テエロボクサー外伝 〜広瀬奈緒〜 (H.N モズ落とし さん)






 広瀬奈緒がテエロボクサーに超新星として現れてから1年。今や、彼女は押しも押され
ぬスーパースターへとその位階を昇り詰めていた。
 そもそも、奈緒の公衆の面前へのデビュー事態が鮮烈的であった。女子アマチュアボク
シングのチャンピオンという経歴ながらプロの男子ボクサー、ステルス加藤を完封KO。
しかも、奈緒はライトフライ級、ステルス加藤はスーパーライト級。八段階にも及ぶ階級
差を覆しての完勝である。
 だが、この勝利には常に「まぐれである」「幸運であった」果ては「八百長があった」
との評価を下すものもいた。もっとも、それらの評価はボクシングは男の世界であると言
う思いが奈緒の実力を認めたくがないゆえのものだったと言える。
 しかし、そう言った評価も奈緒のテエロボクサーデビュー第3回戦で封殺された。
対戦相手のマナブがどんなに金をつまれてもああなりたくはないと言う凄惨な様でKOさ
れるに至ったからだ。
 そこから、奈緒は破竹の勢いで連勝を重ねていた。何しろ毎試合、無傷で勝利するので
ある。他の選手が最低でも2、3ヶ月のサイクルで試合を続ける中、奈緒は毎月リングに
上がり続ける。
 その結果、奈緒はわずか1年でメインイベンターに名を連ねていた。

 そして、今日も「月刊・広瀬奈緒」と銘打ったメインイベントが開催されようとしてい
る。対戦相手は佐々木徹。身長175センチ、体重74キロとミドル級に属し、身長16
5センチ、体重47キロとライトフライ級の奈緒と比べ身長で10センチ、体重では30
キロ近い差があった。
 更に徹は打たれても前に出続けてインファイトで相手を仕留めることから「戦車」の異
名をとっている。
 対する奈緒はフットワークと鋭いジャブで相手を翻弄し相手の反撃にカウンターを合わ
せたと思えば、一気に相手の懐へ入り怒涛のラッシュを仕掛けるオールラウンダー。しか
も、そのパンチは完璧に体重を乗せ正確無比に相手の急所を射ぬく。
 正に力と技のぶつかり合いと言うカードである。
 また、リング中央で睨み合う二人の姿も対照的であった。
 厚い筋肉でその肉体を鎧う徹。その姿は誰が見ても打たれ強いインファイターとして、
「戦車」と言う異名に納得するだけの説得力を持っている。
 かたやデビュー当時から僅かにではあるが身体が締まり、うっすらと筋肉を身体に載せ
た奈緒。筋肉といえども錘となり、彼女の持ち味であるスピードを殺すことから最低に留
められたそれは、女性アスリート独特の健康的な色香を匂わせていた。
 鍛え抜かれた徹の前では吹けば飛びそうな奈緒。奈緒が大物喰いを果たすのか徹が「月
刊・広瀬奈緒」を阻止するのか、観客達の期待が否が応でも高まる中、ゴングが打ち鳴ら
され戦いの火蓋が切って落とされた。

 ゴングと同時に左のグローブを差し出し挨拶をかわそうとする奈緒。しかし、徹はそれ
を無視した。
「なるほど。挨拶する気もないくらいやる気なんだ?じゃ、それに応えてあげる」
 徹の反応に奈緒は軽快なフットワークを見せ付ける。
 奈緒は後ろ髪をポニーテールに纏め、黒地にファイヤーパターンのタンクトップとトラ
ンクスに身を包み、拳もファイヤーパターンの入った黒地のグローブで覆っている。足元
は黒のリングシューズで固めていた。
 それは奈緒のインファイトから燃え盛る炎の激しさを感じ取ったあるファンからの贈り
物だった。添えられていたファンレターには奈緒をボクサーとして心の底から応援してい
ると綴られており、そのことが奈緒には誇らしく愛用し続けている。
 一方、トランクスもグローブ、果てはリングシューズまでもがオリーブドラブで統一さ
れ、GIカットと言う髪型は明らかに自分の異名を意識した徹はフットワークを用いずジ
リジリと間合いを測る。
 類まれなるスピードスター、奈緒とフットワークで勝負してもその結果は目に見えてい
る。ならば、飛び込んでくるところを迎撃しようという作戦が眼に見えていた。
 目に見えぬ駆け引きの圧力により会場が静まり返り、奈緒のリングシューズがマットを
擦る音だけが響き渡る。そして、その擦過音が鋭く響き渡った。
 突っ込んで来る!そう判断した徹が奈緒の突進を止めるべく左ジャブを放つが、それは
虚しく空を切った。それどころか徹の間合いから遥か遠い位置に奈緒は存在している。
「あはは!そんなに驚かなくていいわよ。今のはフェイント……」
 奈緒が徹の反応を挑発するかの様にニコリと笑う。しかし、その笑みは一瞬で消えると
テエロボクサーの強豪にふさわしい鋭く、凄みのある表情が浮かんでくる。
「それじゃ、本番行くわよ!」

