『新人ボクサーの受難』



 都内近郊の新栄町にあるカトウゴールドジムは例年になく活気づいていた。
 小気味よく響くパンチの音が防音サッシを貫いて表通りにかすかに響いている。

「彼、すごくいい動きしますね」
「そうでしょう。うちの期待の新人くんだからね!」

 そのジムに取材で訪れた女性記者に向かって、ジムの会長・鹿島多は得意げに返す。
 現役時代は日本ランカーだった会長はプライドが高く基本的に無愛想で通っていたのだが、今日に限って彼の機嫌が良い理由は明白だった。

 記者の目の前、リング上にいる選手がその原因なのだろう。

 ここへ来る前に下調べをしたので記者は把握していた。
 彼がこのジム期待の新人・上井涼太(かみいりょうた)であることを。

 涼太は高校在籍時代からボクシングをしており、今時珍しいインファイトに特化したボクサーとして界隈でも有名人だった。
 負け無しという戦績もさることながら、彼の勇気あふれるファイトスタイルには女性ファンが多く、高校卒業後に彼がプロデビューすることは既定路線だったと言える。

 そして予想通りB級ライセンスを取得後、すでにデビュー戦を勝利で飾っていた。
 彼が次の試合に勝てばA級に到達する。
 新人王だって現実味を帯びてくる。
 規模がそれほど大きくないこのジムにとっては文字通り希望の星であり、会長やその他のメンバーのテンションが高くなるのは自然なことである。

「上井選手のスパーリング相手は、工藤プロのようですが」
「ええ、新人のくせに他のプロとやらせろってうるさくてね。
 でも工藤も面倒見が良いやつだから助かってますよ」

 記者は彼の相手をしている選手にも見覚えがあった。
 涼太よりも階級が上の選手なので体が大きい。
 動きも決して鈍くないのだが、絶好調の涼太に比べるといささか劣る。

 本人もそれに気づいているようで、素早く動き回る涼太を意識したボクシングをしているようだ。彼の存在は間違いなくジムの内部に好影響を与えている。

「なるほど、上井選手は将来有望ですね」
「ハハッ、まだまだヒヨコみたいねもんですけどねぇ。
 涼太のやつ、来週は試合を控えてますから気合が入っているのでしょう」

 クロスレンジで軽快に動き回る涼太に対して、工藤は明らかにやりづらそうだ。
 その様子を眺めながら記者は小さく頷いた。
 やがて電子音が鳴り響き、リング上の二人は拳を合わせてから離れた。

「上井選手、ちょっと取材させてもらってもいいかしら?」
「えっ、俺ですか!」

 記者が声をかけると涼太は息を弾ませながらも元気よく対応した。
 周囲の選手たちが羨望の眼差しを彼に向ける。
 それは単に彼の人気を羨むというだけでなく、取材している記者の美貌にも目を引かれているからである。

 女性記者はフサノマヤと名乗った。
 涼太に渡された名刺には「房乃麻耶」と書かれている。
 変わった名前だ。もしかしたらペンネームかもしれない。
 彼女はボクシング関係の雑誌で名前を見かけるフリーライターである。

 彼女から取材を受けたボクサーは戦績が上向きになる傾向があり、一部の関係者からは勝利の女神としてマスコット的な扱いをされていた。
 気難しいこのジムの会長が試合を控えた時期に取材を受け入れたのも頷ける。
 今も昔も勝負事に験担ぎは必要なのだ。

 また、麻耶は女神と呼ぶにふさわしい容姿も持ち合わせていた。
 もともと雑誌のモデルやラウンドガールをこなしていた彼女である。
 女性としては背が高く、凛とした目つきや流れるような黒髪は男臭いジムの中では神々しささえ放っていた。あまり選手を刺激しないように肌の露出は控えているものの、逆にそれが彼女の色気を際立たせて見えた。

 ほとんど彼女と変わらぬ目線の高さで、涼太は質問に答えていく。
 時々ちらりと彼の目を見ながら熱心にメモを取り、麻耶は微笑んだ。

「上井選手の思考は常に前向きで素晴らしいです。
 困り事なんて全然なさそうで、これなら来週の試合も万全ですね!」
「それがですね……そうでもないんですよ」

 ポリポリと頭をかきながら涼太は自信なさそうに続ける。

「次の相手は左利きなんですけど……
 じつは俺、サウスポーとは対戦したことなくて」

 ある意味弱気な発言とも言えるが、なるほど、と麻耶は頷く。

 世界的に見て日本人は左利きが多い。
 そう言われているが、全体の中ではおよそ一割程度である。

 ただ、ボクサーの場合はその確率が上がる。
 それでも二割までには届かない。

 彼は淡々と話しているように見えるが、試合間近の選手にしてみれば問題は相当深刻である。まず練習できる相手がいないのだ。
 逆に相手は比較的容易に右利きのボクサーを練習相手として捕まえることができる。
 涼太は仕方なく上位のボクサーに頼み、付け焼き刃のサウスポースタイルを取ってもらい、対戦相手の真似をしてもらうのだ。
 練習としての純度に差がありすぎると言えよう。

 なにかいい方法はないですかね……と彼に逆質問をされて麻耶は数秒間悩んだ。
 その横顔に涼太が見とれていると、

「練習相手がサウスポーならいいんですよね。
 それなら心当たりあるんですが、もしよかったら――」
「わっ、本当ですか! 紹介して下さいっ」

 麻耶の言葉に涼太は飛びついてきた。
 渡りに船とはまさにこのことだと言わんばかりに。

「でも急な話になりますし、
 鹿島多会長にひと声かけたほうがいいかしら?」
「いえ、会長も困っていたことだし全然オッケーですよ!」
「でも……」
「ちゃんと俺からも言っときますんで!
 それに、麻耶さんの紹介なら、信頼できそうですし……」

