第五十五話〜生再〜


 生きて再び、また会おう

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 僕は落下していた。全身は焦げに焦げつくされ、衝撃と言う衝撃が、波紋となって自分の体を咀嚼していって、痛覚の殆どに作用しているのが手に取るよう解る。
 ソレらの点からも解るとおり、僕の体は、完璧に近い形で破壊されつくされていた。
 先の一撃。燃え盛る太陽を叩きつけられると言う、豪の魔法。
 その一撃は、幾ら対魔法障壁の上から喰らったとは言え、相手は鋼化している上に、全魔法使いの中でも最大級の破壊力を備えていると言う火属性魔法使いの一撃。
 障壁など無いにも等しく、僕の体を全て包み込んだ。

 だけど、僕は何処かで信じていたのかもしれない。大火球を構えてそれを振り下ろしたあの子を、僕は、何処かで信じていたんだと思う。
 その気になれば一瞬で焼き殺されるだけの炎を呼び出し、僕を焼き尽くす事が出来ただろうと思うのに、けど、アーニャはそれをしなかった。
 どうしてだなんて、解らない。でも、彼女は何処かで手を抜いていたような気がするんだ。
 何処かで彼女は、魔力を調整して、僕が回避できるレベル、対応できる範囲の魔法しか使ってこなかった。そんな気が、するんだ。

 勿論、アーニャにはアーニャとしての何かしらの意図があったのかもしれない。
 事実として父さんの杖は奪われて、僕はこうして眼下へ向けて落ち続けている。
 アーニャは僕の杖が狙いといっていたから、僕諸共、杖を焼き払ってしまわないように火力を調整していたって言われてしまったらそれまでだけど、でも、僕は何処かで信じていたんだと思う。
 一撃で焼き殺さなかったのも。完膚なきまでに焼き払わなかったのも。
 それは、仮令僕の都合の良い捉え方だと思われても、アーニャは、僕を殺す気は無くて、鋼化してしまっていたとしても、やっぱり彼女は、僕の知っているアーニャって言う子のままだったんだって。

 だから安心したのかもしれない。
 だから、重力に任せるままに落ちていっているのかもしれない。
 全部、全部諦めてしまえば楽になるなんて言うのは、知ってる。知ってるけど、それは、まだ認めたくない。
 諦めが悪いのが僕の美徳だって、何時か小太郎君が言ってくれた。
 僕もそう思う。まだ十歳、ううん、九歳の頃から五年が経って、十四歳になって、初めて世界の大きさに気がつけてきたんだ。
 あの頃見えなかった高さから世界を見て、鋼性種が悠々と空と大地と海を行く様を見続けてきて、やっと、解った気がするんだ。
 明日菜さんや木乃香さん。桜咲さんやエヴァンジェリンさん。のどかさんや、夕映さん。
 僕よりも何歳も年上の人たちや、一歳だけ年上の彼女の見ていた世界の大きさに、やっと気付けたんだ。

 自分の小ささと、無力さを思い知った。
 麻帆良から中途半端なままで離れて、自分を慰めるかのように、マギステルとして世界を回りだして、そしてやっと見えてきた世界の大きさ。やっと気付けた、この世界で生きていく意味。
 拳を握る。まだ、諦められない。皆さんは五年間で、僕以上の辛さを味わって、現実を見据えて生きてきていた。
 なら、僕が出来る事は一つしかない筈。皆さんは皆さんの答えと道を模索し続けている。
 僕は、もう先生ではないけれど。もう、僕は、皆さんを導いて上げられる様な上等な人じゃないかもしれないけど。

 出来る事は少ないかもしれない。
 明日菜さんの事。刹那さんと木乃香さんの事。のどかさんや、夕映さんの事。そして、アーニャの事。
 全部を成し遂げるなんて言うのは、あまりに傲慢すぎるかもしれない。
 でも頑張りたい。負けたくないと思うのは、今も同じ。僅かな勇気が力になると言った。
 それは、今も違えていない。ずっと、ずっと思い続けようとして、遂に今日まで思えなかった。
 アーニャが何をしようとしているのかは解らない。でも、アーニャに死んでしまった人を生き返らせるなんて事をさせてはいけないと思う。
 傲慢かもしれない。間違えかもしれない。彼女のやろうとしている事は、悪いなんて、絶対に言う事が出来ない。

 でも、誰かを生き返らせる。それの結果として得られる物も、払わなくちゃいけないものも大きすぎるには代わりない。
 アーニャには大事な人が居たんだ。そして、その大事な人も、アーニャをとても大事にしていたんだと、そう信じている。
 だから、アーニャはその人を生き返らせようとしているんだ。解ってる。
 アーニャの悲しみと辛さが、戦っている最中でも伝わってきた。アーニャが大好きだった、誰か。
 アーニャを大好きでいてくれた、誰か。その想いが、ちゃんと伝わってきた。

 でもアーニャ。生き返らせるって言う行為に払う代償はとても大きい。
 潰えてしまった命は一つきりで、それをもう一回呼び起こすなんて真似をしてしまったらどんな事が起きるのか。どんな代償を払わなくちゃいけないのか。
 それを、アーニャは知って、行おうとしている。アーニャは、僕なんかよりももっともっと頭が良くて、先の事を考える女の子だった。だから、解っていると確信している。
 だって、誰かを生き返らせるような真似の果てには、とてつもない代償を払わなくちゃいけないと教えてくれたのは、他でもない、アーニャと言う女の子なのだから。

 新しい世界も望めない。潰えてしまった命を呼び返す事なんて出来ない。
 もし、出来たとしてもその果てに用意されているものは。払わなくちゃいけないものは。ソレを行った人に、降りかかるのだからと。
 だから、そんな真似をしてはいけないと繰り返し続けていた彼女に、ソレをさせてはいけない。
 アーニャ自身が訴えてきたあの意味を、嘗ては理解できていなかったとしても。
 僕は、バカで、彼女の言うとおり鈍間なドジのままで此処に来て、沢山の人たちの心を理解してあげる事も出来なかったとしても。

 それを、させてはいけないんだ。それを、やってはいけないんだ、アーニャ。
 僕は、嘗ての僕じゃないから。バカで、世界の大きさも、現実の厳しさも、何も解っていなかったけれど。
 でもアーニャ。それを、させてはいけないって、僕の中の何かが訴えている。
 僕に出来る唯一。アーニャが求める何かが、本当にアーニャにとって正しいのか間違えているのかは僕にはまだ全然解らない。
 でもアーニャ。僕はバカで、君の言うとおりに鈍間でドジだから僕は真っ直ぐに君の言ったとおりにするしか出来ない。

