第三十一話〜決別〜

第三十一話〜決別〜

 擦れ違うだけと知り、何故出会ったのか

 

「茶々丸」

 エヴァンジェリンの声が風に乗る。清めの鈴のように透き通った声であった。
悪の魔法使いを自称する少女のものとは思えない。
かつて、ネギ・スプリングフィールドを襲った時とは比べ物にならない和やかさ。
だが、それは僅か一瞬であり、即座にエヴァンジェリンは、あのエヴァンジェリンへと返る。

「帰るぞ茶々丸。戻ったら何故主を置いて行ったのか。徹底的に問わせてもらうぞ」

 踵を返し、かの絡繰茶々丸を招くエヴァンジェリン。
その様相は今までのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルそのもの。だが、絡繰茶々丸は今までの絡繰茶々丸ではなかった。
即座に主の意思に従っていた、友の言葉を受け止めていた、担任の言葉に耳を傾けていた絡繰茶々丸とは違っていた。
 エヴァンジェリンが帰路に帰ろうとする方向とは逆。絡繰茶々丸は、聳え立つ世界樹を見上げていた。

「…茶々丸っ。マスターの命が聞けんのか。さっさと帰るぞ――――」
『マスターの裡の第零世代は、本当にそう言っているのですか?』

 踵を返していたエヴァンジェリンの目が大きく見開かれる。
驚愕の目。踵を返し、バルコニー上の絡繰茶々丸を臨めば、その様相は相変わらず。
相変わらずだと言うのに、何かが違う。エヴァンジェリンならずとも、傍らの神楽坂明日菜もまた、そう感じた。

 世界樹が仄かに輝いている。
それはおかしい事であった。世界樹の発光現象は既に終わっているはず。
ならば、次の発光現象が起きるのは22年後の筈であろう。
だが、その世界樹が輝いている。緑色の燐光。毒々しいまでに眩い、エメラルドグリーンの燐光が、雪のように世界樹から降り注いでくる。

 だが両者はそれすら目に入らなかった。
その翠の雪を浴びる絡繰茶々丸の全身。関節の節々が、どす黒く変色し、次の瞬間。弾けた。

 ごぽりと言う不快な水音。粘つくような液体が泡を吹いた時の音に近い。
それが絡繰茶々丸の周辺からひっきりなしに世界樹広場のバルコニーから奏でられている。
エヴァンジェリンと神楽坂明日菜は、自らの目の焦点が定まらなくなるのを感じた。
見上げていると言うのに。視覚は完全に働いていると言うのに。脳がその見上げている光景を認めたがらないかのように。その光景は、脳にまで至らなかった。
 絡繰茶々丸の全身。
関節の節々から、制服さえ引き破って黒い汚濁が溢れている。
それは頭部も例外ではない。折れているのか、あのトレードマークのような耳部のアンテナの片側からも、黒い汚濁が頬を汚し、首を汚し、胸元を汚して、全身を黒に染め上げていく。

「ちゃ、茶々丸…な、何なのだ。ソレは」
『第零世代の未来完了への道が間もなく完遂しようとしています。
即ち、第二世代の誕生です。ヒトはその天秤から振り落とされる。
だから、第二世代へは誰も触れることが出来ないのでしょう。
魔法使い。魔法使いでない。ヒトである。ヒトでない。それら全てを。受け入れることも否定する事も。
拒絶する事も肯定する事もなく。唯一つの"存在"として、第二世代の誕生が始まります。マスター』
「ちょっ…茶々丸さん!?」

 二人に絡繰茶々丸の言葉の意味は理解出来なかった。
明らかにプログラムされていないであろう言葉の羅列。
喋るたびに首元から汚濁を噴出し、既に絡繰茶々丸の全身。ならびに足元は完全に黒の汚濁の池が誕生していた。
 その池から蒸気が上がっている。
蒸気ではないだろうが、その白い煙は蒸気としか認識できない。
絡繰茶々丸の足元から音を立てて上がる白の煙。酸性の強い液体に投下したモノの溶ける音が、世界樹広場に満ち満ちていっている。

「茶々ま―――」
『マスターもまた第一世代の一つなのでしょうね。
人間と言う種族の中で派生し続けている第一世代。
マスター。貴女は、人間と言う第一世代の持つ、第零世代が克服出来なかった要素の大半を克服した人間と言う第一世代に過ぎないようです。
残念ですが、マスターは第二世代へ至る道はまだ遠いのですね。
私は―――行かなければいけないようです。マスター』

