第二十一話〜二人〜


「楽しんでもらえたかな?」
「はい、こんなにも笑った日は今日の今日まで御座いませんでしたわ。アーニャ様には感謝してもし足りません」

間もなく日が落ちる時刻まで楽しんだ今日だったのを思い出す。
サーカスも見た、射的なんかも二人でなれない手取りでやったし、一個のわたあめを二人でも食べた。
今日は楽しかった。
私の思い出に残るように、彼女の思い出に残るように、きっと二人にとって一生の思い出になるでしょうね。でも、だからと言って。

「あのっ、アーニャ様」

んっ、と振り返る。急に足を止めて俯き、でも視線は何かをしきりに気にしているようなそんな出で立ちのまま動かない嶺峰さん。
両手は手前で揃えられるも、スカートを握るようにしてなんだかもじもじしている。で、その視線の先が気になったので目を向けてみれば。

「...観覧車?乗りたいの?
「...はい、私(わたくし)誰かと二人きりであのようなものに乗った事がないものですから...あの、アーニャ様。もしよろしければ、一緒に」

断る義理なんてない。それに彼女の我侭なんて初めてだから、何だか嬉しい。
だからその手を握って駆け出す。
二人きりだと言うのなら、積もる話も出来るだろうし、何より―――私も、観覧車に誰かと一緒に乗るのは初めてだったから。

――――

お世辞にも大きいとはいえないような観覧車に二人乗り込む。
二人乗りのゴンドラはゆっくりと、けれども、日が東から昇り、西に落ちるように。乱れない動きで、少しずつ少しずつ頂点を目指して昇っていく。
正面の嶺峰さんが儚げに、あるいは夕暮れの金色の光から目を保護するように瞼を細め、何時も微笑む様な紅い、細目となって遠く、学園を見下ろしていた。
私も応じて、学園を見下ろす。
最初聞こえていた筈の喧騒も今は聞こえず、少しずつ小さくなって、そして、完全に消えた。
二人の息遣いしか聞こえないような状況なのに、息遣いさえも聞こえず、二人きり、遠く遠く、黄金の光に包まれている学園と、それを弾く満々と水を湛えた島が浮かぶ銀板の湖に見入る。
不思議と、穏やかな気持ちの中に居た。
二人きりだからなのか、それとも、こんな状況だからかは解らないけど、変に落ち着いていた。
時折胸元から小さな息遣いが聞こえている。
勿論レッケルの寝息だろうけど、確認はしない。さっき見ていたサーカスでレッケルってば散々はしゃいでいたものだから、きっと疲れてしまったんでしょうね。だから、今は静かに眠らせ続けてあげる事にする。
胸元から聞こえ、感じられる僅かな吐息と、視界の大半を埋め尽くすような黄金の光の洪水。
それと相成るように刻々変化していく外の風景。そして、変わる事は無いであろう、ここに来て出会った一人の人。
嶺峰湖華。普通の人とはどこか違う、間違えのような、けれど、彼女にとっては当たり前と言うものを内包した魔法少女。楯で突っ込む、突貫魔法少女だ。
そう考えると、笑えた。
華やかなイメージ。愛らしく、日常生活では誰からも好かれて友達も多く、正義感というか、日常を守る事に躍起になって、でも、世界に大変なコトが起きる原因に立ち向かっていく可憐で可愛らしい格好に身を包み、不思議な魔法の言葉と共に皆を守る魔法少女。
ソレとは相反する位置に居る彼女。
馬鹿でかい楯を従え、昼も夜も一人ぼっちで戦い続け、結局誰からも観止められず、誰からも感謝される事なく、なお一人で立ち向かい続ける突貫魔法少女。まるで、自分の道に偽りなし、と言うかのように突き進む魔法少女だ。
笑っている私に気が付いたのか、嶺峰さんもこっちを向いて笑っている。
始めて彼女を見たときと変わらない、ある意味で怖気を誘発するかのような、壮絶な笑顔。
真紅の眼差しに、僅かに歪められた口元。
軽い狂気を含んだその笑顔を、始めは拒絶する事しか出来ず。直視する事すらも出来なかった。
でも、今はもう違う。僅かな時間でここまで仲良くなれた、と言うか彼女の雰囲気に慣れた自分を誉め、そんな私と一緒に居てくれる彼女を嬉しく感じる。
だから、心が痛い。
もう直ぐソレも終わる。もう間もなく。それも費える。否、正確には私がここから去るまでは――――

「嶺峰さん」
「アーニャ様」

声をかけたのはほぼ同時。
お互いにお互いの顔を見つめ、真摯な眼差しのまま二人共に相手の顔を直視している。
ある種の決意を秘めたような眼差しであり、けど、その表情には若干の陰りがあった。
黄金の光の所為で出来た影だから、心配するなとだけ己に訴えかけ、嶺峰さんの言葉の先を待たずにその先を続けた。