 今度の奈緒のフットワークは徹の目に追いきれるものではなかった。わざわざ、宣言し
たにも関わらず奈緒の全く反応できていない。
「鬼さん、こちら♪」
 奈緒の声が突然、徹の左サイドから聞こえてくる。しかもそれは奈緒の制空権内だった。
 徹の死角から拳が風を切る音が鳴り、顎先から脳天へと衝撃が走る。死角に回りこんで
からの奈緒の右ストレート。





 敢えて相手の得意とする戦いを挑む挑戦的な奈緒の性格から、正面からぶつかって来る
とばかり考えていた徹にはこれ以上もない奇襲攻撃だった。「戦車」の異名を取る徹も、
流石にこの一撃には揺らいだ。
 しかし、持ち前のタフネスさですぐに持ち直す。
「判ってはいたけど、これくらいじゃ仕留められないよね」
 徹が倒れなかった事が心底嬉しい。そんな口調と共に奈緒は鋭いジャブを2発、3発と
繰り出してくる。
 徹はそのジャブをガードするが打点に違和感を感じる。奈緒のジャブは加藤を仕留めた
時と同じ手口を狙ってると徹はすぐさま気づいた。
 しかし、それも今、この瞬間にどうにかなるわけではない。徹は落ち着いてに反撃へと
転じた。
 身長差、それはすなわちリーチの差に直結する。奈緒のジャブの範囲ならば、徹のフッ
クが届く範囲である。しかもこの間合なら十分、死角から狙える。徹は奈緒を一撃で仕留
めるべく奈緒のジャブを右手でガードしながら左フックを放った。
 奈緒の側頭部へ目掛けて突き進む、徹の拳。だが、それは目標に到達することはなかっ
た。奈緒の動体視力が徹の筋肉の動きを察知し回避行動をとらせていた。
 ダッキングで低い姿勢となり徹の左フックが奈緒の頭上を通り抜けたとき奈緒は右足で
リングを蹴り込み、腰をひねらせ右の拳をまっすぐに突き出す。その先には徹の鳩尾が存
在した。
 どれだけ筋肉で身体を覆ったとしても鍛えることのできない徹の鳩尾を奈緒の右ボディ
ストレートが貫く。
「ゴ……フ……ッ」
 極力低い姿勢から上向きに突き出された奈緒の右拳が徹の横隔膜を痙攣させ呼吸困難に
陥れる。徹の筋肉が弛緩し鎧の機能を失った。

