い体を左右に振られている。シートベルトをしても隙間のできる体というのは、見ていて危なっかしい。 
「まあ、世の中の病院には、不老不死専門外来まであったりするから、疑うに疑えないんですけどね……それより、顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
 ハンドルを握っていたグイシェが、ミラー越しにシカバネの顔色を伺う。
「少し、車に酔いました」
 がたごと揺れる車内で、渋面のシカバネが笑う。
「古い自動車ですから」
 グイシェは苦笑いする。
 シカバネは、ユイの街を出発する前に、潤沢な資金で旅支度を整えてくれた。食料品、医療品、衣料品だ。
 アテミヤとグイシェは、身軽を好み、最低限の荷物と武器以外は持たなかった。シカバネも、荷物は二つだけに控えた。小さなトランクと、布に包まれた細長い物体だ。
 古着で充分なのに、既製品とは思えないような値段の服を揃えたシカバネに、アテミヤもグイシェも眩暈を覚えた。
「すみません。本来なら、お二人の着替えも誂えるべきですのに、既製品で済ませてしまって……」
 あまつさえ、申し訳なさそうに謝る始末だ。
「いや、俺達は服を誂えたことなんてないから、十分ですよ。ね? アテミヤ?」
「……これ、ゼロが二つ多い。お前、どれだけ公爵に甘やかされてきたんだ」
「内緒です」
 小さく声にして、くすぐったそうに笑う。
 シカバネは、閣下のことを尋ねられると、小さな子供みたいにはにかんだ。あの人のことを語るのが嬉しくて嬉しくてたまらない、大好きなのだと、全て表情に現れていた。
 そんな中、最も高い買い物は、今、乗っている車だった。
 シカバネは、目的地までの足として、貴族御用達メーカーの最新式ソーラー車を買おうとした。充電すれば長距離が走れるし、静かで乗り心地が良い。だが、目立つことこの上ない高級車だ。それを即金で買おうとするシカバネを押し留め、グイシェは、中古の旧式ガソリン車を勧めた。どこを走っても目立たないが、乗り心地は悪い。
 シカバネは、たまに世間とズレている。二十歳そこそこの年齢で、しっかりしているように見えて、世間知らずだ。
「シカバネさん、少し休みましょうか?」
「いえ、今日中にこの山を越えたいので……」
 シカバネはしっかりとした声でグイシェの申し出を辞退する。か弱い見た目に反して、芯が強そうだ。
「では、気分転換に話でも?」
「是非。……私はあまり世間を知らないから、きっとあなた方のお話は勉強になると思うんです。そうだ、あなた方はどうして運び屋を?」
「たいした話じゃないですよ。俺とアテミヤは、ユイシェダ王国の貧民街で、よその国から買われてきた奴隷として市場に並んでいたんです」
「まぁ」
「市場で、俺の隣に並んでいたのがアテミヤ。俺とアテミヤは、一緒に買われて、金持ちの家の下働きになりました。……まぁ、その辺は適当に想像して下さい。女性に聞かせるような話でもないですから」
「えぇ、では聞きません」
「それで、何年くらい前だったかなぁ……アテミヤと俺は一緒に、その金持ちの家を脱走したんですよ」
「どうして?」
「アテミヤが可愛い顔なので」
「その家の主が、小児性愛者でしたの?」
「いいえ、その家の主の娘が、その……ご自分の顔に自身のない方でして……アテミヤの顔に嫉妬したんです」
「まぁ、その方、顔だけでなく心まで醜いのね」
「そういうことでしょうね。最初は、可愛い意地悪だったんですが、段々アテミヤへの当たりがきつくなって、殴られたり、盗みの濡れ衣を着せられるようになって、酷い罰を与えられたり…………で、俺が我慢できなくなりました」
「あなた、とても優しいのね」
「家族ですから」
 市場で、隣に並んでいた時から。
 グイシェにも、アテミヤにも家族がいなくて、ずっと一人で生きてきた。
 汚いメシも、雨水も、二人で分け合って、同じものを飲み食いして、寝る場所も二人でひとつを分け合ってきた。
 昔から、そうやって、一緒に助け合って生きてきた。
「そう、家族……。家族は、そうね、とても大事だわ」
「だから、アテミヤが毎日、殴られて、血を流して、熱を出して、それでも耐えているのを、俺が耐えることができなかったんです。今にも死にそうで、怖くて……」
