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上級生型ボクっ娘系素直クール

「やあ、小鉄君。きみは相変わらず大きいね、名前に反して。また背が伸びたんじゃないか?」
 放課後、昇降口に向かう俺を待ち構えていたかのように、ヒノキ先輩が声を掛けてきた。
「……伸びてませんよ」
「ん? ボクの勘違いか。それは失礼」
 セリフとは裏腹に、ヒノキ先輩に悪びれた様子は微塵も感じられない。
 胸を張り、腰に手を当て、尊大な態度で見上げてきているこの人は、2学年上の先輩だ。こんな偉そうな態度で、自分のことを『ボク』なんて言って、名前もヒノキなんて男っぽい響きだけど、先輩はれっきとした女子生徒だ。
「先輩こそ小さいですね。名前に反して」
「まったくだよ。きみの身長を少し分けて欲しいものだ」
 言い返した俺の言葉を全く気にせず、先輩はいつものように平然とした口調を崩さない。
 先輩はデカい態度とは対照的に、その身体は非常に小さい。
 女子高生の平均身長を大きく下回るその背は、俺の胸より更に低い。そのため、先輩は首をほとんど真上に向けているような状態で俺を見上げてくる。
 まあそれは、俺の背がヒノキ先輩とは逆に、男子高校生の平均身長を大きく上回ってしまっているせいもあるけど。
 しかしそれを踏まえても、ヒノキ先輩が2つ年上だとは到底思えない。それどころか、2つ下と言われても納得出来るかどうか、微妙なところだ。
 なぜなら先輩がそう見えるのは、身長のせいだけではないから。
 子猫のようにぱっちりとした瞳を覆う、大きめの野暮ったい眼鏡。
 寝癖のように所々跳ねている、手ぐしで整えただけのような適当な髪型。
 袖から覗く手首は折れそうに細いし、プリーツスカートから伸びた脚もとても華奢だ。
 それらの要素が低い身長と相まって、よけい年下のような、はっきり言えば子供のような印象を受けてしまう。
 おまけに口を開けば『ボク』だ。全然高校生らしくない。(更に言えば、女の子らしくもない)
 そんな年上に見えない年上のヒノキ先輩が、大きめの眼鏡の奥から俺を見上げながら、歩み寄ってくる。
「きみが朝見た時よりも大きくなっているような気がしてね。どれどれ」
 躊躇なく近寄り、正面から寄り添う。そして、先輩がまるで俺の身体で身長を計るかのように、頭の上に水平に乗せた手を動かす。
 とすっと当てられたその小さな手は、俺の制服(ブレザーだ)のボタンよりも少し上に位置していた。
 それを確認すると、子猫のような瞳を満足そうに細めて見上げてくる。
「ん、いつもの位置だな。気のせいだったようだ。失礼した」
「……失礼だと思っているなら、顔を合わせる度に確認しないでください」
 自分の身長が人より高めだと言うのは自覚してるけど、だからといってからかわないで欲しい。
 わざと冷たく言い放って、廊下を遮るように仁王立ちしているヒノキ先輩の横をすり抜ける。
 仮にも先輩に対して取る態度ではないが、毎日毎日顔を合わせるたびに背をチェックされては、そんな態度も取りたくなるものだ。
 人によっては、高い身長は羨ましいものなのかもしれない。でも俺にとってはコンプレックスの1つだった。過ぎたるは及ばざるが如しと言うではないか。何事も普通が一番なのだ。
 しかし先輩は俺の非難をまるで気にせず、当然のように横に並んで歩き始めた。
「そんなムッとした顔をするな。良い男が台無しだぞ?」
 先輩が足元にまとわりつく猫のような感じで俺の横を歩き、顔を覗き込むようにして見上げてくる。
「……先輩が俺にそういう顔をさせているんですよ」
 俺は力なく呟いた。またそんな事を言って俺をからかうんだから……。この人は、よほど自分の言動に自覚が無いらしい。
 誤解が無い様に言っておくと、一応、俺はヒノキ先輩のことをとてもいい人だと思っている。
 同じ図書委員の先輩として、とてもお世話になっているし、先輩もそれを鼻に掛けたり恩着せがましくするわけでもなく、実にさっぱりした性格で、接していてとても気持ちが良い。あまり気兼ねなく接することが出来る先輩なんて、なかなか得がたい人脈だと思う。(気兼ねなくと言っても、も ちろん、相手は先輩なので最低限の礼儀は守っているつもりだ)
 なんだけど、ときどきヘンなことを言い出したり俺をからかってきたりする所はちょっと困りものだ。
 俺は人知れずため息をついて下駄箱に向かった。
「先輩、それじゃあ」
 ぺこっと頭を下げて帰りの挨拶をし、昇降口の左端、1年生の下駄箱の場所に足を向けたところで先輩に呼び止められた。
「ああ、小鉄君。ちょっと待った」
「なんですか?」
「今日はボクと一緒に帰ろう」
「は?」
 一瞬、何と言われたのか分からなかった。
「は? じゃない。一緒に仲睦まじく帰宅しようではないか。と言ってるんだ」
「はあ」
「なんだその気の抜けた返事は」
 曖昧に返事をした俺を、先輩が心なしか悲しそうな表情で見上げてきた。
「ボクと一緒に帰るのは嫌なのか?」
「あ、いえ。そういうわけじゃないです。ちょっとびっくりしたというか……」
 毎日のように顔を合わせている先輩だけど、一緒に帰るなんて初めてだ。先輩の真意を計りかねて、思わず戸惑う。
「じゃあ、ボクと一緒に帰ってくれるんだな?」
 気のせいか、先輩が大きな眼鏡の奥の瞳を不安げに揺らしながら見上げてくる。
「え、ええ」
 それにつられるような形で、気が付けば頷いていた。
 俺の答えを確認すると、先輩は「良かった」と言って微笑み、寝癖のように跳ねた髪の毛をぴょこぴょこと楽しげに弾ませながら3年生の下駄箱の方へ向かって行った。

