遠くからでもわかる、紅い髪。
それを捕らえた少女は、手を振ってその人物へと声をかけた。
「せんせぇーー!!」
故郷の花の香
元気のいい呼び声に顔を上げると、明るい栗色の髪をした少女――本人曰く、そんな歳でもないらしいけれど――が手を振っているのが目に入った。
レックスも軽く手を振り、駆けてくる少女の方へと歩み寄る。
「、どうしたんだい?」
「どうしたっていうか……
見かけたから、声かけただけなんだけどね」
と呼ばれた少女が、肩をすくめて答えた。
「それよりさ、先生今日は郷に何しに来たの?」
「あぁ、ちょっとミスミ様に用があってね。
もう終わったから、これからどうしようかと思ってたところなんだ」
レックスの言葉に、は「ふーん……」と小さく呟いた。
「じゃあさ、今暇?」
「まぁ……とりあえず用事はないけど」
「なら、うちに来ない?」
「え??」
突然のの提案。
レックスは一瞬きょとんとした。
「ちょうどゲンジさんから新しくお茶の葉を貰ったところなの。
ね、一緒に飲んでってよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しちゃおうかな?」
それを聞いて満足そうに笑うを見て、レックスも自然と顔を綻ばせた。
* * *
の家には、鍛冶師である彼女の仕事場の“工房”がある。
その隣にあるのが生活の場である庵。
そして隣り合った二つの建物をつなぐ庭で、の“家”は構成されている。
初めてマルルゥに案内されてここへ来た時も思ったことだが、ここは風雷の郷の中にありながらも、郷とはまた別の気配の漂う空間だ。
「じゃあ、ちょっとその辺座って待っててね」
そう言い残し、は台所へと引っ込んだ。
言葉の通りにレックスは縁側に腰を下ろし、ぼんやりと眼前に広がる庭を眺めた。
庭、といってもさほど大きな空間ではない。
片隅に植えられた何かの木以外、特に目に付くようなものはない。
まるで工房への道程度でしかないようなその庭に、一本だけひっそりと佇む、さして丈も高くない樹。
それが、妙に強く印象付けられる。
「お待たせ、先生」
後ろからの声に振り返ると、が湯気の立つ二つの湯呑みと、菓子か何かの載った皿を盆に載せて現れた。
はレックスの隣に腰掛け、盆を二人の後ろへと置いて、湯呑みをレックスに差し出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。
……これは何?」
湯呑みを受け取りながら、レックスは皿に盛られた薄緑の丸いものを指さした。
「あぁ、ヨモギ大福だよ。
食べたことない?」
「うん、初めて見るよ」
「そうなんだ。
草を練り込んだ大福なの。わたしの好物。
先生は甘いもの平気だったよね、食べてみて」
の言葉に頷きながら、大福をひとつ手に取り、一口かじってみる。
独特の香りが感じられ、程よい甘味が口の中に広がった。
「……おいしい」
「でしょ?」
好反応を見せたレックスに、はうれしそうに笑った。
「どんどん食べてね。
わたしひとりじゃ食べきれないくらい貰っちゃったから困ってたの」
「おいおい、もしかしてこのために呼んだのか?」
「半分正解、ってとこかな。
いいじゃない。美味しいもんは分かち合うものでしょ」
そのまま話しながら、手を進める。
大福はみるみるうちになくなっていった。
皿が空になり、湯呑みの中身も飲み干して一息ついた頃に、が言った。
「あれ、わたしの世界にもあってね。
こっちでも食べられるってわかった時、ほんとうれしかったんだ」
「そっか……」
はゲンジと同じく、リィンバウムでもその周りの四世界のどこでもないところからやってきた。
未知の世界とされる自分の故郷のものと同じ味を発見できたときの嬉しさは半端ではないだろう。
しかし逆に、帰れない故郷への恋しさも募るだろう。
それを感じさせないの笑顔は、レックスには健気で、とても儚いものに映った。
「……帰りたい?」
「え?」
思わずぽつりと呟いてから、レックスはしまったと口を押さえる。
――聞くまでもないじゃないかそんなこと。
帰りたいに決まってる。
俺は何でわざわざそんな、を傷つけるようなことを……!――
後悔の念にかられて俯いたレックスの肩に、ぽんと手が乗った。
「先生がそんな顔しないでよ。
わたしは大丈夫だからさ」
「だけど……!」
は、レックスの肩に置いていた手を上げ、そのまますっと庭の木を指した。
「あれ、何の木かわかる?」
「いや」
レックスは首を横に振ってみせた。
「あれ、アルサックの木なの。
気に入ってね、小さいのを一株譲ってもらったんだ」
は、今は緑の茂っているアルサックの小さな木を見つめた。
「わたしの国に、あれととってもよく似た花があるの。桜、っていうんだけど。
春になると花をつけて、花びらが風に乗って散っていく、そんな花。
ほんとは、この世界に来てすぐ、とても不安だった。
けど、アルサックの花を見たら、何かすごくほっとして。
それからね、思うようになった。
ここでも、わたしは生きていけるんだって。
何でかわからないんだけど……でも、そう直感した」
は、レックスのほうを向いて、にっこりと微笑む。
「それに、今はちっとも寂しくない。
風雷の郷だけじゃなくて、ラトリクスとか、ユクレスとか、狭間の領域の人たちとも交流するようになって、賑やかになったし。
海賊さんたちも、みんな明るくていい人だし。
それに……先生が、いるから」
「…………」
レックスは、隣に座るをそっと抱き寄せた。
突然のことに、は僅かに身体を強張らせる。
「せ、先生?」
戸惑いながら呼びかけても、レックスは何も言わない。
の肩に顔をうずめていて、表情さえも読み取れない。
「ねぇ、先生……?」
返事の代わりに、ぎゅっと抱きしめられる。
――な、何なのこれ?