 少し顔を赤らめて彼は言う。
 あいにく会長は事務所へ戻って電話対応をしていた。ここで麻耶との関係をもう少し強くしておきたいという下心がないわけではなかった。

「じゃあ私の連絡先を上井選手に教えておきますので、
 あとでメッセージをもらえますか?」
「はいっ、喜んで!」

 涼太は先程麻耶からもらった名刺を差し出し連絡先の確認をする。
 麻耶は念のため自身の携帯電話番号も書き添えた。

「あの、編集部とケータイのどちらに連絡すればいいですか?」
「そうね。裏に書いたプライベートの方にかけてもらえれば私も助かるわ?」

 麻耶が周囲に聞こえぬように低い声で返すと、涼太はわかりやすく赤面した。
 少し打ち解けた様子で語りかけてくる美貌の記者は魅力的だった。

(ふふっ、可愛い子ね……)

 そんな彼を見ながら麻耶は表情だけは変えずに心の中で妖しく微笑んだ。







 その日の夜、涼太から麻耶にメッセージが入った。
 通話をしても大丈夫かと彼女が尋ねると、涼太からは大丈夫ですという回答がきた。
 数分間の事務的な通話だが、涼太の機嫌はとても良さそうだと麻耶は感じた。
 時計を見れば午後十時を回ったところだった。

 そして打ち合わせをした次の日。
 涼太は単身、指定された場所へたどり着いていた。

「なんか緊張する……」

 自分と受付のスタッフ以外誰もいないフィットネスジムで涼太がポツリと呟いた。
 麻耶からの取り計らいもあって、秘密の練習場を確保したと言われた。
 ここがその場所である。雰囲気は明るい。

「今日のスパーリングパートナーってどんな相手だろう」

 所属ジムからそれほど離れていないのは幸いだった。
 それにしても最新のフィットネスはすごいと彼は思う。
 ボクササイズのためだろうが、立派なリングが据え付けられているのだ。
 しかし利用するものがそれほどいないせいなのか、自分のジムと比べて痛んでいる箇所が少ない。
 清潔感があって、こういう場所でトレーニングするのも良いなと思っているところへジャージ姿の麻耶が現れた。

「こんばんは。遅くなってごめんなさいね」
「いえっ! そんなに待たされてなかったというか……」

 しどろもどろになりながら涼太は挨拶した。
 麻耶はそんな彼を見て柔らかく微笑む。
 ジムのスタッフは彼女の姿を確認して帰り支度を始めたようだ。

 ここは麻耶が懇意にしている場所でわがままが利く上、彼女自身も体を動かしたい時に時々利用するのだという。

「普段はこの時間でも人がいるんだけど、今日は特別に空けてもらったの」
「そうなんですか」

 麻耶がここで運動する様子を想像して涼太は少しドキドキした。
 フィットネスウェア姿の女性というのは独特の色気があるものだ。
 しかもそれが麻耶ほどの美形なら、ジム通いの男性陣はいつも以上に張り切ってしまうかもしれない。

「どうしたの?」
「い、いえっ! なんでもありませんっ」

 心配そうな表情の麻耶に顔を覗き込まれ、涼太は我に返る。
 深呼吸をして雑念を排除する。
 そこでふと気づいた。

「ところで、俺の対戦相手って」
「うん?」
「麻耶さんと一緒に来るはずなのでは……?」
「そのことなんだけど」

 彼の言葉を聞いて麻耶が申し訳無さそうに言った。

「サウスポーの練習相手というのは、じつは私のことなの」
「えええ~~っ!?」
「上井選手としては駄目かしら?」

 考えるまでもなかった。

「おお、お、俺、女の人とやるなんて予想してませんでしたよ!」
「こう見えても私、経験者だから大丈夫よ?」
「っ!? そ、そうなんですか!」
「うん、アマチュアレベルだけど、上井選手の相手はできると思うの」

 アマチュアが自分の相手をできる?
 思い上がっているつもりはないがチクリと引っかかる部分があった。

 ただどんな理由であれ、女性を傷つけることなんてできない。
 しかもそれが個人的な……自分の試合のための練習相手として、見とれてしまうほどの美人を殴ることなんて彼には考えられなかった。

「やっぱりだめですよ! 麻耶さんに何かあった時に責任取れませんし」

 ボクサーの拳は凶器だ。
 しかも涼太はすでにライセンスを持っている。

「うーん、そこは私を信用してほしかったなぁ……」
「えっ」
「だって、あなたより年上だよ? 私」
「でも……うううぅぅ!」

 落ち込んだ表情を見せる麻耶を見て涼太は少し反省する。
 言わんとすることはわかる。
 左利きのパートナーは貴重だ。

 そして今から変わりを探すのはおそらく不可能。
 何の考えもなしで彼女だって提案してくれたわけではないだろう。

「じゃあその、ヘッドギアをつけてマスボクシングにしましょう」
「私にパンチを当てないってことね」
「はい。それと俺が少しでも無理だと思ったら止めるってことで……いいですか」

 麻耶がどの程度の経験を持っているのか彼は知らないが、寸止め……マスボクシングに近い形での相手なら務まるだろう。
 サウスポーの構えをしてもらって立ち位置を把握できるだけで今夜は構わない。
 脳内で攻撃を予測しながら立ち会えば自分にとってプラスになる。
 それに何より、彼女と二人きりの時間は捨てがたいと涼太は考えていた。

「その条件で構わないわ。
 でも本気で当てるつもりで来てくれていいわよ」
「しかし……」
「私はちゃんと逃げるから大丈夫。
 逆に上井選手が調子悪くなったら自分からストップしてもらっても結構よ」
「おっ、俺はそういうことないんで!」