「―――嶺峰さん。依然言ったわよね。私は魔法使い。貴女は、どれであってもやっぱり普通の生活の中で生きている人だって」

静かな頷き。両の目を閉じ、それでも、彼女は耳を立てるかのように聞き入ってくれていた。

「だから、私がここを去るとき、私は貴女の記憶を消す。私といた時の思い出は全部。一つも残さずに掻き消す。
魔法使いは一般人に魔法使いである事を知られてはいけない。それは違えてはいけないし、どんな時でも例外の許されない事。
だから、消すわ。明日か、明後日か。何時になるかは解らない。でも、少なくともずっとはない。永遠に続く物語なんてないの。何時かは、決着をつけなくちゃいけない。
私と貴女の物語は長続きしないものだから、だから終わったら、ね」

辛くない。辛くはないはず。だから泣いてもいない。魔法使いは下手に泣きっ面を見せるなんてコトはあってはいけない。
だから泣かずに、真っ直ぐ正面きって、目を閉じたままの、でも、しっかりと聞いている嶺峰さんに真実を告げた。言いたかった事を、言おうとした事を、ちゃんと告げた。

「はい。そうするのが間違えではない事ですわ。
私は魔法少女として戦うもの。アーニャ様は魔法使いとして命を救うもの。そも立っている場所が違いますのね。
消していってくださいませ。後悔は御座いません。アーニャ様がそれで良く在れるというのなら、私(わたくし)の思い出など惜しむべくもありません。けれども――――」

僅かな言い淀み。何かを考えるかのように顔を俯けた後に。

「もし許されるのならば、私(わたくし)の事を忘れないでいてくださいませ。
私がアーニャ様の事を忘れてしまっても、アーニャ様には私の事を覚えていてもらいたいです。
それだけで、思い出は消えません。私の内にあった記憶と思い出は消えうせようとも、アーニャ様が覚えていてくださる限り、その思い出は確かなものなのです。
そう思うだけで、私は、心穏やかでありますわ」

私と同じように、泣く事もなく、あの時と同じ、何時もと変わらないあの笑顔でそう応じた。
心は揺らがない。決めたと言ったら決めた。もし嶺峰さんが我侭を言って消さないでと懇願しても消す気でいた。
魔法使いだから消すのだ。如何なる例外もなく、如何様なる慈悲もない。魔法使い。人間ではない種族。ある意味では、生き物ですらない。

「うん、ずっと覚えておくね」

謝罪はしない。
謝って済む様な事なら、そもこんな真似をしようとはしない。
だから謝るような真似はせず、ただ、自分の記憶にはとどめて置けるようにだけした。
彼女は忘れてしまうかもしれない。
でも私が覚えていれば、それはきっと事実として残る。彼女と過ごした日々は、きっと嘘にはならないだろう。
観覧車が頂点を極めたとき、ある意味での決別とある意味での独白が終わる。
この観覧車と同じだ。回り回り続けては、何時かは終わる物語。
彼女は彼女の物語を歩み始め、私は私の物語へ立ち向かっていくでろう。
だからそれまで。この観覧車が降り下り、また昇っていくように。
私がココに来て、ココから去っていくまでの、この間に。どうか、彼女の為に出来ることを――――

―――――

観覧車から降りても、私と嶺峰さんの間柄はさほど変わらなかった。先に下りた嶺峰さんが私に手を差し伸べてくれるぐらい。
変わる事無く、今までどおりの関係を続ける嶺峰さんを見て、ちょっとだけ救われたような気持ちになる。
あの場で決別されても私は構わなかった。
彼女を切り捨てていくようなものだもの。散々彼女の生活を引っ掻き回して、一緒に居てあげる事しか出来なかった私。
そんな私に、なおも笑いかけてくれる彼女の為に、私はあと、何をして上げられるのだろう。
残った彼女に出来ること。
それはある意味で、魔法使いなんて言うものをやっている私からすればとても大変な事だ。
彼女にお友達を作ってあげたい。私が居なくなって、記憶を消して、それで今まで通りに、なんていうのはダメだ。
彼女の為に、魔法使いとしてしてあげられる些細なこと。
できる事なら、記憶を消したとき、私と一緒にこうして過ごした時間の記憶を、別の誰かと一緒に過ごした記憶にしてあげたい。
けれど考えが浮かばない。
一番苦手なことだもの。一般人としての友達を作ってあげるなんて、魔法使いで、取り持ち役を買って出た事もない私がどうにかできる問題ではないかもしれない。
しかも、魔法でお友達を作ってあげても意味がない。
重要なのは彼女を受け入れて上げられる人を見つける事だ。それが難しい事は知っている。そんな人、何処にでも居るわけじゃないものね。