先生ったら、急にどうしたっていうのよ……!――
心臓がばくばく言っている。
顔が熱い。きっと耳まで真っ赤だ。
自慢にならないが、は今まで異性といわゆる『おつきあい』をしたことがなかった。
さっぱりした性格のために、男友達も少なくない。
しかし彼らはあくまで友人である。『男』だなどとはっきりと考えたことは、ただの一度もなかった。
レックスに対しても、そうであったはずなのに。
しかし、こんな風に抱きしめられてしまうと、嫌でもそんなことを意識せざるを得なくなってしまう。
はとにかく解放してほしくて、レックスの胸元を手で押し返しながら呼びかける。
「ね、先生ってば。
悪ふざけしないで、放して」
「…………悪ふざけじゃ、ないよ」
「……え……?」
初めて、黙りこくっていたレックスが口を開いた。
「悪ふざけなんかじゃない。
俺…………」
「せ、先生……?」
レックスは顔を上げ、僅かに身体を離し、まっすぐに腕の中のを見つめた。
「俺は、のことが好きなんだ」
「…………!?」
その言葉に、は目を見開いた。
紅の髪とは対照的な青い瞳に捕らえられ、声が出ない。
「いつからそう思うようになったかは、わからない。
でも、俺の中で君の存在が少しずつ大きくなっていって…………
気づいたら、好きになってた」
「なんで、急にそんなこと……」
にとって、レックスの告白はあまりに突然なものだった。
今までそんな素振りを全く見せていなかったところに、これである。
思わず尋ねずにはいられなかった。
問いかけに、レックスは照れくさそうに微笑んだ。
「さっきのの言葉が…………嬉しくてさ。
本当は、まだ言わないつもりでいたんだけど……」
そう言われて、は真っ白になりとんでしまっていた記憶の糸をたぐり寄せた。
――先生が、いるから――
「……あ……
でもあれは、その……」
別に深い意味はなかった。
その、つもりだった。
そう言おうとしても、うまく言葉が出てこない。
――本当に?――
ふと、心の中で誰かが呟いた気がした。
わたしは、何かを期待していた?
だとしたら、一体何を――――?
自分自身に問いかけ、そして確信する。
――そうか、わたしは――
頭の中にかかっていた靄が、一気に晴れた。
「――――先生」
呼びかけて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「…………わたしも、好き。
先生のこと」
がまっすぐに瞳を向けてそう言うと、レックスは驚いたような顔をした。
「え…………ほんとに!?」
「こんな嘘、つくわけないでしょっ?」
そっぽを向いて、は口を尖らせる。
その様子にレックスは苦笑した。
「ごめんごめん。
まさか、こんなに早く返事がもらえるなんて思ってなかったから、つい」
「だからって、先生――――」
向き直って文句を言いかけたの口もとに、レックスは人差し指を突きつける。
「。
“先生”じゃあないだろ?」
「え?? でも」
レックスの言葉の意味がつかめず、は眉根を寄せて首を傾げた。
「俺、いつになったらちゃんと名前で呼んでもらえるんだ?」
「……あっ」
少し拗ねたような声に、はようやく理解した。
そういえば、周りがみんなして彼のことを“先生”と呼ぶことに、自然と自分も倣っていたため、まともに彼の名を呼んだ事がなかったのを思い出す。
意外に子供っぽく見えるしぐさに、はくすくすと笑う。
「そっか。
ごめんね、レックス」
が笑顔のままで言うと、レックスは僅かにきょとんと目を見開く。
「……?」
「あっ、ごめん」
首を傾げるの様子に慌てて謝った。
「いや、思いのほか嬉しかったもんだから」
顔を赤く染めて頬をかくレックスを見て、はまた笑った。
「なんか、レックスかわいい」
「かわいいって……からかわないでくれよ」
「いいじゃない。褒めてんのよ」
むくれるレックスと、悪戯っ子のように笑う。
目が合うと、今度は二人そろって笑いだした。
そしてそのまま見つめあい、どちらからともなく唇を合わせる。
昼下がりの庭を吹き抜ける風が、アルサックの木の葉を掠めていった。