 自分が情けをかけられたように思えて反射的に言い返してしまった。
 その勢いを受けて麻耶がクスッと笑う。

「ふふっ、冗談よ♪ 冗談。
 プロボクサーに胸を借りるつもりでリングに立たせてもらうわ」

 ますます涼太は恥ずかしい気持ちになる。
 子犬を見つめるような彼女の視線を感じながら、自分はまだ精神面が甘いと実感した。






 そして更衣スペースから戻ってきた麻耶を見て涼太はゴクリと息を呑む。

(なんか、雰囲気あるなぁ。すごくサマになってる……)

 冷やかしではなく涼太はそう思った。
 長い髪を一つにまとめた彼女は清潔感があって凛々しい印象だった。
 麻耶は持参したであろう青いタンクトップに赤いグローブ、それにダークグレーのレギンスを身につけていた。お世辞抜きで長身の彼女にそれがよく似合っていた。
 白いリングシューズは使い込まれており、手入れが行き届いている。

「上井選手、おまたせしました」

 麻耶が小さく微笑みながらリングへ上がる。
 キュッキュと足を鳴らして右手を前に出す構えをした。

 涼太も気を取り直してマウスピースを口に入れた。
 お互いにストレッチなど、軽く準備運動を終えた頃、コーナーポストに設置しておいたタイマーから試合開始の電子音が鳴り響いた。
 向かい合う二人が頭の中を切り替える合図だ。

(やべぇ、はじまっちゃったよ……)

 いよいよ麻耶とのスパーリングが始まる。
 事前に彼女とはいくつかの取り決めをしている。
 1ラウンド3分。
 安全を考えて最長でも6ラウンドということにしておいた。

(意外と構えがしっかりしてるっていうか、麻耶さん強そうだな)

 本人は謙遜していたけれど、かなり場数を踏んでいるように思えた。
 涼太は慎重にステップを踏みながらリングの硬さを足になじませる。

(今は集中しなきゃ……集中集中!)

 涼太は自分に言い聞かせるようにして気力を充実させてゆく。
 空気がピーンと張り詰めた頃、涼太は肩慣らしのつもりで軽くジャブを放つ。

シュッ!

「きゃあッ……」

 彼女の右手に着弾するとほぼ同時に麻耶が小さくうめいた。

 音を置き去りにしたような感覚に涼太は満足する。
 どうやら今の自分は相当調子がいいらしい。
 初撃、空気を切り裂くジャブを放つことができた。

「大丈夫ですか」
「ええ、思っていたよりも速かったから」
「じゃあ続けますね!」

 その後も呼吸を整え、二発三発とジャブを重ねてゆく。
 麻耶はサウスポーの構えのまま涼太のパンチをどうにかさばいてゆくが、

(強そうに見えたけどやっぱり気のせいか。所詮は女の人だよなぁ)

 涼太は少し肩の力を抜いた。
 キレのあるジャブをブロックしようとしても麻耶には難しいようで、彼女の体は少しふらついていた。

 だが涼太はそこで手を抜くほど無礼ではない。

パンッ、パンパンパンッ!

 速射砲のような左。
 もちろんまだ全開には程遠いので少しずつギアを上げてゆく。

 ガードを固めたままの彼女を見据えながら軽快に左右にステップする。
 心の中では来週の対戦相手を思い描いていた。
 彼の黒いグローブが麻耶の手を弾くたびにいい音が響く。

(本番もこんなふうに自分から試合を支配できればいいんだけど……)

 調子よくパンチを重ねていく涼太だったが、不意に麻耶が彼のパンチをがっちり受け止めた。

「おっ!?」

 クロスアームブロックだった。
 分厚い木材を叩いたような手応えに思わず驚きの声を上げてしまう。
 だが涼太は次の瞬間には気を取り直して、今度はワンツーをお見舞いする。

「シュシュッ!」

 鋭く呼吸を吐きながら涼太はしっかりと麻耶の顔面を狙い撃つ。
 ヘッドギアをしているのだから当たっても問題ないだろう。

 ワンでブロックを浮かせて、ツーで彼女の顔に当てる。
 さすがに驚かせてしまうかもしれないなと考えながら右を放つと、なんと彼女は左手で涼太の拳を払い除けて軌道をそらした。

(やるな、あれをきっちり捌くなんて……)

 これには彼が驚かされた。
 なるほど、利き腕なら彼のストレートにも対抗できてもおかしくない。
 ただしそれは相手が男性である場合なのだが、涼太はそれに気づけない程度には動揺していたのだろう。

 深く考えずに次の一手を打とうとしていた。

(じゃあこれならどうだ?)

 右足でマットを蹴り、頭を振って鋭くステップイン。
 沈み込んだ状態から伸び上がるような左フックを放つ。
 狙いは麻耶のレバーだ。
 当たれば確実に足を止められるし、回避しようとしてもそのまま顔面を撃ち抜ける計算だったが……

パシィッ!

「なっ!?」

 麻耶は右足に力を入れて素早く身を引いた。
 さらに今度は右手で涼太の左拳を下から小突いて着弾を防いだ。

 二度もパンチの軌道をそらされた。そのことに再び彼は驚く。

(まさか狙ってあんなことを……
 いや、無理だろう。偶然だ。
 でも怖がっていなかった。ギリギリまでしっかり目で追っていたような)

 たしかにそれは迷いであったが、時間にすれば一秒に満たない程度のものだった。
 偶然に固執するほど涼太のメンタルは弱くなかった。
 次々と麻耶に向かってパンチを繰り出してゆく。

「シッ!」

ヒュンッ、シュッシュ、シュ!

 速度重視のジャブだ。相変わらず彼の調子は申し分ない。しかし、

(当たらない? 馬鹿な……ッ)

 コンビネーションの最後、麻耶はわずかに顔をそらしてパンチから逃げた。
 さっきまではグローブに届いていた拳が空を切るのは彼女の構えが変化したせいでもあったのだが……

ビシッ!