「反撃ぐらい、織り込み済みよ!」
 してやったり、そんな口調で奈緒は更に徹のボディを攻め立てる。先ずは間合いを詰め
てからの左右のボディアッパー。立て続けに鳩尾を攻めることで徹の肉体の機能不全を引
き伸ばす。
 更に数セット、左右のボディアッパーを突き上げ徹の胃を押し潰す奈緒。鍛えられた徹
の肉体を面白いように奈緒の拳が抉る。
 徹の食道を胃液が駆け上ろうとする。だが、徹のボクサーとして訓練された肉体はそれ
を全力で阻止した。更に身体が勝手に反撃の手を繰り出す。
 その反撃は何れも不発に終わった。奈緒の制空権ではリーチに勝る徹のパンチでは回転
が間に合わず先手先手をとられ続けた。
 奈緒はボディアッパーからボディフックへと攻撃の手立てを切り替える。特に右の脇腹、
肝臓を重点的に叩いた。
 立て続けに神経の集中する内臓器官を責め立てることで身体機能を一時的に麻痺させ、
スピードに勝る奈緒が徹の攻撃を潰しながら一方的にダメージを与え続けられる。一気に
スタミナを奪おうという奈緒の算段だ。
 試合中とは思えない徹頭徹尾、基本に則り華麗なフォームのまま拳を繰り出す奈緒。理
想的なフォームの打撃は奈緒の体重が乗り切り、遺憾なくその威力を発揮した。
 もしや、このまま決着がつくのでは?観客達がそんな思いを抱いた時、徹は不屈の精神
力を持って勝手に動く肉体の制御を取り戻した。
 間合いは完全に奈緒のもの。ボディをガードすれば奈緒はすぐさま標的を頭部へと切り
替えるだろう。かと言って足を止めて打ち合ってもパンチの回転力で押さえ込まれるのは
たった今、証明されたばかりだ。
 徹は奈緒のパンチを貰う覚悟で先ずは後退を始めた。このまま、調子付いて追撃をして
くるようなら、カウンターを狙うつもりでもいる。
 しかし、奈緒は徹の思惑には乗らず彼の後退と同時に自分の身も引いた。
 そこで第1ラウンド終了のゴングが鳴る。一発、貰えば即KOと言う体重差にも関わら
ず獰猛に、それでいながら華麗な体捌きを魅せつけた奈緒に観客達が沸き立っていた。

 徹は自分のコーナーに戻ると用意された椅子にどっかりと座り込んだ。
「いくら何でも貰い過ぎたぞ、徹」
 セコンドについていた徹が所属するジムの会長がたしなめる。
「会長、悪い。加藤をやったとは聞いてはいたが……まさか、あれだけのモンだとは……」
 息を整えながらぶっきらぼうではあるが素直に会長の言葉に応える徹。かつてはどうし
ようもない不良少年だった徹だが、今ではそんな過去があったとは微塵も感じさせない。
 会長がボクシングを引きあわせ更生させてくれたからだ。今では真摯にボクシングに打
ち込む好青年として通っている。
 そんな徹は恩のある会長の言葉に神妙になっていた。過去の反動のせいか、この青年は
時折、人の言葉を真剣に考えすぎる節がある。
 ボクシングは心臓と頭脳のスポーツとも呼ばれている。第1ラウンドの散々たる結果は
奈緒の心理戦に乗せられたと会長は考えていた。
「そんなに深く考えるな、徹。お前はあの小娘よりパンチのある相手に、もっと強烈なの
を貰っても勝ってきただろう?今まで通りやればいい」
 幾ら打たれ強いとは言え年下の女にやり込められればショックも受けるだろう。ここは
たしなめるより、励まして力付けるべきだ会長はそう考えた。
「そうだな、会長。俺があんな女にKOされるわけがない」
 会長の言葉に徹が自身を取り戻す。
「そうだ。あの調子で打ち続けてれば、あの女も何れバテる。そうなれば、お前の一発で
勝負がつく」
 上向いた徹の調子にあわせて会長は相槌を打つ。その言葉に徹は自身を取り戻したのか
グローブを打ち合わせて闘志を示した。
「その息だ、徹。いいか、あいつは自分のスピードに自信を持っている。だから、こっち
も動いて揺さぶりをかけろ。動かして動かしてスタミナを奪え!いいな!」
 インターバルが終わりリング中央へと向かって飛び出していく徹。会長はその背中へ向
けて檄を飛ばした。