「もうすっかり夜ね」

星が瞬きだす一歩手前だろうか。少なくとも日は完全に沈みきり、空に―――星が一つ光った。
その後は不思議と連鎖のようだ。星が星を呼ぶかのように、次々と星の瞬きが増えていく。
この星も、私たちが生きているこの星も、ある意味では観覧車のようなものかもしれない。
あの巨大な火の塊を中心軸として日々同じ軌道を回り回り続ける巨大な観覧車。
一つのゴンドラによくもコレだけの生き物が詰め込まれているなと想像すると、すし詰めを想像して精神衛生上良くない。
その変わらない軌道があるからこそ私達は生きてゆけるとも考えている人は意外と少ない。
この星は実に丁度良い位置に存在している。
それが、どれほどの低確率で存在しているかなど、一体今の世の中で、どれほどの人間が思考するだろう。
その上に生かされている。想像を絶する様な低確率で生まれた星の元、私たちもまた、想像を絶する低確率で生かされている。
だから、その生きていく道を大事にしなくちゃと思いたい。
辛くても苦しくても、忘れてはいけない事を一人背負って生きていく。
彼女には、彼女たちには、きっとそう、何も知らずに、それでも、変わらないありふれた時折ありふれすぎて暇になって、それでも、そんなありふれた生活が想像を絶する低確率の元で発生しているのだなと自覚しなくとも、生きていって欲しい。
小さい事かもしれないけど、それが私の願いだ。

「あの...ちょっと宜しいでしょうか?」

はたと声をかけられ、その視線を声がした方へと向ける。
傍らの嶺峰さんも同様、ちょっと不思議そうな表情で、私と同じ方向を向いている。
なまじ、誰かから声をかけられた事のない人が取る反応だわね。それだけ嶺峰さんは近寄りがたい筈なんだけど。
視線の先には、私がここに来て一番観ている服装の女の人。
外見だけ見た感じでは嶺峰さんと同じぐらいの年齢に見え、けれど、その服装は何時も水晶球で眺めている風景に一番多く写っている、あの中等部の制服に他ならなかった。
それは即ち、嶺峰さん同様、中等部の人という事なんだけれど。

「私たち?何かしら」

近寄ってくる女の人を見上げて、私の表情がちょっと怪訝に為ったのが自分でも解る。
胸が大きい。とんでもなく。
下から見上げていると顔の大半が隠れてしまって、その優しげな顔立ちを窺う事が出来ない。
結果、私は女の人が近寄ってきても数歩ひいてから声を出すしかないのだ。

「はい。あの、失礼ですが、お二人はお二人でしょうか?」

二人顔を見合わせ、同時にこくんと頷く。
質問はちょっと特殊なように聞こえるけど、つまりはこの巨乳さんは私達は今二人だけか、と言う事を尋ねているのだと思う。観れば解るとは思うが、一応確認したのだろう。律儀な人だこと。

「そうでしたか。では、もし宜しければ天文部のプラネタリウムなどご鑑賞しては如何ですか?」
「プラネタリウム?」

にこやかな笑顔で渡される一枚の用紙を二人で覗き込む。
そこには『期間限定公開麻帆良天文部プラネタリウム』と記載され、時刻や、その他もろもろの記載が書き込まれている。で、その一番下の時刻はもう間もなく実施される事を指していた。
ちら、と嶺峰さんの方を見やる。
ここは彼女の意思を尊重するべきだろう。
観覧車の中で、私は彼女の記憶を容赦なく掻き消す宣言をした。
それは、あの場で別れても良かった事を意味する。
如何に彼女が一緒にいようとも、もうこれ以上一緒に居たとしても、最終的には抹殺される思い出なのだ。私と一緒に居る意味を私が自ら切り捨てたにも等しい。
だから、もう彼女は私に付き合う事なんてない。
私は勝手に彼女のお友達になってくれそうな人を捜して、ネギの監視とかもやって一人で四苦八苦してりゃいいのだ。
でも、それでも尚、彼女が付き合ってくれるのなら。彼女が、自分の思い出には残らずとも、私の思い出に残るのなら、それは嘘には成らないと言ったようだとするならば。
私は彼女に決めさせてあげたい。
私はここによっても構わない。否、あらゆる事を試すのならば、こう言うことにも寄るべきだろう。
出会いは何をきっかけに生まれるのか解らない。だったら、こう言うことにも積極的に参加しても良いと思う。
でも、それを決めるのは彼女だ。彼女が自分で決める事だ。
もし、私と居た時だけを大事にしたいと彼女が言うのなら、それもいい。
彼女には誰一人触れてはいけない。彼女は、彼女だけなのだから。他の人にできる事は唯一、彼女の周囲に何かをしてあげる程度だ。それは、誰であっても構わない。
嶺峰さんが静かに微笑む。
それは承諾を意味するのだろうから、巨乳のお姉さんに寄っても良いとだけ明言する。
お客獲得というよりは、お姉さんは最後の公演なのだから、なるべく多くの人に見てもらいたいという意思があったようだ。
そう言うのは素直に嬉しくも思う。純粋に、星って言うのを愛している人なのだなと思えるから。
にこやかに微笑み私たちをちょっと離れた場所に見える円形のドーム上の建物へまで案内してくれる巨乳のおねえさん。
夜なんだから星空を見上げていればいいと思うのだけれど、それじゃあどうにも何時もどおりで面白くない。いや、面白さを求めているわけじゃないんだけどね。
そう考えるのならば、やっぱり少しでも思い出になるような、そんなものを残してあげたい。
星の出る頃、星を見に行く。思い出に残るような星ならば、それを生きている限りは留めようと願う。