 麻耶はそのあと追いかけてきた涼太の右ストレートをしっかりとブロック。
 ステップバックで距離を稼ぎ、安全圏に自分の身を置きなおした。

(くそっ、なんだよこれ! 当たることは当たるけど、うまくリズムが作れない)

 その後も似たような展開が続く。
 麻耶の動きは初心者どころかアマチュアでもない、それ以上のものだ。

 クリーンヒットこそないものの涼太の優勢にかわりはない。
 しかし彼は内心イラついていた。予想外の苦戦と言っていいだろう。

(麻耶さん、ここまで防御がうまいとは……)

 侮っていなかったと言えば嘘になる。
 本来であるならば、彼女に対してかなり手加減した状態で自分の立ち位置などを冷静に分析しつつ、来週の本番に備えるつもりだった。
 だが今の自分は彼女にパンチを当てることを第一目標にしている。
 しかも困ったことに、麻耶の呼吸はほとんど乱れていない。

(くそっ、だんだん相手の動きが、スムースになってきたというか……)

ヒュッ……

 不意に麻耶の右手が伸びてくる。
 あまりにも予備動作が少ないジャブに反応が遅れた。
 驚きつつ、涼太はなんとかそれをさばいていく。

「くっ……!」

 上下に打ち分けたジャブを打ち払う。
 彼女は深追いしてこない。
 すぐに中間距離に下がり、クロスレンジで彼と向き合うことをしないのだ。

「くそっ、またかよっ!」

 不完全燃焼の自分に苛立つ。
 こうなるとペースを作るために自分から飛び込んでいくしかない。
 決して彼女を恐れているわけでもないのに、何故か懐に飛び込むことが難しい。
 彼にとって不思議な感覚のまま、いつもより早く時間が流れてゆく。

 やがてタイマーの電子音が鳴り響き、二人は軽くお辞儀をした。
 1ラウンド目が終了した。
 不完全燃焼のまま涼太は自分のコーナーへと戻っていった。







 インターバルでうがいをしながら何気なく涼太は尋ねる。

「麻耶さん、もしかして演技ですか?」
「どういう意味かしら?」

 きょとんとした様子で彼女が問い返してきた。
 真面目に相手してくれている麻耶に対して失礼だったかなと涼太は反省する。

「いえ……すみません」

 そして2ラウンド目の開始を告げる電子音が鳴り響いた。

(体も温まってきたし、最初から飛ばすぞ!)

 バシンと涼太は自分のグローブをぶつけて気合を入れた。
 このラウンドで彼は麻耶のことを試すつもりでいた。
 さっき見せた動きは偶然なのか、それとも本当に実力者なのか……

(グイグイいくぞ!
 結果的に顔に当てちまったら後で謝ればいいし……)

 それでも女性相手に本気で向かっていくことにためらいを覚える。
 女性は守るべき存在。
 女子ボクサーと対戦したことも数回あったけど全く話にならなかった。
 涼太は自分の考えが正しいものだと信じている。
 女性に手を挙げるなんてありえないのだ。
 ゆえに1ラウンド目は様子見のつもりだった。
 当然のごとく自分の力をセーブしていた。

 だがここからは違う。
 全力で行けば彼女を潰してしまうかもしれないが、そこは割り切ることにした。

 右手を前にしている彼女に対して自分は左側へとステップしていく。
 サウスポー対策の基本中の基本だ。

「!?」

 しかし麻耶のステップは巧みで、なかなか射程に入らせてくれない。
 ジリジリと距離を詰めながら好機を伺う。

(ここだ!)

 移動しながら麻耶がわずかにガードを下げたのを彼は見逃さない。
 素早く距離を縮め、ショートフックを――、

パンッ

「ブグゥッ!?」

 麻耶の体に自分の拳が届く前に涼太の顎が跳ね上がった。

(合わせてきたのか……上等だ!!)

 踏み込んだ左足に体を引きつけるようにして完全に距離を潰した。
 これで完全にクロスレンジ(近接戦)だ。

(全部当たるまで手を出し続けてやるッ!)

 思い切り息を吸い込んで無酸素運動を開始する。
 麻耶の左拳が彼の右手と同じ位置まで上がっていた。

パンパンッ、パシッ、ドスッ!
パンパンパンパンパン!!
パンパンパン、ビシッ、バムッ!!

 そこからは派手な炸裂音がしばらく続いた。
 黒いグローブが赤のグローブをはねのけようと弾幕を張る。

 涼太は左右の回転を上げ、フックが主体の攻防となる。
 懐に入ってしまえば左利きも右利きも関係ないと彼は思っていたのだが、

(嘘だろ……!?)

 激しい嵐のような拳の弾幕を、麻耶は顔に近い場所で防御していた。
 ショルダーブロックである。
 構えはそのままに肩の位置をずらして受け切るということは、それだけ危険度の高い部分でもさばく自信があるということだ。
 現に彼女の鼻先まで涼太の拳は伸びている。
 だが当たらない。
 冷静に拳の軌道を目で追いながら、麻耶は危険を回避しているのだ。
 涼太の背中に冷たい汗が流れる。

(俺のリーチを完全に見切られてる……しかも拳に目が追いついてる!)

 顔面だけでなくボディや死角になりうる場所も含めて数十発のパンチを放ってから、涼太は後ろに飛び退いた。麻耶は多少呼吸を乱しているものの無傷だ。

「強い……少なくともアマチュアレベルじゃない」

 おそらく1ラウンド目をじっくり使って彼女は自分を観察していたに違いない。
 クレバーで勇気のあるボクサーにしかできない行為だ。
 自分なら先に相手を倒しに行ってしまうだろう。
 むしろそのほうが難易度が高くないのだ。

「……気づかれちゃいました?」
「ええ」
「じゃあ私に対して心置きなくやれますよねッ!」

シュンッ!

「うおおおっ!?」

パシイィィン!

 鞭のようにしなる麻耶のジャブが彼の左肩に着弾した。
 スピード以上に威力を感じた一発だった。

「な、なんだ今のジャブ……伸びた!?」

 十分に距離は取っていたつもりだ。
 それなのに遅れた。

「それそれっ」

パンッ、パチイッ!

