※注意 男性が女性に一方的に負けます
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※一部登場人物については別のお話とつながっているのでリンクしてあります




【前回までのあらすじ】
・ボクシング界期待の新人であるステルス加藤は、とある女子アマチュアボクサーに敗北を喫したことにより三週間の休養を命ぜられていた。
・そこへ加藤の所属ジムに会長同士仲良しであるライバルジムから練習試合の申し込みが届く。
・まさか加藤が女子に敗北して治療中などとは言えないジムの会長は、加藤を大怪我させた張本人である広瀬奈緒を彼の代理として送り込むのだが……













『練習相手』  作:11-47









 ここは都内某所のボクシングジム。
 線路沿いに建てられた三階建てのビルの中、練習生たちが今日も汗を流している。

 ちょうど午前十時を回った頃、突然大きな声が建物の鳴り響く。
 このビルのオーナー兼ジムトレーナーの玉川の怒声だった。

「おいおい、こんなの聞いてないぞ!」

 練習生たちは一瞬手を止めたが、すぐにまたそれぞれのメニューに戻った。
 玉川の怒声など日常茶飯事のことだからだ。

 しかし彼は今、応接室にいる。
 今日は練習生たちに向けてではなくジムへの訪問客に対して怒鳴りつけているようだ。

 いったい何故?



「だってその子、女子アマだろ? これじゃあこっちも本気出せないよ! 約束してた加藤はどうしたんだよステルス加藤は!!」

「それについては本当に申し訳なく……しかし玉川さん、加藤の代理としてこの子を連れてきたのですよ」


「代理でプロボクサーの代理でアマ女子連れてくるって、どんだけうちを舐めてるの? おたく」

「いえいえ! 舐めてるだなんてとんでもないっ……この広瀬の実力は折り紙つきです。特に今度そちらの伊藤選手が対戦される相手への対策としてはうってつけではないかと……」

 狼狽する訪問客……ライバルジムのマネージャーの言葉に、玉川の怒りは沸点を超えていた。

 玉川ジムから久しぶりにチャンピオンを狙える逸材が生まれ用としているこの時に、スパーリングパートナーの協力を適当にあしらわれた屈辱。

 しかも今日予定されていた相手・ステルス加藤にはこちらから胸を借りるつもりだったのに……


(何故来ない! 加藤のやつ……天狗になっているのか)

 歯ぎしりする音が聞こえそうな表情の玉川。
 ライバルとはいえ相手ジムとは懇意なのに、男同士の約束を破られたのだ。


(それに……男のリングに女などあげられるか!)

 いくらなんでもふざけすぎてる。
 腹立ちまぎれに目の前の女子アマボクサーに目をやる。


「アンタ、名前は?」

「……広瀬奈緒と言います」

 ポニーテールの髪を揺らしながら彼女はペコリとお辞儀をした。

 長い手足を隠すように白のジャージを身にまとっている。
 細身の女子アマボクシングの選手だ。

 雑誌で見かけたこともあるような気がする。
 それに礼儀は一応なっているようだ、と玉川は感心する。


「ふん……」

 もう一度彼女を見る。

 体の線は細いが筋肉は引き締まっているようだ。
 身長も高い。リーチも長い。

 たしかに今度の対戦相手とウェイトもそれほど変わらないだろう。
 ボクシングとは無関係だが顔立ちも可愛い方に入るのだろう……何名かのジム練習生が彼女に見惚れていたことも知っている。だがそれが何だというのだ。