 * * * * *

 ヒノキ先輩と知り合ったのは半年ちょっと前。高校に入学して間もない頃、俺たちは同じ図書委員として出会った。
 最初にヒノキ先輩を見た時は、てっきり自分と同じ新入生かと思った。
 だって、背が俺の胸より低いし、なんだか髪の毛が手ぐしで整えただけのようにくしゃくしゃで所々寝癖みたいに跳ねてるし、飾り気のない大きめの眼鏡の奥で輝く瞳は、子猫のようにぱっちりしてるし、とにかく、年上の女の人にはとてもとても見えなかったのだ。
 制服のネクタイがグレーでなければ、絶対に先輩だと気付かなかっただろう。(ウチの学校はネクタイが紺、エンジ、グレーの3色あり、入学した年によって色が異なる。すなわち、ネクタイの色を見れば学年が分かる仕組みというわけだ。ちなみに、自分たち1年生は紺、2年生はエンジだ)
 もし先輩が制服ではなく、シャツとジーンズのような男が着てもおかしくない服を着ていたら、女性とすら認識出来なかったかも知れない。たぶん、小学生か中学生の男の子に見えただろう。
 なにしろ(これはきっと俺の心の中に一生しまっておくべきことだと思うが)ヒノキ先輩の第一印象は、“ちんちくりん”だったのだから。

