『ふたりだけのエチュード ~花の色は~』
凛と過ごしたあの日から一週間後のこと。
事務所でのレッスンが終わると卯月は急いで自宅へ戻り、準備を整えてから再び家を出た。
両親には友人宅へ泊まると伝えてある。その言葉に嘘はない。
「あっ!」
しかし家から10メートル近く離れたところで卯月は踵を返す。
そして自宅へ戻り、持っていたバッグの中から何かを取り出した。
「……お留守番しててくださいね」
そう言ってから卯月は自分の部屋の照明スイッチをオフにした。
「こんばんは、凛ちゃん」
「いらっしゃい卯月。上がってよ」
来客に気づいた凛が明るく出迎える。
卯月が凛の家を訪れるのは三回目である。
「わぁー! ハナコちゃん元気そうです!」
「ああ、卯月が来てくれて喜んでるんじゃないかな」
「それなら私も嬉しいです♪」
凛が店のエプロンを外す間、卯月は凛の愛犬であるハナコと戯れていた。
そして――、
「あの、凛ちゃん……パジャマを貸してもらえませんか? うっかりして忘れちゃったみたいで」
凛の部屋に通されてすぐ、卯月は申し訳なさそうに頼み込んだ。
「まったく……忘れ物なんて卯月らしくもない」
「えへへ♪」
凛は一瞬呆れ顔になったものの、すぐにいつもの表情に戻った。
そして卯月に自分のパジャマを貸し与えた。
「これでいい? サイズ合うかな」
「ありがとうございます! 大丈夫そうです。凛ちゃん、可愛い絵柄のやつを持ってるんですね?」
「……そこは気にしないで」
少し照れた顔の凛を見て、卯月は微笑んでいた。
それに気づいた凛が卯月をにらみつけると、慌てたように何度もペコペコと頭を下げる。
これではどちらが年上なのか全くわからない。
「じゃあ始めようか。先週の続き」
「はい、ちゃんと考えてきました!」
ベッドの脇にあるテーブルで、二人はそれぞれのノートを開く。
曲のタイトルには「エチュード」という仮称がつけられていた。
それから暫くの間、ふたりとも真面目に意見を出し合った。
歌詞が半分くらいまで出来上がりかけた頃、卯月がポツリと呟いた。
「凛ちゃんのおうち、やっぱりいい香りがします」
「下が花屋だからね」
凛の言葉に卯月はうなずいた。
そしておもむろに凛の艷やかな黒髪に顔を寄せた。
「だから凛ちゃんの髪も、いい香りがするのですね!」
「これはシャンプーの……ちょっと卯月!?」
「くんくんくん……凛ちゃん♪」
まるで飼い犬のハナコみたいだなと凛は感じた。
ハナコと同じように卯月は可愛いと思う。
仮にも相手は年上なのに、そういう感情を抱くのはどうかと思うが、仕方ない。
「ちょっと、やめなよ卯月!」
「えー、駄目ですかぁ?」
卯月にしてみればほんの些細なイタズラのつもりだったのかもしれない。
しかし、凛の心の中で生じたさざなみのような感情の揺れは、またたく間に膨れ上がっていった。
「えっ……あ、あの、凛ちゃん!?」
その次の瞬間、卯月は天井を見上げていた。部屋の照明が逆光となり凛の顔が暗くなっている。
卯月を見下ろす表情はどこかで見たような、いたずらっぽさに満ちていた。
「この間は卯月に好き放題されちゃったけど、今日は私の部屋だからね」
凛は涼し気な表情のまま少しだけ笑ってみせた。
その歪んだ口元を見て、卯月は急激な胸の高鳴りを覚えた。
(凛ちゃんが私を見てる……まっすぐに見つめられると、私……キュンって!)
見つめられているだけで卯月の心臓は今までにないほど早鐘を打っていた。
そしてこの部屋に二人きりという事実を噛みしめる。
さらに凛にパジャマを借りたこともあって、まるで全身を彼女に包まれている錯覚に陥った。
やがて凛の手に力がこもる。
「あっ……!」
凛は卯月を組み敷いて、バンザイさせるように両手を頭の上で押さえつけていた。
その手首を引っ張るようにして掴み、卯月の上半身を抱き起こす。
「うちにある花もいい香りがするけど、卯月はどうだろう」
抱き起こした卯月をさらに抱き寄せ、ふわふわした髪をかき分けるようにしながら首筋の匂いをかぐ。
(凛ちゃんが、私のくびすじ? かみのけ? 香りを味わってるのですか……?)