 麻耶の拳が徐々に回転を上げてきた。
 小石をぶつけられているような痛みに襲われる涼太。

「ぐううっ、この俺が距離感を見間違えることなんて、クソッ!」

 ぐっと両足をマットにつけて、涼太も負けじと応戦する。
 中間距離での差し合いになる。
 少なくとも彼は手数で麻耶に負けていないのだが……

「あはっ、ブロック上手ですね♪」
「舐めるなああああっ!」

 煽られて不用意に右を出してしまう。
 それを待ち構えていたように麻耶が左を差し込んでくる。

ズムッ!

「うふふ♪」
「グゥッ、ま、まだまだ!」

 ボディに突き刺さった彼女の拳は固くて重かった。
 その引き際にすがるようにして体を寄せるのだが、今度は右のフックで押し戻されてしまい近づけない。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 焦燥感が募る。
 麻耶は自分の位置から動いていないというのに、彼だけが振り回されているのだ。

 しかも的確に放たれるパンチがどうにも鬱陶しい。
 全てではないが避けきれないのだ。

「クスッ♪ もうおしまいですかぁ?」
「ちいいいっ!!」

 その後も涼太はムキになって攻撃を仕掛けた。
 ひらりひらりと麻耶はその攻撃をいなし、彼のスタミナをじわじわと奪っていく。

「ふぅ~、あぶなかったぁ!」

 白々しく麻耶が言う。そして今度は自分から彼に仕掛けてゆく。

パンッ、キュッキュ、パシイッ!

「ぐあああっ!」

 切れのあるジャブと鋭いステップインに涼太は驚く。
 さらに今はいいのをもらってしまった。
 意識を下へ向けられてからの、見えない場所からの攻撃に視界が揺らぐ。

「このおおおっ!」

 痛みが襲ってきた方向へ反射的に拳を振るうと麻耶が飛び退いた。
 彼女の回避能力は半端ない。
 涼太はすでに本気を出しているというのに。

(次はなにを仕掛けてくるつもりだ……考えろ、麻耶さんは何を)

 体勢を立て直せる距離をとって相手を再認識した瞬間だった。

「は、速いッ……消え――」

パンパンパンパンッ!

「ぐああああっ」

 咄嗟に涼太は自分の左半身を守る。それは正解だった。
 麻耶は彼の左側へ回り込みながら機関銃のようなジャブを打ち始めたのだから。

(くそっ、これは逃げるパンチだ! 追いきれない)

 右足を軸にして涼太は麻耶を追うのだが、視野にいれるのが精一杯で反撃まで繋げられずにいた。

ドンドンドンッ!

 ストレートに近いジャブだ。
 涼太には彼女の一発一発が今まで以上に重く感じた。
 それを彼は自分の疲労のせいだと判断する。

ドシュッ!

(ぐっ、くそっ、ガードしてるのに差し込まれるッ!
 でも今は体力をためて……それから反撃するんだ)

 某業に徹すると言えば聞こえはいいが、無意識に体が固くなる。
 それでも反撃しなければと思って涼太は自分に無理をさせようとしてしまう。

「このおおおッ!」

 激しい拳の弾幕が少し収まった時、涼太は無傷の右腕で薙ぎ払うようなパンチを麻耶に向けるのだが、

「ふふっ、残念」

ズムンッ!

「ぐはああああっ!」

 彼が放った大ぶりの右拳を難なく回避した麻耶は、角度をつけた左フックを彼のレバーに叩き込んだ。
 思わず息がつまり、涼太の膝が崩れ落ちそうになる。

(なんてきれいなボクシングをするんだ……)

 右半身に力が入らないところへ、ゆっくりと彼女の左のアッパーが、赤いグローブが目の前で大きくなって――、

カシイッ

「がふっ!」

 鋭い一振りで顎が跳ね上がった。
 自ら倒れる勢いが追加されたショートアッパーを食らって、一瞬意識が飛ぶ。

 苦痛を味わいながら、涼太は思わず見とれていた。
 お手本のような回避と反撃のための旋回能力。
 性別や体重など言い訳にならないしなやかなボクシングだった。

 ただその時、彼の目には拳を振り抜き愉悦の表情を浮かべる麻耶の顔が写った。

(なんて表情をするんだ……まずい、追撃が来る……
 備えろ……く、そぉ、右足の感覚が鈍い……)

 生じた違和感によって自分が危機の真っ只中いることを思い出す。
 ボクサーとしての本能がダウンを拒み、右拳をマットに叩きつけた反動で彼は立ち上がった。

 だが予想していた追撃は来なかった。

「大丈夫ですかぁ? けっこう根性あるんですね。うふふふ」

 麻耶は至近距離から彼の顔を覗き込んでいた。
 昼間の取材の時と同じように。

(舐められてる……このままじゃ男がすたる!)

 気迫を乗せて睨み返すと麻耶は微笑む。

「まだまだやる気十分ですね。では……」

 すっと距離が離れる。その直後、彼の左手が大きく弾かれた!

バチンッ!

 無意識に取っていたファイティングポースを左ストレートであっさり崩され、涼太の顔面が無防備になる。そこへ麻耶の鋭いジャブが襲いかかった。

パンパンパンッ!

「ぶっ……あ、が……!」

 ジャブと言ってもほとんどストレートと同じものを三発もらい、涼太は再び膝から崩れそうになる。
 だがその前に麻耶は自分の体を滑り込ませ、彼を肩でグイグイとコーナーまで押し込んでしまった。

「そんな、あ、あっ……あ……!」
「これでダウンする心配はなくなりましたね?」

 麻耶が可愛らしくウインクをした。
 額と額が触れ合う距離で彼女を感じながら、涼太は確実に恐怖していた。
 にこやかに微笑む彼女の瞳には妖しい影が浮かんでいた。

ドン、ガツッ、ドムン、バシッ!

