第四十五話


嵐山の、ホテルのフロントにて。

「はぁー………」

鉄並の質量でもあるのでは無いか。
近くにいた古菲にそう錯覚させるほど、長瀬楓の溜め息は重々しいものだった。

「……何かあったアルか、楓?」

恐る恐る訊ねてみれば、ソファに腰掛ける楓は糸のように細い目を向けてきた。

「いや……何もなかったからこそでござるよ」

応じる声もやはり沈鬱で、常時飄々としていた彼女とはまるで別人だ。
古菲は、あまり勉強には役立ってくれないいまいち反抗期な頭脳を働かせて、楓の異常の理由を推理する。

答えは五秒で出た。

「爆さん、アルか?」

ど真ん中だったようだ。

語尾を言い終えるとほぼ同時に、楓は雷光の速度で肩にがしりと掴みかかってきた。
反応も出来なかった辺り、どうやら彼女の精神が肉体を凌駕してしまったらしい。

「そう! そうなんでござるよ! せっかくの修学旅行なのに、爆殿と全然回れなかったんでござるよ!!」

楓の両目から涙が滂沱として流れ落ちる。
初めて目撃する光景は、古菲を怯えさせるには充分だった。
蛇に睨まれた蛙というか、身体が全然動かない。

「ああっ! きっとあの上から下までキュッキュッキュッの貧弱刹那殿と今頃チョメチョメ……!!」

チョメチョメは今時古いんじゃないかなと、床に力なくへたり込む楓を見て、古菲は思った。
微妙に論点がずれていたのは、深く意味を考えたくなかったからかも知れない。

精神保護のために。

「何ッ!? それは駄目だ!!」

「わあっ!?」

ソファの背もたれの向こうから、にゅっと褐色の首が生えて来た。

「認めない!! 私は断じて認めないぞ!!」

生首がせり上がり、鴉の濡れ羽色の艶やかな長髪とギターケースを背負った長身が後に続く。
その正体は龍宮真名だったが、その顔は今までにない危機感で彩られていた。

「くそっ! 刹那の奴、故郷だからと色気づいて! 学園に帰ったら月夜の晩だけじゃないと教えてやる!!」

ソファの背もたれに右足を乗せ、両手を握り締めながら真名が血に飢えた獅子のように咆える。
床では未だに楓がよよよよと涙を流している。


………何だろう、この混沌空間?


自分が人類の範疇であるとは思っている古菲には、もうどうしようも無かった。
ただ、良識のある神様か何かがピンポイントで隕石を落としてくれないかなと願うしか。

そんな少女の願いが叶えられたかは定かではなかったが、とりあえず救いの手は差し伸べられた。

楓の服のポケットの中から、突如軽快な音楽が流れ出る。



      ◇◆◇◆◇◆



「ちっ……一体何処にいる?」

苛立たしげな唸り声を置き去りにして、爆は疾風のように廊下を駆け回っていた。

途中襖を見つけては開くのも面倒と蹴りを叩き込み、石像があれば「聖華」を放つ。
のどか達の部屋を離れてから数分間、その繰り返しであった。

空間転移により部屋から部屋へと移動しているのだろう、爆にはその影すら掴む事が出来ない。
ただ残されていたのは、顔に恐怖が刻み込まれた石像の群のみ。

予想だにしていなかった襲撃に抵抗する暇すら無く石にされたらしく、死体を見掛けなかったのは不幸中の幸いだろう。
命さえあれば、爆にも助けることができるのだから。

「ネギ達は無事だと良いが……」

呟きと平行して、走る速度を全く緩めずに角を曲がる。

戦闘においてそれなりの実力があるとはいえ、あの少年が奇襲に慣れているとは思えなかった。
他の者と同じく、全身灰色になって転がっている可能性もあり得る。
そして何より、敵の目的である木乃香の安否が気に掛かった。

「(……やはり、復讐を捨て切れなかったか)」

多少ながらも言葉を交わした、この事件の首謀者の眼鏡を掛けた顔が脳裏を過ぎる。


『そんなもんどうでもええ。うちは、許せへんだけや』


『うちの両親を奪った、西洋魔術師をな』


血の色をした声は、今でも耳に残っている。
怨嗟や憎悪は、数ある感情の中でも一際強い力を持っていることを、爆は知っていた。

両親をトラブルモンスターによって失ったカイが、GCを目指したように。

弟を惨殺された雹が、全ての人間に血の贖いを求めたように。

失った者への愛が強ければ強いほど、奪った者への憎しみは地獄の業火よりも熾烈だ。

両親を殺された怒り―――最初から存在しなかった爆に、それを推し量ることはできない。
しかし同時に、彼女が行っている復讐を許容することも看過することもできなかった。

それによって泣く者がいるのならば、自分は迷わず剣を執り拳を振るう。
それが彼の選んだ道だった。

「!!」

大浴場の周辺に差し掛かった時、爆は急停止した。
右方の竹を並べて作られた囲いの向こうから、白い巨躯に翼を生やした悪魔が飛翔してゆく。
獣染みた頭部の下の腕の中には、一人の少女が収められていた。

「木乃香!?」

「爆さぁーん!!」

風に靡く黒く艶やかな長髪と、助けを求める聞き慣れた声は間違えようが無い。
しかし二人の叫びなどまるきり無視して、雄々しく翼をはためかせる悪魔はみるみる内に夜空へと舞い上がってゆく。