 見上げた世界樹の上より、あの漆黒の多面体が降りる。
絡繰茶々丸の背後。あの時と同じように、二等辺三角錐へと八分割。翠の触手じみた光が、絡繰茶々丸の足元から白い煙を立ち上らせていた黒の汚濁を巻き上げていく。
その汚濁が、少しずつ、絡繰茶々丸を包むように。

「ちゃ、茶々丸っ!! 何をやっている!! 何を言っている!? マスター命令だぞ。聞けんと言うのかっ!!
 そんなことは許さんぞ! お前は私のものだ。
お前は、お前には、お前だけは、ずっと一緒に居てくれるのでは―――」
『お別れです、マスター。いえ、さようなら。エヴァンジェリン』

 最後の瞬間。その目は有機的になり、見惚れるほど眩い笑顔で絡繰茶々丸は黒の汚濁に包まれた。
モノの溶ける音は収まらず、黒の汚濁が巻きついた絡繰茶々丸の身体から聞こえているかのようでもあった。
 だがソレは確認できない。
絡繰茶々丸は黒の汚濁に包まれ、激しい白い煙の向こうに消えた。止める事も、声をかけることも出来ず、絡繰茶々丸は黒の汚濁へ飲み込まれたのだ。

 エヴァンジェリンはその場で片手をその黒い繭、否、少しずつ、かの機能得限止の肌の色のような石膏に変わっていく物体に向けた。
残った片方の手には数本の、液体の入った試験管。
普段魔法を使う事が出来ないエヴァンジェリンが、夜間限定ではあるが魔法の使えるようになる魔法薬。
量からすれば恐らく、簡易の魔法一回分程度であろう。
エヴァンジェリンは、魔法とは無関係な人間が居るなどおかまいなしにソレを解き放とうとしていた。

「え、エヴァちゃん!!」

 止めようとする神楽坂明日菜とは異なり。機能得限止はそれを止めるような真似はしなかった。
意味がないと判断しているのか。意味がないと、確信しているのか。そのどちらかのようにしか見えなかった。
ただ、踵を返し。遠目を以って、黒く、既に白くなりつつある繭を見上げているだけであった。

「エヴァちゃんっ!! 何するのか知らないけどマズいって!!
 キノウエ先生居るし、それに、何したって中の茶々丸さんを傷つけちゃう!!」
「離せ神楽坂明日菜! アレが何かは知らんが人のものを奪い取ろうなど甚だしいわ!!
 すぐさまあんな汚濁振り払って茶々丸を解放してやる…っ!!!」

 羽交い絞めにした神楽坂明日菜の手を振り解き、エヴァンジェリンは白の繭の袂まで駆け出した。
向けられるのは右の手の平。その指の間に、左手を以って数本の魔法薬が指の間に差し込まれていく。

「Lic Lac La Lac Lilac.(リク・ラク ラ・ラック ライラック)!!
Sagitta Magica Un Glacialis(魔法の射手・氷の一矢)!!」

指に挟まれていた魔法薬の小瓶が砕け、その力が右の手の平へ集う吸血鬼ではあるが、満月ではない以上、エヴァンジェリンが振るえる力など、氷の矢を一本精製し、それを飛ばす程度だ。
氷の矢が伸びる。魔力を封じられていながらも、その威力は上位の魔法使いのソレに食い込む威力であろう。
それが一直線に、絡繰茶々丸を喰らった黒の汚濁が鋼質化したかのような白い繭へと突っ込んでいく。

並みの魔法使いの障壁程度であれば容易く掻き消す程度の威力を備え、下手な魔力抵抗力の低い生物なら充分殺傷可能なその一撃が繭に届く刹那。
エヴァンジェリンは目視した。繭一部に切り口が入り、無数の、小虫の様な目が、放ったエヴァンジェリンを。放たれた氷の矢を見つめるのを。

白の繭が弾ける。風船が炸裂する音を数倍にしたかのような壮絶な炸裂音。
ソレと同時に、世界樹広場が真っ白い煙で包まれた。
完全に視覚が閉ざされる中。エヴァンジェリンだけは、炸裂した白い繭の方向を見つめ続けていた。
その白い、雲と見間違えるほど濃く深い煙の中。
黒い影が、動いた。
エヴァンジェリンは次の瞬間に、全身を吹き飛ばされたかのような衝撃を味わった。
だが吹き飛んでなど居ない。エヴァンジェリンの身体は万足だ。

