朝の光がカーテンの隙間から零れ、眩しさにネスティは目を覚ました。
のろのろと身体を起こし、ベッドのサイドテーブルに置いていた眼鏡をかけながらカーテンを開ける。
強くなった光に顔をしかめながら、視界に広がる光景をぼんやりと眺めた。
自分の常識の中では到底見ることなどない、高く連なる建物ばかりの街並みを見下ろすこの景色にも、そろそろ慣れてきた。
『名もなき世界』と呼ばれる、リィンバウムとそれを取り巻く四世界以外の異世界。
その中の一つに存在する『日本』というこの国にネスティがやってくることになったのは、本当に偶然の悪戯だった。
詳しい原因については自分自身もよくわからないのだが、とりあえず今は自分を拾ってくれた人物の住居に世話になっている。
最初こそ警戒心を抱いていたネスティだったが、今はもうすっかりそれも薄れてしまっていた。
ネスティは寝巻きから適当な服に着替え、部屋の外へと出て行った。
「ネスティ、おはよ」
「ああ。
おはよう、」
台所から何かを炒めているような音がしている。
そこに立つこの家の主がネスティに気付いて、菜箸を軽く掲げながら挨拶をした。
家主の名前はといった。
年のころはネスティと同じかわずかに下か。どこか幼さの残る顔は、まだまだ彼女を『少女』と呼んでも差支えがなく感じさせる。
か細く見える華奢な外見からは、とても彼女の『仕事』は想像もつかない。
は、いわゆる『裏稼業』を生業とする者だった。
科学が発展し、世界を支配するにつれてその存在を闇へと隠すようになった『悪魔』と呼ばれる異形の存在が、現世に現れてトラブルを起こすことが時たまある。
そのさまざまな事件を社会の裏で密かに解決するために存在する、特殊な能力を持つ者たちの事を『退魔師』と呼ぶ。
もその一人で、彼女は『悪魔召喚師』の能力を持っていた。
異形の者たちをただ退治するだけでなく、彼らと共存し、彼らを従える資質を持つ能力者だ。
ネスティの常識の中に存在する『召喚師』とはだいぶ毛色が違い、この世界の召喚師は、従える悪魔と肩を並べて剣を振るう戦士のほうが圧倒的に多いのだとか。
もその例に洩れず、色々と武術をたしなんでいるらしい。
それはさておき。
悪魔が地上で何か問題を起こすとき、彼らはその空間を一時的に異質な世界へと変貌させる。そうすることで、その悪魔の所属する世界の力を引き出しており、退魔師はこの現象を『異界化』と呼んでいる。
がネスティと出会ったのも、この『異界化』した空間の中だった。
原因となる悪魔を倒し、世界が異界から解放される瞬間に、リィンバウムと繋がってしまったのではないか、というのがの考えだった。
「必ず、元の世界に返る方法を探し出すから。
それまではここを自分の家と思って、ゆっくりしてくれていいよ」
事情を話したあと、はそう言って笑った。
異界の者の力を借りる悪魔召喚師であり、異世界の繋がりに関して多く情報を手に入れられるのもとにネスティがやってきたのは、ある意味で幸運だったのかもしれない。
もともとは、このあまり広くないマンションに一人で暮らしていた。
私室にしている部屋とリビング・ダイニングの他にひとつ空いていた部屋を、ネスティが借り受けることになった。
本来は客間だと言うだけあって、その部屋は物が少ない。否、この家にはそもそも、必要最低限のものしか置かれていなかった。
女性の家にしては殺風景であることを不思議に思ったネスティがそのことを尋ねたら、はけろりとした顔で、
「退魔師なんてやってると、いつ死ぬかなんてわからないから。
あんまり物置いてると、処分が大変でしょ?」
などと言っていた。
あまりにあっさりとそんな言葉を口に出され、ネスティは心のどこかに痛みを感じた。
とネスティの少し変わった共同生活は、もうすぐ4週間を迎える。
この日数がリィンバウムの方にどれだけ影響しているのかというのはネスティにとって非常に気になることであったが、確かめる術もない以上はどうしようもない。
そう自分に言い聞かせ、ネスティはゆるやかに日々を過ごしていた。
ここ最近黒の旅団との攻防などで慌しかったせいで、正直なところ心身ともに疲れ果てていたネスティにとっては思わぬ休暇のようなものだった。
そしてもうひとつ。
ネスティの心に大きな変化があった。
この心優しく明るい同居人に、いつのまにか好意以上のものを感じるようになっていた。
その境目がいつからかはわからない。
けれど確実に、に惹かれている自分がいることを、ネスティは感じていた。
しかしそれを想うたびに、ネスティは自らに言い聞かせていた。
自分は、いずれここから去らねばならない、異邦人の身なのだと。
共に在り続けることは、不可能なのだと。
* * *
「ネスティ、喜べ!」
「……どうしたんだ、急に」
満面の笑顔を浮かべて部屋から飛び出してきたに、リビングに座りこんでくつろいでいたネスティは怪訝な顔を向けた。
「今ね、知り合いからメールが来てたんだけど……」
興奮ぎみなのか、頬が紅潮している。
早く言葉を紡ごうと焦るのが見えた。
何か良い知らせでもあったのかとを見ていたネスティだったが、次の瞬間、凍りついた。
「手がかりがつかめたんだ!
