……どこからか、声がする。
――ごめんね――
謝るなと、私は言った。
あんたが謝る理由がどこにあるのかと。
――ごめんね……――
しかし声はなおも謝り続ける。
なぜ謝るのだ。
謝るなら、最初から……
――いっしょに、いけないの……ごめんね……
わたし、あなたたちと一緒にいられて………………――
初めて、声の主が姿を見せた。
「…………!!」
その、綺麗すぎるほどの笑顔を見て。
私は、泣きそうになった。
Children don't cry, Adults can't cry
は、布団を跳ね除けて飛び起きた。
「はぁ、はぁ……ッッ……」
肌がぞくりと粟立つ。
ぶるぶると、身体が小刻みに震えていた。
瞳の端から、生理的なものか感傷からか、涙が一筋零れ落ちる。
はそれをやや乱暴に手の甲で拭うと、ふらつく足取りで部屋の外へと出て行った。
* * *
空に、大きな月が浮かんでいる。
孤児院の屋根の上に登ったは、寝間着にしているシャツと膝下までの丈のズボンといういでたちのまま、風にあたってぼんやりとそれを眺めていた。
全身を支配していた悪寒は、まだ治らない。
小さくため息をついてから、気を静め、瞑想すべく顔を伏せて瞳を閉じたとき、後ろから声がかかった。
「――おまえ、こんな時間に何してるんだ?」
呆れたような口調と、声。
ゆるゆると振り返ると、そこには予想していた通りの顔があった。
「――ソル。
あんたこそどうしたのさ」
尋ねると、ソルはやれやれといった調子で首を軽く横に振った。
「調べ物をしてて、そろそろ寝ようかと思ってランプの火を消したところで、廊下から物音がしたんでな。
見てみたら、おまえがふらふら廊下を歩いてたのさ」
「……てことは、私がここに来た時からいたってこと?
何ですぐ出てこなかったの?」
「お前、様子がおかしかったからな。
何をしようとしてたのかを確認してからでも、声をかけるのは遅くないだろうと思ったんだ。
それなのに、外に出たと思ったらぴくりとも動かないだろ」
「それで、根負けして出てきたってわけか」
「……お前なぁ」
聞き取りようによってはあんまりな物言いに、さすがにソルも渋い顔をした。
まぁいいと呟き、の隣に腰を下ろす。
「で、だ。
結局おまえは何をしてたんだ?
こんな時間にこんな格好で。風邪引いても知らないぞ」
「大きなお世話ー。
ただの月見だよ」
ソルの言葉にはふてくされたように顔を背けたが、横からすっと伸びてきた手に顔を捕らえられ、そちらの方を向かされた。
「な……!」
振り向かせるためにと頬に手を添えられ、その手の主――ソルの顔が、吐息がかかりそうなほどの距離まで近づけられている。
突然のことに、は頭の中が一瞬真っ白になる。
真剣な瞳に捕らえられ、身動きが取れない。
……が、次の瞬間発せられたソルの言葉にすぐに現実に引き戻された。
「……顔色、よくないぞ。
あまり無理するんじゃない」
「え?」
は一瞬きょとんとして、それから脱力したように肩を落とした。
「お、おい!
大丈夫か?」
「ん、へーき……」
まさかあんたの行動が原因だとツッコむわけにもいかず、心配そうなソルにそれだけ言って、姿勢をもとに戻した。
それから空を見上げ、ポツリと呟いた。
「夢見が……悪くてね、ちょっと。
昔ってほど昔じゃないけど、ちょっと前のこと、思い出しちゃって」
「……そうか」
ソルはの横顔をちらりと見てから、彼女と同じように夜空に目をやる。
「ともだちが、いたんだ。
歳が近くて、仲がよくて。
ちょっと内向的だったけど、優しくて。
好きになった男の子の力になりたいんだって、いつも一生懸命で。
ずっと……一緒にいられるって。
そう、思ってたのに……」
声が、かすかに途切れる。
「なのに……
自分を犠牲にして……私たちを、守って……
あの子……最後まで、笑ってた……
『一緒にいられて、幸せだった』って、そんなこと……言っ、て…………ッッ!」
だんだんと涙声になっていたものが、ふいに途切れ、消えた。
ソルがを見ると、は抱えた膝に額を押し付けるようにうずくまっていた。
顔は埋もれていて見えないが、丸まった背中が震えている。
そっと、ソルはの肩に腕を回した。
不意に感じたぬくもりに、びくっとが身をすくませる。
ソルは、何も言わない。
ただぽんぽんと優しく肩を叩く。
その、やや不器用とも言える優しさに、はぎゅっとソルの胸にしがみついた。
嗚咽を漏らすの身体を、今度はぎゅっと抱きしめ、髪を撫でて背中を優しく叩く。
