第五十五話




「や……やったの?」

張り詰めた空気の中、アスナの問い掛けが当所無く空を漂う。

答える者はいない。

拳を放ったネギは彼女と同じ疑問を抱え、フェイトは殴られた体勢のまま微動だにしなかった。

障壁に遮られることなく届いた魔力パンチ。
これで、この一撃で終わって欲しい。

強化の負荷に耐えきれず、全身の砕け散ってしまいそうな激痛に耐えながら、ネギは心から願った。
しかして、勝利の女神は彼らに微笑まなかった。

「……身体に直接拳を入れられたのは、初めてだよ」

響いたフェイトの感心したような声に、ダメージは少しも感じられない。
後方に捻られていた彼の首が静かに旋回し、無感情な視線がネギを射抜く。

「―――っ!」

ネギは息を呑んだ。

戦う余力なんてもう残っていない。
ぶわりと冷や汗が全身の汗腺から流れ出る。
フェイトが魔力を宿した拳を強く握った。
逃げなければ、という思考は働くが、体が言うことを聞いてくれない。

「ネギッ!」

アスナの叫び声が、どこか遠くに聞こえた。
フェイトの拳が腰に引き寄せられ、ネギはもはや防御も回避も間に合わないことを悟り―――目を瞑った。
視界を包む闇は、少しでも痛みを和らげてくれるだろうか。

だが、ネギの耳に届いたのは打撃音では無かった。


「弱い者いじめは感心せんな。若造」


聞き覚えのある声を怪訝に思い、ネギは恐る恐る瞼を上げる。

まず目に入ったのは黄金の大河の如き、闇夜にも輝く美しい長髪だった。
麻帆良学園の制服に包まれた少女の体には、しかしとてつもない力が秘められていることを、ネギは知っていた。

事実、フェイトの拳撃を受け止めていたのは、その白魚のような繊手だったのだ。

橋の上を這う影を門として転移してきたらしく、少女の膝から下は闇の中に飲み込まれたままだった。
ネギは震えた、しかし大きな声で、彼女の名を呼んだ。

「エヴァンジェリンさん!!」

金髪を優雅に翻して振り返った少女が微笑を浮かべると、可憐な唇の端に真珠のように白い牙が覗いた。
これこそが、恐るべき、怖るべき、畏るべき、真祖の吸血鬼、闇の福音―――エヴァンジェリン・AC・マクダウェル。

ひゅん、と風の動く気配。

直後、大砲のような轟音とともにフェイトが数十メートル程吹き飛ばされ、湖の暗い水面に飲み込まれていった。
膨大な魔力により繰り出された、強大無比なるエヴァンジェリンの打撃。
彼女は蚊を払った程の疲労も感じさせず、唖然とするネギ達に向き直った。

「やけに騒がしいと思って来てみれば……ふふふ。なかなか楽しそうなことをしてるな、貴様ら」

最強の吸血鬼が好戦的な笑みを浮かべる。
彼女の小さな頭が動き、上空を見上げた。
ネギがその視線を追うと、ビルの様な巨躯を誇る大鬼神の頭上に、腰や足裏から推進剤を噴き出して飛行する人型があった。

絡繰茶々丸だ。

両腕には、彼女自身の身長を超えた巨大なライフルを抱えている。

「やれ、茶々丸」

エヴァンジェリンが号令を出した。

契約カードの能力か、それとも別の魔法による念話か、それは確実に茶々丸に伝わった。
石像のように微動だにしない大鬼神に向けて、大型のライフルが大気を震わせる轟音と共に火を吹く。

着弾。

同時に、半透明の結界がドーム状に広がり、六十メートルの巨躯をすっぽりと包みこんだ。



      ◇◆◇◆◇◆



「お嬢様、お嬢様! ご無事ですか!?」

満月を背にして飛ぶ刹那は、腕の中で眠ったままの木乃香に泣きそうな声で呼びかけた。

全く返事の無いことに絶望し、直後彼女の口を塞いでいる呪符の存在を思い出した。
短く呪言を紡ぐと符が弾け、少し遅れて、木乃香の瞼が開く。

「う……ん?」

術の余韻か、意識はまだ完全に覚醒していはないらしい。
木乃香の半開きの眼から視線があちらこちらに飛び、やがて刹那の顔で焦点を結んだ。
白銀の月光の中に、柔らかい笑みが生まれる。
木乃香の、いつもの笑顔だった。