自分の身に何が起きているのか把握できないまま、卯月は興奮させられてしまう。
凛の顔が首筋から胸のあたりに降りてきた。
「あ、あっ、あの! 凛ちゃん? そこは、さすがに……ひゃあああッ!」
卯月の言葉を遮るように、凛は左手を彼女の背中に回して、指先で背筋をそっとなぞっていた。
「どうしたの卯月? 背中、ちょっと触っただけなのに」
「そこ、くすぐったくて……駄目なんですぅ!」
「ふぅん、そうなんだ。じゃあ」
凛は小さく笑ってから、さっきとは逆の動作をしてみせる。
上から下に背筋をなぞっていた指先が、今度は下から上に……、
「ふあっ、ああ、あ、あの! 凛ちゃん、体が勝手に、よじれちゃいますぅ!」
「卯月の体って、全部柔らかくて女の子らしいよね」
悶える卯月を強く抱きしめるように、凛は自分の鼻先を彼女の左胸に近づける。
「はぅんっ!」
ビクンと体を跳ね上げた拍子に、形の良い凛の鼻が卯月の胸に少しだけ触れた。
「あ、あ……凛ちゃ……」
「ちょっと羨ましいな」
卯月の胸に顔を埋めるようにしながら、凛は彼女を見上げる。
すっかり潤みきった卯月の瞳を見つめながら、右手で相手の毛先をいじる。
凛は自分のように黒髪ストレートではない、どこか緩いカーブを描く卯月の髪がとても愛らしいと感じていた。
「髪も、毛先が可愛くて……いつも見てる……」
「い、いい、いつも、ですか?」
「うん、そうだよ」
卯月を褒めながら髪を撫でる。
その行為を繰り返していくうちに、段々と卯月の呼吸が荒くなっていくのがわかる。
「感じやすいんだね」
「や、あぁ……見ないで、凛ちゃん……!」
「年上なのに、卯月って本当に可愛くて――」
すっかり力が抜けきった卯月を、凛は優しくベッドに横たえる。
自分を見つめる卯月の瞳は濡れたように妖しく輝いていて、それがとても綺麗だと思った。
「凛ちゃん……あ……」
「好きだよ、卯月……」
閉じた瞳の奥で、二人の姿がピッタリと重なり合った。
その数時間後、ベッドの中で二人は息を潜めるように抱きしめあっていた。
凛の細い体にギュッとしがみつきながら、卯月は恥ずかしそうに視線を泳がせる。
卯月よりも凛のほうが少しだけ背が高い。
「ねえ卯月、後悔してる?」
「そんなことは! ない、ですけど……けど……」
「嘘、迷ってるの? 私に告白までしておいて」
「ああ、あ、あれは! 確かに、本気ですけど……」
少しためらうような仕草を見せてから、卯月は凛をじっと見つめた。
「繰り返しになっちゃいますけど、凛ちゃん」
「ん、何?」
「私が大学生になっても、友達で居てくれますか?」
その言葉に凛は驚いたような表情を見せた。
卯月は不安になる。
自分の言葉で相手が気分を害したのではないかと。
数秒後、凛は横を向いてつぶやいた。
「嫌だよ」
「ええええええっ! やっぱり、嫌われちゃったんですね……」
じわりと涙が浮かぶ。
言わなきゃよかった。曖昧なままでも良かったのに、と卯月は思う。
こんなにそばに居るのに、今の卯月にとって凛は遠くに感じた。
「凛ちゃん、あの……私……」
「恋人じゃなきゃ嫌だよ。もう卯月とは、友達以上……だから」
「えっ、えええええええぇ!?」
凛の涼し気な表情は見えないけど、自分にかけられた言葉は春の日差しのように温かいものだった。
その時になって、卯月は凛の体が震えていることに気づいた。
「凛ちゃん、お耳まで真っ赤になってますよ!」
「そんなこと、ないから!」
「嘘ついちゃ駄目です。見せてください♪」
「こ、こらっ! 卯月、離れて!」
「いやですー、離れたくないです♪」
それほど広くはないベッドの中で、凛と卯月は仲良く抱き合い、
朝までそんなやり取りを繰り返すのだった。
ふたりの「エチュード」は、まだまだ完成しそうにない。
(了)