 

「みゅっ、お星様ですですっ」

はしゃぐレッケルの頭を胸元へ押し込み、でも、見たいのだったら暗くなってから顔だけ出すように申し出る。
私もレッケルもプラネタリウムって言うのに入るのは初めてで、ちょっとした緊張感を持ちながら人工の夜空を大勢の人と一緒に眺めるべく、席についていく。
何でもここのプラネタリウムは学園の工学部と合同で建設されたらしく、学生が持つには充実過ぎる設備と機器が満載となった、まさにどこぞの研究施設差ながらの様相を醸し出している。
球状の建物の天井を見上げる形で椅子に腰掛ける。
映画が始まる前の暗がりが徐々に広がり、次第に視界が暗くなって、最終的には真っ暗闇になる。
ふと、手を握る感触が右手より伝わった。右手側に座っているのは嶺峰さんだ。その手を握られたのか、温かい感触が右の手を仄かに温めてくれる。

『―――皆様、本日は麻帆良天文部期間限定のプラネタリウム観覧にお越しくださいましたこと、まことに嬉しく思います。
本日最後の公演となりました本プラネタリウムは本日の夜、21時の空の星空を皆様にご覧頂きたく思います』

館内に流れる放送の声には聴き覚えがあった。
丁寧な穏やかな声。それは、さっき私たちに声をかけてくれた巨乳のおねえさんの声に他ならない。
仄かに見慣れてきた暗闇の中で目を凝らすと、私のほうへ近づいてくる影一つ。
不安になることはないけど、暗闇でシルエットだけがこっちに近づいてくるって言うのは、正直ゾッと来るものがあるかも。
そう考えた最中に、私の横、左手側にそのシルエットが座る。
暗闇に慣れ、手の届く範囲までではなんとか顔ぐらいは見通せる程度になって、その横に座った人が誰なのか確認できた。
さっきの人。巨乳のおねえさんが、私の左手側に座っている。

「あら、ふふっ、今日は楽しんでくださいね」

小声で言われて、静かに元の体勢。天井を斜めに見上げるカタチへと移行する。徐々に明るくなっていく天井。いや、天上かな。
ドームの天井真中に輝きが灯ると同時に、その周辺にも幾つもの輝きが次々、外で見た、星が他の星を呼ぶかのように、空は少しずつ光で満ち満ちていく。

『―――唯今の空は、2003年、今月本日、21時時刻の北の空の模様をご覧になっていただいております』

さっきまでと違う声が響くと同時に、いくつかの星の間間に線のような輝きが引かされていく。星同士の重なりを指し示すように。星と星の関係を示す、目に見える絆のように。

『―――北側の空中心にご覧頂いておりますのは、こぐま座、その上方に見えるのはりゅう座となっております。
こぐま座は皆様ご存知の通り、48星座のひとつであり北斗七星にも似た形状の北極星を含む正座としてよく知られております。
その上方に構えるりゅう座は、毎年一月四日未明に龍座彗星群が見られる事でも知られています。では続いて北西西の空をご覧下さい』

ドームの光の位置が変わり、さっきまで見ていた星の位置が変わっていく。
プラネタリウムの良いところは、人工で星の動きを表現し、その軌跡を垣間見れる事だ。
自然界での星の変化は刻一刻と。それでも、人の肉眼に治めるには余りに低速で空が変化していくから、どんな風に見ればいいのかで混乱が生じてしまう事もある。
でもプラネタリウムって言うのは瞬時に、その軌跡を追えるように空模様を変化させる事が出来るんだ。
それにちょっと感動し、ちょっと情緒は欠けるけれどと感じつつも、その空を見上げていく。