 アーニャにそれをさせてはいけない。アーニャ、それを、やっちゃいけない。
 嘗てアーニャ自身がそう言った。当時の僕には、それがどんな意味なのか解らなかった。
 でも、今になってやっと気付けた。たった一つの命の価値を。何時か、機能得さんにも言われた、責任の大きさを。
 アーニャがソレをやろうというのなら、五年前、僕の失態を何一つ書かずに僕にマギステルの認定書を渡してくれたお礼じゃないけれど、僕は、アーニャにお返しをしなくちゃいけない。
 そのお返しは、今のアーニャにとっては害でしかないかもしれないけれど、何時か君が言ったその言葉を、君に、返してあげたい。
 それが僕に出来ること。それが、僕が君にして上げられる、小さくて弱くて、バカでどうしようもない事だけど。
 真っ直ぐにしか出来ない、不器用な僕の出来る事―――

 目を開く。もう、学園の大きな大きな湖の真ん中に浮んでいる島が。
 あの図書館島と呼ばれていた場所が見えてきている。
 落下の速度は物凄くて、このままじゃ、アーニャにもう一度会う前に、何をを成しえる前に、死んじゃう。
 それを受け入れるわけには行かないから、体を空中で何とか捻る。
 痛い。ブスブスにこげた体や、全身に浸透していた衝撃は、相変わらず僕の体を蝕んでいる。
 でも、その傷が僕の体調を悪化させるのは無視する。今は、生き残る事を。生きて、先を進む事を選ばなくちゃ―――

 腕に魔力を最大限込める。向けるのは落下先。
 このまま落ちていけば、あの湖に叩きつけられる。それを、今の杖無しの僕が出来る最大限の方法で、なんとかする。なんとかしなくちゃ、いけないから。
 落下速度に従うままに落ちていく。このまま落ちれば、確実に死ねる高さからの落下。それに対向するには―――これしかないから。
 ぎりぎり。丁度、かの図書館島に建っている図書館本館と同じ高さになったと同時に、落下方向へ対し、風の魔力を解き放つ。
 同時に巻き起こる強風が、僕の落下速度を押さえ込み、けれど、同時に僕の体も錐揉み状にしていく。
 全身に伝わってくる痛み。何とかそれに耐え、落下速度を完全に相殺するまで強風を起こし続ける。
 湖まであと五メートル半。その位置で、何とか落下速度はゼロとなり、僕の身体が舞い上がっていく。後先考えずに開放した風の魔力。それが、僕の体を巻き上げていく。

 どちらにしても上手くない。舞い上がったことで、結局は落下によるダメージが発生してしまう事は絶対だ。
 それを防ぐ為にはと、風に舞い上げられている状態で片腕を伸ばし―――其処へ、しがみつく事が出来た。
 からりと、欠片の幾つかが僕の手の端から落ちていく。相当思いっきり其処を掴んでしまったから、ちょっと破損が起きてしまってもしょうがないかもしれない。
 命が助かった事の方が僥倖みたいなものだから、一先ず一息ついて、そして掴まっている場所を見上げてみた。
 空は、相変わらず真紅。僕とアーニャが打ち合った火球と魔力塊が未だに残留しているみたいになっている。

 そして、掴んでいる場所は窓際だった。
 五年間全然見ていなかった、あの大きな大きな図書館島。
 いや、ひょっとしたら、五年前以上に大きくなっているかもしれない、その巨大図書館の最上階付近の窓に、僕はしがみ付いている様だった。
 杖がなくても、ある程度の魔力調整ぐらい出来る。何とか筋力を強化して、右手だけで体の全体重を支えている。
 魔法使いは筋肉をつけなくても大丈夫だったのが幸いしたかもしれない。
 もし、もうちょっと筋肉が付いていたら、幾ら魔力で強化しても、この負傷で体を支える事なんて、出来やしないから。
 風が一陣吹くと、身体が大きく揺れてしまう。しがみ付いているから仕方ないのだけれど、それにしたって、この状況はうまくない。
 先にも言ったとおりに、アーニャの撃が僕に与えた負傷は甚大。それを放置したまま、ここにぶら下がり続けるなんて言う真似は、上手くない。

 右手に力を込めて、体を持ち上げていく。
 左腕は、どうしてだけれど、まったく動かない。
 上げようとしても、肩との並行が限界で、それ以上、上に持っていく事が出来ないんだ。
 きっと、筋肉が余りの高温で萎縮してしまっているんだと判断する。
 そうとしか、考えられない。まったく、アーニャ酷いな。こんなになるまで焼き払うなんてさ。
 右の手で体を持ち上げて、何とか窓際の出っ張りに体を乗っける事が出来た。
 魔力で強化した片腕で自分の体を持ち上げるだけの動作だって言うのに、とんでもなく疲労感が蓄積している。まるで、数十キロを全力で、しかも、魔力供給なしで奔ったみたいだ。

 酸素が取り込まれていない。アーニャとの戦闘中で、肺も端の端まで焼け爛れちゃったのかな。
 空気を吸い込んでも、あんまり全身に運ばれていないような気がする。
 何とか上半身を出っ張りにひかっけるような形にして、窓から、図書館島の中を窺ってみて―――強い光が、僕の顔に当てられた。
 目を丸くしている。強い光だと思っていたけれど、本当はそれほどじゃない。
 ランプの明かり程度だったのが、ずっと気絶で、目を閉じ続けていたから、強い光に見えてしまっただけ。
 本当は、持っている人の足元を照らすぐらいの光が、僕に当てられただけの話。
 呼吸も忘れて、僕はその光を持っている人を見ていた。
 大きく変わってしまっているけれど、彼女から感じる魔力の波長は、あの学園祭の時に見せてくれた簡易魔法の際に感じた魔力波長のソレ。魔法も何も使っていない筈のなのに、それでも伝わってくるなんて。

 眼鏡をかけた背の大きな女性。
 僅かな明かりはランプの光じゃなくて、その人が指先で操っていた蛍火の様な小さな光の集合体だった。
 彼女自身は、数冊の本を胸元に抱えたままで、右手の人差し指で、その蛍火を操っている。
 彼女も、僕の顔を見て呆気に取られているかのような表情を、一瞬だけ浮かべていた。
 今は違う。驚き、驚愕したかのような表情は、もうそこにない。あるのは、とても冷淡な顔立ちだけ。
 五年前。初めて彼女と話したときの、あの無表情さ以上の無感情性を感じる顔。
 そう。それは、何時か先生として、3-Aの事は僕に任せてくださいと、副担任だったあの先生に言った際の、あの時の男の人の表情のそれに、何処か、似てた。

