終身伴侶 (本文サンプル・書き下ろし分・序盤)※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。 ※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。 「お前、泣け」 その男は、出会い頭にそう命令した。 「…………」 そのせいで、海市(かいし)は、寸前まで喋ろうとしていた台詞が、全て吹っ飛んだ。折角、色んな言葉を用意していたのに、男に先手を打たれたせいで、何もかもが真っ白に消えた。 「お前、一度泣いておいたほうがいいぞ」 真顔で固まる海市に、男は、そう畳み掛ける。 「ちょ、ちょ……ちょ……ロウ様!」 男の部下が、慌てた様子で口を挟んだ。 「ユンリ、お前もそう思わないか? こいつ、もう限界だぞ」 海市を指差し、鼻先で笑い飛ばす。 「…………」 海市は次にどう動くべきだったか、思い出せなかった。 ただただ、ぼぅっと男の動作に見入ってしまう。 「お前、疲れてるだろう?」 「…………」 唐突に投げかけられた言葉の意味を、海市は理解できない。もたついていると、男は不機嫌そうに、眉間に皺を寄せた。 「あぁ、……まだるっこしいな」 言うや否や、男の腕が海市を引き寄せた。 「…………」 ぎゅう、と大きな懐に抱かれる。 海市は両目を瞬き、何が何だが把握できぬまま、男の胸元に顔を埋めた。スーツの布越しに、体温と良い匂いが伝わってくる。 温かかった。 ただ、それだけだ。 それだけのことなのに、止まっていた何かが、一瞬、動いた。 「随分と静かに泣くんだな」 男は、物珍しげに海市を見つめる。 男の周りには、よく鳴く生き物が多い。ところが、この生き物は声ひとつ上げず、静かに涙を流していた。その一筋の涙がなければ、泣いていると気付かないほどに、全てを押し殺していた。 まるで、精巧な西洋人形のように、表情を凍りつかせている。 髪も眼も黒い、ほんの少し見た目が小綺麗なだけの青年。 男は、海市以上に整った容貌の人間を、星の数ほど相手にしてきた。なのに、こんな生き物は、終ぞ見たことがなかった。 無遠慮な他人の手で触れれば触れるほど、穢れていく。そうして堕ちて行く過程が、今、目の前にある。この生き物は、他人の手で汚されて、初めて、血の気を手に入れる。 「好きなだけ泣いていいぞ」 子供のように立ち尽くす海市が、何故だかとても不憫に思えた。 まるで、泣くことさえも罪だと言わんばかりに、無表情で涙を流していたから。 ※ 適度な緊張は快感だと人は言う。 人は、ここ一番の勝負所や、瀬戸際に立たされた時、気分は高揚し、頬には笑みさえ浮かぶと言う。 例えば、ケンカ、論争、発表会の舞台、学校の試験、重要な面接、運動会、文化祭、プレゼン。緊張感の漂う場面ならば、質の違いはあれども、それはその通りだと海市も思う。 自分のことであれば、楽しいだろう。 自分だけのことであれば……。 緊張すればするほど気分が高揚するのは、自分の命がかかっている時だけだ。他人の命を預かっている場合は、その責任の重大さに笑っている余裕などなくなる。 もしかしたら、海市が小胆なだけかもしれない。 今、守るべき存在が、生きるか死ぬかの瀬戸際にある。そんな状況で、海市は、嘔吐こそすれども、強がるような威勢はない。特に、無邪気に自分を信じてくれる人の為なら尚更だ。 その人は、自分の命を海市に委ね、ただひたすら待っていてくれる。失敗は許されない。この日の為に、命がけの綱渡りをして生き延びてきた。ここで失敗すれば、全てが終わる。 それこそ、海市の命も、海市を信頼してくれている人の命も。 終わる。 そんな海市が、このホテルへ到着して最初にしたことは、トイレの個室で吐くことだ。