 図書委員の最初の集会は、班を決めることだった。
 班といっても二人一組のペアみたいなもので、これから1年間、そのペアで図書委員の業務を行うことになるらしい。
「そうは言っても、班は途中で変えるのも全然OKだから。まあカタチだけだけどね」とは図書委員長のセリフだ。
 とにかくそういうわけで、班を作って行くことになった。
「2年生は2年生同士、1年生は3年生と班を組んでもらうから」
 皆の前に立つ図書委員長が、決まりごとと活動内容の説明をして行く。1年生が3年生と班を組むのは、仕事を覚えるためらしい。
「一応、班はくじ引きで決めちゃうけど、さっきも言った通り、班はあんまり厳格なものじゃないから、1年生も仕事に慣れたら1年生同士で組み直していいよ」
 丁寧に説明をしながら、あまり図書委員長には見えない短髪で精悍な印象の先輩が皆にくじを引かせていく。
 俺が引いたくじは、黒い3本線が引かれているものだった。
 相手は誰だろう、親切な先輩だといいな。と、若干緊張して周りを見渡していると、どこからともなく声が掛けられた。
「そこの背の高い1年生。──そうそう、きみだきみだ。………どこを見ている。下だ」
 声は聞こえるものの姿が見えず、キョロキョロを辺りを見渡していた視線を慌てて下ろすと、こちらを見上げた例のちんちくりん、もとい、小さな3年生が立っていた。その小さな手には、俺と同じく黒い3本線が引かれたくじが握られている。
 大きな眼鏡の奥から、ぱっちりとした瞳で真っ直ぐこちらを見上げている彼女と、真っ向から目が合った。その瞳は力強く、俺は気持ち身体を仰け反らせてしまった。
「ボクは松綱陽乃樹(まつつな ひのき)だ。きみは?」
「あ、えっと」
 ちっちゃい見た目とは裏腹に、力強い瞳と堂々とした口調で自己紹介をしてくる彼女に、一瞬気圧されて口ごもってしまう。『ボク』という特殊な言い方には、見た目のせいか、あまり違和感を覚えなかった。
「えっと、浜園小鉄(はまぞの こてつ)です」
 気を取り直して自己紹介を返すと、突然彼女が眉をひそめた。
「コテツ? きみはコテツというのか?」
「え? あ、はい。小鉄、ですが……」
「どういう字を書くんだ? 刀のほうの虎徹?」
「いえ、小さい鉄と書く小鉄です」
 訝しげな顔で名前を確認され、戸惑う。何がそんなに気になるのだろうか。
 俺の名前はちょっと珍しい、というか今時古風な名だから、それが気になったのだろうか?
 それともどこかで会ったことがあるとか? いやいや、こんなに印象の強い、一瞬で俺の脳内に“ちんちくりん”というイメージが浮かぶような人を忘れるわけが無い。
 不思議に思って「俺の名前が何か?」と聞こうとしたところで、彼女が口を開いた。
「これは面白い。そんな大きな身体で小鉄とは」
「………」
 思わず、言葉を失った。
「ふむ。実に面白い」
 繰り返し言って、大きな眼鏡の奥の瞳を輝かせながら見上げている。
 ……な、なんだこの人は……。初対面でいきなり言うことがこれか?
 先輩とはいえ、あまりに明け透けというか遠慮が無い発言に絶句した。彼女はそんな状態の俺をお構い無しに「これは墓場まで持っていけるネタだな」とか好き勝手に言っている。
「それにしても、きみは本当に背が高いな。身長はいくつなんだ?」
「……別に、いくつでもいいでしょう」
 あまりに直接的に聞かれたので、ムッとした口調になってしまった。
「ああ、失礼。きみがあまりに大きいから、気になってしまった」
「……いえ、別に」
 彼女に悪びれた様子は全く感じられなかった。絶対失礼って思ってないよ、この人。
 俺の表情を見て察したのか、彼女が眉を僅かに下げる。
「そんな顔をしないでくれ。つい親近感を感じてしまってな」
 親近感?
「ボクも、ヒノキという大木のような名前なのに、こんなナリだからな。背丈と名前のギャップに関しては、ボクも似たようなものだから、つい嬉しくなってしまった」
 そう言って、小さな先輩が両腕を少し広げて、自分の体を確かめるように見下ろす。
「ああ、なるほど……」
 確かに彼女はヒノキという名前から連想されるイメージとは180度違う。名前に反して身体は小さいということか。現象は俺とは逆だけど、境遇は同じだ。
「ボクが思うに、名は体を表すと言うが、あれは嘘だな」
「はあ」
「そうでなければ、世の中に犯罪者など生まれるはずが無い。そうだろう?」
 彼女がうんうんと独りで頷きながら、同意を求めるように言ってくる。
「……まあ、そうですね」
 極論だけど、まあ、言いたいことは分かった。
「分かってくれるか! ふむ、きみとは話が合いそうだ」
 同意すると、小さな彼女が笑顔で見上げてきた。
 その笑顔が、なんていうか……。その、凄く可愛らしくて、思わず固まってしまった。「にぱー」という擬音がしっくりくるのような、屈託の無い笑顔だ。
 そう感じたのと同時に、先ほどの失礼な言葉の理由も分かって、俺は不快な気分がすっかり消え去っていることに気付いた。
 彼女は笑顔のまま、小さな手を俺に差し出してくる。
「これから1年間よろしく頼むよ。小鉄君」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。松綱先輩」
 その手を握り返して、彼女の手の小ささに驚いた。俺の手にすっぽりと収まっているその手は、とても小さくて、でもとても柔らかくて。その柔らかさに「あ、そうか。女の子の手なんだ」と改めて気が付いた。
「ヒノキだ」
「え?」
 唐突に言われた言葉に、一瞬何のことか分からなかった。
「きみの小鉄という名前が気に入った。ボクはきみを名前で呼ぶことにする。だから、きみもボクのことはヒノキと名前で呼んでくれ」
「え? えっと……」
 ……なんだかよく分からないが、一方的に宣言されてしまった。
「どうした? 小鉄君」
 握手をしたままの状態でこちらを見上げた彼女が催促してくる。俺は半ば忘我状態で口を開いた。
「あ、えっと、その……ヒノキ先輩?」
「クエスチョンマークは要らない」
「……ヒノキ先輩」
「ん。よろしい」
 偉そうに言って、ヒノキ先輩は眼鏡の奥の瞳を嬉しそうに細めた。
 これが、俺とヒノキ先輩の出会いだった。

