第三十二話〜傷痕〜


  私たちが生きているのではなく、生かされているのだということに気付く。
 それでは生きている意味を求める事さえも無意味なのだろうか。
 私たちを生かしているのはこの森羅万象。
 全ての命が健やかであるように……私達はそれすら気付けないというの?

 目に見えて、自分が考える事だけに満足して、そうして生きていくというの?
 目に見えず、誰かの考える事を非難して、そうやって生きていくしかないの?

 じゃあ諦めるから。私。もう諦めるから。
 絆と言う糸を絡めて。その傷の名は深すぎる。それは傷名(キズナ)に成り代わる。
 希望と言う名にしがみ付き。忌まわしさを忘れ。それは忌忘(キボウ)に塗りつぶされる。

 絶望も希望も無いのでしょうか? 何故生きていくのでしょうか? 何故森羅にあるがままに……

 宿命(サダメ)に従い生きていくしか…ないのでしょうか? ああでもきっと、それを断切ることなど出来は……

 一 撃 抹 殺
 突貫魔法少女―ホライゾン― CHAPTER:04〜宿命〜

 第三十二話〜傷痕〜


 それはつい一日前から麻帆良を襲った。
 言わば突発的な事故。ソレと同じ事であった。
 事件のあらましはこうだ。部活帰り。あるいは会社帰りの人間が何かに襲われたと言うもの。
 今日日。誰かが何かに襲われる事など然程も珍しくは無い。
 変質者など、捜せば腐るほどにいる。中には人知れず腐っているのも捜せばあるだろう。

 変質者に襲われると言うのはあまり珍しくは無い。
 襲われるのであれば、それはそれで警察などが解決すればいい。
 だが、今回の件は、警察だけでなく、秘密裏にその話を回収した学園中の魔法使い・魔法関係者の耳にも入った。
 正確には、学園内で起きた事件の大抵は警察以外にも、学園中に潜伏している魔法教師・生徒・使いらの耳に入り、解決に尽力を尽くしているのだ。

 今回の事件も同様。耳に入ったからには、警察にまかせっきりと言うわけでもなく。魔法教師、生徒、使いらは独自に調査と、襲われた夜中の監視を整えた。
 なるほど。変質者程度であれば直ぐに解決するだろう。
 変質者と言えど、所詮は人間。人間外の変質者もこの学園には現れる率は高いものの、それでも、まだ学園内の魔法関係者の方がソレを上回っている。従って、今回の件も即急な解決が窺えた。
 ただし、数人の魔法教師らは病院に担ぎ込まれた被害者から妙な言葉を聞いたのだ。
 だからこそ、今夜中の見回りを行っている警官もスタン銃を片手に携えている。


 被害者は言う。曰く。犯人は、人間ではなかった。
 被害者は言う。曰く。襲ってきたものを、理解できなかった。
 曰く、ソレは。人間の理解の範疇を越えていた―――


「これが今回の事件のあらましだが…大丈夫なのか? 古」
「任せるネ。真名。伊達で“気”の修行を伴った修行を行っていないあるヨ。
 ……ま、本心は私のクラスの人間も被害にあてる言うから同伴させてもらたけどネ」

 世界樹の近くを巡回していたのは、Aクラス出席番号十八番龍宮真名と、同じく出席番号十二番古菲。二人ともに、魔法関係に関連している魔法生徒であった。
 古菲は明確に言えば魔法生徒ではない。
 彼女は単純に力を求めて“気”の修行に着手し。それが偶然にも魔法関係となりうる要素であった為に魔法生徒登録された一人でもある。
 方や。龍宮真名は生粋の魔法生徒である。だが魔法生徒が組むような徒党には属さず、単独で任務をこなしていくプロフェッショナル。
 公私混同はしない、根っからの仕事人と言うべき生徒でもあった。

 全ての魔法教師、生徒の動員がなされている今回の件に龍宮真名はそこはかとないきな臭さを感じ取っていた。
 戦場で培ってきた勘が告げているのだ。今回は何かが違う。だから、決して油断はするな、と。
 傍らの古菲もそれは同じであった。
 先日から古菲は妙な気配を学園内に感じていたのだ。
 それがどの様な気配か説明する知能を古菲は持たない。
 だが感じているのだ。三種の気。獣の気と、機械の気と。
 そして、古菲自身にも理解出来ない。正体不明の気とも言えない様な気配。それを感じていた。

 それの調査も兼ねているのか。古菲は自ら魔法関係者による夜の見回りに参加を許可させてもらった。
 当初は誰もが暇つぶしかと思っていたが、同伴している龍宮真名は違っていた。
 古菲と言う少女の眼の奥に光る真摯な炎。それはクラスメイトを傷つけられたと言う憤慨から来るものであると。

 そう。被害者はAクラス内にも出ていた。
 運動部の人間が二人。重軽傷で分類しろと言うのなら、重症。
 複雑骨折に始まり、打撲。十針以上を縫う裂傷。内臓器官の一部損傷など、その被害は運動系の人間には痛すぎるものであった。
 病院に駆けつけた時に両者は意識があった。
 被害の詳細を事細かにさも自分の失敗を笑うかのような二人。そう二人は気楽に笑っていたが、古菲は心底に辛そうに見えていた。

 体を動かす事に共通する人間だからか。身体を動かす事で得られる爽快感。
 それを得ることが出来なくなると言うだけで、古菲は胸の奥を締め付けられるかのような痛みと、躊躇無く二人の、戦う力も、抗う力も持たない。
 そも、戦う為に生まれたのではない二人を傷つけた存在に憤慨した。
 だからこそ、彼女は龍宮真名と共にこうして学園の見回りに参加したのだ。

 勿論、相手が何者で在るのかを二人は知らない。
 ただ、僅か一日程度で数十人以上に人間に傷を与えた存在に警戒心は覚えた。
 だがそれでも、想像するのは今まで彼女たちが目撃してきたソレと同程度。
 戦いになれば、確実に仕留めると言う強い意志が龍宮真名の裡には宿っていた。

「ここが昨日襲撃された場所だな」

 龍宮真名が足を止める。
 世界樹の袂。被害が最も多く出ているであろう場所でもあった。
 何故か被害者を襲う謎の存在は世界樹近辺に多く出没し、その殆どに重症を負わせている。
 先ほど、被害にあった人間の状態を説明したが、どうにも被害者の傷には一貫性が無かった。つまり、傷は幾つもの状態があったということだ。