 感情の篭らない顔立ちの、眼鏡の人。
 への字になっている口元や、ちょっと眠そうな顔立ちはあの頃のまま。
 蛍火に照らし上げられている髪の色も、あの頃のままだった。
 ただ、服装は正しく魔法使い。黒のローブのような、喪服の様な出で立ちに肘から指先まで包むようなシルクのグローブ。
 その服装は、正に、魔法使いと呼ぶに相応しいと言えた―――

 彼女はゆっくりと踵を返す。僕の負傷も、僕の状態もあの明かりならば確認できた筈。
 事実、僕の体を確認するかのように彼女は暫く僕を見つめていた。だから、僕の体の状態がどんな物であるのかは、重々にわかっている筈。
 でも、彼女は、そのまま踵を返し。蛍火も全て消し去り。真っ暗の図書館の中に、溶けていった。
 ……解ってる。解っているつもりだから。彼女は、のどかさんととても仲が良かった。
 その仲の良さは、僕がのどかさんに告白されて、どうしようか迷っていた時、彼女は僕を諭すように論じてくれた事からも知っている。彼女は、のどかさんの本当の友人だったんだ。
 僕は、そんなのどかさんの純情を弄んだにも等しい。
 答えも出せず、告白に応じる事も出来ず、一人、押し寄せてくる現実の壁から逃れたい一心で、そして、居なくなってしまった多くの人たちを顧みる事も出来ず、逃げ出してしまったんだ。

 慰めの様に世界をマギステルになって廻って、そして気付けた世界の大きさと、五年前の皆さんの思い。
 やっと気付けた、自分の中の想い。そして、僕自身が、それを一番蔑ろにしていたと言う事実にも、やっと、気付けたんだ。
 僕は赦されない。赦されてはいけない。そんな事が、あっていい筈がない。
 のどかさんの想いを裏切ってしまった僕が、此処に帰ってきていい筋合いは一ミリもない。僕は卑怯者で、愚か者なんだから。

 父さんを僕だけのヒーローと勘違いして、何度も何度も多くの人に心配をかけさせてしまった事。
 その父さんを追いかけ続けるだけに没頭して、アーニャが教えてくれるまでマギステルの何たるかも考えず、のどかさん達の方を振り返ってあげる事も、出来なかった。違う、僕は、振り返ろうともしなかったんだ。
 一番に想ってくれる人たちが沢山いたというのに、僕はソレを見ようともしなかった。
 それに気付けたのは、アーニャの、あの時の視線。
 選べるのは一つだけ。多く在る道からでも、えらべっす埋めるのは建った一本だけの道と言う事。それで、やっと気付けたって言うのに。

 鋼性種。居なくなってしまった明日菜さん。傷ついた麻帆良。
 先生だって言うのに、何も出来なかった僕。全てを知って、壊れそうなぐらいに苦悩して、時間は迫って。
 そして選んでしまったのは、都合の良い逃げ道に逃げ込むというだけの事。
 そんな、アーニャが健在だと言うのなら、ぶん殴られても文句の言えないような道に逃げ込んだ僕が、赦されて良いワケがない。

 身体が出っ張りからずれ落ちた。指先にかかっている重みがずんと増して、もう、掴まっていられなくなりそうだった。
 でも、これが僕には上等なのかもしれない。落ちても、ダメージがちょっと加算されるだけ。
 タカミチやアルビレオさんを呼べば、何とかなる。死なないなら、諦める事も無い。ないけれど―――
 右手の指だけで窓際に引っかかるようにぶら下がっている状態。その状態で、真下を見た。
 暗い、とても暗い、井戸の底へ直結しているかのような暗さだった。落ちても、地面にたたきつけられる程度かな。だったら、何とかなるかも。痛いけど、死なないのなら。

 でも、その暗闇に向かって一滴、水滴が落ちた。隠す事はない。泣き虫な僕の、一滴の泪だった。
 後悔が多すぎて、何をどうしたいのかが解らなかった。
 子供だった僕が選んでしまった道。
 先生になって背負わなければいけなかった筈の、皆さんの重み。それを軽く見積もり、僕は、僕の道だけを求めてしまった。
 マギステルと言う役割の意味。それを考えなければいけなかったのに、僕は自分の事しか頭を働かせようとはしなかった。
 何時だって僕は選択の仕方を曖昧にして、周りの皆さんをどうでも良いものとしてしか扱ってこなかった。だから、何時だって僕は、選択の中では二つともとかを選んでいたんだ。

 結果がどうなろうとも、自分しか見ていなかった僕にとって、結局、それはどうでもいいんだって考えていたんだ。
 その安易さ。その安請け合いのやり方が、今のこの状況を生んだ。
 後悔が多すぎる。謝っても謝りきれない事が、余りにも多すぎる。
 諦めきれないという思いは今も同じだけれど、それだって、僕の事だ。僕に与えられた責任。彼女達の先生となった、その意味。
 機能得先生だって言っていた。全ては僕の責任になるのだと。
 彼女達の成すこと、成された事、その全てが担任たる人間の責任となるのだと。それを、受け入れていなかった僕の責任なんだ。

 逃げ出した僕に、彼女達の担任である資格なんてない。
 結局僕は自分のことしか考えられなかった人間だから、こうして帰ってきても、皆さんと元通りになれればとか、そんな安易な考えしかしてこなかった。
 楽観的にも程がある。どうにかなるなんて言って本当にどうにかなるなんて言う時代は、五年前に終わっているんだ。
 鋼性種と言う現実の壁が現れた時点で、そんな楽観的思考は、終了したにも等しいんだ。
 ぽろぽろと零れていく涙滴。赦されない事を繰り返し続けてしまった事への後悔。
 あまりにもバカすぎた頃の自分への憤り。そして、一人ぼっちになってしまった事への、悲しみ。
 いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、とめどなく泪だけが溢れてくる。