 コーナーに釘付けにされたままボディを中心に滅多打ちにされる。
 特にみぞおちとレバーを交互に殴られると最悪だった。
 意識を手放すことすら許してもらえないのだから。

「うがあっ、おええ、んはっ、あぎ……ぃ……ッ!」
「あと十秒の我慢ですよ。フフフフ♪」

 麻耶はパンチの反動で彼から自分の身を剥がし、中間距離で息を止めてラッシュをかける体勢になった。

(や、やばい……!)

 涼太が本能的に左のガードをあげて顔をかばう。それを見ながら麻耶は左ストレートをやめて、右のアッパーを彼の左肘に叩き込んだ。

ビキッ……

「いっ、があああっ!」

 ガードしていた左腕、肘と肩のあたりから嫌な音が聞こえた。
 ブチブチと何かが擦り潰されるような響き。
 少し遅れて燃えるような痛みが彼に襲いかかる。

(くそっ、左腕が……)

 もはや感覚がないどころか、故障と呼べるほど涼太の腕は痛めつけられていた。
 麻耶は両腕を使って、目の前で悶える彼を抱き起こす。
 コーナーに貼り付けるようにしてから密着して囁いた。

「あら、私より先に上井選手のほうが調子悪くなっちゃいました?」

ペタン、ペタ……

「う、あ、痛ッ! んあぁぁ!」

 コーナーポストと麻耶に挟み込まれた状況下でのクリンチ。
 しかも麻耶は右腕を彼の脇に通したまま全身をグイグイこすりつけている。
 左腕が揺れるたびに痛みがこみ上げ、涼太の集中力が霧散していく。

「試合再開しよっか」

 彼の悲鳴をしばらく堪能してから麻耶は自分から離れた。
 そして涼太が震えながら構えた左腕に、明らかに手を抜いたジャブをお見舞いする。
 何度も何度もグローブの表面がペタリペタリとまとわりつくように、規則正しく打ち込まれていく。
 決してダウンさせることなく、だからといって痛みが引くようなこともない。
 生殺しの状態を引き伸ばすように麻耶は立ち回った。

「もうこのあたりでやめにします?」
「だれ、が……するもんか……」

 口をついて出た言葉は反発だった。それ自体はおかしいことではない。
 男として、ボクサーとしてのプライドが敗北を認めなかったのだ。

「そうですか」

 麻耶は健気に拒絶する彼を見て優しく微笑んだ。
 まるで彼がそう答えることを見越していたかのように。








 ラウンドの終了を告げる電子音が鳴る数秒間、麻耶はコーナーにもたれかかって呼吸を乱す彼を見つめ続けていた。

「ふふっ、次のラウンドが最終になりそうですね」

 そう言い残して自分のコーナーへと戻っていった。

(俺は一体……)

 残酷なほど早くインターバルの時間が過ぎ去っていく中、涼太は左腕の痛みよりもひどい無力感に襲われていた。

 麻耶に手も足も出せず左腕を痛めつけられた。
 おそらく今日いっぱいはまともなパンチを放つことはできまい。
 しかし何の収穫もないまま終われない思いもある。
 ただこの後の展開を組み立てられない自分が情けなかった。

 そしてまたラウンド開始を告げる電子音が鳴り響いた。

 反射的にリング中央へと足を運ぶ。
 ファイトプランを見いだせぬまま麻耶を睨みながら構える。

「ふふっ♪」

 シュっという風切り音とともに麻耶のグローブが近づいてくる。

(受けちゃ駄目だ!)

 左足を引いて麻耶の右ジャブを回避しようとした時だった。彼の動きを予測していたように麻耶の手がピタリと止まり、彼女の左足が前に踏み出された。

(スイッチ!?)

 そしてスムースにサウスポーからオーソドックスの構えへと変化して、踏み込みの重さを乗せたパンチが繰り出された。

「えいっ」

 しかも利き腕を変えた麻耶のジャブは、さっきよりも速かった。

ビシイイイィッ……

「ガアアッ!!」

 涼太の右頬へと吸い込まれていく拳。
 スナップの利いたジャブを食らい、ふらつきながら慌てて構えを戻す。
 それが良くなかった。

「こうなったら逃しませんよ~」

パシッ、パンパンパンッ!

 矢継ぎ早に速度重視のジャブが放たれ、涼太の右半身に何発も被弾する。
 たまらず両手をクロスさせてもその上から打ち込まれてしまう。

「ぐあああああああーーーーっ!」

 涼太が傷ついた左腕をかばって右肩を前に出そうとすれば、麻耶は左のジャブを畳み掛けるように連打してくる。
 短時間に集中打を浴びたおかげで、左腕と同様に彼の右腕も腫れ上がり、感覚が失われていく。
 こらえきれず彼が右足を引いて左のガードを戻せば、麻耶は右の強打で容赦なくガードを崩そうとしてくるのだ。

 ラウンド開始から一分ほど経過した頃には、麻耶の拳に追い詰められコーナー間際まで涼太は後退させられていた。

「んああああっ、くそおおお!」
「ふふふ、どうしたんです? さっきから逃げ回ってばかりで」

 左右にパンチを散らしながら麻耶は確実に彼のスタミナと気力を奪っていく。
 もがいてもどうにもならなかった。
 蜘蛛の巣にかかった蝶のように懸命に脱出しようとしても、涼太の行く手には必ず麻耶の用意した毒針が仕掛けられている。

(ここはいったん亀になるしかない……!)