ただし、引きちぎれた右手を除いては―――

「エヴァちゃっ…ひぃ!?」

 駆け寄った神楽坂明日菜は、思わず口元を押さえた。
壮絶な量の白い蒸気の中。神楽坂明日菜は、足元に在るものを見つけてしまったからだ。
彼女の足元にあったもの。それは紛れもなく、かの、白い肌を持った、しかし、今は真紅に半分染まったエヴァンジェリンの右手。それに違いなかった―――
 エヴァンジェリンの身体がぐらりと揺れる。それに応じるかのように、白い煙が晴れていった。

「え、エヴァちゃんっ!」

 神楽坂明日菜に身体を支えられても、エヴァンジェリンの目は、空ろなままであった。
 急激に晴れていく白い煙の向こうに、神楽坂明日菜は黒い影を見つめていた。
黒い影と言うのは明確ではない。それは紛れもなく人影である。

 ただし、ただの人影ではない。それは人影のように見える陰だ。その影をかたどっているのが、人間である可能性は零である。
無理もないだろう。エヴァンジェリンを背中から支えた神楽坂明日菜は、その支えている手から力が抜けていくような錯覚を覚えた。
視覚に入る光景だけで、ここまで全身から力が抜けていくものなのかとも神楽坂明日菜は思った。

 今だ燻るかのように残り続ける白い煙。
それを割く様に、黒い骨格じみた腕が上がる。
黒い骨格、と言う表現は正しくない。白い煙を割いて現れた黒い腕は、紛れもなく人間の骨格のソレそのものだ。
だが、完全に黒い骨ではない。骨に黒の薄い装甲を纏っているかのように。
手を象る基礎たる骨。ソレそのものも黒い何かで包み込まれ、指に至っては、黒い針のように鋭利になっていた。

 関節は丸い。機械の駆動部の様にも見える。
それは紛れもなく、人間の手を模した、人形の手。科学的でハイテクな、縦運動しか意味を成さない球体関節。
だがそうではない。機械の手とも形容しがたい。
では何か。決まっている。その手は手であるが、手ではないモノであろう。
手の形をした、別のものだ。それが白い煙を割いて現れ、その奥のソレが、その場に居た三者。正しくは、二者の目に入った。

 それが何であったのか。一言での説明は酷く難しく。説明できても説明は憚れるような存在であった。

 それは骨格標本のソレに近いと、神楽坂明日菜は思った。
ただ白い骨格標本に比べ、遥かに黒い。
金属的光沢を放つ黒い骨格。黒曜石で包まれた、骨格標本。
所々に機械的な付属の窺える漆黒の。肋骨の部分が大きく開いた、内臓を持たない、恐ろしいほどに細い、黒い脊髄のみで支えられている全身。

 その全身は2メートルほどか。
かなりの長身。そしてその手もまた長い。
1m20ほどの長さの手と、その手と同じような形状の脚。肉付、皮付きなどがまるで無い、その異常な体躯。
 だが、その頭頂。首から上を見て、神楽坂明日菜は言葉を失っていた。

絡繰茶々丸そのもの。
やや目つきは鋭くなっているが、その頭部は紛れも無く、あの緑色の長い髪を。
だがしかし、今はその長い髪がその二メートルを越す体躯と同じほどにまで伸ばした、あの絡繰茶々丸そのものであった。

 その表情に有機的なものは感じられない。
機械としての絡繰茶々丸そのもの。あの、感情のようなものを見せていた時の絡繰茶々丸とはまったく違う。
無機質そのもの。石の様な不変の存在を立証するかのような表情のまま、絡繰茶々丸、『だったもの』は。
静かに。緑色の髪を風に吹き上げ、静かに宙に浮いていた。
 見上げているのは神楽坂明日菜と、機能得限止だけ。
エヴァンジェリンは空ろな目のまま、吹き飛び、いまだ真紅の液体が滴り続けている右手の付け根を見続けていた。

 誰もが無言であった。
口を開けるものを捜す事の方が難しかった。それほど今の光景を理解出来ないで居た。神楽坂明日菜は。
しかしてエヴァンジェリンもまた、理解できないでいた。何をだろうか。腕が吹き飛んだ事をであろうか。
機能得限止は、だがしかし。何処か悟り、決意したかのようにそれを見上げていた。
天使のような姿。広がった、異様なまでに長い翠の髪が翼のようにも見えたからか。機能得限止はそうとだけ考えて、初めて腰を上げた。

 絡繰茶々丸だったものは天を仰いでいる。
首を限界九十度まで傾け、天を睨む姿に何を覚えるだろうか。
恐怖だろうか。それは違う。恐怖よりも先にくる。感情などと言うものより先に、それが体内で発生してしまう。潜在的な何かが讃えるのだ。眼前のソレを。絡繰茶々丸だったものを。そうでなくなってしまった、ソレを。
遺伝子の更に奥。魂を構成するよりも更に更に奥の、恐らくは、機能得限止が言う第零世代。
それが讃える。第二世代に限りなく近いものの誕生を。誰より待ち望んだ、我が子のように。