「死ぬのはいけないわ。……死ぬのは……いけない」
「……で、脱走しても、俺らは学がない子供で、そんな俺らができる仕事は肉体労働で……最初は、お年寄りや、不便を感じてる人の家に出向いて、お使いを頼まれたり、荷物を運んだり、そういうのをしてたんですよ。それが、どこでか評判を呼んで」
「お商売になったのね?」
「えぇ」
「でも、どうして不老不死の情報なんて欲しいの? あなた方は不老不死になりたいの? 長生きして、もっとやりたいことがあるの? ずっと生きていたいの?」
 シカバネは矢継ぎ早に尋ねる。
「くだらない質問だな」
 助手席にいたアテミヤが、吐き捨てるように呟いた。
「なんだ、お前、寝てたんじゃないのか?」
「隣で自分の名前がしょっちゅう出てきたら、いやでも目が醒める」
「起こしてしまったのね、ごめんなさい」
 シカバネは申し訳なさそうに、前席のほうへ少しだけ身を乗り出し、アテミヤの頭を撫でた。真っ白の細い手で、優しく、よしよしと小さな子をあやす。
「なっ……!」
 アテミヤは顔を真っ赤にして、その手を振り払った。
「あら、ごめんなさい。頭を撫でて、よしよししたら、また眠くなると思って」
 シカバネは悪びれた風もなく、きょとんとしている。
「ばっ……子供扱いすんな!」
「いやいや、子供扱いするなって言ってる内は子供じゃない?」
 グイシェは、綺麗な女の人に撫でてもらえて良かったなぁと大笑いしている。
「まぁ、そうね……そうよね、あなたもう小さな子供じゃありませんものね、いやだわ、私ったら、ついつい閣下にしていただいているつもりで、してしまったわ」
「えっ!?」
 グイシェはその言葉に反応して、恥ずかしがるシカバネのほうに振り返った。
「馬鹿! グイシェ! ちゃんと運転しろ!」
「ぉわっ!?」
 がくんと車体が揺れて、蛇行した。
「う、ぁっ!」 
 アテミヤは窓に頭をぶつける。
「ぃ、た……っ」
 後部座席で、シカバネも小さな悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫かアテミヤっ!? シカバネさんもお怪我は?」
 ハンドルを操作して、グイシェ二人の無事を確認する。
「ちゃんと運転しろよ馬鹿っ!」
 側頭部を押さえ、涙目のアテミヤがグイシェの脇腹を蹴った。
「私も大丈夫です。……あ、あの、なんだかごめんなさい? 私のひと言で驚かせてしまったみたいで」
 シカバネはしゅんと項垂れ、小さくなっている。
「いや、ちょっと驚いただけで……その、まさか、あのですね、シカバネさん……今でも頭を撫でてもらって寝てるんですか?」
「そんなこと聞くな馬鹿!」
 アテミヤは、他人の生活の深いところに言及するなと、顔を真っ赤にする。
「えぇ、頭を撫でてもらって、抱っこしてもらって、一緒に寝ていますわ」
 なんの衒いもなく幸せそうに答えるその姿は、いっそ立派だ。
 もっと聞いて、もっと話をさせて、私はとても幸せなんです、と全身全霊全力で物語っている。
「そうですか、ごっつぁんです。ちなみに寝ている時は何を着ていますか?」
「グイシェ!」
「何も着ていませんわ」
「もっとごっつぁんです」
「だから、グイシェ、やめろって!」
「ちなみに、シカバネさんと閣下はどういう関係でしたっけ?」
「爛れた肉欲の愛人関係ですわ」
「あーあーあーあーあーあーあーあー!!」
 アテミヤは、耳を塞いで大声を出す。
「その爛れた肉欲の愛人関係は何年くらい続いてるんですか?」
「……確か、私が四つかそのくらいからで……彼是十何年になりましょうか。私も、人様にお聞かせできるような生まれではありませんの。閣下に拾っていただいて、初めて、人間として機能したような有様で……」
「……で、その閣下と爛れた肉欲の関係になったのは?」
「初めて愛していただいたのは……あらいやだ、私ったら」
 ぽ、と頬を染めて、シカバネは今更、恥ずかしがる。
 でも、どこか満更でもなさそうだ。
「いえ、それだけ聞ければもう十分です、ご馳走様でした。ちなみに公爵閣下は今お幾つで?」
「閣下は、今年で三十二歳になられます」