『―――北西西の空に輝きますのは、全天の中でも三番目に大きな星座おおぐま座です。そのうちに北斗七星を含む事でも有名です』

青白いおおぐま座を示す軌跡が描かれ、その後、その内に含まれる北斗七星が赤い軌跡によって描かれていく。
自然界で観る星空はあんまりにも星が多くて、どれが何の星座に位置するのかが解らない。けど、こうして描いてくれるとなんともありがたい。
そう考えていた節に―――雨が手に当たるような、そんな手に幾つかの水滴が当たるような感触が伝わってきた。
暗闇馴れした目にもよく映る。
ドームの天井に瞬く輝きを弾いて輝く水滴が、私の右手の上で同じように輝いている。
顔を上げる。私の右手側に座り、私の右手を握っている女(ひと)の顔は、静かに、儚く、でもどこか寂しげに、目じりから一筋の光の筋を生んでいた。

「―――嶺峰さん?」

どうして泣いているのか。
彼女の泣き顔なんて今の今まで見た事もなかったから、ちょっと混乱し、けど、周辺は暗がりで気配しか感じられないから大見得きって大騒ぎするわけにもいかなかった。
ただ、嶺峰さんは静かに。嗚咽も漏らさず、その空を見上げながら泣いていた。

「―――おおぐま座とこぐま座は昔母と子だったのですわ。
おおぐまに変えられてしまった母親と、そうとは知らず、その母を射殺そうとしてしまった子。
神様はそんな二人を共に居られるように、子もまたこぐまの姿へと変じ、星座にしたと聞き及んでおります」

それが嶺峰さんの涙と関係あるのだろうかと考えて、関係ないとは言い切れない要素を見つけ出した。
彼女は一人暮らしで、両親は居ない。
今までずっと触れないようにしてきたけれど、彼女には家族が居ないって事を、心のどこかで自覚していた。
彼女は学園に登校しても孤独ならば、家に帰っても孤独なのだと、あの教会で彼女の独白を聞いた時点で気づいていた事だ。
彼女のご両親はもう居ない。それを、あの時知ったんだ。
ずっとそれには触れないようにしてきた。
私は人の過去になど興味は抱かない。自分の過去にさえも興味はない。過去に興味を持つ人間を理解する事が出来ない。
その人の過去は、その人だけのものだ。他の誰かが触れちゃいけない。他の誰かが、軽々しい気持ちで見てよいものじゃない。
だからずっと触れてこなかった。過去に何があろうとも、大事なのは今、何をするべきかなのだから。
過去に縛られているような生き方だけはしたくない。過去に縛られている人をきつく見るのも、きつく言いたくなるのもその所為。
私は過去になど意味がないと思っているからだ。それが、魔法使いとして生きていく事でも重要な事なんだから。
だから触れるような真似はしなかった。
彼女が親御さんに何を思っていても、彼女が親御さんの居ない中で、一人で生きていったことも、あえては触れなかった。
触れる必要もない事だから、触れるよう事はしてこなかったのだ。
彼女の過去は彼女だけのもの。喩え彼女が自ら語ったとしても、聞いて瞬時に忘れるつもりだった。
過去を語られてどうすればいいのか、私には解らない。
それを冷酷と呼ぶなら呼んでくれても構わない。
その人の過去をどうにかできるのは、結局その人だけのなのだ。
口に出されて聞かされて、それでどうにかしようと言うのがそも間違えている。
過去なんて関係ない。私たちが生きているのは今で、今する事をすればいいだけの話。
過去を話して何かが変わるというのなら、私だって過去話を一生続けても構わない。
でも変わらない、換わる要因がない。過去とは、それぐらい意味のないものだ。
そう言う意味では、彼女はしごく気持ちの良い人だった。
過去を語らず、今、自分にできる事をこなしていっている。
それはある種の憧れのような、ある種の妬みの様な感情すら覚える程だった。
そう生きていけることを私も願ったのだ。
魔法使い。普通の魔法使いとして、皆に夢を与えられるように。ソレをなす為に、今できる事をこなしていくと言う事。
だから、ずっと彼女の過去には深く問い詰める事はしなかった。
彼女に大事なのは今で、これからなのだと言う事を知っていたから。
だから私も、彼女のこれからの為に出来ることをし続けていてあげたのだ。今も、彼女のこれからの為に出来る事はないかと考えている。
でも、今のこぐま座とおおぐま座のお話は遠まわしに嶺峰さんがお母さんの事を思い出したことを語った。
それが何を伝えたいのかは、私にはやっぱり解らない。
彼女のお母さんが死んでしまっていないと言う事は解っている。けど、結局其処から私が何かをする事は出来ない。
冷たい事で、冷徹とも捉えられる事柄かもしれない。
でも事実そうなのだ。
私は彼女のお母さんにはなってあげられない。
彼女の為に、何かをしてあげる事も出来ない。
その時が来れば、私は彼女の元から離れていかなければいけない。それならば、彼女の過去になど興味を抱いてはいけないのは道理だ。
ただ解るのは、彼女が母親へ思い馳せていると言う事と、彼女もまた一人ではいけないという事。その程度しか、私には読み取れなかった。
心の裡で、彼女は人との繋がりを欲しているのだ。
でも彼女にはソレが出来ない。
彼女の雰囲気、彼女の存在が他の人の存在を掻き消してしまうからソレが出来ない。
彼女はソレを知らず、困惑し、それでも他の人との繋がりが欲しくなるけど、いつだって他の人の立場を優先してしまうから、彼女は自分から動き出す事が出来ない。自分の意思を前へ出す事が出来ない。
そんなうちに現れた私。
彼女に魔法使いとして使い魔を見られてしまって、それを何とか打開するために彼女との接触を図った私は、彼女にとってまったく新しい存在に見えたのだろう。
だからココまで一緒に付き合ってくれた。だからココまで、一緒に居てくれるのだ。
その果てにあるもの。
それはやっぱり彼女は一人きりと言うものに対して辛さを懐いていると言う事。
それはそうだ。人間は一人きりでは生きていけない生き物なのだから。もし一人きりで生きて生きたいというのなら、それは――――
人工の星空の解説が進む中、涙が数滴落ちた右手を静かに握り締める。
不安にはならないように。彼女が、私が居なくなっても一人に悲しみを懐かないように。
それが私にできる事なのだと誓いを改めて紡ぐ。彼女の為に、出来る事をしたい―――