「転醒したのか。これで絡繰も名目上は生物になったわけだな。喜ばしい事だ」

 初め声を出したのは機能得限止であった。
怖気も何も無い。何時もどおりの蚊ほども興味が無いといった発言。
神楽坂明日菜にも、エヴァンジェリンにさえも届いていないその声。
それを告げて、機能得限止は絡繰茶々丸だったものに近づいていく。恐怖も無く。潜在的な敬意の何か。それを引き連れて、前に。

「てん、せい…?」

 辛うじて出た声に、機能得限止は反応した。
神楽坂明日菜の声。目の前の正体不明の情景に。思考が及ばなくなったものが発する呆けの声。
機能得限止は無視するでもなく、その声に応じるように返答する。

「そう。転醒だ。転じて目覚める。生物本来の役割に覚醒したものが行う転生。
言っただろう。世界は我々人間などが思考できる範疇ではない。
人間の思考はその人間が思考出来る程度だ。
人間はその人間が考えている事以上を得ることは出来ず、気付かないものには気付けない。無いものはわからない。そう言うことだ。
だがアレは違う。人のその柵から解き放たれたもの。
どの自然界の生命体。どんな高度な生命体よりも高みに位置する生命体。
限りなく第二世代に近い第一世代。
絡繰はそれとなった。存在の壁を越え。第一世代を超え、第二世代への道を開いたのだ。
これで己の研究の成果も正しいと立証されたわけだ。
鋼性種の一部を取り込めば、その鋼性種の体細胞情報はその生物をより第二世代へと近づける特性。
人格。精神。知能。記憶。形状。全てを失う代わりに。なるほど、得られるものは予想以上か。
少々勝手は違うようだが、まぁ転醒には変わるまい」

 機能得限止は更に一歩進み、その黒い衣服の下から右手に何かを構えた。
神楽坂明日菜の目だけがソレを捉える。
拳銃型の注射器。手動ではなく、引き金にあたる位置を引けば、一気に内部の液体を体内へと注入するタイプの注射器が握られていた。

 神楽坂明日菜の本能が訴えている。
長い間、短い間かもしれない。だが彼女は戦いの中で経験をつんだ。それ故気付けるのだ。
見た瞬間に、良いものとそうでないものの差が。
神楽坂明日菜はその場に座り込みたくなる衝動に抗う。
機能得限止が構えたソレ。拳銃型注射器。その内に光る、銀色の液体。
それは良くないものだ。それは、人間の尊厳に反するものだ。
人間と呼ばれるものの潜在的な何かが必死を訴える。
それは良くない。それは決して、良いものではないと。
 機能得限止は躊躇いもなしにその注射器を首へと押し付ける。
後は引き金を引けば、その液体が体内へ一気に注ぎ込まれるだろう。

「ダメ…」

 神楽坂明日菜の内が全力で否定を訴える。それはダメだと。そんな事はしてはいけないと。
全力で。駆け出して、否、腕を引きちぎってでも、それを止めさせなければいけないと言う衝動。
だが、エヴァンジェリンを捨てていく事は出来ないと言う理性。それがせめぎあう暇も無く、機能得限止は引き金を引いた。

 ごぷんと言う音は、神楽坂明日菜の耳に不快だった。
顔が青くなる。あれほど嫌な予感をさせていたものを、何故もああまでに簡単に打ち込むことが出来たと言うのだろう。
その答えが導き出されるよりも先に、機能得限止は振り返った。振り返ったと同時に、何かが宙を舞い。
神楽坂明日菜の顔面に直撃するより先に、彼女はそれをエヴァンジェリンを支えているのとは逆の腕で引っつかむ。
 それは、紛れも無く。今さっき。目の前の男が自らに叩き込んだ、かの注射器と同じもの。中に入っている液体は黄金だが、紛れも無く同じもの。

「き、キノウエ先生!?」
「神楽坂。それを己の遺言としてやろう。
お前には目をつけていたからな。お前だけには教えておいてもいいだろう。そこの小娘は呆けているわけだしな。
 神楽坂。己には夢や目的があった。何だと思う。
生きることだ。この世で生き続けることだ。
己は認める死は唯一つ。
突発的な交通事故などでいい。
後悔など何一つ残す暇も無い即死が良い。
自分は死にたくないのではない。
何時かは死ぬだろう。死ぬのであればそれでいい、ただ、その死が向かい来るその日までは生きていこうと誓ったのだ。
生きていく、それが自分の願望だ。
他には何もいらない。ただ生きていくだけのものでいい。
ならば人間である必要など無い。
そうだ。何時か話した筈だ。生きていくと言う行為をなすならば、他には何もいらない。自分も同じだ。他には何もいらなかった。