それから、水で顔を洗い、鏡に映った余裕のない自分の表情に幻滅して頬を叩き、コンタクトレンズを入れて視野を確保し、時間通り、所定の位置に立った。 都内にある外資系ホテル。一階ロビー奥にあるビップ専用コンシェルジュデスク。専用エレベーターが視界に入る位置。海市はそこに立ち、出入りする人間を見張る。 怖気づいたりはしない。かといって油断もしない。幾度となく頭の中で反芻した計画を、今日、実行に移すだけだ。 「別放心、没問題、在天堂的媽々必須保護我。(落ち着け、大丈夫、天国の母さんが必ず守ってくれる)」 海市は自分に言い聞かせ、翡翠の欠片を握り締めた。 手の平に収まる翡翠は、朱色の紐に通した三センチ程度の小さな欠片だ。本来は、平べったい円形の翡翠飾りだった。これは、それの割れた一部分でしかない。 小さなものだが、存在そのものが温かくて、心強い。 海市は、スーツの隠しに翡翠をしまいこんだ。ランクの高いホテルで悪目立ちしないように上等のスーツを着たが、動きにくくて仕方がない。普段の海市は、こんな服を着る生活をしていない。ほんの半年ほど前に高校を卒業したばかりの、まだ十八歳だ。 だが、子供ではない。 気持ちを切り替えて、真っ直ぐに正面を見据えた。 スーツの下で、心臓が静かに鼓動を早める。 「大丈夫、問題ない、ちゃんとうまくできる」 今度は日本語で呟く。声が緊張していた。 失敗すれば命がない。成功させなければ命がない。 顔を上げると丁度、エレベーターが止まった。箱の中から、二人の男が出て来る。その内の一人に視線を注ぐ。 「身長、百八八センチ、黒目黒髪。年齢二十六歳。母方にロシア系がいて、肌の色は少し白い。目元は母親似で、輪郭は父親似。クァン家の三男……」 廣寒幇(グァンハンバン)の、関(クァン)蜃楼(シェンロウ)。 この男に用がある。 マダム・タンは、彼のことを「ロウ」と呼んでいた。 表向きは海運業を営んでいる中国の富裕層だが、裏の姿のほうが有名だ。チャイナマフィア。それがロウの本職。先祖代々、脈絡と受け継がれてきた血統。人殺しの家系。 「護衛もなしに危ないですよぉ」 眼鏡をかけた秘書が、ロウの後を追う。 「しっかり盾になれ、役立たず」 「分かってますよぉ。でも、危ないですよぉ、お願いしますから、状況を弁えて下さいぃ。あんな手紙一通で日本まで来るなんて、向こう見ずにも程がありますぅ……」 「面白ければそれで良い」 「生命と享楽を天秤にかけないで下さいぃ」 秘書の言葉は、尤もだった。 半年ほど前、廣寒幇の前当主が病死した。 それ以降、当主の座を巡って、四人の姉弟が争い始めた。大陸本土では、血で血を洗う抗争に発展している。 それを裏付けるように、秘書は忙しく周囲を警戒していた。 それに対してロウはどこ吹く風だ。殺しに来るなら正面から殺しに来いと、護衛もつけずにうろついている。 噂通り、ロウは享楽主義者。 面白おかしければそれで良いと、自分の命さえ楽しみの道具に使う。だからこそ、海市が送り付けた手紙に惹かれて、のこのこ来日してきた。 ロウは、大衆の中にいても、ひと際、目立つ。東洋人とは思えない体躯。東西の判別のつきにくい、独特の容貌と雰囲気。アジア系特有の柔軟な強さと、ロシア系の血が持つ優美さ、その二つを兼ねそろえている。そして、その二つを自由に使いこなせる知性と度胸が滲み出ていた。 傍にいるだけで、飲み込まれそうだ。目が離せない。冷や汗が流れて、震えがくる。唾を飲みこむ動作さえ、自分の自由にできない。 これが、ロウ。 やっと会えた。やっと見つけた。 この男なら……。 その想いだけを糧に、一歩、足を前へと踏み出した。 「……思い出せ」 海市は、頭の中で計画をシミュレートする。 