――――――

おおよそ40分ほどでホログラムによって再生される天体観測は終了した。
その40分と言う時間の約大半、私は嶺峰さんと手を握っていた。
水滴は数えた回数では僅かに四回。まるで口癖を持っている人間がその口癖を言うときのような呟きで口ずさんだあの一言の時だけだ。
それ以降、嶺峰さんは至極物静かに。だけれど、時折確かめるような手つきで私の手を時に強く握り、時に弱く握り返されるのを待っていた。
ドーム状の建物の入り口付近に設置されている時計に目をやる。
既に夜中と言うには充分な時間帯。普段嶺峰さんや鶺鴒さんとお付き合いしているのなら、もう間もなく鋼性種が出現するぐらいの時間帯だろう。
尤も、今だ昨夜襲い掛かってきた鋼性種の実体が掴めていない以上、こっちも行動を起こす事は出来ない。
今の所頼りになるのは、鋼性種というものに目を向けているキノウエと言う人物だけなのだ。
キノウエなる人物がアレに対する対抗策を持ち出すまでは、暫く出撃は出来ない。そうなると、彼女ともう少し一緒に居る時間があるだろうかと考えた時だった。

「あの、少し宜しいでしょうか」

プラネタリウムの機器を整備していた巨乳のおねえさんがゆったりとした動きで私達の方へ歩み寄ってくる。
嶺峰さんは退く様に一歩だけ下がり、私は立ち上がった位置から動いてはいない。
嶺峰さんが一歩退いた理由は解っている。
彼女に用事を持つ人間は少ない。何しろ、近づけば掻き消される気配の持ち主。好き好んで接触を選ぶ人間はきっと少ない。
彼女は何処となくそれを知っており、故に、近づいてくる巨乳のおねえさんが嶺峰さんではなく、私のほうに用事があるのだろうと自覚しての行動であった。
だけど、ここで思わぬ事が起きる。
温かい微笑みを浮かべながらゆっくりと、どちらかといえばのんびりというような動きで歩んでくる巨乳のおねえさんは、私の方を一度見てにこりと言う感じの笑顔を浮かべて通り過ぎると、事もあろうか嶺峰さんの前に立ったのだ。

「は、はい。私(わたくし)...でしょうか?」
「はい。あ、自己紹介が遅れてしまいました。私、麻帆良学園中等部3-Aの生徒で那波と申します。思わず耳に入ってしまったのですが...もしかして、こぐま座とおおぐま座の伝承をご存知なのですか?」

こぐま座とおおぐま座の伝承。
それは恐らく、彼女が涙を流したとき、呟くように口走ったあの物語だろうか。
熊に変えられた母親を謝って射殺そうとした子も、また熊に変えられて天へと昇っていき、同じ星の一つとなったと言う物語。
星の伝承の発祥はギリシア系だという事を聞き及んだ事もあるし、何より、この様な物語はギリシア神話でよく聞きもするタイプのものだ。

