「むぅ。今宵は気力が満ちている」


僕の部屋には淫魔がいる。

半年くらい前のある朝、突然僕のベッドに現れた。

それからずっとここに居ついている。

はじめは次の満月までの居候という約束だった。


満月の夜になると自分の住む世界へのゲートが開くという。

この淫魔、間抜けなことにゲートが空いている時間に居眠りをしてしまって帰れなくなったらしい。



それから何度も満月になっているのだが、一向にここを出て行く気配が無い。

本当にゲートってあるのか? なんだか怪しい。

あったとしても人間には見えないらしいのだが…


もっとも、急に彼女にいなくなられても寂しい気もする。

たまに話相手になってくれるし、寂しがり屋の僕にとって悪いことばかりではないのだ。



「なんだか体中の血が騒ぐというか…不思議な感覚だ。魔が満ちている」


いつもは小さくたたんでいる羽を大きく広げてバサバサする淫魔。

びゅーびゅーと空気が渦巻く。これなら洗濯物も良く乾く。

こいつには教えてなかったが、今日はいわゆるハロウィン。

魔族として敏感に何かを感じ取っているのかな。



ご機嫌な淫魔はおいといて、今日は憧れの理奈さんが魔女のコスプレをして遊びに来てくれるという。

だから僕は評判のいいお店「デ・デメール」のおいしいクッキーを買って来た。

うまくすれば一緒にお茶できるかも。

ハロウィンの合言葉はトリック・オア・トリート。


「お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ。」と理奈さんに言われたい。

それよりもいたずらされたい……

いや、なんでもない。



「なんだか邪悪な妄想をしていただろ、オマエ」


はっ!


ちょっと気をそらしていたら、淫魔が僕の顔を覗き込んでいた。

余計なところでこっちのことを気にするな!

と、とにかくこいつをどうにかして外に追い出したい。

理奈さんが来る前に。


「しかしうまいな、これは!」


そ、それは!?

デ・デメールのクッキー!!

なんでお前が勝手にバリバリと開いて…しかも食ってるし!

理奈さんと一緒に食べるのを楽しみにしてたのに…

僕が不満そうな顔をしていると、淫魔は突然僕の唇を奪った!



「お前にも分けてやろう。ほら、なかなかの味だろう?」

言われなくてもわかってる。
ここのクッキーはおいしいんだ!

サクサクサク…

くそー、うめぇ。


「あーあ…」

しょんぼりする僕を見ながら不思議そうな顔をする淫魔。


「まずかったか?」

そうじゃないんだ~~~~!!

でもどうしよう。これじゃあ理奈さんが来てもお茶に誘えないし、いたずらされちゃうじゃないか。
それ以前にこいつをどこかに追い出さないと…


ピンポーン♪


げっ、チャイムがなったぞ。理奈さんが来ちゃったよ!!

「とりっく・オア・トリート?」

小さな音を立ててドアが開いた。

そこにはコスプレというよりは黒いカーディガンとミニスカート、膝より少し長いくらいのスパッツでほぼ全身真っ黒の理奈さんが立っていた。

にこやかな笑顔と首にぶら下がっている小さなオレンジのネックレス(おそらくかぼちゃ?)もカワイイ。

僕はクッキーが消滅したことなどすっかり忘れて一瞬見とれてしまった。



「おお、なかなか魔の衣装が似合うな娘。」


…大事なことを忘れてた。

しかし時すでに遅し。

淫魔がドアのほうへ駆け寄って、理奈さんの顔や体をじろじろと眺めていた。


「あ、あの…誰っ!?」


やばい!

淫魔がいることなんて誰にも言ってないのに!!