 だからこそ憧れたのだ。
生まれ間もなく見た映像。生きていくという生存行為そのものへの敬意。
自分もそうでありたかった。ただ生きて、生きていくことに全力を尽くせるものであれば良かった。
自分はそうありたかったのだ。そうでありたかったのならばどうするべきなのか。
答えはただ一つだった。そうして得たものが今打ち込んだものとソレだ。
 解るだろう神楽坂。
自分は人間などで生まれてくるべきではなかった。
己は生まれながらにして虫ならば良かった。
食われるだけの草や、草食動物でよかった。
食うだけの土や、肉食動物でよかった。そうでありたかったのだ。

 そうして己は残すだろう。己は己を残す。己と言う存在を、生在る限り活かし続ける。それが己の残すものだ。
己そのもの。己と言う存在そのものを残す。
それで充分だ。他の誰かの為でもなければ、己自身の為でもない。
ただこの世に行き続けようと言う意思そのもの。
生きたいと願うのは、どの生命体でも至極当然だ。望まない者など居ない。誰もが、生きる為に生きているのだから。
生きたくないと言うのなら死ぬべきと言うことではない。
生きたいと願わないものはありえないのだ。
第零世代は生きたいと願い続ける。だが人間だけが、その生きたいと思う願望に逆らう。

 ならばこの誕生事態が間違えだったのだ。
人は人として生まれるべきではなかった。
人は生き物だ。蟲と同じ、獣と同じ、細胞とも同じ、ただのくだらない、誕まれて、生きて、死ぬだけの一生と言う名の線路の上をただ進むだけの列車だ。

いつか話、ソレを見たときに出した結論がそうだった。自分も含めてそうだった。なら自分は獣でありたい。
化け物でなくて良い。
人でなくても良い。
己の目的を以前に語ったな、そう言うことだ。生きていくなら人でなくてもかまわないのだ
己は残す。お前たちのように技術を、経験を、失態を、侮蔑を、破壊を、潤沢を残すような真似はもはや己には不要だ。
己は残す。己自身を果ての果てまで残してやる。生きるとは残る事だ。この世に、かく在り続ける事だ。
これを以って己は己を打倒する。脆弱な人の殻を破り、獣と言う名の一個体へと昇華する。
妙見の娘。お前もそうだ。お前のうちには妙見の菩薩がいる。怒りと悲しみ。それから生じる力。
だがソレではだめだ。妙見と言う鬼ではだめだ。
獣為れ。

汝、獣在りきや。神楽坂明日菜」

それで終わりだったのか。機能得限止の身体が大きく跳ねる。
絡繰茶々丸だったものがそうであったかのように。機能得限止また、白い煙に閉ざされていく。
神楽坂明日菜の身体は震えた。恐怖ではない。これ以上此処には入れないと言う確信。これ以上此処に居れば、確実に、死ぬと。

「あ、ああ、あああああ」

 目の前の現実から、神楽坂明日菜は目を逸らしたくなった。
あまりに凄惨な光景。白い煙に包まれた機能得限止の居る辺りから、肉の割ける音。骨の砕ける音。筋が引き千切れていく音がひっきりなしに耳に届いているからだ。
だが駆け出せない。エヴァンジェリンを連れて、逃げ出す事が出来ない。
背中を見せれば死ぬと言う。逃げれば死ぬと、世界の全てが言っている。
慈悲無く。容赦なく。遠慮なく。躊躇無く。感慨無く。憐憫無く。思考無く。後悔無く。意味無く。
何かが、神楽坂明日菜とエヴァンジェリンを引き裂くと。世界がそう言っているのだ。

エヴァンジェリンの白い肌と、神楽坂明日菜の肌色の肌が朱に染まる。
白い煙から噴出す紅い噴水。それが彼女たちの身体を真紅へ染め上げていくのだ。
周辺に満ち満ちているのは錆の香。
血の匂いであり、血の赤を意味する匂い。鉄の匂いが鼻腔をつく。
神楽坂明日菜らの身体からもその匂いが立ち上る。噎せ返りたくなるほどの赤の匂い。世界樹広場が、それに満ちていく。