中国語でロウに話しかける。スーツ越しのナイフを銃に見せかけ、ロウを脅す。翡翠の欠片を見せて、マダム・タンの使いだと説明する。とある場所までロウを誘導する。 ところが、それを実行に移す前に、ロウのほうが海市を見つけた。あっという間に、手の届く距離までロウが距離を詰める。 想定外の出来事に、海市は一瞬、反応が遅れた。 「お前、泣け」 ロウは、出会い頭にそう命令した。 「…………」 そのせいで、海市は、寸前まで喋ろうとしていた台詞が、全て吹っ飛んだ。色んな言葉を用意していたのに、ロウに先手を打たれたせいで何もかもが消し飛んだ。 真っ白になった頭で、ロウを見上げる。 ロウは、畳み掛けるようにこう言った。 「お前、一度泣いておいたほうがいいぞ」 「ちょ、ちょ……ちょ……ロウ様!」 秘書が、慌てた様子で口を挟む。 「ユンリ、お前もそう思わないか? こいつ、もう限界だぞ」 海市を指差し、鼻先で笑い飛ばす。 「…………」 海市は、次にどう動くべきだったか、思い出せなかった。 ぼぅっと、ロウの動作に見入ってしまう。 「お前、疲れてるだろう?」 「…………」 唐突に投げかけられた言葉の意味を、海市は理解できない。もたついていると、ロウは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。 「あぁ、……まだるっこしいな」 言うや否や、ロウの腕が海市を引き寄せた。 「…………」 ぎゅう、と大きな懐に抱き込まれる。 海市は両目を瞬き、何が何だが把握できぬまま、その胸元に顔を埋めた。スーツの布越しに、体温と良い匂いが伝わってくる。 温かい。 ただそれだけのことなのに、胸がいっぱいになった。きゅっと息が詰まって、酸素が入ってこなかった。 「ぼんやりするな」 だらんと垂れた腕を背中に回せと言われる。 躊躇していると、もっと強い力で抱き締められて、息ができなくなった。 「……っ」 切なくて、苦しくて、ひくっ……と喉が引き攣った。 「泣け。お前はまずそれをしろ。……いいか? お前は俺の言う通りにすればいい」 「…………」 「そう、それでいい」 ロウが機嫌良く笑う。 海市は、ロウのスーツを握り締めていた。 一度甘えてしまうと、なし崩しで、心が音を立てて崩れた。 「……ごめん、なさい……」 血の気の失せた顔で、海市は謝罪を口にした。 大きな懐、力強い腕、伝わる体温。全てが懐かしい気がした。 これまでの努力や、不安、苦労、責任がどっと溢れ出した。 海市は、自分で自覚するよりも疲弊していた。 ロウの背に腕を回し、縋りつく。海市の腕は拒絶されることなく、すんなりと受け入れられた。それだけで、海市は例えようもなく、今、ここにロウがいることを感謝した。 心の奥底につかえていた何かが、今にも海市を押し潰しそうな不安が、するりと取り払われた気がした。 ただただ、死にたい気持ちだけが残った。 申し訳なさだけが、海市を苦しめた。 訳も分からず、涙が出た。 「随分と静かに泣くんだな」 男の周りには、よく鳴く生き物が多い。ところが、海市は声ひとつ上げず、静かに涙を流す。その一筋の涙がなければ、泣いていると気付かないほどに、全てを押し殺していた。 まるで、精巧な西洋人形のように、表情を凍りつかせている。幽鬼のような表情で、声もなく震えている。 髪も眼も黒い、肌の色が白い、ほんの少し見た目が小綺麗なだけの青年なのに、今にも壊れそうなほど脆い。 ロウは、海市以上に整った容貌の人間を、星の数ほど相手にしてきたが、こんな生き物は見たことがなかった。 この生き物はとても穢れている。自ら望んで穢れているのではない。他人の手で穢されている。そういう生き物だ。 