 図書委員会の仕事は、だいたい2週間に1度ぐらいの割り合いで当番が回ってくる。当番の日は昼休みと放課後に、図書室で仕事をこなさなければならなかった。
 仕事と言っても、貸し出しの手続きと本の整理だけなので、拘束時間は長いものの作業自体は大変なものではない。
 その仕事をヒノキ先輩と一緒にこなしていくうちに、彼女のことがだんだんと分かってきた。
 言動が少し突飛というかはっきりしてるというか、ちょっと変わった言葉遣いだけど、基本的にとてもいい人だ。図書委員の仕事を懇切丁寧に教えてくれたし、勉強で分からないところを教えてもらったこともある。(ヒノキ先輩は実は学年トップクラスの成績なのだ)
 口調も、いつも平坦というか平然とした調子を崩さないけど、冷たいわけじゃないし、どちらかというと物怖じしない人懐っこい性格なんだと分かってきた。しかし誰にでも人懐っこいわけではなく、ちゃんと相手と自分の関係を踏まえたうえで、親しい友人には人懐っこく接するようだ。何事にも臆さない性格に見えるが、分別はわきまえているらしい。
 例えばこんなことがあった。あれは、先輩と知り合って3ヶ月ぐらい経った時。確か夏休みを数週間後に控えたある日の放課後のことだった。