 裂傷や骨折は共通するが、中には肩口から切り裂かれたかのような傷。
 直接電撃を浴びせられたかのような火傷。肉を鋭い刃物で切り落とされたかのような、直線的な傷。
 それらが存在している被害者には、食いちぎられたかのような裂傷。猫に引っかかれたかの様な爪痕。複雑骨折の類は存在していないのだ。
 前者の傷は、誰一人解析できる人間が居なかった。
 だが後者の傷は、明らかに獰猛な猛獣のソレであると結論したが故、警察官はスタン銃の装備し巡回。
 魔法関係者らにも、第三種。即ち、簡易の攻撃魔法程度の使用ならば許可と言う第三種特殊警戒態勢が敷かれていた。

 世界樹広場の静けさに、龍宮真名は震えずとも、古菲は僅かに身を奮わせた。
 その身の奮えは、きっと夜風の寒さからくるものだと言い聞かせ進む。
 世界樹広場は、既に日中でさえ人の寄り付かない危険地帯と認知されていた。教師陣も早めの解決を望み、それは生徒にも同じであった。
 見れば、世界樹広場のあちこちはレンガ造りの地面が不気味に。
 まるで、蚯蚓腫れのように盛り上がっている場所もあれば、赤い液体が飛散したであろう染みも見て窺える。
 龍宮真名には慣れた光景であり、嗅ぎ慣れた匂いを発している場所であったが、古菲には、かなり刺激の強い場所であるとも言えた。

「古。怖いなら帰ってもいいぞ」
「何を言うかネ! 私が一人すごすご逃げ帰るような女に見えるカ!? 馬鹿にするのはいい加減にするよろし!!」

 それもそうだと龍宮真名は笑う。
 勿論、告げた言葉は九割が冗談であり。だが、実は一割が本心だった。
 怖かったなら帰ってもいい。それは別の意味合いも含んでいた。
 龍宮真名は気づいているのだ。
 今回の件の対象者。対象存在となっているソレは、今まで自分が相手をしてきたモノとは違う。長年の勘が、全力で不吉を訴えていたのだ。

 一人でやるべきだったと言う後悔もあったのかもしれない。
 相手がここまで得体の知れない相手であるとわかっていれば、龍宮真名は一人でやっただろう。
 不可知の相手に、それを認知しようとする相方が居てはそれは足手まといにしかならない。
 そういった相手と対峙した時重要なのは、相手を計る事ではない。
 それも大事だが、何より、自分の力量を見定め、相手になるか否かを自信で問い掛け、答えを出さなければいけない。

 龍宮真名はソレが出来る。彼女は不利と知れば即座に撤退する勇気と決断力を持つ。
 猪侍の如く相手に突っ込むようなまねは決してしない。
 彼女は戦場で生きてきた女だ。生き残る事に関しては、誰より冷静に計る事が出来る。
 ではそれが古菲にも求められるかと言えば首を傾げるしかあるまい。
 古菲と言う少女は頭は働かない。長年の修練が培った戦闘者としての勘。それが身体を自然と動かしてしまう。

 戦場ではそれが不利に繋がる事を、龍宮真名は知っている。
 だから先に帰ってもいいといったのだった。
 守れる自信は無い。だから、出来れば帰ってくれたほうが、万が一、傷ついても傷つくのは自分だけで済む。そんな事を考えていたのかもしれない。
 だが古菲の返答は予想していたものであった。
 頬をリスのように膨らませて、デフォルメで怒る古菲を窘め、世界中へ近寄っていく。

 龍宮真名は思考する。相手が何でアレ、まほら武道会での上位に食い込む実力者が二人。
 しかも、今回はお互いに同じ側。敵対ではなく、共闘する同志。
 それならば、如何なる相手でもどうにかはなるだろう。龍宮真名は、長らく戦場では抱かなかった余裕を抱いた。
 それは油断ではない。古菲と言う少女の力を買い、なおかつ長年培ってきた戦場での自らの腕を信じたのだ。

 確かにこの二人が共闘関係に入れば、それは我々が想像する以上に強力なタッグだろう。
 鬼相手にも大立ち回りを演じ、無傷とは言わずとも300以上の相手を一桁まで激減させたのだ。
 更には二人は、気と魔力の関係を知っている。自己の強化。それは、一般人のソレを大きく上回る耐久力を得ることすら可能なのだ。
 だからこそ、両者は警戒こそすれど強い信頼関係の上で調査に望んでいた。

「……異常はないようだな」
「今日は休みアルかネ?」

 得体も知れない相手に休日と言うのが在るのかなどと考え龍宮真名は笑う。
 殺伐とした雰囲気をやわらげてくれるのは古菲と言う少女の人格なのだろうなと笑ったのだ。それは侮蔑ではなく、自分には無い経緯の笑み。

「よし。では次は図書館島の方面だなあそこも被害者は意外と多―――うっ!?」

 言い切るより先に、世界中広場に大きな風が流れ込む。
 地形の為か。風は大きなうねり。大きな渦潮の様にもなって、広場の存在をきりもむ。
 龍宮真名とて例外ではなかった。その長く、凛とした力強さを窺わせる黒髪が大きく乱れる。
 だが風は僅か数秒。否、一秒もないだろう。事実、龍宮真名が風の強さに視覚を奪われたのは声を上げた一瞬だ。
 その時間の中で収まってしまう。
 木々だけがざわざわと揺れ、大海のうねりの様な音を響かせている。
 龍宮真名は、丘の上でありながら海を感じていた。潮騒を感じさせない海。
 それをさてと切り捨て、背後に居る古菲に話し掛けようとして。

「何?」

 古菲が消えていなくなっている事に気付いた。

 どくん、と龍宮真名は内側が大きく乱れた。
 持っていたギターケースから拳銃が飛び出し、その両腕に構えられる。
 腕を交差する構え。上下左右。如何なる方向からの襲撃にも対応できる、必見の構え。
 構えれば、必ず敵を捉える。その構え。

 世界樹広場に風が巡る。だが、龍宮真名は髪を手で退かす様な真似も。目を閉じる様相も見せない。
 一滴汗が頬を伝わり、世界樹広場の地面に落下。
 風が収まり、再び世界樹広場には静寂。
 だが、周辺の木々が潮騒を匂わせる波のようなざわめきを響かせている。

 龍宮真名の息遣いだけが深い。
 とても深い、深海魚の深呼吸のような息遣い。
 十数秒に一度の呼気と、十数秒後に一度の吐息。それを響かせつつ、龍宮真名は足元を一度だけ確認する。
 彼女は構えながらも、古菲の消え失せた場所の上へと移動していた。
 神隠しで無い限りは、確実に手がかりは残っている。
 長年の戦闘者としての知識の一つ。如何に失踪とは言えど、まったくの無挙動で物事丸ごと一つを消失させる事は出来ない。