 再びリング中央で対峙する奈緒と徹。先ずは第1ラウンドと同様に間合いの測りあいに
なった。
 しかし、第2ラウンドは徹もこまめに立ち位置を変えながら牽制のジャブを打っていく。
ただ待っているだけであれば、奈緒はそのフットワークで易々と懐へと潜り込んでくる。
徹はそれを防ぎつつ奈緒にも立ち位置を変えさせることで消耗を誘っていた。
「なるほど、そうやって私に揺さぶりかけようっていうのね?でも、甘いわよ」
 徹のジャブの戻りに合わせて奈緒が踏み込んでいく。徹は矢継ぎ早に次のジャブを繰り
出していった。
 だが、それは風切り音のみを発し不発に終わる。奈緒はヘッドスリップで徹のジャブを
躱しながら一気に懐へと踏み込んでいた。
 鋭い風圧、続いて乾いた打撃音。奈緒はヘッドスリップしながらジャブを放っていた。
それは一直線に徹の顎先を捉える。
 だが、徹は動じることもなく冷静に右ストレートを突き出した。若干、間合いは近すぎ
るが最速の反撃手段としての選択肢。
 奈緒はそれをウィービングで躱してから上半身の捻りを利用して左フック。再び徹の顎
先へと打ち込む。
 徹の脳が暴れ、頭蓋の内側に叩きつけられた。一瞬の沈黙、その間に奈緒は更に徹の右
サイドに回りこんでから矢継ぎ早に左ジャブを繰り出した。
 徹の伸びきった右腕が戻るまでに、奈緒は先ほどのフックがヒットした部位に命中精度
100%の定点狙撃を数発。更に徹の脳がシェイクされる。
 しかし、徹はそれを耐えぬいて奈緒と向き合った。足を止めて敢えて打ち合う姿勢を見
せるリードジャブで今一度間合いを測る徹。
 その先にはすでに奈緒の姿はなかった。次は左サイドから奈緒のジャブが機械の様な精
密さで顎先へ着弾する。
 奈緒のスピードへの自信は過剰なものではなくそれを弁えていた上での信頼とも言うべ
きものだった。無駄に動き回るのではなく相手の行動を見極め、或いは先読みした上での
フットワーク。
 会長の策はあっさりと不発に終わった。だが、徹はそれを嘆くことはない。自分の武器
が何であるか。それをはっきりと自覚していたからだ。

 
 第1ラウンドでそれなりにダメージを与えたはずの徹が落ち着き払っている。それどこ
ろか最初の硬さはなく余裕と自信に満ち溢れている。
 そんな徹の様子に奈緒は体の芯が熱く疼き、それが全身へと広がっていた。と、同時に
頭の中では目の前の男をいかにして征服する為の手管が幾重にも巡らされていく。
 奈緒はそれらの策を現実のものとすべく動き始めた。先ずは一気に間合いを詰めてから
閃光のようなジャブを数発、そして右ストレート。
 対する徹はそれらを巧みにガードしてから、反撃の手を出していく。奈緒にこれ以上、
自分へと張り付かせないための牽制のジャブから右ストレート、更に左フック。どちらか
と難易度は低いコンビネーションだが奈緒からみれば致命的な破壊力を持つ。
 奈緒はそれらを危なげなくウィービングとダッキングを駆使してスルーしていく。そこ
から、コンビネーションで生じた徹の隙をつき、右ボディアッパーから左のボディフック
を流麗な動作で叩きこんでいく。初弾が徹の鳩尾を突き上げ二弾目が肝臓を撃ちぬく。
 しかし、会長の言葉で自信を持った徹は第1ラウンドのように闘争本能に任せて腕を振
り回すような真似はしなかった。持ち前の打たれ強さで踏みとどまり右のボディアッパー
を突き上げる徹。
 もっとも、その反撃は奈緒には想定済みだった。手堅く、バックステップでやり過ごし
てから再び間合いを詰めると同時に右ストレート。
 奈緒の拳がグローブの意匠通り灼熱感を伴い徹の顔面を真正面から撃ち貫く。だが、そ
れだけではとどまらなかった。着弾と同時に奈緒の拳が錐のように捩じ込まれる。
 流石の徹もこれには首が吹き飛んだ。たたらを踏んで後退する徹。
 奈緒は更に踏み込み追撃を開始した。真正面からではなく、顎先をできる限り横から狙
える位置に付きジャブの精密射撃を繰り返す奈緒。
 徹はそれに耐えると奈緒へ向かって真っ直ぐに拳を突き出した。フックやアッパーでは
振りが大きすぎて奈緒を捉えられないと判断した上での選択。
 しかし、奈緒はあっさりとサイドステップでかわすと今まで立っていたのは逆サイドへ
と回り込み、ジャブによる超高精度の狙撃を顎先へと打ち込む。
 人間の首は意外と正面からの衝撃には強い。しかし、横からの衝撃には耐えられるよう
にはできていない。ジャブとは言え横から顎を打たれれば、テコの原理で脳が揺さぶられ
る。
 奈緒は徹の脳へと少しずつ毒を盛るようにダメージを蓄積させていくつもりだった。無
論、徹もその意図には気づいていた。
(これくらいで俺が止まるわけがねぇ!)
 徹は心の奥底でそう叫ぶと奈緒のジャブをもらい続けながらも向き直り、渾身の右スト
レートを放った。