絡繰茶々丸だったものがそれを見ている、見続けている。
感慨無く。思考無く。憐憫無く。意味無く見続けている。
その瞳には、何も宿っていない。
光のない瞳。以前の絡繰茶々丸同様の光の無い、だが意思のあったであろう瞳ではなく。
もはや、意思さえも窺えない。無機質な。そう、差し詰めるなら、磨き上げられた金属板のような光しかたたえない、有機の無い目玉。

耳を塞ぎたくなるほど凄惨な音が晴れる。
ソレと同時に、エヴァンジェリンと神楽坂明日菜の足元が大きく揺れた。
地震とは違う。かなりの大質量のモノが地面に叩きつけられたかのような衝撃。それが、世界樹広場を大きく揺らしたのだ。
白い煙が晴れていく。神楽坂明日菜は無気力なエヴァンジェリンを両手で抱き上げ。
しかし、その片手にはしっかりと理解できずに引き千切られた、だが引き千切られたにしては、エヴァンジェリンの肩口から、まるで断頭台を叩き落されたかのように綺麗に切り落とされたであろう程滑らかな傷口の右手を持つ。

そうして身を奮わせる。背筋に冷たい汗が流れる。
それは恐怖ではない。緊張であった。
目前のソレと、バルコニー上に浮かぶソレへの畏怖。
生物としての潜在的な違い。第零世代が訴える、反抗不可能な、純粋な生命体と、森羅万象が讃える存在への緊張。
白い煙から、白と黒の脚が現れる。
地面が揺れたのは、その脚が地面へと叩きつけられたからであろう。
だが、その脚はヒトのものではない。ヒトのものである筈が無い。
その白と黒二色の脚は大きく、白い毛と黒い毛で覆われたものだ。
虎や、獅子。あるいは、狼や豹のソレに近い柄であり、そのどれにも該当しないほど大きく、しかし、限りなくソレに近い脚。

白い煙の内。低い唸り声が聞こえる。
だが音としては認識できない。神楽坂明日菜にはそうだった。
それは人間の耳では解読できないモノだった。
形容できない声。形容できない音。音ともいえない、何か。
晴れた煙の中から現れたモノ。
機能得限止だったもの。
白と黒の、剣牙虎にも似た生物。

だが違う。その背には銀色の鬣が走り、尾まで伸びている。
尾は長く、体長と比べれば、同じと言えるほどに匹敵する。
何より巨大。三メートルには至るであろう。四足の虎であり。獅子であり。豹であり。狼。
しかも、豹のような滑らかな。無駄の無い肢体でありながら、熊のような、どっしりとした筋肉の外見。
それは。いつか、機能得限止が幼少の頃に見たであろう、あの映像。
草食動物を狩る肉食動物の映像。
もはや追いかけられていた草食動物が思い出せなかったように、思い出せなかった肉食動物と同じ、形容出来ない動物の体。

いつか、機能得限止語っただろう。
全ての生物。特に今現在、生態系の頂点に居るなどと幻想している人間の遺伝子上に眠る、過去の命の遺伝子。
そうであったかもしれない道へ至る扉。しかし、終ぞ開かれる事は無く、人間へと至る道の扉が開かれていき、人間足りえた人間。
目の前のソレは、まるでそれを無理矢理こじ開けたかのようであった。
人間へ至った道を無理矢理遡り。別の、あまりに強く心に残り、あまりに大きく遺伝子へ作用させてしまった姿の記憶。
それを体現するかのように開かれた、別の生物へ至った時開く筈であった扉が開かれたのだ。
機能得限止はそれをやった。それをなして、機能得限止はこの姿へ。機能得限止だったものへ、至ったのだ。

神楽坂明日菜は震える事さえ出来なかった。
震えれば気付かれると悟ったのだ。動けは気付かれる。
居ると、認知させてはいけない。居ないものだとしなければいけない。神楽坂明日菜は、必死になってそれを訴え続けた。
現れた機能得限止だったもの。
その頭部は異様だった。
虎に近い。だが虎ではない。剣牙虎。かつて、地上で最強を誇った究極の肉食動物。サーベルタイガー。
人為の手により滅ぼされた、生きていれば、今でも人間を脅かしたであろう、地上最大の肉食動物に似た頭部。
だが、その目は狼のようであり。牙の鋭さは獅子の様であり。その内の二本。上顎から下へ伸びた二本は、まさにサーベルタイガーのソレだ。