生まれついての、そういう性質だ。 「好きなだけ泣いて見せろ」 痩せた肩が、腕の中で震えている。 「…………」 海市は、自分が泣ける立場でないと理解していた。 泣く権利があるのは、海市の帰りを待っている人だ。その人は好きなだけ泣くべきだ。 海市が泣いてはいけない。絶対に。 それでも、涙が止まらない。 苦しい。申し訳ない。 死にたい。 「会いたかったぞ」 ロウは芝居がかった流暢な英語で、囁く。 はらはらと静かに涙を流す海市に、「会いたかった、久しぶりだ、元気にしていたか……?」と、続け様に尋ねかけた。 まるで、家族に声をかけるような、優しい口調で。 「…………」 海市は、英語が得意ではない。 少しでも聞き取ろうと、耳を研ぎ澄ました。 「称是不是打法去的人人人ケ夫人?(マダム・タンの使いだというのはお前か?)」 ロウは、反応の悪い海市に、次は中国語で尋ねた。 「是。(はい)」 海市は、これには応えることができた。 頭の中は、本来の目的にゆるやかに切り替わる。 そうだ、泣いている場合ではない。今は、命がけでこの男を、味方に引き入れることが目標だ。 「女也已経幾十年以前失踪了。(マダム・タンは、もう何十年も前に失踪している)」 「知道。(知っています)」 「……如果称知道、称是死鬼使者口馬?(……なら、お前は死人の使いか?)」 「不、不是。(いえ、違います)」 「称在那児学習那个普通話?(お前、その中国語はどこで覚えた?)」 「総之専科学校学習。(語学学校で習いました)」 「…………」 ロウは、海市の回答を信用していない。 「什麼?(何ですか?)」 「那麼、就那様装イ故好久才見的兄弟。(では、このまま、久方ぶりに再会した兄弟のフリでもしていろ)」 「…………」 また、抱き締められる。 計画がぐだぐだだ。どこで方向修正しよう。 「お前、見張られているぞ」 ほとんど唇を動かさずロウが囁いた。 「…………」 ごくんと唾液を呑む。 気付いていなかった。 「喫煙室だ。ガラス扉の正面に立つ男が、お前を見ている。他にもいるが……まずはここから出る算段だ。アシはあるか?」 「地下駐車場にハイヤーが」 「では、そこへ案内しろ。……まるで仲の良い兄弟のようにな」 離れるな、俺の盾になれ。 ロウは、海市の襟首を引っ張り、隣に立たせる。 「ユンリ、裏へ回れ」 「はいぃ」 ユンリは眼鏡のリムを上げ、地下駐車場へ続く階段に向かった。 「あれも囮になる」 訝る海市に、ロウはそう答えた。 海市は、ロウに連れられるようにして、エレベーターへ向かった。ユンリが階段を使うなら、こちらは上客専用のエレベーターで、地下へ移動する。 「少しは面白いようだが……なぁ、どこまで追って来ると思う?」 「ここで振り切ります」 「つまらん。どうせなら迎え撃て」 ロウは物騒なことを言ってのけ、エレベーターに乗り込んだ。 「それは困ります。あなたが俺を従えるのではなく、あなたが俺に従うんです」 エレベーターの扉が閉じると同時に、ロウに詰め寄った。 「お前、けっこう背が高いな。一七五以上あるだろう? 生きるのが申し訳ないみたいな辛気臭い顔で歩かず、もう少し胸を張れ。不幸臭くて好かん。姿勢が悪く、威勢も弱いと、宝の持ち腐れだ。人生、損をするぞ」 「黙って下さい」 海市は、ポケットに入れた手の位置を変え、ロウの腹に銃口を突きつけた。好き勝手に行動されてはたまらない。そんなことをされては、それこそ計画がご破算だ。 「……偉そうに」 ロウは、口端を吊り上げる。 銃を突きつけられても泰然と落ち着き払い、脅える気配はない。 「あなたに頼みがあります」 互いの鼻先が触れ合う距離で、ロウに囁く。 他人の体温が伝わるってくる、この距離は居心地が悪い。