 事実、古菲の消えた場所にはしっかりと居た証拠があった。
 だがあまり良い証拠ではないと、片目でそれを捉えた龍宮真名は舌打ちする。
 紅い染み。見慣れてしまった真紅の水溜りが、見たくも無い真紅の水溜りが、彼女の足元に出来上がっていたのだ。
 紅い染みはかなり遠めにもう一滴落ちていた。魔眼持ちの龍宮真名だからこそ発見できた血痕であろう。
 足元の水溜りはそれなりだと言うのに、遠めの血痕はたったの一滴。それが、断続的に世界樹広場の向こうまで続いていた。

 それを追う。撤退し、助けを呼ぶと言う選択肢も確かに用意していた。
 だがそれがどうして出来よう。相方は目の前で浚われたのだ。魔眼持ちですら捉えられない何かの要因で。
 古菲は、あっさりと浚われ負傷した。
 龍宮真名は冷静にソレを見つめ、だが心のうちではらわたを煮え繰り返さんばかりの不覚に震えていた。

 油断が招いた。何時如何なる時でも警戒を怠るべきではなかったと。
 だが、龍宮真名は即座にソレを打ち捨てる。
 過去の柵には捉われない。今出来る事をやるべく、機敏な動きで。
 しかし、周辺への警戒心を最大級にまで膨れ上がらせて、血痕を追う。

 真新しい血痕は紛れも無く古菲のものであると確信できた。
 驚くほど少ない血痕は何を意味するのか。それを龍宮真名は考えなかった。
 正しくは、考えられなかった。
 出血多量ではない。純粋に出血が少ない程度の怪我なのだろう。そう結論をつける。その際、もう1つの可能性については――――思考しない。

 勿論、手前勝手である事は自覚できていた。最悪の場合も考えていた。
 だが、常に希望を失わないのが戦場で生きていたものの鉄則なのだ。
 楽観視は出来ない。しない。だが、絶望にも陥らない。それが戦場で生きたものの感性なのだ。
 銃を構えつつ、世界樹広場周辺の木々の間に入り込んでいく。

 声は出さない。この様なブッシュの中で、自らの位置を知らしめるような真似は命取りだと知っているからだ。
 あくまでも古菲の救出が最優先と、龍宮真名は結論する。撃退よりも先に、救出。それが重要だと。
 数えるのが億劫な程多い木々。そんな林の間間から、龍宮真名は古菲の姿を捉えた。
 林の中で僅かに出来た小さな広場。三メートルほどの円形の空間であり、月の光が上空から差し込んで古菲の肢体を照らしている。

 何故こんな所に居るのか。罠かとも龍宮真名は考える。
 当然だろう。冷静に行動する事が重要なのだ。短絡的な行動は、間違えなく自分の首を絞めるのだ。
 確認を取るべく、接近。その距離、空間までは10メートル。
 10メートルの距離から、龍宮真名は魔眼を用いて古菲の体躯を確認する。
 俯いたまま動かない古菲。
 小さな広場の中心に立つ、一際大きな松の木の根元。そこで、背中をその幹に預け、脚を放る様に古菲は在った。

 その足を見て、龍宮真名は舌打ちしかける。
 出血の酷さ。古菲の脚はずたずたに引き裂かれていた。
 知らぬものが見れば、きっと、二度とは使い物にはならないであろうと思えるほどにぐだぐだに潰れた脚が転がっている。
 辛うじて繋がっている、と言う表現が近いだろうというほどの脚。
 すぐさま治療せねば、恐らく、素人目の想像は現実となるだろう。

 ズタズタの脚が投げ出されている場所の草は、赤に染まっている。
 出血の量は見てあきらかなほどの量。しかし、此処まで辿ってきた紅い血痕は、少量。つまり。
 龍宮真名は周辺の警戒を全力にしながら、古菲へと近づく。
 あと5メートル。2メートル近づけば、広場に入るであろう距離。
 そこまで龍宮真名が近づいたところで、古菲が顔を上げた。
 確認。龍宮真名は、紛れもなく古菲本人である事を確認した。確認したところで。

「真名! それ以上近づいてはいけないアルよ!!」

 龍宮真名は足を止め、近場の気に背中を預けた状態で古菲を見つめる。
 古菲も馬鹿ではない。龍宮真名の居場所を何かに知らしめるような真似はしない。
 龍宮真名が確かに身体を隠したのを確認した後、古菲は僅かに視線を上に上げた。自身の真上。寄りかかる木の枝葉の向こう側を示すように。

 龍宮真名は、魔眼を用いてその枝葉の向こうを見る。
 居る。確かに、何かが居た。
 木の枝葉に隠れている方がおかしいと思わせるような巨体。魔眼はそれを確認していた。
 四足の獣。それが木の上、まるで、幹にしがみ付くかのように。
 しかし、重力に逆らうかのように頭を地面に向け、しっかりと四足で幹にしがみ付きながら、眼下の古菲を睨みつけていた。

 龍宮真名は姿を古菲からも隠し、両手の拳銃を確認する。
 弾丸は充分。ルールもなければ、制限も無い。しかも、相手は退治しても問題なさそうな怪物と呼んで過言ではない。
 持ち前の反射神経と銃器の扱い。今まで幾度と無く現れた強敵を打ち倒してきた愛用の銃と、自らの能力。
 それらを全てひっくるめて、龍宮真名は結論した。

 アレには、勝てないと。

 それらが通用するというイメージがどうしても浮かばない。
 銃が撃ち出した弾丸が当たるというイメージ。反射神経で襲い掛かってくるのを避けられると言うイメージ。
 あらゆる手段。あらゆる方向。あらゆる手立てを用いてもなお、古菲の上に居る何かには及ばない。そうイメージしてしまった。

 古菲は龍宮真名が来ないことを祈っていた。
 来るべきではない。仲間を呼び、今後に備えるべきだと決意していた。
 襲われた時の事を古菲は覚えてはいなかった。気付けばこうであった。
 背骨は軋み、後頭部には酷い鈍痛。加えて片目は流れた血で盲。
 ズタズタで、赤い肉の間から白い百合のような色が見え隠れする両足に至っては、既に感覚は無い。

 久しく味わった事のない喪失感。
 血の気が引く、と言う言葉をまさか自分の身で立証してしまうとは。
 具合が悪い上に、頭がくらくらしている。それ、古菲が今まで味わった事のない嫌悪感で。

 ただ、地面ギリギリを飛行するかのように投げ飛ばされ、気付けば今の体勢であったのだ。
 襲われた落ち度は自らにある。だからその始末をつけるべく、古菲は龍宮真名を拒否した。
 二人もやられる必要は無い。一人食われて一人助かるというのなら。二人挑んで二人とも食い殺されるというのなら。
 どちらが現実的かつ理想的なのは言うまでもない。