「ふむ……」
 本の貸し借りを管理している帳簿を記入していると、横で考え込むような先輩の呟きが聞こえた。
 顔を上げると、先輩が思案顔でこちらを見つめている。
「どうしました?」
「いや、ちょっと気になることがあってな」
 言いながら、俺につつつと近寄ってくる。まるで内緒話をする時のように、隣に寄り添う。
「何ですか?」
 何か話でもあるのだろうか? 椅子ごと先輩に身体を向けるが、先輩は俺のそばにちょこんと佇み、細いあごに手をあて、眉を寄せてこちらを見つめ続けたままだ。
「ヒノキ先輩?」
「んー……」
 先輩は相変わらずしかめっ面のまま、首をかしげる。
「どうかしたんですか?」
 それには答えず、先輩はしばし考え込んだ後、口を開いた。
「小鉄君。ちょっときみのヒザの上に座らせてもらえないか?」
「…………は?」
 ……突然、何を言い出すんだこの人は。
「何故か知らないが、急にヒザの上に座りたくなってきたんだ」
「……ネコでも乗り移ったんですか?」
 呆れて言うと、先輩は首を傾げたまま、大きな眼鏡ごしに目をしばたかせる。
「ボクは至ってまともだが?」
「突然、人のヒザの上に座りたいなんて、マトモな人の発言とは思えません」
「ふむ、駄目かね?」
「……………駄目です」
 悲しそうな顔をするので、つい承諾しそうになってしまった。俺は誤魔化すように付け足した。
「そんなに座りたいなら、水野先生に頼んだらどうです?」
 水野先生とは図書委員の先生だ。おっとりとした先生で、いつもニコニコしてる穏やかな性格の女性の国語教師だ。歳は今年で28らしい。俺のクラスの国語は水野先生の担当ではないので、詳しくは知らないが、旦那さんを大変愛しているらしく、授業中にときどきノロケ話が始まるらしい。
 この時間ならばまだ隣の図書準備室に居るだろうし、水野先生なら先輩の唐突なお願いも「あら〜いいわよ〜」とニコニコしながらOKしてくれそうだ。
 しかしヒノキ先輩は俺の提案に眉をしかめた。
「何を言っているんだ、小鉄君。先生にそんなお願いをするなんて非常識ではないか」
「……俺にお願いするのは非常識じゃないんですか?」
「きみは後輩であり友人なのだから、そのようなお願いは非常識ではないだろう? しかし水野先生は教師だ。教師と生徒は信頼関係で結ばれているべきだが、それが馴れ合いのような関係になってしまってはよろしくない。教師は敬慕の対象ではあっても、友達感覚などといういい加減なものではないぞ。それを履き違えてはいけないな」
 腰に手を当て、先輩がとうとうと並べたてた。
 何か知らないけど、どうやら叱られているようだ。微妙に納得がいかない。それは意見の内容についてではない。先輩の言っていることは俺も同意だ。そうではなく、急にヘンなこと言い出した先輩に言われたくなかった。
「小鉄君、分かったかね?」
「はあ、すみません」
「分かればよろしい」
 しかし、勢いに負けて謝ると、先輩は偉そうに頷いた。寝癖のように跳ねた髪の毛が、それに合わせて揺れる。
「きみのそういう素直なところは長所だと思う。好感が持てるぞ」
 年下の子を褒めるように言いながら(実際年下だけど)、先輩が嬉しそうに俺の頭を撫でる。
「……ありがとうございます」
 椅子に座った自分よりも背が低い先輩に子供扱いされるのは、非常に奇妙な経験だった。
「で、だ。どうしてもヒザの上に座らせてくれないのか?」
 ひとしきり俺の頭を撫でた後、先輩がまた聞いてきた。
「……友達に頼んでくださいよ」
「きみも友人だろう?」
 そう思ってくれているのはありがたいのだけれど、そうではなくて。
「同性の友人に頼んでください。男友達に頼むことじゃないですよ」
「ふむ。そうか? まあ、残念だがきみが嫌なら仕方が無い」
 嫌、というわけではないけど、女性をヒザの上に乗せるなんて普通しないだろう。俺のヒザの上に乗っかった先輩を想像すると、身長差もあってとてもおさまりが良さそうだけど。

 結局先輩は、同じクラスの友人に頼んでヒザの上に座らせてもらったらしい。
 「願いがかなったじゃないですか。どうでした?」と感想を聞くと、「イメージと違った。もっと幸せな気分になれるような気がしたんだが……。あと、後頭部が痛い」と良く分からないことを言って、首を傾げた。

 そういえばこの日以降かも知れない。先輩が俺に頻繁に声を掛けてくるようになったのは。
 この日までは、先輩と俺の接点は2週間に1度程度回ってくる、図書委員の当番の時だけだった。
 しかし、ある日の休み時間に、ソレは起こった。夏休みが明けてまだ間もない、蒸し暑い午後の休み時間だった。