「なあお嬢さん……アンタだって大切な顔や身体をこいつに傷つけられたくないだろ?」

 玉川は隣に黙って座っている肌の黒い男・ジュニアフェザー級1位の伊藤鷹雄を顎で指した。


「……」

 伊藤は奈緒を一瞥して、再び視線を落とす。
 そしてボソッと呟いた。


「会長、俺は別に構わないっすよ」

「なっ! 正気かお前っ…伊藤、相手は女だぞ!?」

 取り乱す玉川。だがその正面で、


「ほ、ほんとですか! 玉川さん、彼もこういってることですし……」

 このまま追い返されてはたまらぬとばかりに、奈緒の付き人兼トレーナーである荒木は玉川に食い下がる。


「マジかよ……知らねえぞ! ホントに!!」

 玉川は、もはや一秒でもこの場に居たくないと言わんばかりに席を立った。
 そしてドアノブに手をかけた時、振り返って奈緒に声をかけた。

「いい忘れたけど今度の相手はサウスポーなんだ。だから……アンタもそのつもりでな」

「えっ、そんなことは――!」

 情報にない設定を聞かされ、狼狽する荒木を奈緒が手で制した。


「わかりました。私もそのつもりで用意してきました」

「そうか。じゃあよろしくな」

 バタンと音を立ててドアを閉める直前、玉川がうっすらと下卑た笑いを浮かべているのを奈緒は見逃さなかった。











 それから二十分後。
 ジュニアフェザー級1位の伊藤はリングに上がる直前にスパーリングパートナーを冷静に分析していた。


(リーチは俺より長い……足もきっと速いだろう。それにサウスポースタイルは……)

 伊藤に背を向けたまま、奈緒はステップの確認やシャドーをしている。
 奈緒は元々スイッチボクサーではあるが、基本は右利きだ。


(思ったより板についてる。あとは普通にパートナーとして使えるかどうかだ)

 間もなくして奈緒がリングにあがる……が、ヘッドギアをしていない。


「おいアンタ……女子アマではスパーリングでヘッドギアをしないルールでもあるのかい?」

 言葉は冷静だがブチ切れる直前といった様子の伊藤。

 無理もない。
 自分よりも格下の相手が、練習とはいえヘッドギアをしないという行為。

 これがどれほどの侮辱に当たるのか、想像に難くない。




「私、いつも自分に対して真剣勝負がしたいんです。ですから何か事故が起きたとしても私の責任ということで構いませんので、どうかお願いします」

 奈緒がペコリとお辞儀する。
 伊藤は聞こえるように舌打ちして相手セコンドに目を向けると、彼……荒木トレーナーも奈緒と同じように頭を下げてみせた。


(もはや何も言うまい……)

 伊藤は黙って背を向けた。
 静かに自分のコーナーへ向い深呼吸をする。

 雑念を振り払うように目をつむり、十秒、二十秒……三十秒が経つ頃、



カーン!

 スパーリング開始のゴングが鳴り響いた。




 振り返った伊藤は目の前の奈緒を冷ややかに睨みつけた。
 そして滑るような足運びでリング中央へ向かい、グローブを合わせる。


「悪いけどすぐ終わりにするからな。ちょっと痛くても我慢してくれよ」

 そしてファイティングポーズを取った瞬間、細い息を吐くと同時に切れの良いジャブを繰り出した!


「シュッ!」

 奈緒の目の前で拳が急に大きくなる。
 当たる寸前、なんとか先制のジャブを回避する。



「伊藤さん本気だぜ!」

 ジムの練習生たちがざわめく。
 それほどまでに伊東のジャブはキレていたのだ。


(俺はこの日のために、ステルス加藤とスパーをやるために牙を研いできたんだ!)

 静かな怒りを秘めた左だった。
 一年遅れでプロ入りした伊藤にとって、今日戦えるはずだった男はまさに憧れの人だった。

 王座獲得は彼にとって通過点にすぎない。
 ステルスに挑戦する事こそ彼の目標だったのだから。


(それがこんな……だいたい女相手に……)

 恋人への思いを馳せるように鋭い左を放つ。
 風を切り裂くジャブは当たれば炸裂弾のように相手を疲弊させることだろう……

パンパンパンッ!

(この俺が……本気で…………)


パパパンッ!


 二発、三発と鋭い矢を放つ伊藤。場内に響くのは乾いた銃声のような炸裂音。
 それをなんとか右手で弾く奈緒……その応酬が一分近く続いた時、練習生たちのざわめきに異変が起きた。




「何だこいつ……!」

 最初に異変を感じたのは他の誰でもない伊藤だった。


(お、おい……伊藤さん、手を抜いてないよな?)