 龍宮真名はそれが計れる人間だと古菲は理解出来ている。
 姿を隠した龍宮真名に古菲は助けは請うてはいない。
 ただ、もう少し生きられると思っていたのが此処で費えるのかと言う無念だけがあった。
 確実に殺されると確信していた。故に、意識は意外なほどに落ち着いていたのだ。

 脚にはもう、殆ど感覚が無い。
 中国拳法の真髄はその脚運びにある。
 その脚が骨が露出するほどずたずたに引き裂かれているのだ。古菲は、二度と同じ動きは出来ない。そんな確信を懐いた。
 それならそれでと。諦めにも似た感情を懐き、視線を元に戻したところで、小さな広場の端に、龍宮真名が立っているのを見た。

 強い決意に満ちた目。龍宮真名は真っ直ぐに、古菲だけを視線に収め。だがその両腕にはトリガーに指のかかったままの拳銃があった。

「真名……! 何故出てきたネ!?」
「何故も何も無いだろう。同伴させたのは私だ。監督不行届けを出されてはたまらんからな。さぁ、帰るぞ古」

 片手が差し出される。
 古菲が立てないことを理解出来ているのかいないのか。
 恐らく、理解出来てはいるだろう。龍宮真名自身も、自らの短絡的かつ油断を露呈するかのような行為に疑問を持たざる得なかった。
 ただ、考えてしまったのだ。ここで彼女を見捨て、自分だけが助かる事は何なのだろうと。
 助かった上で、彼女が死に、その結果、どれ程の悲しみが生まれるだろうと。

 龍宮真名は本物の戦場を知っている。
 戦いに続く戦い。血を泥と生き肝の混ざった汚泥で洗い流す日々。
 その果てに、生きている喜びを感じた。それは何時の時だったのかを、龍宮真名は覚えていない。
 ただ、もっと生きていたいと思っていたのだ。
 だから、より自らを鍛え、より高度な武器を扱えるようにし。戦場において、より多くの生きる喜びを味わってもらうべく、強くなった。
 戦友を生かすため。己を生かすため。無関係のものを生かすために、龍宮真名は戦場を巡ったのだ。

 ここで見捨てる事は自らに有利を引き込むだろう。
 だが是ではない。龍宮真名は常に自分のルールで生きている。
 他者のルールには従わない。だから、そう。これは、龍宮真名が自ら決めた事なのだ。

 一歩。また一歩と踏みしめられる。
 草を踏みしめ、何時襲い掛かってくるかも解らない、頭上の何かに木を払うようなそぶりも見せず。
 一歩。また一歩と踏みしめ。あと、僅かに半歩踏み出せば古菲を抱き上げ、その場から逃げおおせるというところで。
 爆撃じみた轟音を響かせて、白と黒。銀の鬣を有した。頭部の側面に装甲を纏った『ソレ』が降り立った―――

 古菲は見る。酷いスローモーションのような世界を見る。
 『ソレ』が降りた瞬間、龍宮真名は無挙動で拳銃を撃ちはなった。
 僅かな距離。1メートルすらないその距離で。
 ソレはその鋭すぎる二本の牙が目立つ口で撃たれた弾丸全てを喰らい、牙と牙の間で止めて見せた。

 『ソレ』の身体が大きく跳ねる。
 龍宮真名はその動きにまるでついていけていない。
 既にその場に居ない『ソレ』が居た場所に二発、弾丸が撃ち込まれた。
 古菲の脚の間。針に糸を通すかのような絶妙な射撃。
 相手が居れば、相手だけを貫き、その背後の古菲には一切危害を与えないであろうその射撃。

 その射撃を、二発も龍宮真名は無駄弾とした。正しくは、龍宮真名の動きが『ソレ』についていけなかっただけなのだ。
 『ソレ』は事もあろうか。指を引いて、引き金を引くというその行為。
 熟練し、既に達人であっても反応できないほどの速度を以って撃ち抜かれる刹那の業。
 神業を越え魔技と言うべきそれ。ソレを、引き金が引かれ、弾丸が銃口から二発撃ち出された後で行動し、避けて見せたと言うのだ。

 龍宮真名の尋常ではない反射神経とテクニックも、既に人の理を超えている『ソレ』のにはあまりに遅すぎた。
 否、遅いのではない。おそらく、反応を上げれば上げただけ『ソレ』はそれを上回るだろう。『ソレ』は、そう言うものだったのだ。

 龍宮真名はそれに気付けなかった。
 二発無駄弾を撃った時点で、そこにそれが居ないと認識し、視線を上に。
 自らの真上。そこには白と黒。銀の鬣を靡かせた巨大な獣が、魔眼に写り込んでいて。
 そこで、龍宮真名の視覚は閉じた。強い衝撃。それが、龍宮真名の意識を僅かに一瞬だけ飛ばし、しかし、その場に叩き伏せて覚醒させるには充分だった。
 事は一瞬。古菲が口出しするような暇も無く、あっけなく龍宮真名は地べたを舐めた。

「真名!!!」

 古菲が身体を前へ引きずる。
 強い音を立て、龍宮真名は頭から地面へ叩きつけられる。
 どれほどの衝撃だったのだろう。龍宮真名は、地面に身体を叩きつけられた衝撃でワンバウンドする。
 撥ねる様な要素など無い人間の身体を撥ねさせるほどの衝撃。
 それが、振りぬかれた大木のような虎の腕に込められていたのだろう。

 『ソレ』はそれだけでその場から消えた。
 古菲も視認出来ないほどの速度を以って、その場から消えうせる。
 否、古菲はそれが消えた瞬間を見てなかった。故に見えなかった。古菲が見ているのはただ一人。その場に倒れ込んだ、龍宮真名だけだ。

 それが答え。脚からの出血は激しいと言うのに、この場まで続いていた血痕は少量。その答え。
 相手は、文字通りあの場所からこの場所まで、古菲の脚に喰らいつき、投げ飛ばしたのだ。
 正に瞬間芸。一瞬で両脚をズタズタにし、この場までかぶりを振る様に投げ捨てた。その際飛び散った血痕が、地べたにこびりついていたのだ。

「真名!! 真名!! しっかりするネ!!」

 返事は無い。背中を向けたまま倒れ込んだ龍宮真名の身体は一ミリも動く気配は無い。
 死人の様な、緘黙な背中だけが、古菲に向けられている。その様相に、古菲の顔が蒼白に染まったと同時であったか。

「―――ああ、ちゃんと聞こえているよ」

 身体は一ミリも動かずとも、返答だけがあった。
 相変わらず何処か無愛想にも聞こえる声。今までの龍宮真名と変わりなかった。

「真名!? ……まったく……心配させてくれるネ……」
「お互いボロボロのようだな。仕方ないか。
悪いが古。私のポケットに携帯が入っている。それで連絡を取ってくれ」
「真名……私、脚がボロボロヨ? 怪我人にそれはないと思うネ」
「ああ。それは知っている。だが生憎、私は携帯を捜す事も出来ないし、なにより見る事も出来ないのでな――――」