 教室内の喧噪が、何か異質な雰囲気のものに変化したことに気付き、友人とだべっていた口をつぐんで周囲を見渡して、驚いた。
「やあ、小鉄君」
「ヒノキ先輩!?」
 見れば、ヒノキ先輩がまるで自分の教室のような足取りで俺の席に向かっている最中だった。
「どうしたんですか?」
 今日は図書委員会の当番の日じゃないはずだが……。何か変更があったのだろうか? 突然の訪問に驚いている俺と同様に、周囲もいきなりの上級生の出現にざわついている。
「『どうしたんですか?』か。ふむ。確かにその通りだ」
 俺の席まで歩いてきた先輩が思案顔で呟いている。
 大き目の眼鏡の奥からぱっちりとした瞳をこちらへ向けて、先輩が続けた。
「ボクは、どうしたんだろうな?」
「………………大丈夫ですか?」
 わけがわからない。前からヘンな人だとは思っていたけど、暑さのせいか、とうとうおかしくなってしまわれたか。
 思わず不気味そうな顔と可哀相な顔を足して2で割ったような表情する俺に、先輩が平然と答えた。
「いや、問題ない。ボクは正気だ」
 残念ながら、全然正気とは思えない。
「知ってますか? 酔っ払いは自分のことを酔っ払ってないと言うらしいですよ」
「失敬だな、きみは」
 先輩は眉をしかめ、言い募る。
「小鉄君の素直なところは長所だが、そういう素直さは短所だぞ」
「先輩がヘンなこと言うからですよ。で、どうしたんです? 図書委員の当番が変更にでもなったんですか?」
 らちがあかないので、本題を切り出した。タダでさえ友人やクラスメイトに注目されているのだ。これ以上、変なやり取りをして、衆目を集める真似は避けたかった。
「いや、そうじゃない」
 しかし、先輩はあっさり首を振った。
「あれ? じゃあ……?」
 図書委員の用事以外で、先輩が俺に何の用があるのだろうか?
 俺の疑問に、先輩はいつものように平坦な口調で答えた。
「ボクは小鉄君に会いに来たんだよ」
「……いや、ですから、会いに来た理由はなんです? 何か用があったんですよね?」
 先輩が俺に会いに来たのは知ってる。現にココにいるし。そうではなく、会いに来た理由が分からないから聞いてるのだ。いつもは先輩はこんなに察しが悪いわけじゃないのに、やはり今日の彼女はどこかおかしい。
「理由は、実はボクにも分からないんだ」
「は?」
「突然、訳もなく急にきみに会いたくなってな? 居ても立ってもいられなくなって、こうしてきみの教室まで馳せ参じたわけだ」
「はあ」
 ヒノキ先輩のよくわからない主張に、俺は曖昧に返事をした。
 先輩は大き目の眼鏡の奥から、こちらをじっと見つめている。思わず呆然とそれを見つめ返すと、先輩が突然顔を逸らした。
「……小鉄君。そんなに見つめるな。何か落ち着かない」
「はあ、すみません」
 そっちが見つめてきたのに、と思いつつも、つい謝ってしまった。
 先輩は困惑しているような顔でそっぽを向きつつ、「おかしいな。なんだこの気分は?」などとぶつぶつ独り言を言っている。
 あまりに様子がおかしいので心配になって声を掛けようとしたところで、予鈴が鳴った。
「む。授業が始まってしまうな。それじゃ小鉄君、再来週の水曜は委員の日だからな。忘れないように」
「ええ、わかりました」
 先輩は早口で言うと、途中、何度も俺の方を振り返りつつ教室から出て行った。
 直後に、「ナニ? あのちっこい人」「先輩なん?」「何の用だったんだ?」などと友人から飛んだ質問に俺は、
「前からヘンな先輩だったけど、どうも暑さにやられたみたいだ」
 と答えた。