 激しい破裂音が会場に響き渡る。その重い衝撃音に徹が奈緒を仕留めたのではと一瞬、
静まり返った。
 しかし、リング上では徹の顔面へとカウンターの右ストレートを突き刺した奈緒の姿が
あった。しかも、その拳はかなりの捻りが加えられている。
 奈緒は徹の右ストレートを躱しながらコークスクリューブローを繰り出していたのだっ
た。
 二人は互いに暫く、そのままの姿勢で彫像のように立っていた。二人の間に赤い雫が滴
り落ちる。それは奈緒のコークスクリューブローが徹の鼻を潰した証だった。
 やがて、徹が尻もちをつくようにその場へと崩れ落ちる。
 咳き一つ無かった観客から爆発音のような歓声が発せられた。レフェリーがカウントを
開始する。
 奈緒はそのカウントを聞きながらニュートラルコーナーへと向かっていった。そこで、
調子でも確かめるかのように軽い跳躍をしてから肩や首を回す。
 徹はそんな奈緒の様子を目にしながらゆっくり立ち上がり、カウント9ギリギリでファ
イティングポーズを取る。
「俺は加藤やマナブのようには行かないぜ」
 鼻を潰されダウンも奪われたと言うのに、まだまだ余裕だと言わんばかりに徹が宣言す
る。そこへレフェリーが試合再会を身振りで示した。
 徹が一直線に奈緒へと突き進む。対する奈緒もそれに呼応して一気に間合いを詰めた。
 先ずは奈緒が左右のフックで徹の顎先を揺さぶる。対する徹はそれに構わず右フックを
振り回す。
 奈緒はそれをダッキングで躱すとガラ空きの肝臓へと左のボディフックを叩き込んだ。
その上、行き掛けの駄賃と言わんばかりに左右のボディアッパー連打で徹の胃を攪拌し鳩
尾を突き上げる。
 しかし、それでも徹は止まらない。左のアッパーで奈緒の顎を掬おうとする。
奈緒はそれをスウェーバックでやり過ごしてから右ストレートを徹の右目の辺りへと突き
出した。更に電光石火のジャブを数発入れてから再び右ストレート、左フック。いずれも
高精度の精密射撃で徹の右目を捉える。
 そこへ徹は身長差を生かし振り下ろすような左ストレート。だが、これも奈緒はやり過
ごした。
 徹が重いパンチを一発繰り出すと、奈緒はそれをスルーして反撃のコンビネーションを
叩きこむという展開が暫く続く。奈緒は徹の顎先、目元、腹部を責め立てた。
 だが、徹も動きを鈍らせるようなことはなく、遂に第2ラウンド終了のゴングが鳴らさ
れた。

 散々、打たれた徹だが意気揚々と自コーナーへと戻ってきた。
「また、打たれすぎちまったな、会長」
 確かに第1ラウンドから比べれば、奈緒の攻撃は激しかった事は確かである。しかし、
徹はダメージを受けてるとは思えない口調で自己申告した。
「ま、全然効いてないけどな」
 更に余裕のある口調でそう告げてから徹は椅子に座った。
 会長もその様子を見て第1ラウンド終了後の態度は女にいいだけ打たれたと言う精神的
ショックのほうが大きかったと見て取った。しかし、第1ラウンドから打たれ続けた徹の
ボディには痣が浮かび始めている。
 しかもダウンも奪われたと言う動かしようのない事実と潰れた鼻からの出血も気になっ
た。
「大丈夫だ、会長。次のラウンドで決めてくる」
 なにか言いたげな会長を制すると徹は宣言した。それは会長の言いたかったことでもあ
る。
 徹の打たれ強さには今回ばかりも会長は驚いていた。ダウンを奪われた後でもその動き
は鈍っていない。徹が奈緒のパンチが効いてないと言うのはただの強がりでもないとも言
える。
 だが、鼻が潰れた状態で試合を続ければさほど遠くもない未来に息が上がってくるだろ
う。だからこそ、会長は早く仕留めろと言いたかった。
 そこで徹は会長の心配を見越した上で宣言をしたのである。会長は徹へ言いたかったこ
とを全て飲み込んだ。
 会長と徹の視線が合う。二人は互いに勝利を誓い頷きあった。