 その言葉に、身体を起こしかけていた古菲の身体は硬直し、一気に動き出した。
 脚の損傷すら無視し、流れ出る赤い川脈を生み出し。
 豹の様に素早い動きで目の前で横たわっていた龍宮真名の身体を起こす。
 振り返ったかのような龍宮真名。その身体に傷は無い。
 そう、身体に傷は無い。身体に傷は無いが―――その両目からは、滝のように血が流れていた。

「真名……!!」
「眼をやられた。射撃手(スナイパー)の命を抉られたな。お前は足だったか。
 ……なるほどね。アレは私達の一番の身体機能を狙ってきたな。
 ああ、眼の方は幸い抉られる一歩手前で身体を捻ったが……どうなっているのかは私にも解らん。
 さぁ、早く連絡してくれ。身体が寒くてかなわない」

 何故寒いのかを龍宮真名は自覚できている。
 出血多量に拠る全身の体温調節維持が行かれているのだ。
 命の証の紅い水が失われれば失われていくほどに、その身体は冷たくなっていく。
 生きながらに死人になるような感覚。龍宮真名は恐怖はしなかった。恐怖しなかったが、どこか清々しくもなっていた。
 古菲は素早く携帯で連絡を開始する。
 焦った様な声だけが、龍宮真名の耳朶には残った。
 久しく忘れていた暗闇に龍宮真名は身を任せる。熱すぎる瞼と、寒すぎる体。
 きっと、古菲も同じ様に感じているだろう。そう確信して、龍宮真名は意識を失った。久しく忘れていた、長い眠りに着くようであった。

 


 ――――――――――――――――――

 大きな音と共に、飾り気のまるで無い白い引き戸が開かれる。
 反応したのは、部屋の中の三名。病院の患者が着る清楚な白い患者服。
 それに袖を通した者四名の内、開いた扉に反応したのはその内の三名のみであった。
 首周りに固定台座を組まれた大河内アキラ。
 他四名ほどではないが頬や鼻先などにガーゼの目立つ和泉亜子。
 両足を不恰好に吊り下げられた古菲。
 反応したのは以上三名であり、ただ一人。両目から頭部にかけて包帯をがんがら締めに巻かれた龍宮真名は、窓の外を見続けているのみであった。
 白い引き戸の向こうから現れた姿。
 それは病室内に居た四名と同じく、かのAクラスの人間数名であった。

「くーふぇ!! 龍宮さん!!」
「お二人とも!! ああ、いえっ。四人とも大丈夫ですの!?」
「オーまき絵。いいんちょにこのかに…刹那…図書館組も一緒だたカ。
皆元気そうアルネ。良い事ヨ。私達は…まぁ、見ての通りネ」

 たははと笑う表情は何時もの古菲には間違えなかった。
 だが、それを笑って済ませるようならば友人を名乗る資格など無い。
 だれもがその目に涙を浮かべ、古菲。ないしは他の友人たちの下へと駆け寄っていく。
 その中で一人。桜咲刹那は真っ先に龍宮真名の下へ向かった。
 勿論、他のクラスメイトらへの配慮も忘れない。手
 持ちの土産をそれぞれに手渡し、しかし、長話は他のクラスメイトに任せ。その上で、桜咲刹那は龍宮真名の下へと向かった。

 普段の龍宮真名であれば即座に反応する距離。その距離に至って尚、龍宮真名は視線を窓の外へ向けたままであった。
 淡い光を浴びて、褐色の肌が照日に栄える。
 美しい肌。だが、そのあちこちには切り傷が目立つ。
 昨夜地面に叩きつけられた際か。龍宮真名の身体で、傷の無い箇所は無かった。
 特に頭部。誰が見ても重傷と解る、その包帯の巻き方。

 ソレを見て、桜咲刹那は先ず背筋を凍えさせた。
 龍宮真名と言えば、学園内でも筆頭に位置してもおかしくない実力者である。
 遅れを取るような事を見たことは無く、常に冷静沈着に行動して必勝、あるいは完璧な撤退を体現する。
 その龍宮真名の満身創痍。それに背筋を凍えさせると同時に、その龍宮真名に此処までの重症を与えた相手に畏怖する。
 もし、自分が相手をしたのであれば、あるいは。そこまで思考させるほどに。

「龍宮」
「――――ああ、刹那か。気付かなかった。やれやれ、目に頼りすぎるのは良くないな。今回教えられたよ」

 気安く話しかけてくる龍宮真名に桜咲刹那は若干混乱した。
 その口調が酷く穏やか。毒気が抜けたと言うのは言い過ぎかもしれないが、桜咲刹那にはそう感じれた。
 あの近づき難さは無く。日向に咲く花のような清々しさ。
 傷つけられたと言うのに、何故も此処まで清々しいのか。桜咲刹那は、それに混乱した。

「……目は大丈夫なのか?」

 その言葉に龍宮真名は自らの眼窩の上に位置する包帯に触れた。
 白い布。視覚と言う最大の情報供給器官を潰され、その治療を促進させる為に巻かれた包帯。
 しかし、どこかそれは視界と外界を妨げる越えられない壁のようにも龍宮真名は感じた。
 触れた指先には肌の柔らかさは無い。無機質な布の感触。僅かに羽毛のような突起のある布地。
 それが眼窩を完全に覆ってしまっている。

「医者が言うには角膜移植を受ければ失明の危険は無いそうだ。
 ただし、今のままでは完全に使い物にならないとの事でな。
 まぁ、時間はかかるが復業は出来そうだよ。それまでは暫く面倒をかけるかもしれないがな」

 くすりと笑う龍宮真名。何故笑えるのかと疑問を持つ桜咲刹那。
 両者はどこか相異していた。それは桜咲刹那だけが理解できないもの。
 龍宮真名は理解していた。自らの穏やかさ。不思議なまでに爽朗とした気性。それが発生している理由。

「あ、あのぉ…」
「ん? ああ、その声は宮崎さんだね。済まないね。見舞ってくれたと言うのに大した事もしてやれず」
「い、いえ。あ、あああの。こ、コレどうぞっ!!」

 ふわりと風に乗って、甘い香がした。
 暫く忘れていた麗華の香だと判断する。花など渡されるなどどれ程過去の話だっただろうか。
 龍宮真名は口元だけで静かに微笑み、伸ばしたその手で宮崎のどかの頭を数回撫でる。
 恥ずかしそうな宮崎のどかの表情を見る事はかなわなかったが、龍宮真名は、それでも構わなかった。
 去っていく宮崎のどかを桜咲刹那は視線で追った。何時も三人で居る様に、綾瀬夕映と早乙女ハルナの元へ帰る宮崎のどか。
 そんな彼女に先の二人が良くやった、と言うかのような賛辞を送っていた。