だが、特筆すべきは恐らくソレではない。
顔の両側。目と顎の境。其処に取り付けられたかのような、しかし、確かに皮膚を破って出現している銀色の装甲。
まるで鋼性種のソレのような。角じみたソレだけが、そのほかの肉食動物には無いものとして突き出していた。
一歩進む。ソレが、そうするだけで地面が揺れる。
どれ程強大な筋肉の固まりだというのか。眼前のソレの壮大さを神楽坂明日菜は思い知る。
機能得限止だったものは神楽坂明日菜にもエヴァンジェリンも眼中に無く、進む。
目指すのはバルコニー上に飛ぶ、絡繰茶々丸だったもの。

それに向けられる眼差しは何であろう。
感情は無い。理性は無い。本能であるとすれば何か。人間にソレは計れない。
人間は自分が考え付く範囲でしか考えを持つことが出来ない。つまり、人間は自分の事しか理解できず、他人、ましてや獣の感情―――ありもしないかもしれない感情など理解出来るわけが無い。
理解出来ないもの同士の対峙の中、神楽坂明日菜は初めて一歩退く。
退いて、エヴァンジェリンの身体を小さく抱え、神楽坂明日菜は走り出した。
泣いていたのかどうかも自覚できない。ただ、眼前の狂っていくかのような現実から逃げるしかなかったのだ。
ソレと同時に、機能得限止最後の言葉。汝、獣在りきや。何を意味するのだろうか。それを考え、神楽坂明日菜は頭を振る。
いやだと。あんなものにはなりたくないと。
機能得限止の真意が何でアレ。機能得限止は神楽坂明日菜にそう言った。
獣あれ。あんなものになれと。機能得限止はそういったのだった。

神楽坂明日菜はわき目も振らずに走り続けた。
背後を振り返ればとてつもない事を見る前に死ぬ。そう確信した。
死んだことも気付かない。そう確信した。
死ぬより酷い目に合う。確信しきっていた、泣きながら、神楽坂明日菜は確信し続けた。


 遠い遠吠えを聞く。獣の吼える声と、機械の動く音が高らかに鳴ると言うのに。
 麻帆良は酷く静か。まるで、暗くて深い、棺に閉ざされたかのようだった―――


 どこまで走ったのだろう。
少なくとも、あの二つから離れるほどは遠く走ったと神楽坂明日菜は確認する。
初めて振り返る。気付くと、エヴァンジェリンの家がある林の奥まで来ていた。
世界樹からここまでは結構な距離があるというのに、それにも気付かず走り続けた自分の足に疑いを向ける神楽坂明日菜であった、酷く疲れた所為か。直ぐに其処に腰を下ろしてしまった。

 世界樹の方を見て、神楽坂明日菜は再び身体を震えさせた。
翠の発光が断続で続く。
轟音は無い。だが理解する。あの木の下で、理解できないもの同士が戦っている。
戦い。それは違う。
生存競争であろう。生き残るべくして生き残ろうとする者の意思。生きる事。死ぬ事を思考するのではない。
生きているのが当たり前であり、生きているのであればどこまでも生にしがみ付こうとする意思。
それしかないのだ。それしかないから、あそこまで壮絶にもなれる。

人間が思考できる範囲を超えていた。
恐らく。あの木の根元ではそんなものが繰り広げられているだろう。人知の及ばない世界。人知では、想像すら至れない究極の現実。
 紅く染まった手を神楽坂明日菜は見つめた。
自分は、と問う。
何の為に生きているのかと思考して、恥じる。
それさえ無意味。そんな考えなど、アレを見てしまったものには無意味だった。
生きる意味を問う。なんと無意味な事か。
過去を問う。何処までも無意味。

アレの前では、人間の考えなど全てが陳腐。
人間全てを非とする否定。人間の全てが無意味だと。人間が無意味だと。
アレは。機能得限止と絡繰茶々丸は自身の存在そのものの放棄を、否定を以ってソレを立証した。
見たものにしか解らない領域の問題。目の前で繰り広げられたからこその判断だった。
 だがそれも無意味だろう。
無意味無意味。全てが無意味。
考える事など止めたくなるほどの無意味さに打ちのめされる。
無気力な生。正義の為の生。誰かの為の生。自分の為の生。それを真っ向から否定する。
戦いも。命がけの戦いも。
争いも。技と技がぶつかり合う争いも。
全てが非。そう切り捨て切られる。

生きる為だけの、生きるという事だけに全力な。
生きると言う行為の為に全てを、命を、全力を賭す生。
生きる為の戦い。
それ以上は無く、以下も無い。ただ生きようとする意志のみ。
技は無く。言葉も無く。ただ生きる為に。その生を掴む為の戦い。