「……せっちゃん。顔……泥、付いとるよ」

優しく伸びた指先が、刹那の頬を撫でる。
厳しく吹き付ける夜風の冷たさを、命の温かさが吹き飛ばしてくれる。

近衛木乃香は、守ると誓った少女は、無事だった。

眼頭の熱さに耐えかねて、刹那は上を向いた。
安堵と喜びの余りに、思わず涙が零れ落ちそうになったのだ。

安心するのはまだ早い、リョウメンスクナが見えないのか。
そう己に強く強く言い聞かせ、涙腺を引き締めて、刹那は再び木乃香に視点を戻した。

「お嬢様、どこか、痛いところは?」

聞かれて、木乃香は少し考えてから、かぁっと頬を紅潮させた。
刹那は何事かと思ってどきりとしたが、すぐに今の彼女が全裸だということを思い出す。
何か、身に纏う物を持ってくるべきだった。

「や〜ん、せっちゃん、見んといて……」

幼馴染の視線に、木乃香は両手で顔を覆い隠そうとして―――止まる。
何かに気付いた様に、彼女の眼が大きく見開かれた。
黒い瞳の中で、闇夜に映える純白の翼が羽ばたいているのを、刹那は見た。

「……」

とうとう、木乃香にも知られてしまった。
幾十、幾百の死闘を超えてきた刹那だったが、これほど自分の心臓の鼓動がうるさいと感じたことはなかった。

彼女の唇から、一体どんな言葉が紡がれるのだろうか?
騙していたのかという罵倒か、それとも―――何れにせよ、ネギ達にこの姿を見せたその時から、刹那は全てを受け入れる覚悟をしていた。

こんな事が無ければ、きっといつまでも隠し通せたに違いない。
前までのように、木乃香から距離を置いて、ずっと陰ながらに見守っていれば、きっと。

―――どちらが良かったかなんて、刹那にはわからない。

ただ、これ以上悩む必要は無くなったのは確かだった。
木乃香の答えが何にしろ、自分はもう―――彼女の傍にはいられないのだから。



「……キレーな羽やなー」



よく聞こえなかった。
これは誰の声だろう?
刹那は声の主を探して、腕の中の少女に辿り着いた。

木乃香は笑っていた。

見間違いか、もしくは幸せな夢なのでは無いかと疑い、一度目を瞑る。
再び開くと、やはり彼女は笑っていた。
怖いのを我慢しているとか、そんな無理なものでは無くて、心からの笑い顔だった。

何か言わなければ。

漠然と、刹那は思った。
だが唇は震え、真っ白になった頭では気の利いた台詞も思い浮かばない。
それを看破したように、木乃香は再び口を開いた。

「せっちゃん、ホントは天使やったんやね。すごいなあ」

もう駄目だ。
我慢できない。

ぽたり、と。
木乃香の頬に、透明な雫が零れ落ちた。

「せっちゃん? 何で泣いとるの? ど、どこか痛いん?」

「いいえ………いいえ」



落ちてゆく。

重力に従って、千草の体が暗い水面に向かって落ちてゆく。

木乃香を奪い返された時、浮遊用の力場を破壊されてしまった。
再び展開すれば落下は免れるが、このままでは湖に飲み込まれる。
水を吸って重くなった服を纏って泳げるほど水泳は得意で無いから、溺死するのにそう時間はかからないだろう。

それでも良いと、千草は思った。

だって、死なない理由がなくなった。

………両親が死んだと知らされた時、千草は死んでしまおうとも考えた。
寂しくて、悲しくて、自分一人生きていることに耐えられなかったのだ。
父と母が待っているのだと思えば、恐怖は無い。

だが、それだけでは納得がいかなかった。
両親の死の償いを、西洋魔術師達にしてもらわなければならない。

千草は決心した。
己の死出の山への道を、憎き奴らの屍で築くのだと。


しかし―――そのための計画は瓦解してしまった。


リョウメンスクナが無事でも、近衛木乃香の魔力が無ければ操ることができない。
小太郎、月詠、フェイトが破れた今、千草には彼女を取り返すことのできる戦力は残っていない。

完全なる敗北だった。

リョウメンスクナが完全に復活してしまえば、京都は草一本生えぬ焦土と化すだろう。
だが、その阿鼻叫喚を千草が見ることは無い。

彼女の目の前には、夜空を映して闇色に染まった水面が広がっていた。
広大な湖は、きっと自分の全てを受け入れてくれる。

目を閉じて、千草はその時が来るのを待った。

直後。

彼女を迎え入れたのは冷たい水では無く、力強い腕であった。
そういえば、幼い頃は、よく父の腕に抱かれて眠ったものだった………


「まだ、水泳が楽しい季節じゃないぞ」


しかし、降ってきた無遠慮な声は、優しかった父とは似ても似つかない。
千草は目を開け、そして息を呑んだ。

こちらを見下ろしてくるカウボーイハットを頭に被った青年と、視線が重なり合ったからだ。

それからすぐに、自分を抱き止めている腕が彼の物であることに気付いた。
男に触れられているという羞恥よりも、敵に助けられたという屈辱が先行し、千草は歯噛みした。

今さら情けを掛けるのか!?