即座に爆は肩のジバクくんを掴み取ったが、投擲しようとした腕が振り被った姿勢で止まる。
あの密接した状態で爆破すれば、その猛威は木乃香にまで及んでしまう。
同じ理由で、遠距離の攻撃は全て封じられてしまった。

「くっ……」

歯噛みと同時に、爆は悪魔の進行方向を睨み付けた。
星も浮かばぬ夜空の下で、広大な森林が地に降りた暗雲のように山の一帯を覆っている。

もはや逡巡などという贅沢は許されなかい。

突如巻き起こった烈風が夜気を掻き混ぜた時には、青年の姿は消えていた。



      ◇◆◇◆◇◆



川の中心に物も言わず居座り、その流れを二分する巨石―――その上で。

「やるやないか、新入り!」

夜の森を騒がしたのは、千草の高々とした声だった。
自ら呼び出した猿鬼の腕の中には、木乃香が精巧な人形のように納まっている。
この状況において少女が叫び声一つ上げないのは、口元が呪符で覆われているからだった。

最大の功労者である悪魔とその主である少年は、千草の賞賛に誇るでも無く沈黙を守っている。

「んーんー…ッ」

くぐもった言葉ならぬ声は、木乃香が発したものだった。
手足の自由は縄が奪ってしまっているため、出来る抵抗といえば身を捩じらせるが精々。

恐怖からか、両目に溜められた涙が夜闇に僅かな反逆を試みている。


―――痛い。


錯覚などでは無く、千草は確かにそう感じた。
それが木乃香の涙を見てしまった所為だと気付き、人知れず奥歯を噛み締める。

伸るか反るかの大勝負、生半可な覚悟では無い。

木乃香は関西呪術協会の長の娘であり、そして関東魔法協会会長の孫という極めて特殊な立場にある。
彼女を害するということは、その二つの協会を敵に回すのと同義なのだ。

仮にこの作戦が失敗すれば―――日本に千草の居場所は消滅する。
運良く逃げおおせたとしても、この国には二度と帰れまい。

故に、千草は捨てたのだ。

良心も誇りも何もかも。

その筈なのに………何故この後に及んで心が痛むのだろう?

くだらぬ感傷と切り捨ててしまえば簡単だったが、どうしても昼間に言われた言葉が蘇る。


『貴様は、独りになった苦しさを紛らわそうとしてるだけだ』


今にして思えば、それは自分も知らなかった―――否、直視しようとしなかった核心を突いていたのかも知れない。

あの優しかった両親が、血の贖罪を求めている筈が無い。
所詮は残された者の自己満足なのだと自覚させられる。

だが、今更止まる事など、出来はしない。

一度放たれた矢は的に当たるか、途中で叩き落されるしかないのだ。

「(……あんな男が、傍にいたらなぁ)」

こんな事になる前に、自分を止めてくれたかもしれない。

意味の無い仮定だと、千草は苦笑した。

「木乃香!!」

凛とした一声が、水が弾ける音を伴って耳朶を叩く。
振り返れば、そこにはちょうど今脳裏に浮かべていた青年。

たしか―――爆という名前だったろうか?

「お前は……」

足首までを川の中につけたまま、何処か神妙な顔付きで爆が千草を見上げてくる。

「また会いましたな、兄さん」

迷いは胸の奥に隠して、千草は唇を弦月に歪めた。

「覚悟の上か?」

問い掛けとその表情の険しさに、手を引かなければただでは済まさないと警告されていたことを思い出す。
もはや一考するまでも無かった。

「ここまで来てもーたら、行くとこまで行くしかあらへんやろ?」

そう冷笑を浮かべてみる。
何故か、虚しさが到来する。

「―――爆さん!?」

青年側の森の暗闇から、三つの影が川に飛び込んで来た。


先頭で野太刀を下段に構える少女、桜咲刹那。


左後方で巨大なハリセンを手に八双の構えをする少女、神楽坂アスナ。


そして右後方で杖を胸の前で掲げる少年、ネギ・スプリングフィールド。


これで、役者は揃ったという訳だ。
自分の復讐劇の終幕を彩る、役者達が。

「天ヶ崎千草!! 明日の朝にはお前を捕らえに応援が来るぞ!! 無駄な抵抗はやめ投降するがいい!」

刹那が勇ましく刀尖を突き付けてくる。

それに対し、千草はふんと鼻で笑っただけだった。
全て予想通りである。
関東魔術協会が、そう何時までも自分の勝手を許しておくものか。

無論、対抗手段も考えてある。

「……あんたらにも、お嬢様の力の一端を見せたるわ」

そう言うと、千草は岩から降りた。
木乃香を抱き抱えている猿鬼もそれに続く。
気で反発させているため、足が沈むことは無い。

「お嬢様、失礼を」

軽く頭を下げて、少女の胸元に札を投げつけた。

「んっ……」

ひらりと舞い降りた紙片は、木乃香と接触するや発光を始めた。
彼女の魔力を吸収し、指示された術式を発動させているのだ。

「《オン》」

呪を紡ぐ。
これで完全に、後には戻れなくなった。


川の水面が、白光を放ち始める。


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