もうすぐ帰れるんだよ、ネスティ!!」
「……え……?」
一瞬、その場の全ての音が、消えた気がした。
「異世界への門を開くための儀式の情報が手に入ったの!
あとはそれを詳しく調べて、解析してプログラムに直せば、私でもネスティを送り還すことが出来るんだよ!」
まくし立てるように次から次へと出てくるの言葉は、ネスティの耳に入っても、すぐに流れ出てしまう。
「……何、変な顔してるの?」
「え? ……うわっ!?」
ハッと我に返ると、目の前にの顔があり、ネスティは思わずあとずさった。
は両膝をついてネスティと顔の高さを合わせていた。
「嬉しくないの? もうすぐ帰れるんだよ?」
「あ、ああ……」
笑顔を浮かべながらも、ネスティは曖昧な返事で、どこか表情に影を落としていた。
は首を傾げるが、それについて追求することもなく立ち上がった。
「さて!
それじゃ私、情報調べに取り掛かるね。
なるべく早く終わらせるから、待ってて」
にっこりと笑顔で言われてしまい、ネスティは黙り込んだ。
言葉だけ残してきびすを返し、自分の部屋へ戻ってしまったは、ネスティの青白い顔を見ることはなかった。
一人残されたネスティは、どこか虚ろな瞳で、今しがた閉じられた扉をぼんやりと見つめた。
帰る方法が、見つかった。
……それはすなわち、との別れを意味している。
帰れるという安堵感は、確かにある。
だがそれ以上に、喪失感の方が大きい。
――何を考えているんだ、僕は。
ずっと望んでいたことじゃないか……――
帰らなければならない。あの世界に。
けれど、そこには……
は、いないのだ。
ネスティは立ち上がって、窓の傍へと歩いていった。
ベランダへの出口になっているガラス戸には、夕暮れの薄暗い空の中にうっすらとネスティの姿を映し出す。
重いため息をひとつ、ついた。
* * *
ノックの音にも手を休めることなく、は返事だけをして扉の向こうの相手を促した。
「まだやっているのか?」
「うん、あともう少し」
時計の針はとうに深夜0時を回っていた。
2時間ほど前に様子を見に来たときも、同じ台詞が返ってきた。ネスティは黙って、の傍に寄る。
「あと少しだけだから。
もうあと寝るだけだし、リビングの電気消しちゃっていいよ」
言いながらも、PCデスクに向かい、キーボードを叩いたりマウスを操作したりする手を休めることがない。
「……ネスティ、早く向こうに帰らないといけないもんね。
待たせちゃってごめんね。もうすぐだから」
「あの、。
そのことなんだが……」
言いにくそうにネスティは口ごもり、一度深く息を吸い込んでから吐き出した。
「……もう少しだけ……
あと、ほんの何日かでいいんだ。
――もうしばらく、ここに居させてくれないか?」
「……ネスティ?」
呟かれた言葉に、さすがには作業の手を止め、後ろに立つネスティのほうへ身体を向け、怪訝そうに彼を見上げた。
「ここに、いたいんだ。
居させてくれないか……?」
「……あんた、自分で何言ってるかわかってるの?」
眉根を寄せるの視線を受け止めながら、ネスティは静かに頷いた。
「わかってるさ」
「……わかってないよ!」
吐き捨てるようなの声は、明らかに怒気を含んでいる。
はネスティをキッと睨みつけた。
「あんたには、ちゃんと帰る場所がある。
待ってる人がいる。
ホントなら、一秒でも早く帰らないといけないんだよ?
それなのに、ここに居たいなんて……
向こうとこっちの時間の流れがどのくらい違うのかとか全然わからないんだよ?