「もうひとつだけいいですか?」
「はい」
「道に迷ってしまいました」
「あーあーあーあーあーあーあー……って、何、猥談に必死になって道に迷ってんだよこの馬鹿!」
 アテミヤは、グイシェの横腹に蹴りを入れた。
「あーあー言ってる割に、ちゃんと聞いてるお前のその出刃亀根性、俺、好きよ」
 苦笑しながらグイシェはアテミヤに微笑んだ。


 *



 夜の山道を闇雲に走るのは危険ということで、この日は、そこで野宿することになった。
 鬱蒼と生い茂る森林の中に車を隠し、その近くで火を熾す。人工的な灯りがひとつもない。遠巻きに、獣の気配が静かに存在する。
「グイシェ、近くに湧水があった。手持ちの飲料水って、そんなに多くないだろ?」
 アテミヤは、汲んできた水をグイシェに差し出す。
「ありがと、そこ置いといて」
 グイシェは、集めた枯れ木と葉っぱ、石で作った簡易の焚き火に、固形燃料を入れてマッチの火を落とす。
 代弁機関の施設がある街や、その周辺には近寄れない。野宿の為にと仕入れた食料や燃料が、初日から役に立った。
「今日のメシは?」
「干し肉と携帯スープ、それからチーズとビスケットにチョコ」
「そんなもん、あの貴族女が食べれるのか?」
「ちょっと過酷だろうけどね。お腹も空くし、シカバネさんて細いから、ちゃんと食べてもらわなくちゃ」
「いやなら食わなきゃいい」
 グイシェの隣に腰掛け、アテミヤは自分のナイフで干し肉を人数分に切り分ける。
 二人は、普段からナイフや銃を装備している。こんな仕事をしていると危険に遭遇することもままあるし、それ以外のことでも携帯していると便利が良い。
「そうは言うけど、この食料も、燃料も、車も、車を動かすガソリンも、全部、シカバネさんの出した金で賄ってるんだから、そんな意地悪言わないの」
「売春婦だけどな」
「売春婦でも、稼いだ金は同じ。俺らだって、人様に胸張って生きてけるような商売してないでしょ? 一緒だよ。俺達は、ちゃんと生きる為に働いてる。あの人も同じ。閣下に会う為に、自分の体を全部使って、金を稼いで、生きてる」
「随分とあの女の肩を持つな」
「あら、今日はやけに突っかかって来ると思ったら、やきもち焼いちゃってんの?」
「ちげっ、ばーか、ちげぇよ! ばか!」
「痛い痛い」
 がんがん蹴られても、グイシェは笑顔だ。
 笑顔で、ナイフに刺したチーズの表面を火で炙っている。
「お前が、……っ、妙にあの女を気に入ってるから!」
「……だって、アテミヤに似てるもん」
「はぁ?」
「お前と同じ匂いがするんだよ」
「なんだよ、それ」
「うまく言えないけど、お前も、あの人も、すごく苦しそう」
「…………」
「どうやって悲しんだらいいか分からない感じが、そっくり」
「あの女、嫌いだ」
「……うん、なんとなくそうだと思った」
「だって、あいつ……死にたくないって言うんだ」
 シカバネは、不老不死になりたい。
 死ぬ運命を改変したい。死なない運命に造り変えたい。その為に、生きている。優雅に、美しく、綺麗に、余裕を持って生きているように見えて、多分、死にもの狂いだ。
 アテミヤは、そういう人間が嫌いだった。
「そういうところが似てるから……俺は、どうしてもシカバネさんのことを嫌いになれないんだよなぁ」
 アテミヤは、不老不死の情報が欲しい。
 シカバネも、不老不死の研究に翻弄されて、生きている。
「多分、俺達の求めるものと一緒だよね」
「お前は、欲しくないのかよ……」
「欲しいよ。アテミヤのちゃんとした未来の為に。……多分、俺は、アテミヤと同じ時間軸では生きていけないから」
「……そんなのいやだ」
 アテミヤはグイシェの背中を蹴って、小さく蹲る。
「うん、いやだね」
 グイシェは、アテミヤの肩を抱き寄せる。
「お前が一緒じゃないと、生きてる意味がない」
「家族だからね。俺だって、ずっとお前と一緒に生きて、幸せになりたいよ」
「俺は、お前の作るメシが一番好きだし、お前の間抜けなところが好き出し、その見かけによらずおっとりした喋り方が好きだし、怒らない性格も好きだし、一緒に生きてる毎日が好きだ」
「あら、この子ったら急にどうしたの? シカバネさんが閣下のことを惚気まくるからアテられちゃった?」