(うん……手抜きであの音は出ねえよ!)

(じゃあどうして……なんで!?)


 手数が50を超えた頃、若干呼吸を乱しながら伊藤は切れ味の良い左を鞘に収めた。

(あ、当たらねえ!!)

 誰にも聞こえない程度だが、思わず悔しそうな声を漏らす伊藤。


「けっこう出来るんだな、アンタ。ちょっと見くびってたぜ」

 少し肩の力が入りすぎていたかと反省しつつ、クールにつぶやいてみせるが奈緒の顔色は変わらない。

 ここまで彼女はまだパンチを放っていない。
 まるでサウスポーのステップを確認する作業をこなしていたように、惚れ惚れするほど鋭いジャブを右手一本で全て受け止めていたのだ。




 常日頃からクレバーを信条にしている伊藤だが、やはり面白く無い。
 グローブの中で握りしめた右拳がメキッときしんだ。

「でもな……女のパンチじゃ……」

 いよいよ本気モードになる。
 前傾姿勢になる伊藤。

 背中の筋肉の盛り上がりが相手に見えるのではないかというほど身体をしならせ、猫のように相手に襲いかかる。

「でた! 伊藤さんの全力モードだっ」

 練習生たちが叫ぶ。
 相手の虚を突く必要がないほど洗練された彼の足運びは見事なものだった。

 瞬間的に奈緒との間合いを詰め、屈みこんだ瞬間には拳へのパワーの伝達が充分に行われている状態。
 コンパクトに折りたたまれた左腕が回避不能なショートアッパーを繰り出す。

「俺のパンチをいなすだけのお前なんか……おがあぁ!」

ばちんッ……


 伊藤の左が打ち出される寸前、奈緒の右フックが彼のこめかみを綺麗に撃ちぬいた。
 そして一瞬遅れで目標を見失った伊藤の左拳が空を切る。


「……貴方、しゃべりすぎ」

 クールに響く奈緒の一言。
 一瞬のカウンターに言葉を失う練習生たちにもその声はハッキリと聞こえた。

 だが誰よりもその声を聞いていたのは――、


「てめえええええっ」

フォンッ!!

 伊藤は即座に体制を立て直し、立ち上がり際にワイルドな右フックを放った。

 さらに左、右、左、右……小さいふりだが威力は充分のフックを連発してゆく。

 彼の射程圏内にいた奈緒はそのうち一発をクロスアームブロックで防いだが、その勢いでロープ際に飛ばされた。
 美しい顔が苦痛にゆがむのをグローブ越しに確認した伊藤が攻勢に出る。

 プレッシャーをかけながらパンチを散らして彼女を追い詰めようとするが……奈緒は呼吸を整えながら徐々に冷静さを取り戻してゆく。


「く、くそっ! また当たらなくなった……でもな、そらっ!」

 逆にスタミナを浪費し、苛立つ伊藤は拳をたたんで奈緒に体当たりをした。


グイッ!


「あッ!!」

 これにはさすがの奈緒も対応できず、伊藤の突進力をいなせずにコーナーへ背中を預けてしまった。
 マットに背中を打ち付け、ケホケホと咳をする奈緒にじわりじわりと詰め寄る伊藤。


「へへへ……もう逃さないぜ。悪いがこのままラッシュかけさせてもら……んっ!?」

 両手を広げて威嚇する伊藤に対して、奈緒がガードを下げた。
 さらにかかとをマットに付け、脚も肩幅に開いている……彼女は打ち合うつもりだ。



(ふ、ふざけ……!)

 それは対戦相手にとっては右頬を差し出し、ここにパンチを打ってみろと言わんばかりの挑発行為に見える。


「クソ生意気な女だぜ! そのきれいな顔グチャグチャにしてやんよおおおおおぉぉぉ!!」

 伊藤は雄叫びとともに鋭いジャブを放つ。
 先程よりもキレている弾幕が奈緒に襲いかかるが……


「おい……うそだろ……!」

「なにしてるんだあの女……あんなのって……」

 練習生たちがまたざわめきだす。
 顔だけでなくボディにも散らされたパンチを、奈緒はやはり右手一本でさばいていた。
 先ほどまでと違うのは、時折彼の弾幕の隙間にジャブを忍ばせ、彼の身体を軽く小突いているところだけだ。


(何故近づけない! なぜ、なぜえええ!)

