ここより向こうへ連れていけ (小説本文サンプル・序盤)


※ネット上で見やすいように装丁を改変しています。
※実際の冊子の装丁は、A5サイズ本 / 25行×28文字の2段組となります。

 
 
 その夏は、酷暑だったのか冷夏だったのかさえ覚えていない。十六歳のヤオにとっては毎年のこと、いつもと何も変わらない夏だった。
「……だる……」
 放課後、ヤオは一人で家路に着いていた。
 友達は少なく、静かを好み、一人でぼんやり過ごすことを選ぶヤオにとっては、いつも通りの昼過ぎだ。白い開襟シャツと黒いズボンの学生服。たいして勉強道具も入っていない鞄を肩にかけ、見慣れた路地裏を進む。
 ヤオの住む下町は、レンガや木造の小さな家が多く、建て込んでいる。土地勘のない人間が迷い込めば、一筋縄では抜け出すことは困難だ。近道をしても、途中で行き止まりにぶち当たり、家の前で飼われている犬に吼えられるのがオチだ。
 中には、四合院といった文化的価値のある大きな家もあるし、清朝末裔だという由緒正しい家柄の一族も暮らしている。マルクスレーニン主義から脱却し、資本を追及した結果、富を得て洋風のお屋敷やマンションを買った万元戸も存在する。
 この国では、どんな人間も翌日には死体になっていることもあるし、資本主義の豚だと弾圧されることもあるし、国家によって存在しなかったものにされることもある。
 よく分からない世界だ。
 限られた情報と世界観と常識の中で、如何にして揉め事を起こさず、平和に、無事に、何事もなく、それでいて親と四人の祖父母の期待にぼんやりと応え、競争社会から大幅に脱落せず、かといって大勝利を収めるでもなく、他人から妬まれず、なんとなく平穏な一生を終えることができるか、それが重要だった。
 勿論、それはヤオ一人の考えで、同級生の中には、大金持ちになりという奴もいるし、海外へ行きたいという奴もいるし、政治家になりたいという奴もいる。
 都会っ子のヤオや同年代の友人は概ねそんな調子で、農村と都市部の格差については誰も知らない。
 ヤオがなんとなく思い描く将来像は、ただ一つだ。
 山も谷も川も壁もなくていい。人生に起伏なんて必要ない。平坦で、無難な畦道だと有難い。
 死ぬでもなく、生きるでもなく、そこにある。
 死んだように静かに生きていく。
 それだけでいい。
 そんなヤオを、両親は感情の起伏が乏しい子だと評価し、学校の担任は他人に無関心だと説教をくれ、母方の祖父母は競争心も野望もないと失望し、父方の祖父母は何を考えているか分からないと嘆く。
 ただ、ヤオは息をしているだけなのに、それだけで心配して、失望して、嘆くのだから、あの人達も大変だな……とヤオはそう思うだけだ。
「帰ったら……寝よう」
 どこからか夕飯のにおいが漂ってくる。そのにおいに混じって、犬猫の糞尿と下水の混ざったにおいが鼻を突く。
 初夏の日差しを避けて遠回りをしたヤオの鼻先に、いつもとは違うにおいがあった。
「……?」
 焦げ臭いような、生臭いような、変わったにおいだ。
 そのにおいにつられて、ヤオは入り組んだ路地裏の角を曲がった。
 ヤオの視界に、一人の男が立っているのが見えた。その男の足元には、血を流して倒れる男がいた。立っているほうの男は、右手に銃を持っていた。
 あぁ、殺したんだな、と思った。
 人殺しを見たのは初めてだが、驚きはしなかった。今でこそ殺人事件と言えば大した騒ぎだが、ほんの十年程前までは、この国じゃよくあったことだ。ぼんやり、そんなことを考えていると、銃を持った男が顔を上げた。男の視線がヤオを捉えた次の瞬間には、その男がヤオの目の前にいた。
「…………」
 がち、と眉間に銃口を当てられる。
 まだ、ほんのりと銃口が温かい。火傷するほどではないが、鉄からじんわりと皮膚に浸透してくる独特の熱に、あぁ、銃を撃つと銃身が熱くなるって本当なんだな、映画と同じだ、とそんな感想を抱いた。
「なんだ、ビビらねぇのか」
 銃を構えた男は少し驚いた顔をした。
 動じないヤオに、拍子抜けしたようだ。
 男は、ヤオよりも目線が高い。年齢も上だ。ヤオの父親よりは若いと思うが、年上の男の年齢なんて、十六歳のヤオにはハッキリ分からない。男は少しくたびれた感じがして、世の中には何も面白いものがないというような目をしていた。でも、ちょっとだけそれが格好良くも見えた。
「…………」
 こういう人間が人を殺すのか、とヤオはじっと男を観察した。
「選べ」
 男は短くそう言った。
「……?」
「今、ここで俺に殺されるか、一緒に行くかだ」
「…………」
 ヤオは視線を上げて、男を見据える。
 この男は、今、何を言っただろう?
「来いよ」
 男は、笑った。
 そして、続けてこう言った。
「どうせ俺達はロクな死に方はできない」
「…………」
 ヤオは、踵を返す男の背を追いかけた。
 
 ヤオは、その夏のことを何も覚えていない。
 ただただ、その時、一歩前へ踏み出した。
 男に触発されるように、薄笑いを浮かべて。







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2013/02/26 ここより向こうへ連れていけ (小説本文サンプル・序盤) 公開