「うるさい」
「拗ねないでよ。俺も、アテミヤが俺の作ったご飯食べてくれるのが好き、アテミヤのツンデレなところが好き、アテミヤと一緒に過ごす毎日が好き過ぎて、いっそ愛しいよ」
「…………恥ずかしい奴」
「だって本当だもん」
「あーもう、なんか調子狂う。なんで俺こんな余計なこと言ったんだろ、恥ずかしい」
 いつもなら言わないようなこと、言ってしまった。
「じゃあこれ以上、余計なこと言わないようにシカバネさんに食事だって言ってきてくれる?」
「分かった」
 アテミヤは真っ赤な顔を隠すようにして、そそくさと車のほうへ向かった。
 シカバネは、車内で新しいルートを割り出す作業をしていた。月や星の位置、時間、方角などで現在位置が特定できる。
 シカバネは、地図だけでなく、地図に載っていない施設や、周辺道路を使用予定の国家行事を全て暗記していた。
 シカバネは賢い。公爵の愛人、公爵の研究助手、王立大学主席卒業の売春婦、悲しい顔を作れない微笑の女。様々な顔を持つ女は、何をやらせてもそつがない。恐らく、今晩の夕食が素食でも、文句を言わず、礼を述べて食べるだろう。
 シカバネは、公爵に会う為なら何でもする。
 アテミヤとグイシェに、不老不死の情報をちらつかせて、強制的に依頼を受けさせるような女だ。度胸がある、肝が据わっている、己の死すら厭わない。余程の覚悟だ。
 それは分かっている。分かっているが、アテミヤは、さっきのようにシカバネを嫌うような言動をしてしまう。
 どうしても、シカバネのことを好きになれないのだ。
 不老不死になりたい。死ぬ運命を改変したいというあの女が、どうしても……好きになれない。
「人の苦しみも知らないで……っ」
 グイシェは、アテミヤとシカバネが似ていると言ったが、そんなのはごめんだ。あんなにも生きることに貪欲で、不細工で、なりふり構わない歪んだ女は、大嫌いだ。
 アテミヤは、ざかざかと山道を歩き、車まで戻って来た。
「…………おい、シカバネ……晩メ、シ……っ」
 後部座席の扉を開けたアテミヤは、ぎょっと眼を剥いた。
 泣いていた。 
 シカバネは細い肩を震わせ、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いていた。外に漏れ聞こえないように嗚咽を噛み殺し、ぼろぼろと涙をいっぱい流して、子供のような泣き顔で泣いていた。
 なのに悲しいかな、その泣き顔さえも薄く笑っているような、口角の持ち上がった表情だった。ちゃんとした悲しみ方ができない。そういう顔だ。感情と一緒に、表情筋も壊れている。
「…………しか、ば、ね?」
「……っ!」
 シカバネは、びくりと肩を震わせて、余計に小さくなる。
 自分を守るよう胸元に両手を重ね、ぎゅっと握り締める。
「わ、悪い……」
「……アテ、ミヤさ……?」
「いや、見てないからっ!」
 慌てて弁明するが、泣き顔が余りにも悲愴過ぎて、目が離せない。きれいな顔で泣くものだから、こわい。泣いているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、全く分からない。白皙が月明かりに照らされ、青白い。このまま泣き疲れて死んでしまいそうで、心配になる。
「…………会いたい」
「え?」
 掠れ声が、アテミヤの耳に届いた。
「……カエレス、ぁ、エレ……スに、会、ぃ……た……っ」
 会いたい。
 窮屈そうなドレスの下で、喉元が引き攣る。シカバネが、ひっ、ひっ……と嗚咽を漏らす度に、襟の高い服に締めつけられた細首が、艶めかしい動きを見せる。薄い胸が忙しなく上下して、脆く壊れてしまいそうで、アテミヤは焦った。
「おい、泣くなよ。……何、泣いてんだよ……」
「……っ、すみ、まっ……せ……っ」
 何度も何度も、涙を拭う。拭った尻から、ぼろぼろと涙が溢れる。袖口はすっかり濡れてしまって、ちっとも役に立たない。 
 ごめんなさい、すみません、と頭を下げて、俯く。
「だい、じょ、っで……すぐ、止まっ……り、ま……っ」
「止まってねぇじゃん」
「ごめんなさい、っ、め、な、さ……もう、やめ、ます」