 もう一方のコーナーでは奈緒が瞑目していた。拳に残る徹の腹筋の感触。硬く鍛え上げ
られた、それは男と戦っていると言う事を強く意識させる。
 しかし、その感触ともそろそろ別れを告げる時がやってくる。奈緒は徹の鼻を潰し、ま
ともな呼吸のできない状態に追い込んでいた。呼吸が乱れれば、たとえ鍛えあげられた筋
肉でも緩み始める。
 奈緒は、その緩んだ筋肉を自分の拳が貫く様を想像して背筋がゾクッと震えた。だが、
それも通過点にしか過ぎない。
 真の興奮はあの強靭な肉体を誇る男をKOした瞬間に訪れる。その為に、奈緒は他にも
しっかりと置土産を残してある。
 ゆっくりと目を開け対角線上のコーナーに居る徹に奈緒は目をやった。未だ平然として
いるがその身には毒が回り始めている。
 先ずは予め、与えておいたボディへのダメージ。その腹筋が緩めば更にダイレクトにダ
メージを与えることが出来る。そうなってからボディを徹底的に責め芋虫のように蹲らせ
るのも悪くはない。
 次に顎先へとコツコツと当てたパンチによる脳へのダメージ。徹は何事もなかったかの
ようにしているが何れ臨界に達する。得意のカウンターを幾つか取ればその時期は早まっ
ていくだろう。
 最後に右の目元へと集中したパンチ。やがて、腫れ上がり視界を塞げば距離感が狂い、
正確なパンチも打てなくなれば、回避もままならなくなる。直接、KOに繋がる要素では
ないが他の要素と組み合わせれば奈緒の勝利は盤石なものとなる。
 それらを踏まえた上で奈緒は再び勝利への歓喜、それを上回る男を征服した快楽を得る
ために脳裏に張り巡らされていた手管を絞り込んでいった。
 そこで、第3ラウンド開始が告げられる。

 奈緒と徹、二人はそれぞれの思いを胸にリング中央へと向かっていった。
 第1ラウンド、第2ラウンドと相手の様子をみることから始めた徹だったがこのラウン
ドは積極的に攻め込んだ。セオリー通り牽制、或いは距離を測るジャブを放ってから、コ
ンビネーションを組み立てていく。ストレート、フック、アッパー、それらを上下に打ち
分け更にはフェイントを絡める。
 奈緒がコンビネーションの隙間に飛び込んでくるところを仕留める算段だ。ところが奈
緒はその拳の嵐の中に平然と身を置き、ウィービング、スウェー、ダッキング、パーリン
グとディフェンステクニックを尽くし華麗に捌いていく。
 だが、それも長くは続かなかった。徹のパンチから正確さが失われる。見れば徹の右目
の辺りが腫れ上がっていた。
 奈緒はその様子に口元へ笑みを浮かべてから反撃を開始した。先ずは徹の胸に向けて渾
身の右ストレートを打ち込む。
 奈緒の拳が徹の筋肉の境界線を捉え心臓に痛打を与えた。ハート・ブレイク・ショット、
心臓へと強打を与えることで相手の脈を乱し、相手の動きを止めるテクニックである。
 一見、グラビアアイドルにも見える美少女アスリート、奈緒。その奈緒が持つボクサー
としての資質に観客が目を見張った。
 観客の注目を一身に浴び奈緒は次の手を打つ。左右のフックで徹の顎を横に揺さぶった
上にアッパーでかち上げる。
 徹の身体が傾ぎ始めた。これでKOか?観客の誰もがそう思った瞬間、徹は踏み留まり
奈緒へと向けて右の拳を真っ直ぐに突き出した。
 奈緒はそれをダッキングで躱しながら踏み込み低い姿勢で撓めた筋肉を一気に解放し右
の拳を突き上げる。それは鳩尾ではなく胃の真上に吸い込まれていった。
 ずぶりと奈緒の拳が徹の腹筋へとめり込んで行く。奈緒を捉えようとラッシュを放ち空
振りを繰り返した結果、徹の呼吸は乱れに乱れていた。
 もう奈緒の拳を阻む徹の強靭な腹筋は機能していない。奈緒は腰を捻り更に左のボディ
アッパーで徹の胃を抉った。