 そうだ。これは僕への罰だ。
 アーニャも、明日菜さんも、夕映さんも行ってしまった事。
 それは、僕への罰。僕が繰り返し続けてしまった愚かしい行為の数々への代価。そんなに一人で何でもやりたいのならと言う事の具現が、コレ。
 一人。常に一人ぼっち。鋼性種の何かが働いているとかは考えない。
 この結果は、僕が出してしまった結果。この結末は、僕自身の手で下してしまったようなものだ。
 一人であれ。一人きりであれと言う事。その具現が、コレなんだ。
 指先から力が抜けていく。落ちれば、重傷は止む得ない。
 でも、それも罰のカタチ。散々傷つけてしまった多くの人たちの想いの篭った一撃として受け入れよう。そうでなくちゃ、僕は、僕自身で自分を赦せそうにない。

 残り続ける後悔。何故、あの時、自分に逃げ出すような真似を選んでしまったのかと言う事。
 僕は先生で、彼女たちを導いてあげなくちゃいけない筈だったのに。僕は、僕の道だけしか導いてこなかった。それを、ただただ後悔する。
 先生と言う役割にありながら、見つめていたのは父さんだけ。その愚かしさに後悔する。
 僕が、彼女たちを導いてあげなくちゃいけなかったのに。僕は結局、何も教えられず、逆に教えられるぐらいで、此処に在り続けた。
 結果は黒。五年前の炎も、それを成したのが鋼性種だというのも関係ない。
 結果を招いたのは僕で、この結末を引き入れたのも僕。罪人は何処にも居らず―――ただ一人、僕だけが、罪の人間だった。

 赦されてはいけない多くの事。赦される筈もない多くの所業。
 魔力全てを失ってしまったエヴァンジェリンさん。鋼化した明日菜さん。立ち去っていった夕映さん。
 その全てが、僕の責任であるにも等しい。生徒である皆さんを導いてこなかった、僕の責任だ。
 天を見上げる。満天の星と、徐々に白んできたあの巨岩が、無貌に僕を見下ろしている。
 小さな僕。大きすぎる世界でも、一際小さかった僕。小さくて、自分の事にしか頭を働かせられなかった、小さな人間。魔法使い。

 アーニャを、明日菜さんを助けたいと想う気持ちは今も同じだけど、それで、彼女達への罪滅ぼしにはならない。
 解らないんだと、想う。そうだ。僕には、解っていないんだ。
 彼女達の想い。僕に懐いていた気持ちと、僕が懐いていた気持ちを、僕は、理解していなかったんだ。
 だから解るべくもない。解る筈なんてない。僕は、僕のことにしか目を向けていなかったんだから。
 そんな僕が、彼女達の想いを、今の彼女達の想いを理解して上げられるはずなんて、ない。
 のどかさんの想いだって、彼女からそういわれるまでは、ずっとずっと気付いて上げられなかったんだから。

 鈍い僕。バカな、僕。
 アーニャの言うとおりで、僕は結局、頭がいいからとか、魔法学校を首席で卒業したからとかだけで、ずっとずっと心の中で何でも出来ると言う驕りを持っていたんだ。
 でも、そんなのはあっさりと崩れ落ちてしまった。
 大きな世界。大きな命。大切な事を学び、大切な物を置き去りにしてしまった、僕。
 違えたくない。そう想う気持ちは変わらなくても、想っても、もう叶う事はないのかもしれない。
 僕は、そんな事を繰り返し続けてしまっていたんだから。

 もう楽観的には考えない。でも、悲観的にも考えたくない。
 頑張りたい。頑張りたいけど、でも、その結果に、誰かを傷つけるような事があっていいのだろうかな。また、誰かを置き去りにしてしまう様な事は、ないのかな。
 考える。何時までも、時間の赦す限りに苦悩する。嘗て愚かだった自分自身を否定するかのように。
 何一つ出来てこなかった、この五年間を埋め尽くすように。只管に、頭を廻し続ける。
 でも、体と頭に同時に力を割く余裕なんて無くて、
 出っ張りを掴んでいた指先が、あっさりと外れた。

 

 落ちた、そう想った。でも、想っただけで重力の引きを感じたのは一瞬だけ。
 今は、指先にも力が篭っていない状態なのに、何かの力で繋ぎとめられている感がある。
 手首と、その掌にかかる温かいぬくもり。誰のだったのか、もう、思い出せない。
 アーニャの炎が胸の内から脳まで達したのか。何だか、全身の大事な箇所がどんどん燻っている篝火で焼き尽くされているかのような、そんな気分の中に埋没している。
 それでも顔を掲げて、何とか上空を睨もうとした。首の関節が軋む中で、何とか顔を上に向けると、ソコには―――
 眼鏡をかけた女の人と、とっても長い髪を垂らした女の人が、二人で、僕の腕をしっかりと掴んでいてくれた。
 綾瀬夕映さんは、僕の手首を。宮崎のどかさんは、僕の掌を。
 しっかりと。でも、五年前とは比べ物にならないぐらい強い力で。しっかりと、繋ぎとめていてくれた。

「のどかさんに、ゆえ、さん?」

 喉からしゃがれた声が出る。どうやら、あの高温まみれの空気を吸い込んだのが悪かったみたいだ。
 潰れた喉から出る声は、自分のものじゃないみたい。
 でも、ソレよりも気になった事がある。夕映さんは、さっき確かに僕の目の前から立ち去って行った筈。
 その理由を、僕もちゃんと理解していた。まって。本当に理解していたの。
 僕は、夕映さんが立ち去って言った瞬間しか見ていない。夕映さんが、僕を見捨てたとは判断していなかった。
 もし。これは、僕の都合の良い考え方だけれど。
 さっき夕映さんは、僕を助ける気がなかったんじゃなくて、僕を助ける事が出来なかったんだとしたら。
 それだって僕の想う事だ。夕映さん本人の想いじゃない。
 だとしても、どうして、さっきあれほど冷たい眼差しで去って言った彼女が、今は、こんなにも必至の顔立ちで、僕を、掬い上げようとしてくれているんだろう。

「お、重いですー……ネギせんせー……」
「頑張るです、のどかっ!! 私一人じゃ持ち上げられないと判断したから貴女を呼んだですよ!? 普段の本運びの時の腕力はどうしたですか!!」

 腕にかかる力が強くなっている。ああ、でも。助けようとしてくれている意味が解った。
 そうだよね。僕は男の人で。夕映さんものどかさんも、女の人なんだ。五
 年間で、びっくりするほど大きくなってしまった夕映さんと、もっと綺麗な髪になったのどかさん。
 でも、幾らなんでも男の人を女の人一人で持ち上げようとするなんて、無理だもんね。
 それでもずり落ちていく。このままじゃ、三人とも危ない。僕だけが落ちれば、夕映さんとのどかさんは大丈夫。
 だからそれを告げようとして、ちょっと握られた方の腕に力を込めたら―――