「別に……やめなくていいけど、泣くくらい好きにしろよ。アンタ、泣く時も誰かに許可とらないと泣けないのか?」
「すみません、……すみ、っ……ま……っ」
「笑いながら泣くとか、器用だな」
「……っ、ひっ……く」
「あぁ、ほらまた泣き出した」
 自分では、泣くことも、止めることもできないらしい。
 シカバネは、静かに啜り泣く。
 会いたい、会いたい。会いたい。さみしい。ひとりはやだ。こわい。苦しい。悲しい。あの人の唇が欲しい。愛して欲しい。愛してあげたい。会いたい。会いたい。会いたい。
 泣く。
「だから、泣くなって……」
「……ぅ、ぁあっ……あ、あっ……!」
「うお、まだ泣くのかよ」
「……カエレス、カ、エレ……ぅ、カエレス……っ」
「誰だよ、それ? 人の名前か?」
「……あ、えれす、ぁ、ええ、ぅ……かえ、……っカエレス!!」
 同じ言葉を繰り返す。
「泣くなよっ、こっちまで泣けてくるだろ!」
 言葉の通じない幼児に苛立ち、アテミヤは怒鳴った。
「ぅ、ぅうぁ……」
「だから、泣くなって! アンタ何歳児だよ!」
「ぅ、ひぅ、ぅ……怒ん、ないっで、くだ……さっ」
「怒ってねぇよ! 泣き止めっつってんだよ!」
「カエレス、か、えれ……、かえれす……っ」
「だぁあああもぉおお!! 俺も泣くぞ!」
「おーいアテミヤ何してんのー? なんか喘ぎ声みたいな、猫の子みたいな鳴き声が聞こえるよー?」
「グイシェ! いいとこに来た! この子供なんとかしろ!」
 半泣きのアテミヤは、のんびり歩くグイシェを手招き、啜り泣くシカバネをどうにかしろと指差す。
「……あれ? なんでシカバネさんが泣いてるの? まさか、いじめたの? うん? なんでアテミヤも涙目なの?」
「知るか! 呼びに来たらもう泣いてるし、全っ然、泣きやまねぇし、カエレスカエレスうるさいし、なんとかしろよ!」
「……カエレスって言ってるの?」
「会いたいとかさみしいとかひとりはやだとか、ガキみてぇなことばっかり口走ってる」
「あぁ、公爵に会いたいんだ」
「……?」
「カエレスは公爵の名前だよ。ヴィダフトゥラ公カエレス=カヴァルディーシ=ヴィタ」
 グイシェは後部座席に乗り込み、泣きじゃくるシカバネを膝に抱き上げた。
 よしよしと頭を撫で、背中をぽんぽんする。
「何してんだ?」
「あやしてんの」
「あやすって……赤ん坊じゃあるまいし」
「赤ん坊みたいなもんだよ、これだけ泣いてれば。お前も昔、こんな風に泣いてたじゃん。ひとりはやだ、って」
「泣いてねぇよ」
「泣いてたよ、手にナイフ握ってさ。……ほら、よしよし、大丈夫大丈夫、すぐカエレスに会わせてあげるからね」
「ひっ、う……ひっ、ン、ひっ、く……っ、ひ」
「……グイシェ」
「はぁい?」
「後は任せた。俺、先にメシ食ってる」
 アテミヤは、踵を返す。
 これ以上、グイシェが自分以外に優しくしているのを見るのは、なんだか面白くない。グイシェは、アテミヤに優しいけれど、他人にも優しい。それに、昔話を持ち出されると。ちょっと恥ずかしい。
「あ、あ、アテミヤさん……ちょ、ちょっと……待って?」
「なんだよ」
 グイシェが情けない声を上げる。
 アテミヤは満更でもなく振り返った。振り返ると、狭い車内で美女を抱き締めたグイシェがいた。シカバネは、グイシェの胸元に肢体を預けて、ぐずぐずと泣きながら、眠りかけている。
 視覚的にも、感情的にも、面白くない。グイシェのそこは、アテミヤのものだ。家族をとられたような気分になる。
「アテミヤさん、大変だわ……」
「変な言葉遣いやめろ」
「だって、とっても大変なの」
「だから、なんだよ? ……っと、何だ?」
「だっこしてみ?」
「……はぁ?」
 言われて、アテミヤはシカバネを抱き締める。
 抱き締めたシカバネの胸元が固い。アテミヤの太腿に密着するシカバネの股の間に、よく見知った独特の感触がある。撫でていたシカバネの頭から、銀色のカツラがずるりと落ちる。
「この人、女の子じゃない」
 グイシェは、幼い頃に路地裏で痴漢された時と同じ表情で、苦笑いを浮かべた。







 以下、同人誌のみの公開です。



2014/03/09 人間を愛した竜-さんおくと (本文サンプル・後半) 公開