「龍宮。やはり何があったのか話してくれ。失礼かもしれないが、龍宮。お前は―――」
「言うな刹那。私も驚いているんだ。こんな気持ちになったのはどれ程だろうな。
 不思議なものだ。戦う力と一緒に血の気も抜けたかな。それとも、魔眼の魔力が抜けたからか。
 今はとても穏やかだよ。どうにも、人間圧倒的なもの。そう、例えば大自然などか。そんなものを目の当たりにすると気が晴れるようだな。そんな処だ」

 再び龍宮真名は外を見た。見えない眼で外を見た。
 外の外気を見るとでも言うのか。
 眼は見えずとも、感じれるものを感じて居るのかもしれない。
 今の彼女には、それが見るという行為に該当するのだろうか。外は暖かであり、朗らかな風が吹いて空は蒼かった。
 それを見て笑うかのように、龍宮真名は口元だけで笑う。
 桜咲刹那は、どこか納得できないといった表情でその様相を見ていた。

「龍宮……?」
「刹那。気をつけろ。相手は今までの相手とは違う。魔獣、魔物の類ではない。そうだな、例えるならば『怪獣』だな、アレは」

 言いえて妙だが、的を得ていた。
 そうとも。鋼性種は、怪獣だ。人間では理解する事の出来ぬ領域の生命体だ。
 そして恐らく、それと一体化した、あの人間だった人間も恐らくは――――

「それにしても皆心配性アルヨ〜今日の朝もネギ坊主が来たネ。二時間ぐらい前にはチャオやハカセも来たばかりアルのに〜」

 そんな二人を知ってか知らずか、古菲は持ち前とも言える元気さで見舞いに来たクラスメイトに気さくに話しかけ、同室のクラスメイトをも笑わせていた。
 仄かな午後の話だった。暗く重くなるような場であると言うのに、暗く重くは無く。和やかな森羅の香が、窓の外から香った。

 小一時間は話しただろうか。後ろ髪引かれる様な見舞いのクラスメイトたちを朗らかに古菲が送り出していく。
 再び静けさの戻った病室内。二人は眠り、否、三人は眠っているだろうか。
 大河内アキラに和泉亜子。そして古菲が眠っているようにも見える。
 龍宮真名だけは唯一身体を起こし、姿勢正しく虚空を見つめるではなく。その体勢のままで居た。
 両腕は布団の内に隠れた両足膝の上辺りに。華道を行う者が規律良く体勢を整えているのと何ら変わらない体勢で、龍宮真名は暗闇の中に一人物思いしていた。

 だが暗闇に一人物思いにふけっていたと言うのは誤りである。
 龍宮真名は傍らの相方の気配を感じ、物思いにふけっていたのだ。
 眠っていると思われる古菲。その背中に顔を向けて一言告げた。

「これからどうする。古」
「脚は手術で完治するとはいうてたけど、自分の体のことは誰より解っているつもりヨ。
 中国拳法の真髄はその独特の動きネ。それを体現するのは他ならぬ自らの脚。完治するとは言っても、それは外見程度だろうネ。
 元のような完全な動きは、恐らく無理ヨ。残念ネ。折角良い弟子が出来たと思っていたのだけれど」
「先生か……」
「仕方ないネ」

 背中だけで語られる言葉に、どれだけの無念が込められているだろうか。
 龍宮真名はそれを読み取り、そこで話を切った。彼女の無念は自らの無念にも等しい。
 これからあの古菲が弟子に取っており、龍宮真名が見込んだ少年にどれ程の脅威が降りかかろうと、彼女らはもう彼の力にはなれない。
 教えにはなれるかもしれない。だが力になれない事以外がどれほどあの少年の役に立てるだろう。
 元より戦う力に特化していた者。ソレを失った時点で、二人はただの女学生と同じになってしまった。

 無論、長年の間で培ってきた技術・体にしみこんだ努力の賜物はそう簡単には消えないだろう。
 だが、どれだけ体に留まり続けようとも、それを体現できる技術であった頃の体ではない。
 体の心底まで刻み込まれた深い傷。どれだけ身体が完治しようと。傷跡が消えようとも。
 その傷は残り続けるのだ。神経の断裂がソレを語る。
 一度断ち切られた神経網は完全には再生しないのだ。
 古菲は脚を断ち切られたにも等しい。既存しているが、その脚は最早、今までと同じものではないのだ。

「真名こそどうするネ。眼はもう使えないのじゃないアルカ?」

 あの快活な古菲の声は無い。真摯な声。深刻な声。
 それはまるで、此処に居る四人すべてに語りかける様でもあった。

「―――さて、どうするかな。治ったのなら―――普通の学生生活、と言うのでも満喫してみるか」

 魔眼で見ていた世界と普通の目で見る世界の違いに夢馳せる様に。
 龍宮真名は窓の外を見た。見続けていた。
 青い空。魔眼で見るのとは違う、爽快な空だった気がした。
 心にそんな空を映して、龍宮真名は、唯一潰れなかった涙腺から水を流す。

 一筋だけ泣いたのだった。

 ――――――――――――――――――

「高畑先生!?」
「ん? やぁ、明日菜くん。それに…エヴァ? 珍しいじゃないか。誰かの見舞いに駆けつけるなんて」

 病院のロビー。大勢の人々が行きかう中。一際目立つ白いスーツと花束を携えた長身のタカミチ・T・高畑が立っていたのを見つけた。
 大き目の花束を携えた神楽坂明日菜。そんな彼女の傍らにはエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルも在る。
 だがエヴァンジェリンは特に何かを語るようなそぶりも見せず病院内を物珍しそうに。あるいは無感情に見渡していた。
 吸血鬼と言う再生能力の極めて強い彼女だ。
 恐らく、人間の病院などに厄介になった事など無いのだろう。高畑はそう感じていたが、即座にソレを否定した。
 タカミチ・T・高畑もまた知っていたのだ。絡繰茶々丸の失踪。
 エヴァンジェリンの無感情な態度は、恐らくそこから来るのだろうと推測した。

「君たちもクーフェくん達のお見舞いかい? そういえばさっきあやかくんにも会ったよ。
 これでAクラスの人間は全員彼女たちの見舞いに来たことになるね。
 ああ、そう言えば新田先生や瀬流彦先生。しずなくんも来ていたよ。勿論、ネギ君は朝一で来ていたさ」