「何さらすんや、このッ!!」

身を捩り、千草は駄々を捏ねる子供のように暴れた。
しかし所詮は女の力で、男である爆は何の痛痒も感じていないようだった。
短い溜息とともに、淡々とした声が落ちてくる。

「離したら、今度は手首でも切りそうだからな。それは困る」

「はっ! 自分でトドメ刺さな気が済まんか!」

挑発的に口端を釣り上げた千草に、爆はいいや、と首を横に振った。

「お前は、誰も殺そうとはしなかった」

心臓が跳ねる。
心の表層を切り開かれる恐怖に、千草は耳を塞いだ。
それでも爆は、それでも構わずに言葉を紡いだ。

「あの鬼達にしろ、殺せと命令されれば危なかった。まあ、月詠の奴はどうかは知らんが」

違う。

違う、違う。

違う違う違う違う違う。

自分は、両親の復讐ができればそれで良い。
それで良い、筈なのに。

「結局お前は、情を捨てられなかったんだな」

「―――殺せ! 殺せ殺せ殺せッ!!」

両目に熱い何かがせり上がってくるのを感じながら、千草は叫んだ。
爆のシャツを掴み、狂ったように首を振りたくる。
懇願を風と受け流す青年は、静かな眼差しで彼女を見つめていた。

「……お願いやから、殺してぇ……」

何時しか、叫びは嗚咽となっていた。
涙が滂沱として千草の頬を濡らす。

本来ならば、身を賭して守るべき木乃香を傷つけた。
厳重に封印されていたリョウメンスクナを蘇らせた。
関西呪術協会を裏切り、自ら居場所を打ち捨てた。
そうまでしても―――復讐は成せず、父と母が帰ってくる訳でもない。

復讐心の奴隷となった挙句、ただただ災禍を撒き散らしただけの、この命に。

一体、何の意味が在る?

「うちなんて……これ以上生きてたって、意味あらへんやろぉ……?」

「あるに決まってるだろ」

爆の声には、断固たる意思が込められていた。
その答えがあまりにも意外で、千草は彼の顔を見上げた。
それはまるで牛乳瓶の底を通して見ているかのようにぐにゃぐにゃに歪んでいたが、すぐに涙の所為だとわかった。

自分でも驚くほど冷静な動作で眼鏡を外し、濡れた目元を拭うと、晴れた千草の視界に爆の屹然とした表情が現れる。
何故か、雲一つなき晴天に燦然と輝く太陽を思い出した。

「……俺が知る限り、人が戦うのは相手が憎いからだけじゃない」

夜泣きする幼子に、何処か遠くのお伽噺を聞かせるように、爆は語り出した。
年下の男に子供扱いされているのか、と千草は情けなく眉根を寄せたが、不可思議な事に不快とは感じない。

今度は耳を塞ぐ気も起きず、代わりに問い返した。

「ほんなら……何のために」

「守るためだ」

―――守る。

そんな何でも無い筈の言葉は、まるで水に落ちた絵具のように千草の胸に広がった。
安っぽい、耳触りの良いだけの綺麗事だ。
そう思いながらも、吐き捨てることができない自分がいる。

「友達に恋人。財や誇り。人は時々、自分の大切なものを守るためなら、命だって懸けるんだ」

だから、と、青年の視線が落ちた。

「なあ、千草。お前の親が戦争になんか行ってまで守りたかった命が……無価値なわけがないだろう?」

急に、千草の視界に映る全ての物が歪んだ。
頬に流れる熱さの源を探せば、すぐに両目に辿り着く。
耳朶の下から水晶のように透明な雫が湖面に零れ、小さな波紋が生まれては消えてゆく。

涙なら、もう止まったと思っていたのに。

「後悔しながら死ぬよりも、苦しみながらでも生きてゆけ。たとえ、罪を一生背負うことになっても、だ」

千草の身を抱く腕の力が強さを増す。
炎のような男の体温が、肌より浸透して心まで融かしてゆくのを感じた。

「そうでなければ、今まで生きてきた意味が無いだろう?」

命を謳うように、爆は言葉を紡いだ。
声は、あくまで優しく響く。

うぐ、と千草は一つ唸って、腕で顔を覆い隠した。
止め処ない涙でくしゃくしゃになった顔を見せるのが、恥ずかしくなったのだ。


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