 伊藤が突進する力を殺すように要所要所で奈緒の右が彼を突き放している。
 左フックを放つ直前、彼の脇腹を軽く小突いたり、ショートアッパーの起動を右手でそっと逸らしてみたり…
 奈緒によって巧みなポジション、ボディコントロールがなされていることに渦中の伊藤は気づけない。

 そのうち……



バチンッ!

「いっ…!」

 左手の引き際を奈緒の右ジャブで叩き落とされた伊藤が絶句する。
 あとから出したはずの拳が確実に彼の動きを捉えているのだ。


「そろそろいい?」

パンッ!

 奈緒のジャブを顔面に受け、伊藤の動きが完全に止まる。


「ぐがっ!」

パパン、パンパン、パチッ!

バチイイッ!

 さらに二発、三発、四発……奈緒のパンチが彼の顔を左右に弾き飛ばす。
 最後の一発は右ストレートに近いジャブだった。

 ヘッドギア越しでも強烈な一撃に、伊東の顔と言わず上半身が大きくのけぞった。
 だが首に力を入れて何とか踏ん張る。


「おっ……ぐぶっ、が……ぁ……!」

「貴方これからチャンピオンになるんでしょ? だったらこれじゃダメだよね……」


「な、なにいぃぃぃ……!」

 屈辱の一言に痛みを忘れて渾身の左を放つ、が……奈緒はもうそこにいなかった。


「……ステルス加藤はもっと速かったよ。それなのに貴方は」

 パンチを引く前、左頬に伊藤は彼女の吐息を感じた。
 同時に左の脇腹から肋骨にかけて激痛が走る。

ゴズッ……!


「お、ぉばあああ!」

「ひどい声。私の動きが見えてないんだ……」

 背筋に悪寒を感じた彼が左手を折りたたむより早く、奈緒の左ボディブローが突き刺さる。
 それは男子を悶絶させるのに申しぶんない角度とスピードを持つ一撃。。

「こっちも…」

パンッ、パンッ!

「がああっ!」

 さらにガラ空きになった顔面を数回叩かれ、反射的にガードをあげた瞬間、


「遅いよ」

ズムンッ!


「ぐ…ぶぅぅ……!」

 再び腹筋を貫くような激痛が襲う。

パパンッ、パパパンッ!

 およそ数回、この攻撃を奈緒は繰り返した。
 伊藤はガードの上げ下げに終始していたが、やがてその動きも鈍くなってきた…

「あ……ぁ……!」

「ほらっ、ボディがら空き……まだやれる? どう?」

ドンッ、ドンッ、ドッ……

 正面に回った奈緒がみぞおちを何度も撃ちぬくと、さすがに堪えきれなくなった伊藤は彼女に抱きついた。
 恥も外聞もないクリンチ……王者になろうとする挑戦者のスパーリングとしてはありえない光景に周囲の後輩たちも戸惑いを隠せない。


「やだっ……クリンチなんてエッチ……ねっ!」

ズンッ!

「ぐぼおおおおっ!!」

 クリンチ寸前に右足を引いて、タメを作った奈緒の拳が深々と彼の腹にめり込む。

コツーン……

 吐き気をもよおすと同時にマウスピースを床に落としてしまう伊藤。
 しかも相手は女性ボクサーだ。
 それも黙っていればボクサーに見えない可愛らしい少女。

 男が女に倒される、リングの上で屈する光景を、この中で見たことがある者などいない。




 膝が笑い腰に力が入らない彼を左肩で押し上げながら奈緒が小さく笑う。

「私の肩を貸してあげるから、まだ倒れないで?」

トンッ…

 奈緒が彼の身体を軽く押すと、伊藤の身体がふわりと浮足立つ。
 二人の距離はおよそ20センチ程度。その空間に細い身を沈め、奈緒は腰のひねりを利かせたパンチを彼にお見舞いした。


ドンドンドンドンッ、ズッ……

ズドッ、ドフッ、ドウッ!