「っ!! 阿呆ですか、貴方は!! そうやってまた私達から離れていくですか!!
 貴方はあの時からそうでした!! 何時だって自分一人!! 誰かを頼る事もせず、頼られれば、自分一人!!
 そこまで私達は信用ならんかったですか!?」

 怒号が耳に届いた。それは、初めて聞く、夕映さんの怒鳴り声だった。

「……明日菜さんにがどんな気持ちだったのか解った気がするです。
 ネギ先生のパートナーになると、あのまほら武道会で告げた時の明日菜さん。
 何故、あのタイミングでそう言ったのか、それが胸に残り続けていたです。
 でも、やっと解りました。貴方は、一人だったんです。仮令周りにアレだけ沢山の人が居たとしても、何事も一人でやり続けていた貴方は、やはり一人だったです。
 五年間。私は、ずっとソレが勘弁ならなかったです。一時でも頼ってくれたのであれば、私達はそれに応じてあげたというのに……」

 握られている手に篭る力。それは、五年前の彼女達の力とは思えないほど強かった。強くて、僕を引き上げようと、必至になっていた。

「……離せと言われれば、離しましょう」
「ゆ、ゆえー!?」
「のどか。貴女もそうするです。離して、ネギ先生が一人で何とかするというのであれば、最早私達の出る出番などないです。
 ですが、もし貴方が頼ったくれたのならば―――ネギ先生。貴方が何の為にココへ帰ってきたのか。その理由に、最後までお力添えするですよ」

 垂れ下がっている体。自分の力では、引き上げる事の出来ない体。その力も、その魔力ももう残っていない。
 離せといえば、彼女達は離してくれると言う。だけれど、何故か、声が出ない。
 彼女たちを危ない目に合わせたくないという想いもあるけれど、どうしても、声が出ない。
 ……ああ、本当はそうだったのかもしれない。生徒を危険な目に合わせたくないという事は、僕自身の責任を軽減したいという都合のよさを何処かで見出していたのかもしれない。
 生徒の皆さんを危険に合わせなければ、僕自身への責任は軽減されて、先生の役割をもっと速やかに出来て、父さんに、辿り着けると想っていたんだ。

 でも、それは先生としての僕ではなく、マギステルを、父さんを目指していた僕が想っている事だったんだ。
 生徒を想う教師の言葉じゃない。本当の先生は、生徒の力も借りなくちゃできない事を成していって、それで居て、生徒を守るべき存在なんだ。
 五年間で学んだ多くの事。何もしなかったと想っていた五年間。
 無駄だったかもしれない。無意味だったかもしれない。無価値だったかもしれないけど、その目に刻まれた多くの事は、僕の中に残っている。
 大きな世界を見た。大きな命を見た。
 此処に帰ってきた意味。一人では何も出来ないという現実。でも、一人じゃないなら出来るという希望。

 手を握っていてくれる人がいる。この手で嘗て懐けなかった人が、今一度僕の手を握っていてくれている。
 嘗て、この手から手放してしまった人たちが、手放してしまったというのに手放したこの手を、こうして握っていてくれる。
 瞳を閉じて、想う。多くの事。明日菜さん。アーニャ。刹那さんと木乃香さん。
 僕一人ではどうしようもない事が、あまりにも多すぎる。それを、全て自分一人の力でどうにかできる時は終わったんだ。
 自分の力を信じるのは悪い事じゃないけど、理解する事も重要な事。

 僕には何かが出来る力はあるけれど、その力で、全てをどうにかできる事はない。
 どうにかするには、何かを捨てて選ばなくちゃいけない。その捨てたのを助けなくちゃいけないのに必要なのは―――
 身体が徐々に重力に引かれてずれていく。多分、僕が手を離す事を了承しない限り、彼女達は手を絶対に離さない。
 それを、確信できる。見上げて見つめているその眼差し。夕映さんの眼鏡の向こうも、のどかさんの髪の下の眼差しも。真っ直ぐに、僕を見据えている―――

 少しずつずり下がっていく中で、僕は眼下を見る。
 暗い。何処までも暗い闇だった。落ちていけば、二度と這い上がる事の叶いそうもない暗闇が、図書館島の真下に広がっている。
 僕の罪が赦されないのであれば、此処に落ちるべきかもしれない。僕が赦される為には、ココへ落ちるべきなのかもしれない。でも。
 空を見上げるように、彼女たちを見上げた。白い光が後光のように差し込んでいるにも拘らず、彼女たちの姿は、五年前とは違っていた。
 五年前の様に、僕を大人としてみている眼差しじゃない。
 子供としてみる、大人の眼差し。僕と同じように、でも、僕とはまったく違う大きな世界を見つめていた眼差しだった。
 手を、伸ばす。挙がらなかった方から上に向かって、もう一本の腕を伸ばす。

「ゆえ、さん。のどか、さん」

 泪は流さない。今は、泣いているときじゃないから。今は、助けを求めなくちゃいけない時だから。

「僕は、僕は、皆さんをずっと遠ざけていたんですね。
 先生だと言い張って。危険な目に会わせたくないと繰り返しながら、皆さんを、ずっと自身から遠ざけてしまっていたんですね」

 伸ばす。痛みと、電流が腕の中を奔っていって、感覚の全てが飛んでいく。
 それでも、手を伸ばした。助けを求めるように。
 多くを助ける為に必要なコト。それに向かって、手を伸ばし続ける。

「だから、今度は」

 今度も、皆さんを守りたい。けれど、遠くからじゃない。
 もっと近しい所から。皆さんと肩を並べているその位置から、僕は、皆さんを守っていってあげたい。
 頼りたい時、頼りたい。頼られる時、頼られたい。
 時に助けとなって、時に、助けて欲しい。
 一人では叶えられない多くのコトを、皆さんと一緒に、叶えていきたい。

「今度は、皆さんと一緒に―――」

 もう皆さんを僕は遠ざけない。むしろもっと近くで一緒に居て欲しいと願う。
 先生としての責任。皆さんは僕の生徒で、だから僕は皆さんを守らなくちゃいけなくて。
 でも、僕は、皆さんにとって先生である前に、一人の子供で、だから皆さんは僕の為に色々な事をしてくれて。
 だから今度は違えないように。皆さんの好意をあえて遠ざけ、自分一人で頑張ろうなんてしないで、その好意を、僕は、受け止めたい。
 明日菜さんに言われた時のように。明日菜さんに、何時か言ってしまったことを、皆さんに告げる事がないように。
 もう、関係ないなんていわない。僕はマギステルマギであるけれど、僕は、ネギ・スプリングフィールドは―――皆さんの、先生だから―――