抱き締められたことを思い出して、腹の底が熱くなる。 「無礼な愚か者。頼み事をするにしては、随分と失礼な態度だと思わないか?」 「それは謝罪します」 「頭が低い割に、手紙一通で呼びつけるとは不遜だな」 「他に方法がなかったんです。最近、廣寒幇は内部抗争が激しく、あなたには全く近寄れませんから」 「よく調べているようだ。……ところで、マダム・タンの名をどこで知った?」 「知り合いです」 「笑わせるな。あの女は随分前に失踪して、死んだはずだ」 「ですが、あなたの興味を惹くには十分でした」 「あの女のことといい、廣寒幇のことといい、えらく通じているようだが……礼儀は弁えろ」 「っ……!」 腕を掴まれる。 右手に握っていた物が、ごとんと床に落ちた。 「お前の銃は生易しいな」 床に落ちたナイフを、ロウは笑った。 初めから、海市の銃がナイフの柄だと気付いていたらしい。 「銃口はもっと固い。覚えておくことだ。お前が、あまりにも悲壮なツラをしているから大人しくしてやったんだ、感謝しろ」 「放して下さい」 「頼みがあるんだろう? 話すといい。聞いてやる」 大きな手が、海市の首筋を撫でる。 「放して下さい……!」 海市は、ロウの顎を掌底で押し上げた。 これでも、それなりにケンカはできる。 「…………」 ロウは衝撃で唇を噛んだようで、あからさまに顔を歪めた。 機嫌を損ねている。 「あなたの好きな遊びはナシです」 「躾がなっていない」 「……っ!」 頬を殴られた。 ぐわんと視界が揺らぎ、エレベーターの壁に背中を打ちつける。 そのはずみで、押さず仕舞いだったボタンが押され、地下へ向かうはずのエレベーターが上階へ向かった。 「先程、礼儀を弁えろと言ったが、立場も弁えておいたほうが得策だぞ」 「……痛いので、やめて頂けますか」 喉仏を、がり、と噛まれ、血が滲む皮膚を強く吸われる。 海市が表情を変えずにいると、ロウは乱れたシャツの裾から、手指を侵入させた。腹を這い上がり、乳首を爪先できつく抓む。 「少しは楽しませろ、不感症」 ロウは、スラックスの上から陰茎を撫で上げた。 「それは楽しいですか?」 「つまらん男だな」 「……それなりに痛いです」 ぐにゅりと性器を押し潰すように揉まれた。痛みで眉を顰めると、ロウは嬉しそうに笑う。 頭がおかしいんじゃないか。 こんなことの何が楽しいんだ。 海市がこれみよがしに嘆息し、腰を引くと、痛いだけの扱いが愛撫に変わった。 「贅沢な男だな、人のやり口に文句をつけるな」 「放して下さい。……放して、話を聞いて下さい」 「断る」 「痛、っ……!」 陰嚢ごときつく握られた。 どれだけ心は冷静であっても、これだけは体が竦む。ぎりぎりとした締め上げは重苦しく、激痛をもたらす。 「……ぅあ、っ!?」 「お前は痛くしたほうが佳い声で鳴くな」 声が良い。 ロウは、海市の悲鳴を歌声のようだと誉めそやす。 「……っ」 莫迦にされている。 海市は、両腕を突っ張ってロウを押し返した。 「暴れるな、潰すぞ。……あぁ、そうだな……私の前で、上手く射精のひとつもできたら話を聞いてやる」 「……は、っ」 固い布と一緒に、先端を指先で抉られる。先走りで、下着ごと竿を扱かれる。緩急をつけて、焦らされる。 内腿から背筋にかけてが、ぶるりと震えた。下腹に熱が集まる。気を紛らわせようと唇を噛み締め、その痛みに集中する。 「淫売、腰が揺れているぞ」 「……っ、違い、ます……」 「お前、職業を間違えてないか?」 この生き物は、男娼でもしていたほうが似合いだ。 寝台の上で、男を相手に股を開き、その、よく通る声で盛大に喘ぐほうが、よっぽど想像に易い。 「間違っ……え、ていませんっ、放、し……っ」 身じろいだ瞬間、海市の胸元から、翡翠の欠片が滑り落ちた。