それより崇高なものは無い。
人間の定義など無意味になった。人間がどれだけ立証しようが、世界がソレを認めなくなった。
それがどうした。人間の、それがどうしたというのだ。
第二世代に近いものの生誕。それが、全ての第一世代を無意味と切り捨てる。
第零世代の讃えが、第一世代の全てを否定し、第二世代を肯定する。人間として生まれる意味も。人間が幻想できるものの誕生も。
人間性を持つもの全ての意味合いを。人間の考えで及ぶ『程度の』事柄を、そうであったことも。
記憶も。人格も。精神も。尊厳も。価値も。知能も。形も。
勿論、そうであった想い出も、全てをかなぐり捨てて、あれらはソレを立証する。
無意味だと。だからどうしたと。それがどうしたのだと。そうだからソレが何か意味のあることなのかと。
最早誰にも理解出来ないものとなって、それを立証したのだ。神楽坂明日菜には、そう思えた。そうとしか、思えなかった。

息が荒い。
泣いていた。嗚咽が漏れるほど、神楽坂明日菜は泣いていた。
顔を歪める程の号泣。中学生になっても、ここまで泣いた事は無かったのではないかと思うほど泣いていた。
何故泣いていたのか。
悲しみではない。怒りではない。同情でもない。
今まで味わった事の無い感情。

悔しさでもない。ただ泣いていた。
なぜか。それは、無意味と立証されてしまったからであった。
人間の全てを無価値と切り捨てたものの誕生。
生きとし生けるもの全ての代表。この世界を支配しているのは人間ではなく、そのほか全ての生物。それの頂点に立つものは、人間のソレを越えた存在だった。

だから泣いているのであった。
無意味だと。お前の存在は無価値だと。お前など、だからどうした程度で終わる程度の存在だと。
人間とは、それだと。そう断言されたような気がしていた。
だから泣いていたのだ。
それがどうしたと。無慈悲に言い渡された宣告。
胸を抉るのではなく、魂を抉る言葉。第零世代がそうすると言うのか。
神楽坂明日菜は胃がねじ切れる寸前の痛みと鈍さを感じ、エヴァンジェリンをその場に静かに横たわらせ、遠めで吐いた。
胃の中のものを全て。胃がねじ切れる寸前の痛みから来る吐き気に負け、全てを吐き戻す。泣きながら吐き戻していた。

振り返って、神楽坂明日菜は目覚めたエヴァンジェリンを見た。
無気力な眼差しで、エヴァンジェリンは傍らに置かれていた自分の腕を取り、肩口から取り付ける。
それだけで、彼女の怪我は癒えた。吸血鬼としての特性。それを活用した治癒であった。
フラフラと立ち上がり、エヴァンジェリンは吐き戻し、唾液と胃液まみれの口元の神楽坂明日菜に近寄ると、その胸に顔をうずめた。
母に甘える子供のように。何の力も無い、一人では何も出来ない事を悟った子供のように。

「―――エヴァちゃん……」
「茶々丸が、撃ったんだ。私を。躊躇無く撃った。私の腕を弾き飛ばしたんだ。簡単に。茶々丸が、やった。茶々丸が。茶々、丸が。茶々丸…茶々丸…茶々丸……うっ…うぅ…うぐぅう…うぁ…うあぁああ…うわぁあああああん……」
「…う…うぐっ…ふぐぅっ…うっうぇ…うぇええ…うぇえええええええん……」

 エヴァンジェリンの嘆きにつられ、神楽坂明日菜また、泣いた。
エヴァンジェリンは子供のように。神楽坂明日菜も子供のように。
エヴァンジェリンは母の胸に全てを許すように。神楽坂明日菜は、星を見るように天を仰ぎ。

何が狂ったのだろう。何が、あの二人を狂わせたのだろう。
だがそれは間違えであった。狂ったのではない。正しいのだ。
何よりも正しいが故、狂ったように見えるだけだ。
森羅万象から見れば、それが正しいのだ。
何も狂っていることなど無い。生きるべくして生きていく。
欲望も。願いも。希望も、絆も。夢も。何もかもなく。
だがしかし、ただ生きていく。それだけで良いのだ。
他には何もいらない。要るのは人間だけではない。人間にもそんなものはいらない。
それを―――機能得限止は、人間としての自分を以って。立証した。
悲しみなどない。
悲しんでいるのは人間の都合だ。

この世の全て。森羅万象は感情など無い。それが、是なのだから。

CHAPTER03〜否定〜……END

第三十話 / CHAPTER:04 第三十二話〜傷痕〜


【書架へ戻る】