 その言葉に神楽坂明日菜は思わず目を丸くした。
 無理も無いだろう。あのAクラスの人間がそこまで友達甲斐があったとは意外だったのだ。
 確かに友人関係は幅広い人間がAクラスには多い。
 だが、どの人間がどの人間と何処まで中が良いというのまではクラスメイトの誰もがわかっていないだろう。
 だからこそ驚いたのだ。そして、少し嬉しくなったのだ。
 それだけ、自分のクラスの人間は人間関係がより良く成り立っていたのだという事に。

 加えて教員の人たちもそこまで集まってくれていた事。それに喜びを覚えない筈もない。
 だからこそ喜び。そして、少しだけ。違う。心の半分が、悲しみで染まった。
 見舞いに来てくれた人々の事は嬉しかった。教員。何時も迷惑ばかりかけていただろう新田教諭に瀬流彦教諭まで駆けつけてくれた他と言う事実も嬉しくない筈も無い。

 だが、一人だけ該当しない人間がいた。それは、この学園でAクラスに最も関わりが存在し、しかし無いに等しかった人物。
 途中で担任をネギ・スプリングフィールドに譲ったタカミチ・T・高畑よりも。担任であるネギ・スプリングフィールドよりも、Aクラスに関わりのある人物だけが此処には来ない事を確信していた。

 機能得限止。三年間Aクラスの副担任を務め続け。学園中のどの教師以上にAクラスと言うものに関係し。
 だが、しかし、二度と語りかけることもないであろう、その人物。
 その人物だけが来ない。確実に来ないと知っている。そう思っている人間は、二人。
 人間が二人。神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。その二人の人間だけが、機能得限止と絡繰茶々丸がいかなる事があろうとも駆けつけないのを知っている。
 既に二人は人間の理解の範囲を超えたものになってしまっているから。

「勿論これから行くんだろう? 一緒に行かないか」
「―――いえ。その、この花束だけ、渡しておいてくれませんか。ちょっと」

 神楽坂明日菜は言いよどんだ。
 この、元担任であり。恋愛感情を懐き、学際時玉砕、それでも、まだこうしてくれている人。
 頼りがいもあり、大人の雰囲気を漂わせているタカミチと言う人物に全てを打ち明けるべきかで悩んだのだ。
 機能得限止と言うものの異変。絡繰茶々丸の身に降りかかった脅威。それを全て語るか語らざるかを迷ったのだ。
 そうして結論する。語ることは出来ないと。
 傲慢さからではない。自分たちだけで解決できると言う慢心から生じたものではないのだ。

 純粋な危惧。あれと戦ってはいけない。あれと相対してはいけない。
 目前で見たからこそ判って居るのだ。アレがどれほど人知を超えているのか。
 最早人知では計る事などできはしない。
 あれはアレになった時点で人知を凌駕するのだから。

 だからこそ、神楽坂明日菜も、エヴァンジェリンもまた、何一つ語るようなそぶりは見せなかった。
 態々負けると確信している事柄に対して、多少の力を持った程度の人間に教える事は無いのだから。
 花束をもう片方の手で受け取り、タカミチは僅かに眉を歪ませた。
 神楽坂明日菜の表情。タカミチ・T・高畑は伊達に二年ちょっと彼女たちと付き合ってきたわけではない。

 特に、自分に好意を持ってくれていたであろう神楽坂明日菜と言う少女の事は誰より知っている。
 幼い頃から見守ってきたのだから。
 だからこそ気付いたのだ。神楽坂明日菜の異変。
 彼女は嘘を吐けるような人間ではない。嘘は吐けない。
 だから言わない。彼女は人に隠し事があるときは嘘ではなく、そも事実を語らない。そう言う人間だと、高地味は記憶している。
 今の神楽坂明日菜はまさにソレであった。
 事実を語らない口。正面を切って見れない眼差し。
 それは紛れも無く隠し事のある様相。それも、極めて深刻な内容である事をタカミチは読み取っていた。

「……構わないが。二人とも、僕に言いたい事は無いのかい?」

 ありません、と神楽坂明日菜。
 無い、とエヴァンジェリン。
 二人は即答で返答した。それでタカミチは判断する。確実な隠し事を。
 そして、恐らくソレはここに運び込まれた古菲・龍宮真名・大河内アキラ・和泉亜子に関係する事。四者の共通点とは即ち、襲った相手。

 だが、タカミチはそれを知りながらも二人を行かせた。
 花は届けておこうと告げると、神楽坂明日菜は一礼し去っていく。
 エヴァンジェリンはタカミチを見るでもなく、その傍らを行った。意外と似合いの二人組みなのかも名ともタカミチは思う。
 思った後に、何を隠して居るのかで判断をつけた。
 神楽坂明日菜と言う少女の優しさだ。優しさで、神楽坂明日菜はタカミチには何も語らなかった。語ればどうなるのだろうか。タカミチはそれを理解している。
 龍宮真名と言う、負傷はあっても、居合い拳と正面切ってやりあった生徒の一人が手も足も出ずに敗北し、此処に運ばれたという事実。
 それは、恐らく自分の居合い拳すら手が出せない相手であるかもしれないという現実だった。
 神楽坂明日菜はあえて隠す事で、タカミチとソレの対決を避けさせたのだろう。
 タカミチは、そう感じた。神楽坂明日菜の素直ではない優しさ。Aクラスを導いてきたリーダー的な気質。それをタカミチは嬉しく思ったと同時、悲しくも思った。

「明日菜くん。無茶をしてはいけないぞ」

 去り行く後姿を一秒見つめ、タカミチは古菲らの病室へ向けて踵を返した。
 携えられた花束は二つ。血のように赤い薔薇の花束が栄える。
 白い壁に。病院は白く、去り往く二人は悲しげに紅くも見えるだろう。
 タカミチと袂を絶った神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。
 無言のまま病院を出て、その脚で何故か中等部校舎へ向けて歩き出していた。
 既に本日の学業は終了。放課後であり、これからは自由行動の時間であると言うのに、二人は本校舎へと向かっていた。
 神楽坂明日菜とエヴァンジェリンは語るそぶりは見せていない。
 お互いに並びあって歩くのみ。目も見ず、肩を並べられるような身長差でもないのに肩を並べるかのように。