普段戦っているときは頼もしくさえ見える背中も、刀を振るっている腕も、とても華奢で。
今まで彼女はこの細い肩に、どれだけの重みを背負ってきたのかと、ソルはわずかに目を伏せた。
「……ごめんね。
服、汚した」
ひとしきり泣いたあとの、の第一声はそんなものだった。
彼女らしいと言えば彼女らしいが、なんだかどこか微妙さが消えない物言いに、ソルは苦笑いを浮かべる。
「気にするな。
おまえこそ、少しは落ち着いたのか?」
顔を上げないに、声だけは平静を装って尋ねると、はこくりと頷いて、のろのろと離れる。
離れてからもは俯いたままだった。
首をかしげて、ソルはに声をかける。
「おい、?」
「…………」
「?」
「…………………」
いつまでたっても返事がない。
ソルがの顔を覗き込んでみると。
「「…………」」
の顔は真っ赤に染まっていた。
事情があったとはいえ、ソルの胸に飛び込んで泣いてしまい、そのソルも自分を抱きしめなぐさめてくれた。
その事実が、元来照れ屋のきらいがあるにとっては、とても耐えられるものではなかったらしい。
恥ずかしさやら情けなさやらが入り混じり、ばつが悪そうに顔を紅潮させたままのと目が合ってしまい、それはソルにも飛び火する。ソルも、今さらながら自分のしたことに気づいたようだ。
そのままお見合い状態で俯き、お互い真っ赤な顔で黙りこくっていた。
「あー……その、なんだ……」
沈黙に耐えかね、ソルがおもむろに切り出した。
「……悪かったな。
何か、勝手に」
「…………べつに、ソルが謝ることじゃないじゃん」
は目を逸らしたままで素っ気なく告げる。
「ていうか、ありがと。
話して、泣いて……少しは気ィ晴れたよ」
「あ、あぁ」
素っ気ないのではなく、ただ照れているだけだったらしい。
が、ばつの悪そうな顔のまま、ソルの方に向き直って照れくさそうに言った。
「ほんと、感謝してるんだよ。これでも。
人前で泣くのなんて、ほとんどなかったことだし」
ソルは黙っての言葉に耳を傾ける。
「泣ける場所って、なくなっていくんだよね。
子供のうちは、早く大人になりたいって思うから、泣かないように泣かないようにって意地になって。
でも大人になると、だんだん泣けなくなってく。
体面とか、いろんなこと気にするようになっちゃってさ。
小さい頃は、泣かないのが大人なんだって思ってた。
でも……違うんだ。
泣かないんじゃなくて、“泣けない”のが大人なんだよ、きっと」
どこか哲学的な言葉に、ソルは自らの記憶を自然と思い起こしていた。
甘えが許されない日常で、自分も『泣く場所』を失っていった。
そして、“泣けない”現実を思い知る。
今は。
きっと、泣きたくても泣けない。
涙を流す権利が、ないような気がして。
「――――ソルも」
不意に名を呼ばれ、ソルは思考を目の前の少女の元へと戻した。
「ソルもさ、泣いていいから」
「…………!?」
見透かしたような言葉に、ソルはわずかに目を見開いた。
「泣く場所、ちゃんとあるから。
ソルがしてくれたみたいに、私もソルの泣く場所になる。
いっつも、何か抱えてるみたいな顔してると、辛いでしょ。
何を抱えてるかなんて、聞いたりする気はないけど……
隣にいることは、できるから」
そう言って、は微笑んだ。
ソルは言葉を失って、ただその笑顔に見入る。
背負うものも、隠している事実も、確かにある。
その事を後ろめたく思いながらも、自分の負うべきものと、諦めていた。
けれど、は。
隠していることを暴くのではなく、それすら包み込むもので。
「…………ありがとう…………」
感謝の言葉が、自然と口をついた。
は、嬉しそうに笑い、頷いた。
* * *
――翌朝。
「う〜〜……」
「あんな格好でずっと外にいるからだ」
熱を出して寝込むのベッドの隣で、ソルがタライに張った冷水に浸したタオルを絞っている。
「だって……」
「言い訳は聞かないぞ。
いいから、もう寝ろ」
言いながら、絞ったタオルを畳んでの額に乗せた。
そのままベッドの脇の椅子に腰掛けて、持ち込んだ本に目を落とす。
はまだ何か言いたそうだったが、ひんやりとしたタオルの感触が気持ちよかったのか、ホッとした顔で目を閉じた。
ほどなく寝息が聞こえてくると、ソルは本を閉じ、の顔をのぞきこんだ。
脳裏蘇るのは、昨日のの言葉。
ソルはふっと微笑んで、の顔にかかる黒髪をそっと払った。
「俺も、おまえの隣にいるからな……」
囁きかけた言葉に、答えが返るはずもなく。
ソルは再び本を開いた。