 徹が膝からガクリと崩れ落ち、ついで頭をリングへと落とした。
「う……げぇぇぇ……」
 腹を抑え苦しさの余りうめき声を漏らす徹。その口から唾液にまみれたマウスピースと
食道を逆流してきた胃液が溢れでた。そこに鼻から流れでた血が血溜まりを作る。
 レフェリーがカウントをはじめる中、奈緒はニュートラルコーナーへと向かう。そして、
振り返ると徹がマウスピースを咥え必死に立ち上がろうとしている姿が視界に飛び込んで
きた。
(まだ、私を熱くさせてくれるんだ……)
 その様子に瞳を潤ませ、頬を赤く上気させながら奈緒は心中で呟いた。
 一方、徹は今まで自分を支えてくれた人たちを思い返し立ち上がる力へと変えようとし
ていた。
 喧嘩に明け暮れていた自分を拾い上げ一端のボクサーに育ててくれた会長。不良だから
と腫れ物を扱うように接することはせずに共に練習をしてきたジムの仲間やトレーナー。
 プロテストに合格したことをまるで自分のことのように喜び、お前が真面目にボクシン
グをやるなら俺達も真面目に生きていくと言ってくれたかつての不良仲間。
 彼らに対する思いが四肢に力を与え、遂に徹は立ち上がりファイティングポーズを取っ
た。
 またしてもカウントは9。今度は2ラウンドでのダウンの時のように余裕はない。だが、
まだ立って戦える。そんな思いで徹は奈緒を睨みつけた。
 レフェリーの試合再開の合図を取る。
「次のダウンで勝負を決めてあげる!」
 口からは挑発的な言葉を通るに投げかける奈緒。しかし、徹の目に宿る闘志に奈緒は今
まで徹を追い詰めて来た冷徹さを取り戻していた。
 息が上がり、内臓へのダメージで弱った徹に真正面から奈緒はぶつかっていく。
 手始めに奈緒の定番とも言える高速ジャブの連打。初弾が徹の顔面を突き刺す。
 思わずガードを上げる徹。しかし、奈緒のジャブは徹の肩口や肘、ガードを上げてガラ
空きになったボディへと散っていく。
 奈緒のショットガンパンチに一瞬、何処をガードすべきか惑う徹。一瞬の迷いを見せた
徹は奈緒にとって格好の餌食だった。

 奈緒は徹の右脇をすり抜けながら右のフックを繰り出す。
「グ……フ……ッ」
 もはや鎧としての昨日を失った腹筋に奈緒の拳が手首まで埋まっていく。徹の身体がく
の字に折れ曲がり後退した。
 これ以上、ボディを貰ってはたまらない。そんな思いで通るはガードを下げる。
 次に奈緒が標的に定めたのは徹の露になった顎だった。オーソドックスに左前に構えて
いた奈緒が右足を前に踏み込みながら右拳を振り上げる。奈緒の数あるスペシャルブロー
の一つ、スマッシュだ。
 顎を思い切りつき上げられ天を仰ぐ徹。その視界にカクテル色の照明が眩しく目に射し
こんでくる。その間に、奈緒は元のオーソドックスなファイティングポーズに戻っている。
 奈緒の全体重が乗ったパンチに伸び上がった徹。こんな状態でまた、ボディを貰っては
堪らないと言わんばかりの徹は無意識の内に腹部をかばっていた。
 だが、徹の無意識の行動に反し衝撃は顎から脳天へと突き抜けていった。伸び上がった
徹の身体が戻るところを狙った奈緒の腰の入った右アッパーが再び徹の顎を突き上げる。
 人間の頭部は意外に重い。落下する自重に下から突き上げる奈緒の拳がカウンターとな
り派手の脳が揺さぶられる。
 徹がよろよろと後退した。そこへ奈緒の高精度のジャブが徹の顎へと襲いかかる。
 再びよろめき酔っぱらいのように千鳥足で後退する徹。遂に徹はジャブですらふらつく
程、脳へのダメージが蓄積していた。
 奈緒が徹を仕留めるために用意した手札はここですべて出揃った。そして、徹は現実に
追い詰められている。後はもう時間の問題と言えた。
 徹をマットに沈めるべく、奈緒は次々とパンチを繰り出していく。徹は必死に奈緒のパ
ンチをガードしようと試みるが、奈緒は巧みにガードの穴を突き、隙間を縫いその拳を徹
の急所を正確に貫いていく。
 奈緒の拳が徹を捉える度に玉のような汗が飛び散る。
 奈緒のパンチが徹の頭部に着弾すれば首が吹き飛びそれにつられて頭蓋の内側ではシェ
イカーの中の氷のように脳が叩きつけられる。
 奈緒の拳が徹のボディを捉えれば内蔵が押し潰し攪拌していく。。
 それでも、徹は風船のように飛んで行きそうな意識の細い糸を必死に手繰り、一発でも
当てれば逆転できると言う望みを失って居なかった。
 その思いに必死に付き従い、徹は最後の力を振り絞り右フックを繰り出す。
 それは奈緒の左ボディアッパーが徹の鳩尾を抉った瞬間だった。ガードも後退もすでに
間に合わない。その一撃を繰り出した徹ですら驚くほどの完璧なタイミング。
 徹の右フックが奈緒の頬に吸い込まれ顔が徹から背けられた。