「皆さんと一緒に、肩を並べて走っていきたい―――」

 伸ばしたその手で、のどかさんの手をしっかり掴んだ。

「ね、ネギせんせー……!!」
「さぁ、のどか。引き上げるですよ。私達の―――貴女の、魔法先生を」

 両手でのどかさんの手をしっかりと握り、両足で、壁を支えとする。
 ずれ落ちるような引きはなくなり、代わりに、二人分の力で引き上げられていく。
 違う。二人分の力だけじゃない。三人。僕を含めて、三人の力で。
 協力すると、決めた。最後の最後まで協力すると誓ったんだ。
 皆さんの力を借りても、決して、皆さんだけの力だけを使わない。
 僕も一緒だから意味のあることなんだ。僕が一緒に肩を並べる事だからこそ、意味があることなんだ。
 だから三人。その力で、身体が引き上げられていく。

 アーニャ。これが僕の選んだ道。
 一つしか選べないといったアーニャ。君に応じられる、たった一つの事だけど、アーニャ、僕は、コレで行くよ。
 父さんの事も、立派な魔法使いを目指す事も、諦める事は出来ないかもしれないけど、この道を、僕は選んだよ。
 先生としての役割。魔法使いの先生で、皆さんを危険に巻き込んでしまうかもしれない。でも、それも一つのカタチ。魔法先生の僕の一つのカタチなんだ。
 そして、手を貸してくれる全てを人と一緒に行くよ。もう、僕は一人じゃない。僕は、もう、一人では行かない。皆さんと一緒に。ココで、歩いていくよ。
 何時かあの地平線の果てに行く日が来るまで。僕は、皆と一緒だよ―――
 身体が上げられる。倒れ込むように、僕はのどかさんの胸元に吸い込まれていく。

「ネギせんせー……」
「……ごめんなさい」

 昔だったら紅くもなっただろうけど、今はこの温もりに触れていたい。
 だから謝罪はその一言だけにした。ずっと、長く想い続けていた事があった。
 多くの皆さんに告げなければいけない事と、やらなければいけない事。ずっと、それを想い続けていた。
 彼女たちや、多くの人たちに頼りたい。そして時には頼られたい。その想いを胸に懐き続けて、僕はこれから歩いていこう。

「あっ、ぐぅ!!」
「ね、ネギせんせー!?」
「ネギ先生!?」

 胸元を押さえ悶える。そうだった。僕はアーニャから散々痛めつけられていたんだっけ。胸の焼ける感触。炎が、胸の奥をドンドン焦がしていっている。
 ちょっと高い授業料だったかもしれない。アーニャが此処に落とさなくちゃ、きっと、僕はココでこうしてのどかさんや夕映さんと分かり合えなかった。
 だから、これは高い授業料だと思う。アーニャの、アーニャなりの言いつけ方だと―――信じたい。

「……のどか。ネギ先生とココで待っているです。ネギ先生の内に、何か良くない魔力の流動が見られるです。
 治療系の魔力の扱いに長けた人でなければ、これはちょっと排除は出来そうに無いです。ですから―――」

 立ち上がる夕映さん。その言葉の先を、僕はなんとなく解っていた。
 治療系の魔力に長けている人。僕が知る限りでは、この学園にその魔力を持った人は、たった一人しか居ない。
 木乃香さん。五年間、僕が置き去りにしてしまった、あの人。夕映さんは、木乃香さんを呼んでくるつもりなんだ―――

「で、でもゆえー……」
「よろしいですね? ネギ先生」

 コクリと頷く。断る理由は、何処にもない。
 僕にはその力はない。僕には、きっと木乃香さんと直接向き合ってもどうにかできる手段はない。
 解っている。木乃香さんと僕の間には、五年間と言う深い溝があるんだ。
 その溝は、一人では埋まらない。それを、ちゃんと理解している。
 だから、頼りたいんだ。夕映さんに。木乃香さんに。そして、のどかさんに。

 自分ではできない事。でも、一人ではないと言う事。
 きっと、何時かの僕は一人でやろうとしてますます悪い方向へ引っ張っていってしまうだろうから。
 だから今は任せたい。僕には出来ない事。深い溝を埋めようとしてくれている人達に、僕もまた、応えてあげたい。
 夕映さんは頷いた僕を見送ると、一人バルコニーから下へと飛び降りていく。
 そして感じる僅かな風。僅かな、魔力。ああ、そうなんだ。
 夕映さん、本当に魔法使いへの道を選んでいたんですね。きっと、昔の僕なら真っ先に飛び出して止めにいったでしょうね。
 でも、不思議と穏やかな気持ちで飛び降りていった夕映さんを見送る事が出来た。
 安心できたんだ。夕映さんに頼れると。夕映さんに頼ろうと言う想いから、僕はその姿を穏やかに見送れた。
 もう不安はないよ。任せられると信じたい。任せてあげたいと、思いたい。

「ネギせんせー……私達……せんせーのお力になれますか……?」

 膝枕してくれているのどかさんが僕の頬に触れながら言ってくれる。
 そんな事、言わなくたっていいのに。寧ろ僕の方こそ、ちゃんと言いたい。ちゃんと、伝えたい。
 頬に添えられた手を握り、のどかさんの顔を見上げる。
 綺麗な顔。五年前は可愛かったあの顔は、髪の下のあの顔は、今は、とても綺麗になっていた。
 可愛かったあの頃の彼女。僕を好きだといってくれた言ってくれたあの頃の女の子を僕は跳ね除けるかのように去っていってしまったけれど、今なら、ちゃんと想いにも応えられる。
 だから、その手を握って、しっかりと伝える。しゃがれた声で、しっかりと。

「―――のどかさん。僕の力に、なってくれますか?」

 彼女は髪の下でにこりと微笑んで―――

「―――はいっ。大好きなネギせんせーの初めてのお願い事ですからっ」

 影のない、明るい声で、そう応じてくれた。


 ―――――――――――――――――――――――――女子寮


 ドンドンドンって、夜中にしてはちょっとばかり大きめな音が聞こえた。
 ベッドの上で、膝を抱えてさっきまでの爆音に耐えていたウチ。
 やっと花火みたいな爆音は止んで、漸く落ち着けたかと思った矢先やった。
 どんどんどん。断続的に扉を叩く音が、静寂を切り裂いてウチの耳まで届いてきとる。
 夜中の扉を叩くんは、大抵良い出来事やあらへん。
 夜中。それも、もうすぐ人の寝静まる頃の時間帯。子供やったら、もう完全に眠ってる時間や。
 尤も、今日はあの爆音が麻帆良近辺を支配した日。誰もかしこも、眠れるわけはあらへんのやけどね。

