第四十四話


時刻は既に十時を回っている。


しかし、夜の帳は世界を完全に包み込んではいなかった。

闇に足掻くように関西呪術協会の屋敷の群れは窓から光を漏らし、所々に点在する灯篭には火が灯されている。
緩やかな風に翻弄され優雅に舞い散る夜桜は、まるで夜気に爪を立てているかのようだった。

そんな光と闇が競う世界に、彼は来訪した。

暗鬱な陰影を刻む木々に挟まれた石段を、一人の少年が迷い無く歩みを進めている。

歳は十も越えてはいまい。

老人を思わせる白髪の元の顔は、しかし幼さを感じさせはしなかった。
揺ぎ無く一直線に前方を貫く瞳は何処か無機質で、まるで精巧に作られた人形の様だ。

そして何より異質なのは、この場所に存在できるという事実。

この関西呪術協会の周囲には並の妖魔や魔法使いでは手出しは出来ない強固な守護結界が常時展開されている。
そこに踏み入れることが出来るのは協会の構成員と、そして長が歓迎する者のみ。

だが、少年がそのどちらでも無いと言うことは、次に彼が漏らした独白で明らかになった。

「……平和に溺れた呪術師の結界なんて、所詮はこんなものか」

吐き捨てた言葉には侮蔑も失望も含まれてはいない。
ただ事実だけを言語化しただけのことだ。

「―――ふむ、それは同感だな。平和ボケはしたくないものだ」

「!?」

何処からか返って来た同意の声に、少年は足を止めた。
同時に、何の前触れも無く眼前に出現したピンク色の球体に、反射的に後方へ飛び退った。

まるで紅い牡丹の花のような爆炎が、夜闇の中に咲いた。
それは凄まじい爆風と轟音を伴って、少年に熱風を浴びせ掛ける。

「だが、これ以上先に進ませる気は無いんでな」

まるで、不遜な侵入者の前進を防ぐ壁が如き硝煙。
その向こうより現れた影が静かに、だが力強く宣告する。

「来て早々で悪いが―――さっさと失せろ」

縦に裂けた硝煙は、門のようにその男の登場を迎えた。


癖のある黒髪を押さえつけるカウボーイハット。
ホルダーで背中に装備された片刃の大剣。
肩には聖霊を携えて、爆は悠然と少年へ歩み寄った。

「……まさか、侵入に気付ける人がいたとはね」

「これに懲りたら他人を見くびらない事だ。特に俺をな」

青年の釣り上げられた口角が、彼の顔に不敵な笑みを形作った。
少年にとって、現時点での妨害は予想外だったが、問題は無い。

ただ、予定が多少早まっただけなのだから。

ここで彼を黙らせれば良いだけの話。
思考は冷静に、少年は迅雷の速度で爆との間合いを詰めた。

瞬く間に懐へと潜り込んだ少年は、その鳩尾へと拳弾を打ち込み行動を停止させ、直後魔法により止めを刺した―――彼が脳裏に描いた戦術ではそうなる筈だった。

拳撃は放たれはした。
だが、貫いたのは虚空のみ。

紡いでいた魔法は、目標を見失って発動すらせずに霧散する。

爆の姿は、まるで幻影であったかのように消えてしまっていた。

「……撤退? 仲間を呼びに―――?」

視界を旋回させようとした少年の右腕が、突如跳ね上がった。
それは彼自身意識した訳では無い、生物の防衛本能のようなものだった。

瞬間、掲げた右腕を重い衝撃が貫く。

「ぐ……」

少年の表情が、初めて苦悶に歪んだ。
衝撃に逆らわず、自ら宙に浮き吹き飛ぶことでダメージを緩和。
着地しつつ一秒前まで立っていた場所を見遣れば、そこには足を折り畳む爆の姿。

爆は、逃げた訳でも何でも無かったのだ。

答えは単純明快、少年の右方に回っていただけだった。

「(なかなかやる……でも、これならどうだ?)」

蹴撃を受けた腕に残る痺れを堪えて、少年は詠唱を開始する。

「ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイト。小さき王、八つ足の蜥蜴、邪眼の主よ……」

小さき王……バジリスク。

頭に冠を戴く八つ足の蜥蜴。

その身の全てが猛毒。

これはその魔獣の力を具現化した魔法。

「時を奪う毒の息吹を……石の息吹!!」

詠唱が終了する。
刹那、闇の中に現れた白煙が瀑布となって、爆の全身を抱擁した。

「……これは」

夜風に流され晴れて行く白煙の中で、爆は己の手を見遣った。

指先から徐々に、肌色を無機質な灰色が侵略して行く。
「石の息吹」は、その名の通り受けた物を石へと変える効果を有していた。
これを受ければ、例え彼がどれ程強かろうと関係無い。
一分も待たずに物言わぬ石像に成り果てるだろう。

しかし、勝利を確信した少年が望んだ未来が訪れることは無かった。

「―――聖華!」

爆の全身から放出された光輝は、熾烈なる太陽光にも似ていた。

「!!」

最後の抵抗か?