ここに居るのは勝手だけど、あんたのその『ほんの何日か』のせいで、もしかしたら致命的な時間の落差が出ちゃうかもしれないんだよ?
なのに、そんなことよく言えるね!」
の言葉の一つ一つが、痛いほどに刺さる。
全てが正論で、自分でも重々承知していることである分、尚更に。
「……
…………僕は…………」
はふいっとネスティから顔をそむけ、再びPCに向き直る。
「ネスティは、元の世界に帰らないといけないんだよ……
待ってる人も、帰る場所も、そこにあるんだから……!」
独り言のような呟きは、先ほどのような怒りよりもむしろ、苦さを含んでいた。
作業を進める手が、僅かに震えていた。
ネスティは手を伸ばして。
後ろから、を抱きしめた。
「…………!?」
かがみこむような姿勢のままで肩に額を押し付けると、びくりとの身体が僅かに震える。
は制止の意味を込めて両手でネスティの腕を掴むが、離されない。
「ちょ、ネスティ……っ!?」
「……わかってるさ……」
低い呟きに、は思わず言葉を飲み込んだ。
「僕の言ってることがただの我侭だってことくらいわかってる。
の言いたいことだって、よく理解してるよ。
だけど僕は……もう少しだけでいい。この世界に居たいんだ」
はネスティの手を振りほどいて立ち上がり、正面から彼の顔を見つめようと顔を上げた。
「――っ」
そこに浮かぶ切ない表情に、は黙りこくってしまう。
瞬間。
フッと、視界が暗くなった。
「………………ッッ!?」
は、自分の身に何が起こったのかが、一瞬のあいだ理解できなかった。
すぐ目の前に――本当に近くにあるネスティの端整な顔。
唇に、少し冷たい、柔らかい感触。
ネスティに、口づけられている。
は大きく目を見開いた。
「ん、んん……っ!」
離れようと身をよじるが、後頭部と背中に添えられた手に力が込められ、封じられる。
触れるだけの、しかし長いキス。
唇が離されてからも、は呆然とネスティを見上げるしかなかった。
「……どう、して……?」
ただ途切れ途切れに尋ねると、ネスティは一瞬僅かに目を伏せた。
「…………好きだ」
かすれた呟きは、はっきりとの耳に届いた。
ネスティは両腕をの背に回し、細い身体をぎゅっと抱きしめた。
「君のことが、好きなんだ…………」
耳元で囁かれた言葉に、は無意識に身をこわばらせた。
「本当は……何度も言おうとしてたんだ。
君のことが好きだって。
一緒に来て欲しい。僕の傍から離れないでって…………
――でも言えなかった。
君には君の生活があって、生きる場所がある。
それを僕のせいで壊すわけにはいかないから。
そして何より……君との関係が壊れるのが恐かったんだ…………」
は黙ってネスティの話を聞いていた。
互いの顔が見えないまま、ネスティは言葉を続ける。
「あと少しの間だけでいいんだ……
この世界に……君の傍にいさせてくれ……!」
「…………ばか」
小さく、しかしはっきりと呟いた声が聞こえた。
ネスティは抱きしめる腕の力を緩め、恐る恐るを見下ろした。
俯いたの表情は、ネスティには見えない。
「……ネスティの、おおばかもの」
の声はあくまで低く、小さい。
「どうして、それをもっと早く言わないのさ」
「……え?」
「そしたら、こんなに迷うことなんてなかったのに……!」
ネスティが、の言葉の意味を尋ねようと口を開きかけた瞬間。
がぐいっとネスティの顔を引き寄せ、唇を重ね合わせた。
「…………ッ!?」
一瞬で離れた感触にネスティが目を白黒させると、はネスティの腕を掴み、胸元に額を触れさせた。
「……私も、ずっと好きだった……!」
「え……」
顔を上げたは頬を紅く染め、真剣な眼差しでネスティを見つめた。
「でも、ネスティは帰らないといけないから。
私の想いなんて邪魔だと思ったから。
だったらせめて最後まで、いい友達でいようと思ってたけど……
私も、ネスティと離れたくない。
いっしょにいたいの……!」
「…………ッ!!」
ネスティとは、互いに相手を抱きしめた。
そうすることで、触れ合う身体から想いを伝え合うかのように。
「私も連れて行って、ネスティ。
あなたの生まれた、
故郷に」
「ああ……
ずっと、傍にいてくれ」
僅かに身を離して、互いに見つめ合う。
「愛してる、」
言葉と共に交わした口付けは、未来への誓いのように。
先に待つもの全てを乗り越えられるように、願いを込めて。