 部活動を終えてからそのままの格好やったから、胴衣姿のままに玄関へ向かっていく。
 上の段の居ない二段ベッドの下からもぞもぞ現れて、真っ暗闇の中を、それでも、もう、真っ暗闇に慣れてしまった目のままに。入り口に向かって、歩いていく。
 チェーンはつけてへんから、入って言えば誰でも入ってこれる。
 まぁ、今更誰がこんなドア開くんかは知らへんし、ドロボーさんなんて、鋼性種のはびこり始めた今の世界じゃ全然聞かれへん。
 鋼性種がいつでも空から見てるから。僅かな争いの火種すらも、鋼性種は見逃したりせーへん。

「ドア。開いてるえ。誰なん?」
『木乃香さん……? 夜分遅くに申し訳無いです。私です』

 扉越しに伝わってくる声。それは、何処か懐かしい少女の声で、でも余り懐かしくもない大人の声調で伝わってきた。
 けれど感じとる。扉の向こう声の主。その主が、微妙に声を震わせている言うのが解る。
 そんな珍しい空気を震わせ方をさせるその声の主が、扉を越して、その向こう側にいる。

「夕映? どないしたん? こんな夜中……夜中でもあらへんな。でも、珍しいやん。そんな、焦った風に」
『……木乃香さん。単刀直入に言うです。ネギ先生が大怪我です。
 再びネギ先生と契約して、木乃香さんの力でネギ先生を助けて欲しいのです』

 衝撃は、あんまりあらへんかった。
 ただ、ああ、そうなんかみたいな、ウチにしては妙に冷静な頭でそう捉えとった。
 ネギ君が重傷。昔のウチなら、涙流してネギ君ネギ君叫んで助けに駆け寄っていたんに、今は、そんな事すらあらへんのやな。
 ドアに背中を向けて、その背をドアに押し付ける。元々ウチ側からの引きドア。
 こうしてる限りは、夕映にドアを開く術はあらへん。早い話が通せんぼ。そんなことしても、何も楽しくあらへんのにね。
 ネギ君が大怪我。昔っからネギ君やんちゃで、何でもかんでも一人でやってまう子やったもんな。
 だから、今回の大怪我やってきっとそうなんやろ。一人でやった、その結果。なら、ウチは何か関係あるんかな。
 ウチは、ネギ君の為に何かをして上げられるような人間なんかな。一人で何でも出来るあの子に、ウチ程度が、何を出来るんやろか。

『……? 木乃香さん? ネギ先生が重傷なんです。お力を、借りたいんです』
「―――回復魔法なら、夕映も出来るんやろ? ウチの力なんて、要らないやん。
 それにネギ君の事や。助けてあげても、また一人で真っ直ぐに行ってまう。
 その度に怪我して、ウチが治すんか? あは、ウチは便利な便利な救急箱なんやな」

 自虐も、ここまで行ったら徒の嫌味にしかならへん。
 知ってる。そんなん、知ってるん。でも言わせて欲しいん。
 一人ぼっちだったウチ。帰ってきた明日菜は鋼化して、あの頃の明日菜でも、ウチの知っている明日菜でもなくなってて。
 せっちゃんは、ウチをお嬢様としてしか見てくれへんで。そして、ネギ君は―――

 ウチはネギ君をどうしたいのか、ずっと悩んでいた。ネギ君が帰ってくるって知ったときも。
 夕映たちにネギ君が帰ってくるって話したときも。何時だって、ネギ君のことで悩んでいた。
 別に、五年前みたいな関係に戻りたいと思ったわけやあらへん。
 ただ、ただ帰ってきてくれれば。ずっとそう思っていた。思っていたけど、いざ帰ってくる言うのを知ったら、なんや気持ちが滅入ってしまったん。
 五年間一人ぼっちにしていて、今更帰ってきた皆。明日菜もせちゃんもネギ君も変わっていて、五年前と同じとは思わなへんかった。
 帰ってきた理由も、皆それぞれに違っていた。帰ってくるために帰ってきたわけやない。明日菜も、せっちゃんも、ネギ君も色んな理由で帰ってきたん。

 ウチの為に帰ってきたわけやないから、それに怒っているワケやあらへん。
 でも、今更どんな顔であったらいいのかも解らないんだと思うん。
 明日菜はもう、ウチの顔も解らへんようになってもうてて、せっちゃんとは大喧嘩してもうて、そして、今度はネギ君。
 これ以上なんかしたら、ドンドン悪い方へ傾いていってしまう気がするん。
 誰かと関わったら関わっただけ、悪い方向へしか動いていかない気がするん。
 だったら、もう、いいかなとも思ってまう。だったら、もう、何をしたって―――

『木乃香さん……怒っているのですか? 以前、貴女はネギ先生を、と言いましたです。
 あの後に続く言葉は、ひょっとして、ネギ先生を赦せそうにないという事だったのではないのですか?』

 そうなのかもしれへん。そうなのかも、しれへんな。
 ウチはネギ君を、せっちゃんと同じで赦せへんのかもしれへんな。
 ウチを置いて行った事にやなくて、のどかや、協力してくれる言ってくれていた皆を置いていってしまった事。ウチは、それに怒って居るのかもしれへんな。
 あるいは、ネギ君と居た一時を否定されてしまった事。ウチはそれに怒っているのかもしれへん。
 確かに、とんでもない事の連続で、どうしようもない事が世界を支配してしまったかもしれへん。魔法の力でもどうしようもない事。それが、世界を埋め尽くしてしまったかもしれへん。

 何れ、ネギ君が居なくなっていくのを何処か春が近づくに連れて感じとってた。
 皆も、それは知っていた筈。その最後に何があるのかも、ウチらはちゃんと知っていた筈。それは、勿論、ネギ君もまた知っていた筈。
 その果てにあったもの。それは、あんなにもあっさりとした別れ。
 一年間も一緒に居ながら、あんなにもあっさりとしお別れで済ませてしまった事。ネギ君に怒っているのは、そう言う事なのかもしれへん。