「はい。私(わたくし)数年程星の事について調べていた時期が御座いました。本心、少々齧った程度のものなのですが...」
「星に興味が?」
「はい。星を見ていることは嫌いではありません。その頃は他に趣味のようなものももっていなかったもので......。
偶さか目に付いた星の本を読んでいた所で気になり、調べても見たのです」

それから二人で数言話した後、巨乳のおねえさん――那波と言う、嶺峰さんと似た感じで、あれだけ胸が大きいというのに中学生だという女の人は、嶺峰さんをどこか見極めるかのような眼差しでその体躯を暫く眺めていた後に、一言。

「もし宜しければ、天文部に入部なされません?」

そう、嶺峰さんの発する独特の気配も気にもしないと言う、私の笑顔にも似た――けど全然違う、もっと大人びた――そんな優しそうな笑顔で、彼女を勧誘したのだった。
嶺峰さんは目を丸くして、数度周辺を見渡し、もう一回那波さんの方を見やる。
本当に自分なのかどうかが理解できていないといった動き。自分がこんな風に誘われたこともないから、どうしていのかで迷いに迷っている。
一緒に居た私から見ると、新鮮過ぎるぐらいにリアルな反応をとっていた。
そんな彼女と目が合さる。
何をどうすれば良いのか。自分は一体どうすれば良いのかで私に問うているのは一目で解る。
だけど、それは彼女に決めさせなければいけない事だ。
那波さんは彼女に問うているのだ。
ソレは即ち、彼女が決めなければいけない事。
彼女は今まで一人きりだった。それを淘汰できるかもしれないチャンスだと認識する。
だから、これは彼女が自らの手で決めて欲しい。
このまま私と一緒に居れない事は彼女は知っている筈だ。そして、私が去っていくとき、彼女は記憶を消されるという事も知っている。だと言うのなら、彼女は。
嶺峰さんの顔が一瞬だけ強張る。
それを和らげるように私は微笑み。それを観たであろう嶺峰さんの表情が、苦しそうな、悲しそうな、でも何処か待ちわびていたかのような。そんな笑顔に変わって、一度、大きく胸が動悸する。
深呼吸するかのように、小さな口で、大きく空気を吸い込み。

「―――はい、わたくしで良ければ、お力にさせてください」

しっかりと前を向いて。私が待ちわびていた一言を告げた。

―――――

夜空の下をなんとも不思議な感覚で歩いていた。歩いていたとは言うけども、どこかふわふわしたような足取りで、なんとも自分自身の足元がおっかなびっくりしている様な、そんな気分。
その理由は大体知っている。傍らで微笑む彼女のお陰であり、彼女の所為でもあり、そして、何処か安心した私の所為でもあるのだ。
私が何も手を出す必要はなかった。
彼女は彼女の意思で決めたのだし、那波さんは那波さんで彼女を受け入れてくれた。
彼女がこれからどうなるのかは、もう彼女次第だと思いたい。
私が出来ることは、殆ど終わったにも等しい。少し嬉しく、少し悲しくてなんともいえない表情になっているのが解る。
その理由も何となく解っている。
あれだけ彼女の為に、と誓いを立てていたのに、私が手助けするでもなく、彼女を受け入れてくれる人が現れたのだから。

「アーニャ様」

私の前を、嶺峰さんが数歩駆け、私の目の前で軽くステップを踏むかのように一回転。
スナップを利かし、スカートが優雅にふわりと舞い上がって私の目前の空間の空気が大きく揺れ、私の髪の毛も小さく揺れた。伸ばされる真っ白い肌の細く可憐な指先が、私の頬に触れる。
正面に回った嶺峰さんは、泣き出す一歩手前の様に目を潤ませて、それでも、あの、初めてあった時とは変わらない笑顔で私の頬に触れ続けてくれている。
私の手に触れている指。頬から伝わるのは、彼女の指のぬくもりと、同時に、僅かな筋肉の硬直と動悸。何かに怯えるような、そんな震えが、指先から伝わってきていた。

「アーニャ様、有難う御座います」
「...ちょっと、お礼を言う相手は私じゃないでしょ?那波さんに言うべきじゃないの。いや、言っていたけどね?でも、私にお礼を言うのは」
「いいえ、アーニャ様が居たから私(わたくし)は那波様に出会えました。アーニャ様が今日こうして私(わたくし)を連れ出してくれたからこそ、私はこんなにも楽しい時を過ごせ、那波様とも出会えたのですわ。
アーニャ様が私に出会いに来てくれ、そうして、共に居てくれたからこそ。
そうあるように、そうありきやと言うかのように。
アーニャ様は私に、私ではお返しできないほど多くのものを与えてくださいました。全て、アーニャ様のお陰なのです。
アーニャ様、貴女に感謝を。貴女が私をここまで変えてくださいました。
誰かと関わることに怯え、誰かから拒絶されることに怯えていた私を、貴女が解き放って下さったのです。
だから、那波様にお誘われしたときも、私は自ら答えを出せました。アーニャ様が、そうしてくださったのですから」