 ギュッとガードを固めて全身防御の構えを取る。
 コーナー付近のロープを使えばしばらくはこの責めをしのげるかもしれないと彼は考えていたのだが……

「ああ、そういう作戦ですか。それなら」
「!?」
「ほら、ここですよ? 遠慮なく打ち込んで下さいな」

 あざ笑うように彼女は手を後ろにまわし、少しかがむような姿勢で涼太に向かって顔を突き出した。
 あからさまな侮辱である。
 自らの頬を差し出し、できるものなら殴ってみろと麻耶は告げているのだ。

 ブチン、と彼の中で何かが切れた。

「こ、のおおおおおおおォォォ!」

 素早くガードを解いて右フックをかます。

「ふふっ、急に動きが良くなりましたね?」

 多分に嘲笑を含んだ麻耶の言葉は彼に届いていなかった。
 怒りに身を任せて増加した広背筋、その膂力をもってコーナーから飛び出した勢いをつけたまま、今度は左フック、右アッパー、左ストレートへとつなげていく。
 しかし当たらない。
 涼太の攻撃と間合いを読み切った麻耶は一つずつ確実にワイルドなパンチをブロックしていく。

「残念ですねぇ。なんですかこのパンチ……はい、お返しです」

パグンッ!

「んぶぅっ!」

パァーン!

 フックをかいくぐり麻耶のショートアッパーが涼太の顎を打ち抜き、さらに彼が繰り出したストレートより早く麻耶のジャブが彼の視界を乱す。

「ぎいっ!」
「もう一発、それそれそれっ」

パパパンッ、ビシィ!!

 涼太が繰り出す左右の連打にカウンターを合わせる麻耶。
 その全てはことごとく威力を殺したものだが、何発も食らっていくうちに涼太の動きがあっという間に鈍くなる。

ドスッ、ガツッ、グキッ!

「ぎゃああああああああああーーーーっ!!」

 腕を戻してガードする涼太を休ませることなく、傷んでいる左肘や右の手首を確実に撃ち抜いていく麻耶。

「やだ、そんな声出しちゃ駄目ですよ……上井選手は私を喜ばせるのがお上手ですね」

 その後も麻耶の処刑じみた連打は続き、涼太の心を削り取っていった。

(こんな、手打ちの連打に押されるなんてッ!)

 彼の目に失望の色が浮かんだところで、マヤはわざとクリンチをした。
 涼太の肩に顎を置くような形でそっと囁く。

「うふふふふ、ザァ~コ♪」
「なん、だと……」
「ふふふ♪ なんでもないです」

 そう言いながらクリンチをほどき、麻耶は自分が得意な中間距離へ戻る。
 その途中でわなわなと唇を震わせている彼に向かって、忘れ物でもしたかのようにポンと手を打った。

「あと、言い忘れましたけど私はもともとサウスポーじゃないんですよ」
「え……」

 たった一言だが、その事実は彼をこの上なく打ちのめした。







(麻耶さんが右利きって意味? あれが不慣れなサウスポーだというのか。たしかにスイッチした後の動きのほうが鋭かった……気はするが、しかし……!)

 認めたくなかった。
 頭の中をぐちゃぐちゃにされた気分だった。

 手を抜かれているという感覚はあった。
 だがそれでも、サウスポーのふりをしたアマチュアに翻弄されるなんて……何という屈辱だ、しかもこれは極めつけだ。
 そんな困惑が抜けきらないうちに涼太は彼女に向かって駆け出していた。

「ハァ、ハァッ、このっ、当たれえええ!」
「クスクスッ♪ 落ち着いて? 上井選手」
「なぜだ……こんな簡単にあしらわれるほど俺の拳は軽くないはずだ!
 それなのに、くそっ、くそおおおおうおおおおぉぉぉ!」

 麻耶とダンスを踊るようにリング上を舞う涼太。
 突き出した腕はことごとくいなされ、次の行動を誘導される。

「随分無理されてませんかぁ?」

 彼の呼吸を読みながら、まるで駄々っ子をあやすように麻耶は言う。
 そして泳いだ左手の肘をめがけて拳を走らせる。

バチンッ!

「んああああああああああっ!」
「その左手、もう死んじゃってますよね?」

 涼太はその言葉にハッとする。
 そして両手を顔の前に構え、ピーカブースタイルを取った。

「き……」
「右手一本で戦ってるんですもの。可愛くてたまらないです♪」

 麻耶はもはや恐れもせず、悠然と近づいてくる。
 ほとんどノーガードに近い彼女に対して彼は――、

「戦いの最中に、可愛いとか、言うなああああ!!」

 ほぼ全力で右ストレートを放った。
 しかしそれがきっかけでカウンターをもらってしまう。

「ほらほら、こちらがお留守ですよ?」

ドウッ!

「おぼおおぉぉぉ……」

 空を切る涼太の右拳。
 その脇をすり抜けた麻耶が置き土産のようにボディにフックをめり込ませる。
 彼女の体重は50キロに満たないが、突進してきた涼太の勢いは凄まじく、その何倍もの威力を宿らせたボディブローだった。

「根性があるのはわかりましたけど、技術がまだまだですね。
 それは最初見た時からわかってましたけど」

 クスクス笑いながら両手をマットに付いた涼太に歩み寄る麻耶。

「あなた、とっても私好みです♪
 だから念入りに動けなくしてあげますね。
 操り人形みたい踊らせてあげる」

 そして先のラウンドと同じように無理やり彼を立ち上がらせ、今度はクリンチの体勢のまま何度も拳を打ち付けた。

ドスッ……バムッ、ドウッ……ズムンッ……

「あっ、まっ、ああ、あっ! ぐ、ほぉ……」

 麻耶に抱きしめられたまま涼太は悶絶する。
 両腕に力が入らず彼女を突き飛ばすこともできない。
 なすがままに何度もボディを貫かれ、吐きそうになるけどそれすら許されない。

「負けるはずがないと思っていた女に軽くひねられちゃって……
 昨日までのプライドなんてもうボロボロでしょうね」

 密着した状態で、左手のみで彼のボディを打ち抜きながら麻耶は言う。
 抱きしめている彼の体は支えられているからこそようやく立っていられるだけで、もはや足腰に力を感じなかった。

「さて、仕上げにもう一度やりましょうか。ボディ打ちの特訓を、ねっ!」

 彼の体を放り投げるように突き放す麻耶。
 たたらを踏んで後退した先は何度も追い込まれたコーナーポストだった。

「あ……あ、やめ、え……ブゴオオッ!!」

ドムッ、バスッ、ボグッ!

