レックスがいつもの習慣で、風雷の郷の鬼の御殿を訪れると、そこには。
「あ。
やっほー、先生!」
珍しい光景があった。
木苺の主張。
畳敷きの一室には、大きく重量感のありそうな木製の机があり、この城の主であるミスミがなにやら書き物をしている。
そこから少し離れたところに、茶飲みの載った盆を傍らに置いてあぐらをかくゲンジの姿もあった。
それだけなら、珍しくも何ともない光景だっただろう。
が。
ミスミの正面には、彼女と同じように何か書き物をしているがいて、そのふたりの真横に位置する場所にいるのは、レックスと同じ海賊の客分であるヤードがいる。
「ほら、ミスミ様。
またつづりが違いますよ」
「ん〜……??」
どうやら、ヤードがふたりに何かを教えているらしい。
ゲンジに話を聞いてみると、リィンバウムの文字の書き方を習っているのだということがわかった。
「鬼姫が自ら言い出したことでな。
『自分の子供の宿題も見てやれないようでは、母親失格なのだ』とな」
「それはわかりましたけど……
何でまで?」
「たまたまお嬢が仕事の品を納めに城に来たときに、鬼姫が手習いをしているのを見たんじゃよ。
そうしたら『自分もやりたい』と言い出してな」
「はぁ……」
一通りの事情を聞いてからもういちどそちらへと目を移す。
「ヤードさん、できたよ」
「どれどれ……
ええ、上出来です。
さんは飲み込みが早いですね」
「えへへ……そうかな?」
ヤードに褒められて、照れくさそうにが笑う。
――なんか、おもしろくない。
やや不機嫌そうな顔のまま、レックスはに話しかけた。
「、ちょっといい?」
「え?
でも……」
は少し困ったように、ちらりとヤードのほうを見る。
ヤードはの言いたいことを察し、うなずいた。
「どうぞ。
ちょうどキリのいいところですしね」
それを確認してから、はレックスに向き直る。
「いいって。
じゃあ行こう、先生」
微笑を浮かべたに、しかしレックスは機嫌の悪さを改めることのないまま、の手首を掴んで引っ張っていってしまった。
「わわ、ちょっと! 先生ッッ!?」
慌てるの声がどんどん小さくなっていく。
あっという間の出来事に、レックスとの出て行った襖の方を、残された3人は呆然と眺める。
「……レックスさん、なんだったんでしょうか……」
「まだまだ青いの、若造」
「さて、どうなることかのう」
首をかしげるヤードとは裏腹に、ゲンジとミスミは苦笑を禁じ得なかった。
* * *
御殿の外に出、敷地内の一角の建物の陰まで引っ張りこまれたところで、レックスはようやくの手を離した。
手首をつかまれたままずんずんと歩かれ、必然的に走る形になったは、すっかり息が上がってしまっている。
「んもう!
一体何のつもり、レックス!?」
は二人きりのときだけ、レックスのことを名前で呼ぶ。
恋人と呼べる間柄になったのはごく最近のことで、今までずっとレックスのことを『先生』と呼んでいたは、人前で名を呼ぶのが照れくさいらしく、未だに誰かがいるときは今までの呼び方のままだった。
憤慨するとは目を合わせようとしないまま、レックスはぽつりと言った。
「……さ、急に文字習いたいなんて、どうしたの?」
「え?」
突然のひとことに、も毒気を抜かれ、思わずきょとんとなる。
「今まで、そんなこと言ったことなかったじゃないか。
なのに急にどうしたんだ?」
「あー、いや。
別にたいしたことじゃないんだけど……知っておいたほうが便利でしょ、何かと」
の答えに納得がいかないのか、レックスは機嫌を治す気配がない。
「じゃあ……なんでヤードなの」
「は?」
「文字覚えたいなら、俺の所に来ればいいじゃないか。
なのに……」
「だって、レックスいつも忙しいじゃない。
学校の先生やって、ナップ君の個人授業やって。
他にも集落回っていろいろ手伝いしてるし……」
前々から、覚えたいという気持ちはあった。
けれど、教えてくれそうなレックスは、はっきり言って島一番の働き者。
自分ひとりのために時間を割いてもらおうなどと、欠片も思わなかった。
そんな折に、ミスミがヤードから文字を習い始めたのを知ったのだ。
「ヤードさんに習ってるのは、ミスミ様の手習いに便乗できるからだよ」
そう言ってみせても、レックスは納得していないという気配を身体全体から漂わせたままだった。
は小さくため息をついた。
「ねえレックス。
ホント、どうしたの?」
「…………」
「レックス〜?」
マフラーを軽く引っ張ってみても、肩をぺちぺちと叩いてみても、反応が全くない。
そっぽを向いて憮然としたままのレックスの表情を見ていると、あるひとつの結論に達してしまう。
(…………もしかしなくても、すねてる?)