「おばあああっ、おぐ、んばあああ!」

 鍛え上げた伊藤の肉体が再び「く」の字に折れ曲がる。
 しかしすぐに顎が跳ね上がり、浮き上がった状態にさらなる追撃が襲いかかった。

(う、打たれっぱなしで…ガードも出来ねえ! うぶっ、おおおおぉぉぉ!)

 リング中央で前のめりになったまま奈緒にめった打ちにされる伊藤。
 彼女に倒れ込もうとしても突き放され、距離を置かれたままなぶり殺しにされてしまう。

 その細い体からは想像がつかぬほど的確で鋭いパンチを伊藤の腹に叩き込んでゆく……



「じゃあ仕上げ……」


どんっ!

 奈緒は彼を大きく突き放す。
 後方によろけた彼はいつの間にかコーナーを背負わされていた。

パンパンッ!

 奈緒は軽いジャブで距離を取りながら深く息を吸い込んだ。

そして……


「はあああっ!」

 右足でマットを蹴り、一番体重を乗せやすいポジションへ左足で踏み込む。

ズブッ

「んはあおおおぉぉ!」

 内蔵をえぐられたような苦悶の表情を浮かべる伊藤。
 だが奈緒の手は止まらない。

ズドドドッ、ドドッ、

ドドドドドドドドドンッ!

 拳を固め、呼吸を止めて短く鋭いパンチで彼の体を蜂の巣にした。

 リングの外から見ているものには、まるで美少女がナイフで伊藤という手負いの獣を切り刻んでいるように見えたという……
 だが彼女は黙々と作業をこなすように獲物を打ちのめす。


「が……ふ……ぅ…………」

 ラッシュから十秒も経たぬうちに、伊藤の目からは完全に精気が消え失せた……

 自分に向かって前のめりになる彼を、奈緒は優しく肩で受け止める。
 酸素を求めて口がパクパク動いている彼の表情を確認する。


「なにか言いたいの?」

 奈緒は彼の口元を注意深く観察する。
 しかし途切れ途切れで理解できない。

 そこで彼女は好意的に受け止めることにした。


「やだ……濡れちゃうじゃない……♪」

「えッ!?」

 ほとんどふさがった伊藤の瞼の奥に動揺の色が浮かんだ。


(こ、この女…俺をなぶり殺しにする気かッ! う、おごおおおっ)

 奈緒は彼を突き飛ばし、ロープを背負わせた。
 自然に腰が落ちた伊藤は二段目に腰掛けるような体勢でファイティングポーズを取ってしまった。


「まだ楽しませてくれるんだ……嬉しい…」

 無意識に奈緒は完全に右利きの構えに戻っていた。
 弱々しく両手を上げてガードする彼の拳を狙って極めて軽いジャブを放つ。

 その僅かな衝撃でも伊藤のブロックはあっさり崩れ落ちそうになる。


「ほらほら、しっかり構えてないと女の子に負けちゃうよ?」

「!!」

 少しからかうような口調で彼の闘争心を煽る奈緒。
 ほんの僅か、心なしか伊藤の体が怒りで震えるのを感じた彼女は彼からの反撃を待つ……が、ガードした腕がそれ以上動く気配はない。



(この女……絶対負けねえぞ! 必ず一撃食らわせてやる…)

 ボロボロにされてなおかつ闘志を燃やす伊藤。
 仮にあと十秒、休むことができたら多少は動けるようになるはず……
 今は力をためてこのラウンド凌ぐことに集中したいと願う…しかし奈緒はそんな彼をおとなしく待ってくれなかった。


「足が出ないのね? しょうがないなぁ……えいっ!」

ガゴッ!!


「んぶゅうう!」

 右手の小指をわずかに内側にしぼって、相手を見据える視点はそのままに体全体で繰り出すパンチ――、
 先にジャブできっちりと距離を測った上での右ストレートが、あっさりと伊藤のガードを粉砕した。


(なんだよこのパンチ…女のくせになんでこの技をおおお!!)