「ホントにいい声で鳴いてくれますね。素敵ですよ」

 殴られているうちに彼の両肘がロープに絡みついてしまい、ますます回避できない状況になってしまう。
 麻耶は手加減したパンチを左右の腕やボディに間断なく浴びせ、彼に問いかける。

「動かなくなった両手とお腹、どっちが痛いですか?」

 顔を殴られないせいで涼太は意識を飛ばすこともできず、ただその嵐のような拷問が終わるのを祈ることしかできなかった。






「さて、そろそろ今夜の会をお開きにしましょうか」

 数十秒間、たっぷり殴りつけたあとでようやく麻耶はパンチを止めた。
 もはや涼太には首から下の痛覚がない。
 ガクガク震えながら彼女の次の言葉を待つしかなかった。

(怖怖い怖い! もうパンチが、腕が殴られるのが怖い、やめてくれ、もう……これ以上、俺にどうしろっていうんだ……!)

 自分が前のめりで倒れ込み、リングに四つん這いいることすら実感が無いのだ。

「簡単ですよ。
 ほら、這いつくばっているあなたの目に何が写ってますか」
「え……」
「その先に軽く口づけしてくれたら、今日はこれで終わりにしましょう?」

 麻耶はうっとりした表情で彼を見つめている。
 今夜の決着として自分に完全服従しろということらしい。

「うふふっ、どうしたんですかぁ?」

 涼太はじっと俯いているが、唇をかみしめているのがわかる。
 それを考えることが麻耶にとってこの上ない愉悦であった。

「できるわけないですよね。
 あなたをボロボロにした女の靴を舐めるなんて」

 言葉で煽る。
 受け入れがたい条件を、受け入れるしかない敗北を屈強な男が認めた時に彼女はエクスタシーを感じるのだ。

 そして今、その瞬間が近づこうとしている。

「上井選手、私は構いませんよ。
 ただそのかわり、あと3ラウンド追加です」
「つ、追加って……まさか……」

 信じられない回避策に、思わずぱっと首を持ち上げる涼太。
 すっかり怯えた彼の目を見て麻耶は体の芯が熱くなるのを感じていた。

「ええ、また私と戦いましょう。
 一方的になっちゃうと思いますけど」
「嘘、でしょう……嘘ですよね?」
「いいえ。それが終わってから、
 今と同じように服従の誓いをするかどうかもう一度お尋ねします」

 麻耶は片膝をついて彼に顔を寄せる。
 そして手のひらで彼の顎を持ち上げ無理やり視線を合わせた。

「ふふふ、何度でも繰り返しましょう? あなたが自分から堕ちるまで♪」







 それから数分後。
 結果として、涼太は彼女に屈してしまう。

「なかなか手こずらせてくれましたね」

 リングに這いつくばって、うつろな目をした彼を見下ろしながら麻耶が笑う。
 彼は葛藤し、ヒクヒク震えながら、それでも麻耶の白いシューズの先に口づけをしていた。

「最後は予定通り陥落してくれました。お疲れさまでした」

 口づけされた方のシューズを持ち上げ、彼の横顔を踏みつける。
 体重はかかっていない。
 それでも涼太には屈辱だった。

(く、そ、どうして、おれは……)

 心と体をボロボロにされて涼太は悔し涙を流す。
 もう自分は彼女に逆らえそうにない。

 何が勝利の女神だ。何が……あっ……

 涼太はそこで恐るべき事に気づいた。

(まさか、最初から……取材の時から俺は嫐られる運命だったのか……)

 仮に彼女が自分にとって勝利の女神であるなら、同時に対戦相手にとっては敗北の魔女になりうるということに。



「もしもし、フサノです。例の件ですが――」

 いつの間にか麻耶はコーナーポストに寄りかかって誰かと通話していた。
 完全には聞こえないが、部分的に理解することができた。

「ええ、予定通り無事に完了しました。
 報酬は打ち合わせどおりに。
 できれば明日の朝までによろしくおねがいしますね」

 短い通話を終えた彼女が振り返る。
 涼太は何も聞こえなかったかのように目を瞑っていたのだが……

「あら、もしかして今の聞いてました?」

 彼女の方から近づいてきて、白々しく語りかけてきた。
 膝をついて自分の顔を覗き込んでいる。
 怯えながら麻耶の気配を感じて、涼太は小さく首を横に振る。

 おそらく麻耶は、あえて通話を彼に聞かせたのだ。

 そして彼の予想通りなら通話の相手は――、

「聞こえてなかったならいいですけど、もし聞かれていたら
 記憶が消し飛ぶまで何か処置をしなければならないところでした」

 背筋が凍りつくような一言だった。
 改めて涼太は自分が相手をしていた女性がとんでもないサディストだと思い知る。

「でも念の為。今日のことは他言無用ですよ?
 上井選手には頑張っていただかないとならないですから」

 麻耶は何も言い返さない涼太をひと撫でしてから立ち上がった。

「それと、来週の試合も楽しみにしてますからね。
 せいぜい頑張って下さい。
 棄権しちゃ駄目ですよ。うふふふ♪」

 涼太の目尻から涙が一筋流れる。
 自分は利用されたのだ。

 それが賭けボクシングなのか、純粋に相手の戦績をあげるためなのかはわからないが、確実に麻耶は自分を狙い撃ちしてきた。
 勝利の女神ではなく、敗北を告げる魔女として。



 それから約一週間後、期待の新人と呼ばれていた上井涼太はプロデビューしてから初の敗北を味わうことになる。




(了)

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