「まあ、気にするな娘。なかなか可愛らしい顔をしている」

ぺたぺたと理奈さんの頬や肩などに触れる淫魔。
ちょっとうらやましい。

理奈さんが見慣れない淫魔の姿に戸惑っていると、淫魔の体が少しずつ薄くなっていった。
そして彼女の体に少しずつ溶け込んで…

グラリ…

「あ、あぶない!」

膝から崩れ落ちそうになる理奈さんを、慌てて駆け寄って支える僕。

脱力しているせいか、結構重いな……

あ、女性に対して失礼か。


抱きかかえられた彼女の腕がピクッと動いた。
そして僕の手を握って、顔を上げた。

「ふふっ、やはり惚れた女には優しいのだな」

明らかに不自然な口調と真っ赤に染まった瞳。
これはまさか…

「お、おまえは!」

「そうだ。私がこの娘の体を乗っ取ってやった」

「すぐにそこから離れろー!!理奈さんから出て行けー!」

顔を真っ赤にして怒る僕をニヤニヤと見つめる理奈さ…いや、淫魔。

「いや、そうはいかん。なかなかいい体をしてるし、かわいいのが気に入った」

そんなことはわかってる。

理奈さんがかわいいのは僕だって気に入ってるんだ。


「何が望みだ。クッキーのことなら許してやるから理奈さんを解放しろ」

面白半分で体の中に入り込みやがって…うらやましすぎるぞ、淫魔。


「ふふん、おいオマエ。この娘を助けたければ…キスをしろ」

「はいぃ??」

とんでもない条件を出してきた。


「ここでキスして」

中身が淫魔とわかっていても、理奈さんの声で話されるとドキドキしてしまう。

なるほど、毒リンゴを食べた姫を救うみたいにか。

つまらんことに感心している場合じゃない! 彼女を元に戻さないと!!


「オマエは何でこの子が好きなんだ?」

突然淫魔が僕に問いかけてきた。

そういえばなぜなんだろう?


「顔がカワイイから? スタイルがいいから? それともエッチしたいから?」

「やめろ…」

体を支配されてるからといっても、理奈さんに変わりはない。

でも淫魔の問いかけは僕を深いところで悩ませた。

外見だけが好きなわけじゃない。優しいから好きだとも言い切れない。


「お前達人間はいつも悩んでばかりいるな」

淫魔の言葉になぜか打ちのめされた気分になった。

「淫魔は悩まないのか?」

「フン…」

僕の問いかけに淫魔は答えなかった。
しかしなぜか淫魔が僕よりも大人に見えた。


「オマエの気持ちを唇に乗せて、試してみたらどうだ?」

目の前には淫魔の…理奈さんの艶やかな唇がある。

そしてキスを誘っている。

「キス・オア・デッド。本気で乗っ取ってやろうか?」

「ふざけるなっ」

淫魔の言葉にキレた僕は、ついに理奈さんと唇を重ねた。



僕はキスをしながら淫魔の言葉を反芻していた。

人が人を好きになることに理屈なんて必要なのかな。

何で僕は理奈さんが大事なんだろう?

考えても答えは出なかった。

でもひとつだけ、何かが心に残ってる。

彼女を守りたい。

僕に笑いかけてくれる彼女を包みたい。

それだけだった。

唇を重ねている僕自身にはわからなかったけど、その純粋な思いが理奈さんに流れ込んで
淫魔の魂が自然と彼女の体の外へと押し出されていった。

ふっと体の力が抜け落ちる理奈さん。
再び僕は彼女を抱きしめた。
まぶたが小刻みに震えていた。まるでおとぎ話の白雪姫のように。

しばらく僕はその場で固まったまま動けなかった。
ここで理奈さんを放したら、なんだか崩れてしまうような気がして。

「どうすればいいんだろう…」

気を失ったままの彼女を支える僕の腕が限界に差し掛かったときだった。
彼女の瞳がぴくっと動いた気がした。

(あっ…)

脱力していた彼女の体が小さく伸びをするように蠢き始めた。
ゆっくりだが確実に彼女は意識を取り戻し始めたのだ。

大きな瞳がパチパチと瞬きを繰り返す。
自然に僕の表情も明るくなる。

「理奈さん!元にもどったの!?」


「あ、あたし…あれ?なんであなたに…」


理奈さんが僕の腕の中で真っ赤になって小さくなっている。

その姿がとてもかわいくて、僕は彼女を思い切り抱きしめた。






「ふふふっ、これであの二人もうまくいくな。たまには人助けもいいものだ」


僕が理奈さんを強く抱きしめている光景を、淫魔は窓の外から眺めていた。

今宵ひときわ輝きを放つ三日月に腰掛けて。










(了)