飛び退った少年だったが、その光は肌を溶かす熱を帯びてはない。
眩しくはあるが、眼を焼く程の強さでも無い。

ならばなんだ―――そう思った所で、少年は光の効力を目撃した。

早くも爆の肘までを侵食しようとしていた灰色がまるで絵の具であったかのように剥離し、次いで塵となって消えてゆく。
一秒も経たずに、彼の両腕は肌色を取り戻していた。

「……!」

さすがに、少年も絶句せざるを得なかった。
凄まじいまでの解呪能力。

主力である石化魔法まで無効化するとなれば、まともに相手などしてはいられない。
目的はあくまで近衛木乃香の奪取であって、青年に勝利することではないのだ。

「……悪いけど、勝負はお預けだ」

足元の石段に水溜りを出現させる。
それを空間移動のための門にすると、少年は爪先からその水面に沈み込んでいった。

後に残されたのは、未だ波紋の広がる水溜りのみ。

舌打ちをした爆は踵を返すと、彼のやって来た方向――木乃香達のいる屋敷へと走り出していった。



      ◇◆◇◆◇◆



不意に自由を取り戻した身体に対応できず、宮崎のどかは畳の上に転倒してしまった。

「きゃっ……」

顔をぶつけはしなかったものの、大事に握っていた契約カードが手から離れてしまった。
のどかは立ち上がりつつ、親指の先に落ちた長方形の紙片を拾う―――引き戸の前に立つ、カウボーイハットを冠った長身が視界を掠めた。

「爆さん……?」

顔を上げた先に立っていたのは予想通り警備員を務める青年の爆だったが、その表情は何処か険を帯びている。

「お前ら、大丈夫か?」

掛けられた声に周囲を見渡すと、ハルナや和美が倒れた姿勢から身を起こそうとしていた。
畳の上に骸のように散乱するのは、何枚ものカード。

そこまで視線を巡らせて―――のどかの脳裏にほんの数分前の記憶が蘇ってきた。


叩かれた引き戸。


現れた白髪の少年。


炸裂する白煙。


自由を失ってゆく五体。


暗闇に引き摺り込まれて行く意識。


「………ぁっ」

耐え難い恐怖が、槍の如く少女の胸を、心を貫いた。

白髪の少年は、鳥居の小太郎と同じく刺客だったのだ。
あの煙も、おそらく魔法の類なのだろう。
石化の魔法というのも、彼女の愛読するライトノベルでもしばしば登場する。


だが、それを我が身に受けることになるなどと、愛していた幻想が牙を剥いてくるなどと、一体だれが予想するだろうか?


物言わぬ石像へと変質してゆく、暗い井戸にでも放り込まれたかのような冷たい感覚を思い出して、のどかは肩を震わせた。

「落ち着け、大丈夫だ」

暗闇に怯える子供をあやすような声だった。
同時に、青年の大きな手がのどかの頭を撫で付ける。
ほんの少しだけ、震えが止まった。

「ちょっと爆さん! これって……?」

爆に詰め寄ったハルナは、親友であるのどかすら見たことがないほどに取り乱していた。

無論、責められることではない。
むしろ、それが理不尽な非日常に晒された人間の正常な反応なのだ。

「……詳しいことは後だ。とにかく、今はここを動くな」

シャツの袖を掴んでくるハルナの手を外すと、爆は背中を向けた。
背負われた大剣はその巨大さ故か鞘が無く、剥き出しの刃が鈍色に輝いている。

敵と戦いに行くのだと、のどかには分かった。
その戦いには、おそらくネギも参加するのだろう。

だったら―――

「爆さん……私も一緒に」

「来るな」

背中越しの拒絶の言葉はとても冷たくて、のどかは身を固めてしまった。
振り返らずに、爆は続ける。

「足手纏いだ」

それもまた、氷の如く。

「……っ」

あまりに容赦無き言葉に、のどかは少なからず怒りを覚えた。
しかしなまじ事実であるから、少女は反論も出来なかった。

たしかに、ネギと仮契約することで得た本は相手の心を読むことが出来る。
だが、アスナのようにネギの背中を守ることができる戦闘能力に、のどかは恵まれなかった。


無力。


その二文字が、のどかに重く圧し掛かる。

「……これが、俺達の世界なんだ」


無力なことが許容される世界では無いと、そう言い残して。


一度も振り返ることは無く、爆は部屋の外へと飛び出していった。


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