『……確かに、ネギ先生は私たちを置いてウェールズへと帰ってしまったです。大好きと告白したのどかを置いて、また一人でお父様を追いかけに。
でも、私達も何れはそんな日が来る事は知っていたはずです。木乃香さんも……気付いていたのでしょう?
 ネギ先生と私達は永久に近い形で一緒である事は叶わないという事。それを、知らなかったわけではないでしょう?』

 ああ、知ってる。ちゃんと知ってるえ。
 今考えていた事何やもん。知らない筈もあらへんやん。

『……傷ついていたのは、皆さん同じだったと思うです。
 木乃香さんは勿論、ネギ先生も、のどかも、エヴァンジェリンさん、刹那さん……私自身も。
 皆傷つき、それでも今日まで生きてきた筈です。木乃香さんも、待ち続けていたはずです。それは、何故ですか?
 何故木乃香さんは待ち続けてきたのですか? 待っていたからには理由がある筈です。会いたいと……思っていたのではないのですか? だからこうして―――』

 ココで待っていたんやろな。
 そう。ココで待っていた意味は、皆を迎え入れる為や。だからウチは、此処で待ち続けていたん。
 帰ってきたのは、ウチの為でも、誰の為でもないかもしれへん。
 皆には皆、それぞれの理由があって此処に帰ってきたん。その理由が何であれ、ウチは、皆を迎え入れようと思っていた。そうやった筈や。

『…………ネギ先生が、私達を頼ってくれているです。ネギ先生が。
 あの、一人で走っていた魔法先生が、私達の助けを必要としているです。
 一人では出来ない事が、今正にこの学園でまた起こっているですよ。
 それを何とかしなければいけません。それは、あの魔法先生一人に任せて良い事なのですか?』

 一人ではできない事。それは、あの花火の事やろか。
 あの、白い月を、暗い空を真紅に染め上げた炎の事やろか。ネギ君は、その中に居た言うの―――

『木乃香さん。此処で貴女は待ち続けていました。此処、麻帆良で待ち続けていました。
 それを守るのは、ネギ先生一人なのですか? それは違う筈です。それは、それもまた、私たちがやらなければいけない事ではないでしょうか。
 私たちが、何とかするべき事なのではないのでしょうか。
 木乃香さん。貴女は一人ではなかった筈です。皆さん、共にいて、共に待ち続けていた筈です。だから、貴女はそこに居るのでしょう?』

 視線を上げる。目線の向かう先は、真っ暗闇の部屋の中。
 でも、目を閉じてみたら、なんや、あの頃が浮んできた。
 あの頃。懐かしかったときや。ウチがお料理作って、ソレをネギ君と明日菜がおいしそうに食べて、そしてせっちゃんも一緒やった。
 ううん、それだけやあらへん。皆、一緒やった。クラスメイトの皆が、一緒に居てくれた。
 それを、思い出す事が出来る。今は、目を開けば闇。
 知っている人なんて、麻帆良の中には指を折るほどしかおらへんけど、それでもウチは、皆と一緒やったんやね。此処。皆と一緒に居たここで、皆と一緒やったんやね。

 懐かしかった頃。二度とは帰ってこない時。
 それでも、あの頃と今はまったくの別モンやったとしても。ずっ一緒だった頃がウチにはある。ネギ君も、それを忘れては居ない筈や。
 あの頃。突然が唐突過ぎて。行き成りがあまりにも行き成りすぎて。皆、一緒やった時を忘れてしまっていたのかもしれへん。
 ウチも、ネギ君も、せっちゃんも、明日菜も。
 皆、皆。皆誰かが一緒だって言うのを忘れて、自分で抱え込みすぎていたからあんな結果になってしまったのかもしれへん。

 クラスメイトで、先生やったのにな。友達で、皆優しかったのにな。
 それも忘れて、ウチらは自分たちの中だけで、考えすぎてしまったのかも。
 だから、この結果を生んだのは誰の所為でもない。誰の所為でもなくて、自分たちの所為やと思う。自分たちで選んでしまった、一つの道なんやね。
 ドアを、開く。開かれた先には、背の大きな女の人。眼鏡をかけた、長身の図書館長さん。

「木乃香さん」
「ウチ、アホやったなぁ……せっちゃんのコトも、ネギ君のことも、明日菜の事も。
 誰かに、一言言えていれば良かったのかもしれへんなぁ……
 ウチら皆で支えあっていかな今の世の中生きていけへんのに……一人でぐちゃぐちゃ考えて……」

 その胸に顔を埋める。
 五年前は、逆に埋めるて挙げたいぐらいだった女の子は、今ではウチを抱いてくれるほど大きくなっていた。
 でも、その心持はあの頃のままから少ししか変わっていなかったんやね。
 大人になって、世界の大きさに気付けて、そして、今。一人ではどうにも出来ないことに、やっと気付けてきた―――
 泪を流しながら、その胸に顔を埋める。見つからなかった筈の答え。それでも見つかった、一つの道。

 悩んで悩んで見つけたわけやない。迷って迷って、それで選んだ一つだけの道や。
 正しい道なのか、間違っていたのかも、そして、間違って居るのかも解らない一つの道。
 でも、皆それは同じや。鋼性種言うのが生まれた世界であっても、ウチらはウチら。人間で、相変わらず生きていく。迷って悩んで。只管に駆け続けて行く。

 やっと見つけた一個だけの道。選ぶことの出来なかった、この五年間。やっと選んだ、ウチだけの道。
 それを駆けて行く。どこまでも。選んだからには、駆けて行こう。
 もう、待っているだけの日々はお仕舞。これからは、迎えにいくんえ。手に届く位置に、皆居る。手も、声も届く距離に皆居る。
 あの地平線の向こうから帰ってきてくれた皆に、ウチの五年間を―――ぶつけて、こよう。
 なぁ、いいんちょ。やっといいんちょの言った事が解った気がしたえ。
 いいんちょが教えてくれた、ネギ君への思いの解き放ち方。
 なんや、随分遠回りなカタチやったけど、やっと見つける事が出来たえ。ウチの道。今のウチが選べる、道や。
 胸から離れて強く前を見た。見上げる先には、眼鏡の魔法使いさんが一人、力強い笑顔で立っとった。

「参りましょう。木乃香さん」
「うん、一緒に行くえ」

 二人で駆け出す。空はまだ赤く、月も、白んではきとったけど、まだ紅い。
 大気を伝わって感じる僅かな魔力。そこには、懐かしさと切なさの入れ混じった空気が流れ取った―――

第五十四話 / 第五十六話


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