(頼む……倒れてくれ……)
 仮に奈緒が倒れたとしても10カウントを待つ間、立っていられるかどうか分らないほ
ど憔悴した徹が心の奥底から祈る。
 だが、奈緒は何事もなかったかのように、お返しと言わんばかりの右フックを繰り出し
てきた。ただ立ち尽くす徹の頬に奈緒の拳がクリーンヒットしこの日で最も激しい破砕音
が響き渡る。
 その一撃で徹は今度こそ、限界を迎えた。徹の口からマウスピースが飛び出し、身体が
傾ぎながら駒のように回転する。
(この女……あんな事まで……出来るのか……)
 薄れいく意識の中、徹は奈緒に自分のパンチが全く聞かなかった理由を悟った。
 完全にマットへと沈む徹。わずかに遅れて徹の口から飛び出したマウスピースが落ちて
くる。
 会場が割れんばかりの歓声で満たされた。それに応えるかのように奈緒は拳を突き上げ
笑顔を振りまく。
 そんな中、レフェリーは徹が立ち上がれないと判断すると試合終了を示すジェスチャー
を行った。





 徹のセコンドを務めていた会長は徹が倒れたことよりも奈緒と言う逸材に震えていた。
 奈緒が徹のパンチを受けて平然としていた理由。それはスリッピング・アウェーと言う
世界でも使い手が数人しか居ない高度なディフェンス・テクニック。
 パンチを受ける瞬間、顔を背けることで衝撃を和らげるものだった。しかも、奈緒のそ
れは完全に相手のパンチを無力化するまでに高度に磨き上げられていた。
 何よりハイペースで試合を重ね、対戦相手に次々と研究の要素を与え続けているにも関
わらず全く底を見せない。
 世の中に天才と言われるボクサーはいるが奈緒は数十年に一度、現れると言われる「真
の天才」とも言える存在。その存在が徹を育ててきた会長には羨ましくもあり恨めしかっ
た。
 奈緒はこの試合に関わった者たちを余所に、スポーツ少女の爽やかな笑みと言う仮面を
被り観客へと勝利アピールを続けていた。しかし、その身体はまた一人の男を征服したと
言う快楽の熱い疼きが満たしていた。
 そんな中、観客から多くの賞賛の視線に絡みつく茨のように全身を突き刺す視線を奈緒
は感じた。
 誰もが羨む才能を当たり前のように振りかざしリングへと立つものへの嫉妬。更には、
その才能の持ち主が女であると言う憎悪。視線の先にいるのはテエロボクサーで闘う男に
一人であることに想像は難くない。
 奈緒は自分を睨め付ける存在を敢えて確認しようとはしなかった。何れは自分の前に現
れると確信して。
 奈緒に送られてくる視線に無視されたと言う怒りが混じり始めた。内心で奈緒はほくそ
笑む。勝者の余裕、天才の驕り好きなように受け取ればいいと。
 それで、目が曇る程度の男ならば奈緒にとっては戦いやすい。仮に負の感情ですら自分
の実力に昇華してしまう程の男であれば征服し甲斐があるというもの。
 奈緒の新たな戦いはすでに始まっていた。自分の存在を心理戦の駆け引きの道具として。
 これから奈緒と戦う男たち。彼らはある意味、すでに奈緒の心理戦に飲み込まれている
と言ってもおかしくはなかった。




(了)









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H.N モズ落とし
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