膝を付き、嶺峰さんは私の背中へ手を回して、私をその胸に抱く。
長らく味わえなかった、お母さんのような暖かな感触と、暖かな家族のようなぬくもり。
少し、救われたような気がした。
彼女の為に出来たことは余りに少なかった。
でも、それで彼女の為になったというのなら、それは良かったのかもしれない。そう思えたから。

「バカね。今言わなくてもいいじゃないの」
「いいえ、今言いたかったのです。アーニャ様と何時別れるのか私(わたくし)は解りません。明日か、明後日か。
でも、後悔はしたくありません。ですから今、伝えられることを今伝えたかったのですわ。
アーニャ様、私のことを、覚えていてくださいますか?」
「――――ええ、覚えていて上げるわ。お墓の中まで、ずぅっと」

他にいうべき言葉などない。
彼女の頭から私の記憶が消えれば、彼女は今までどおりの生活に戻り、彼女の頭から記憶を消すと言うことは、そのとき、私はココから去っていくと言うことに他ならない。
最早二度と会うことはないかもしれない、一期一会のような出会いとお別れ。それが来る日は、そう遠くない。
だから覚えているのは私だけとなる。
彼女との出会い。彼女と過ごした日々は全て、彼女にとっては幻のように消えうせていく。
幻だった頃に埋め込まれる記憶は出来るだけ楽しいものにし、後は彼女と、彼女を受け入れてくれた人に任せたい。
私は魔法使いとして、もっと多くを救うために世界の空を飛んでいくだろう。
あの地平線の向こうに悲しんでいたり、苦しんでいたりする人が居る限りは、何時までも何時までも。この身が朽ち果てる、その時まで。
そうなっても、それでもココで過ごした日々は忘れない。
彼女と一緒に居た時間は私の中で生き続ける。それなら、その思い出は嘘にはならない。
彼女が過ごした日々を彼女に残せば、私が居なくなった後、彼女は少なからずとも悲しむだろう。きっと、そうだと思う。
傲慢かもしれない。誰かの感情なんてわからないけど、でも、彼女はきっと、私が消えて失せれば少なからずは悲しむと思う。
その悲しみが残るよりはないものにしてしまうのが一番いい。
私など、居なくて当然の存在なのだから。
魔法使いは皆そうでなければいけない。悲しみが残るよりは、多くの思い出を作っていって欲しいからこそ、記憶を消し、別の記憶を植え込むのだから。
そう、私が消えて、彼女の記憶に悲しみが生まれると言うのなら、出来る限り楽しい思い出にかえて、もっと多くの思い出を作っていけば良い。
私といた時は、私が覚えていくから。ずっとずっと、お墓の中に入るまで、ずっと覚えているから。
だから、私は行くの。
彼女はココで生きていく。それは変わらず、でも、何時かは終わっていく日々。それだけは変わらず、それだけは変えようのない、でも、覚えているのなら何時までも残り続けるだろうそんな、そんな日々。
それを私は覚え続け、彼女はもっと楽しい思い出を残していってくれる。

「―――さぁって、どうしよっか?」

離れていく嶺峰さんの身体には一部の未練も残さずに、彼女の身体を遠ざけた。
彼女は笑っている。なら平気だろう。笑っているのならきっと大丈夫。この笑顔を他の誰かにも振舞えると言うのなら、絶対に大丈夫だろうと信じている。
でも、それもまだ見れると言うのならいいとも思う。
今は今出来る事を大事にしよう。当面の問題はもう一つ他にもあるのだから。
私が居なくなっても、多分、それは変わる事無く起こり続け、現れ続けるだろう存在の懲伏。
鋼性種。鋼の性を持つと言う種の淘汰を、私も少しでも手を貸してあげなくちゃ。

「そうですわね。一度キノウエ先生の所へ行ってみましょう。ひょっとしたら何か対策が出来ているかもしれませんわ」

確かにそうね。
キノウエと言う人しか今の所頼れる人は居ないわけだし、なんだかんだで真面目そうだもの。
意外と徹夜で対策とかを考えていてくれるのなら、あの人なら一夜で何か対策を考えつけられそうだ。そうならば今日にもアレと対峙する可能性も考慮できない。
時刻はもうアレが出てもおかしくない時間帯。
でも、急ぐような真似はせず、お互いに微笑みながら、あの中等部へと向かっていく。
アレと向かい合うために。無視できない存在であるアレと相対しあう為に。


楽しかった今日はコレで終わりなのだから。

第二十話〜逢引〜 / 第二十二話〜鋼性〜


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