朱色の紐を通したそれが、ぴたりと密接した二人の胸元に留まる。 「こんなものまで用意したのか?」 ロウは朱色の紐を歯で噛み、そのまま海市に口づけた。 「ぅ、ンっ……む」 ごり、と口中に翡翠が押し込まれる。 小さな欠片が歯に当たり、かちかち、音を立てた。吐き出そうとする舌を、ロウに絡め取られる。口の中で、何度も押し引き問答をした。 「……っ、ふ」 息つく間もない。顎が疲れ、怠くなった口元がゆるみ、唾液が零れる。 ロウの唇が離れ、その代わりに、指を咥えさせられた。見た目に反して、ロウは体温が高い。海市の口内粘膜よりも、ロウの指のほうが熱かった。 「ぐ……ぇ、っあ……」 咽喉の奥まで指を詰め込まれ、息苦しさに呻く。 声を出すのを我慢しても、指の力で強引に口を開けさせられる。悲鳴を搾り出す為に、手指が粘膜を傷つける。乾いた指に、粘膜の水気を持っていかれ、摩擦されるだけでひりひりと痛む。 「飲んで見せろ」 「っ……ぇ、ぁあ」 翡翠の欠片を、喉奥に押し込まれた。 朱色の紐が舌に絡み、吐き出せない。息ができず、苦しい。酸欠に、声もなく喘ぐ。喉を上下させ、必死に押し戻す。 陰茎を弄ぶ手が、再び動き始めた。 頭がぼんやりして、悪い薬で楽しくなっている時のようだった。 額にかかる海市の前髪を、ロウが撫で払う。ほんの少し触れたそこから、ロウの体温がじわりと染み込んでくる。 大きな体が、海市を埋め尽くし、覆い隠す。 これだけ大きな体躯をしているのだから、人間の一人や二人、しっかり守ってくれるだろう。 海市は、全く見当違いのことを考えた。 大きな手、大きな背中、大切な人までちゃんと届く長い腕、大切な人の元まですぐに駆けつけられる足。 この男なら、大丈夫。 大丈夫。 絶対に、守ってくれる。 日向(ひなた)を守ってくれる。 「説称的名字。(お前の名前は?)」 「……海市。(……海市)」 中国語で尋ねられ、咄嗟に中国語で答えた。 「海市、泣いていいぞ」 「……っ」 不覚にも腰が抜けた。 甘ったるくて、優しい声。 全身の力が抜け、漏らしそうになる。 泣きたくもないのに、じわりとロウの姿が滲む。 それを見越して、ロウが追い立てる。 「……っ」 声も出さずに、海市は、下着の中に吐精した。 久しぶりの射精は、長く続いた。びくびくと下腹が痙攣して、唇を薄く開いたり、閉じたりを繰り返す。内腿を伝い、どろりと精液が足首まで垂れた。 「だらしのないツラだ」 「……っは……ぅ」 口中から、ずる……と、朱色の紐を引き摺り出される。 唾液にまみれた翡翠を、頬になすりつけられた。 エレベーターが、ポン、と音を鳴らして地下への到着を告げる。いつの間にやら、ロウは地階へのボタンを押していたらしい。 ロウに腕を引かれ、エレベーターから出た。 自動ドアを通り抜ける。蒸し暑い駐車場へ出ると、猛スピードの車が現れ、目の前で急ブレーキをかけた。咄嗟の反応なのか、ロウが一歩前へ出た。 「海市、乗れ!」 運転席の男が、叫ぶ。 後部座席のドアが開かれた。 「乗って下さい」 今度は、海市がロウの手を引き、車に乗った。 ドアが閉まるか閉まらないかで車は急発進する。 バックガラスから、数名の男が、海市達に遅れて走って来る姿が見えた。携帯電話で指示を出す者、懐から銃を取り出そうとする者、それを押し留める者、怒鳴り散らす者、様々だ。 ユンリが手配したのか、数台の車が、四方八方、散り散りに発車し始める。これでは、どれを追えば良いか、彼らには判別がつかないだろう。 海市達を乗せた車は裏口を回り、無事、ホテルを出ることができた。 以下、同人誌のみの公開です。 2012/10/18 終身伴侶 (本文サンプル・書き下ろし分・序盤) 公開 |