まさか、とは思うが。
それでも、この意外に子供っぽい部分のある男のこと。あるいはそれもアリなのかもしれないと思えてしまうところがちょっと悲しい。
「………………返事してくれないと向こう一週間うちに出入り禁止」
「えっ!?」
ぼそりと呟かれた一言に、思わず身体が反応する。
心底驚いた顔で振り返るレックスを見て、は思わずけらけら笑った。
「あはははは!!
レ、レックスうろたえすぎ!」
「わっ、笑うことないだろ!?
が変なこと言い出すから……!!」
すっかり慌ててしまったレックスの様子に、先程までの不機嫌さから来る重苦しい雰囲気はもうない。
は笑いすぎて零れた目の端の涙を拭ってから、軽く息を整えた。
「……機嫌、少しは治った?」
「え?」
「レックス、さっきから怒ってばっかりで、理由ちっとも話してくれないんだもん。
何で怒ってたの?」
呆れたようにが尋ねると、レックスはばつが悪そうにぼそぼそと言った。
「…………だって……なんか、俺ちっとも頼ってもらえてないというか……
それなのに、ヤードには頼ってるみたいだから……」
「………………やきもち?」
眉根を寄せて呟かれたの言葉に、レックスは図星をつかれたようで、かぁっと頬を染めた。
「だ、だって!
いつだって俺のこと頼ってくれないし!
それに……!!」
「あーはいはい、わかったわかった。
いいから少し落ち着きなさい」
制されてもなお何かを言いたそうにするレックスの肩を、はぽんと叩いた。
「いい?
一度しか言わないから、よーく聞きなさい。
わたしが文字の書き方を習いたいって思ったのは、レックスのためなの!」
「え……?」
レックスは呆然とを見つめた。
今度はの方が、ばつが悪そうにそっぽを向く。
「お互いに仕事中とかで手が離せなくて留守の時とか、書き置きしておけばレックスにいろいろ伝えられるでしょ?
便利だって言ったのは、そういうこと。
わかった?」
むぅと軽く唇を尖らせて見上げてくるの瞳にあるのは、自分への気遣い。
嬉しさと、気づけずに勝手に拗ねてしまったという申し訳なさとがこみ上げ、レックスは困ったような笑顔を浮かべる。
「ああ。
ごめん、」
素直に謝られ、もニッと笑ってみせた。
「うん、わかればよろしいっ」
両腕を組み、ふんぞり返ってみせる様がおかしくて、レックスはわざと乱暴にくしゃくしゃとの頭を撫でた。
昼下がりののどかな時間。
笑い声が、鬼の御殿に響き渡った。
「……でも、やっぱりヤードに習うの、やめない?」
「まだ言ってる……
じゃあどうしろって言うの?」
「俺が教えるよ。
のためなら、ちっとも苦になんてならないからさ」
「……無理だけは、しないでよね。
しまいには倒れるわよ、その調子じゃ」
「そしたら、が看病して」
「…………はいはい」