 頭の中がキンキン鳴り響くほどの余韻を残す一撃を、額で受けきった彼の身体がロープへ吹き飛ばされ、バウンドして奈緒の方へと戻ってくる。


(まずい、このままコイツの射程に入ったら――!)

 伊藤は戦慄した。
 しかしロープで勢いのついた身体をコントロールすることが出来ない。

 奈緒が放った右ストレートはコークスクリューブロー……普段ならまだしも、今の彼に受けきることは事実上不可能なパンチだった。


「あ~ぁ、ブロック崩れちゃったね。でもお願い、ギブアップとか言わないで。まだ時間はあるんだから」

 とっさに伊藤は顔面をブロックした。
 端正な顔立ちの奈緒の瞳の奥に、容赦なく相手を殴り続ける悪魔の様な殺気を感じ取ったからだ。


「顔は殴らないで欲しいの? じゃあこっち…ねっ!」

ドスッ、ゴボ、ズムッ!

 しかし奈緒の中の悪魔は瞬時に相手の弱点をあぶりだし、集中的に攻撃することに長けていた。
 首から上をガードした彼に対して徹底的なボディ打ちを行う。真っ赤に晴れていた箇所がみるみる青くなってゆく…
 それでも伊藤はガードを下げない。
 もはや意識を保つことだけが彼にとってのテーマとなっていた。


「あ……おぅ、おおおおぉぉ…!」

「フフフ、嬉しいの? 女の子に殴られて喜んじゃうんだ?」


ピシュッ!


「!」

 奈緒のショートアッパーが彼のガードを切り裂いた。
 両手を切り離され、むき出しになった伊藤の顔面に間髪入れず奈緒はジャブを二発放り込む。
 踏ん張る力すら失いかけている彼は迷わず奈緒に抱きついた。


(くそがあああああっ! お前も倒れろおおおおお!!)

 時間稼ぎだろうが何だろうが構わない。
 あと十秒程度でこのラウンドは終わる…

「うっ、あ、あぁぁ…!」

 伊藤がどんなに押しても彼女は倒れなかった。
 しっかりと両足をマットにつけて彼の身体を肘で受け止めている。

 男として、プロとして意地を見せようとする彼の捨て身の突進を奈緒は正面から叩き潰した。


「苦しくなったらクリンチ? ちょっと鍛え方が足りないんじゃないかな……」

 冷たくそう告げてから、再び彼の体を突き放す。
 二歩三歩とたたらを踏んでから、なんとかリングに足を着いて立っているだけの伊藤。

 フラフラになったまま焦点を失っている彼の目を見て奈緒がため息を吐く。


「もう駄目みたいだね。これでおしまいにしましょう」

 奈緒が左手のガードを下げる。
 そして……



ヒュンッ





 それはフリッカージャブ……顎すれすれに奈緒はパンチを放った。
 ほんの1センチ程度、パチッという僅かな音が漏れた程度の衝撃だが――、


ドサ……ッ…

 直後、糸の切れた人形のように伊藤はその場に崩れ落ちた。
 不思議と顔面に傷跡は残っていなかった……が、奈緒のラッシュは確実に彼の精神を傷つけたに違いない。




カーン!

 ここでようやく遅すぎるゴングが鳴り、我に返った練習生やトレーナーたちはリング上の伊藤を慌てて介抱し始めるのだった。








「ごめんなさい。少しやり過ぎたし、私……反則負けでいいです。特に最後の方はサウスポーじゃなかったから……スパーリングパートナーとしては失格だわ。後で彼にもごめんなさいって伝えてもらえますか?」

 その言葉を受けた練習生は頷くしかなかった。

 彼女に逆らったら殺される……
 この美少女の皮をかぶったバケモノに……
 その場にいた誰もがそのように感じていたのだから。

 奈緒はペコリをお辞儀をしてからリングを降りた。
 そして身支度を整えて荒木と一緒にジムを後にした。




……数分後、玉川ジムの最上階で悲鳴にも似た玉川の叫びが響き渡るのであった。



(了)





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