「神楽坂明日菜。お前はこれからどうするつもりだ」

 エヴァンジェリンは前振りなしに話を振った。勿論顔を向けず、歩き続けるままでだ。

「どうするって。どうするのよ」

「私は茶々丸を元に戻す方法を考えている。無いとは言いきれんだろう。あるとも言い切れんが。
 何もしないよりはマシだ。
 キノウエも言っていなかったか。先ず行動だと。
 そう言うことだ。何もせずに終わるよりは、何かをしてソレを残すべきだとは思わんか。
 やれやれ。あの男め。随分とまぁ教訓を叩き込んでくれたものだ。
 人間の授業を受けてしまったのが悪かったか。
 ……いや、違うな。私は人間だったか。ただの子供の人間だ。キノウエが言った事はある意味では事実なのかもしれないな。
 ハッ。精々力が優れた程度では人間以上だけであり、人間以外ではないか。
 そうとも、茶々丸にキノウエ。あれこそが人間以外。あの二人は、その扉を開いたのだな」
「で、エヴァちゃんはどうしたいの」
「あの二人を変異させた原因を探る。
 鋼性種……とか言っていたな。それが何であるのかの詮索だ。
 神楽坂明日菜。お前はどうする。お前は別に関わる事でもないだろう。
 ここで止めても文句を言う人間は居ない。お前はお前。誰かは誰かだ。
 キノウエを元に戻すような義理もないだろう? 私は私で茶々丸を取り戻したいだけだからな。それでは明日菜。お前は」
「そうもいかないわよ。キノウエ先生は私のクラスメイトを傷つけている。それを黙ってみてるわけにいかないわ
 知ってる? エヴァちゃん。被害者の人たち、皆獣にやられたみたいな怪我なんだって。
 この学園魔法先生とか多いから普通の獣じゃあ直ぐに見つかっちゃう。でもまだ見つかっていない。
 見つからないと言うのは得体が知れないから。だったら、もう襲っているのが誰かなんて想像はつくわよ。
 獣傷だけじゃないわ。別の傷もあるって聞いてる。そっちは多分茶々丸さん。
 そうね、二人ともとっくに私たちと関係するモノなんてやめてしまっているんだね。
 だったら、私はそれを見届けたんだから最後まで付き合うわよ」

 それにと、言いかけて止める。
 ポケットの中。拳銃型の注射器がある。
 汝獣在れかし。機能得限止のその言葉。最後の最後に向けられた人としての言葉は、神楽坂明日菜に向けられた。
 神楽坂明日菜はずっとソレが気になっていた。目をつけたからとも言っていた気がする。
 目をつけられるような真似に覚えは無い。少なくても、機能得限止の前で神楽坂明日菜は何か眼をつけられるような真似事をした覚えは無かった。
 だが、最後の最後。人間としての最後の瞬間。機能得限止は神楽坂明日菜に見取られた。
 それに何か意味があるような気がしてならなかった。

 だからこそ、エヴァンジェリンにも付き合う気になったのだろう。
 エヴァンジェリンは取り戻す為に。神楽坂明日菜は知る為に行動を起こす。
 考える事以上に行動。そう言ったのは機能得限止だった。
 人間的な機能得限止がそう告げた。
 教師としての機能得限止の言葉であった。
 だからこそ、両者は脚を進めているのだ。
 人間だから。人間的な言葉に感化された人間だから、進んでいるのだった。

「で、何から始めるの?」
「キノウエの生前。いや、生前と言うのは間違えか。今だアイツは既存だからな。人間だった頃とでも言うか。
 その時の関係者を洗う。
 奴とて教師だった。教師と言うことは、生徒とのやりとりも完全に無いとは言えん。
 では誰かとも無し、関係は在った筈だ。Aクラスの副担任と言う間柄、私たちとの関係が一番深いようにも感じられるが、奴には他者への関心など皆無だった。
 自分がよければそれで良いでもない。
 超自然的……生きて、生きて生きて生きて生きて生の始まりに暗し、死に死に死んで死の終わりに冥し、とでも言うか。
 それだけだ。私はそう感じた。
 だが、ならばこそ関係者は限定される。中等部校舎を洗う。手当たり次第だ。
 魔法は使えんし、ぼーやに報告することもせん。私達の問題だ。私と茶々丸。お前とキノウエのな」

 そうなのだろうかとも考えるが、やはりそうであった。
 エヴァンジェリンと絡繰茶々丸の関係性は言わずものがな。
 主と従者。それならば、失踪しようとも主と従者の関係は変わらない。
 ただ、従者を主が求めるだけなのだ。従者が主を求めるとは逆だ。

 ならば神楽坂明日菜と機能得限止の関係とは何か。
 無い様にも思える。だが在る。とても深いような関係。
 ポケットの中。指先に触れるのはあの注射器。
 それを渡された時点で、神楽坂明日菜と機能得限止の関係は樹立したといって過言ではない。
 何か意味の在る行為を神楽坂明日菜に向けた時点で、機能得限止との間には重要すぎる、そして充分すぎる理由が存在するのだから。

 だが、神楽坂明日菜はそれを無関係と切り捨てる。
 そんなものは関係ないのだと言い聞かせた。
 ただ、元副担任が獣になってクラスメイトを傷つけた。それだけで充分だった。
 元に戻すとかは良く、神楽坂明日菜は機能得限止がそうまでなった理由を求める。
 人間を完全に放棄してまで、人間を究極の意味合いで否定してまで得た獣の全て。
 それを求めた。その理由。そうまでなった、その理由を。

 それが神楽坂明日菜と機能得限止の共通点であった。
 他の誰でもない。獣と化した瞬間を見ていた神楽坂明日菜に与えられた宿命。
 ソレをなせ。成せる事を成せという啓示のような宿命であった。
 勿論、それを神楽坂明日菜は自覚できていない。自覚できないから宿命なのだ。
 それに突き進むからこそ、宿命なのだ。
 尤も、そうでなくとも神楽坂明日菜は機能得限止に対しての探知を止めるような真似は行わなかっただろう。
 ポケットの中の拳銃型注射器。それが意味する事柄。それを神楽坂明日菜は否定した。
 いつか使う時がくるのだろうかと考え、そんなものは来ないと思考する。来たとしても使わないと思考したのだ。

 だが、それは本当にそうなるまでは誰にも解らない。
 本当に使わないといえるのか。絶対に使わないと言い切れるのか。
 絶対など無いのだ。絶対と言う単語は人間的なものだ。
 機能得限止にはソレは最早無い。したがって機能得限止にとって神楽坂明日菜がソレを使おうと関係ないだろう。
 神楽坂明日菜にもそれは該当する。
 絶対など無い。絶対とは過去にのみ使ってよい言葉だ。絶対とは確率論であり、『そうなりえた』過去分詞だ。
 未来は常に普遍的であり100%にはなりえない。だからこそ絶対は過去にのみ使ってよいのだ。
 過去にそうであったのであり、未来にそうなりえると断言できる生物は居ない。
 尤も、そんなどうでもいい事に意識を割くのは人間だけだろうが。

 神楽坂明日菜は自覚せず絶対と言う言葉を飲み込んだ。
 絶対ではないかもしれない。だが、ただ、そのときが来ない事だけを祈った。

 進む先は中等部校舎。何人が居るのかも解らない。静謐な棺の様にも見えたか。

第三十一話 / 第三十三話


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