 その日から、だいたい1週間に1度の頻度で先輩が休み時間に俺の教室に来るようになった。
「先輩、何か用事ですか?」と聞くと、「いや、きみの顔が見たくなっただけだ」と平然と言って見つめてくる。
 で、俺が見つめ返すと、慌てたように顔を逸らして「小鉄君はボクを見るな」など偉そうに命令し「きみは級友とおしゃべりしてるんだ。ボクはそれを見てるから」などとわけが分からない事を言ってくる。
 当然、上級生がじっと見てる前で普通に雑談なんて出来るわけがなく、最初は友人共々戸惑うことしか出来なかった。(先輩が去った後に友人から「あのちっこい先輩をなんとかしろ」と俺が文句を言われた)だが、先輩の教室訪問が週1から週2となり、気が付けばほぼ毎日になっていた頃には、クラスメイトもすっかり慣れ、普通に雑談できるようになっていた。
 その頃には先輩も「ボクを見るな」など言わなくなり、むしろ、俺の机の前に陣取って「こっちを見ろ」と言って来る始末だった。

 そんな特異な先輩に、俺の友人たちよりも女子たちの方が興味を惹かれたらしく、いつの間にか、「ひのちゃん、今日来る?」などとあだ名で呼んで俺に聞いてきたり、「あ、ひのりん来た。ねえねえ、ひのりん」「む、ちょっと待て。小鉄君の顔を拝んでからにしてくれ」などとやり取りを始めて、すっかりクラスに馴染んでいるようだった。

 先輩の訪問が日常的になった頃、突然、クラスの女子が聞いてきた。
「ねえ、ひのりんと浜園君って、付き合ってるんだよね?」
 途端に、ざぁッ! と教室中の視線が集中するのを感じた。「ついに聞いた!」とか「GJ!」とか「遅いよ、聞くの!」など周囲から囁きが聞こえてくる。
「いやいやいや。違うよ」
 先に答えたのは俺の方だった。
「ヒノキ先輩とは委員会で同じ班なだけで。ねえ?」
 俺の机の正面に陣取った先輩に視線を向けると、彼女は細い顎に手を当てて首を傾げていた。
 しばし考え込むように首を傾げたのち、口を開いた。
「付き合っている、とは、つまり恋人ということか?」
 先輩が首を傾げたまま、質問した女子に顔を向ける。
「うん、そう。違うの?」
 意外そうに俺とヒノキ先輩を交互に見つめるクラスメイトに、先輩がきっぱりと答えた。
「違うな。ボクと小鉄君は友人であって、恋人ではない」
「なーんだ……」
 がっかりしたようにクラスメイトが言う。同時に、周囲からも「つまらねえ」とか「誰だよ、絶対付き合ってるって言ったヤツ」とか「俺、付き合ってる方に賭けちゃったよ」などと勝手なことを言っている。賭けって何だ。
「ひのりんも浜園君も、いっつも一緒にいるから、付き合ってるのかと思ったよ」
 全然、そんなつもりはなかったが、なるほど。言われてみれば、俺とヒノキ先輩はクラスどころか学年も違うのに毎日顔を合わせている。そう勘違いされてもおかしくないのかもしれない。
 ふと気になって先輩の方に視線を送ると、先輩は眉をしかめて首を傾げていた。小さな声で「恋人」と呟いている。
 ……あー、ヘンな誤解をさせてしまって、気を悪くさせてしまったか。
「変に誤解されちゃいましたね」
 先輩に苦笑して言うと、「ん? ああ、そうだな」とはっきりしない様子で答え、また眉をしかめて首を傾げる体勢に戻った。
 その仕草は、不快になっているというよりも、考え込んでいように見えたのは、俺の気のせいだろうか。

 それから間もなく、ヒノキ先輩は休み時間に教室に来るだけでは飽き足らず、朝の昇降口でも俺を待ち構えるようになった。
 そして、「やあ、おはよう小鉄君。きみは相変らず背が高いね」と言って、俺の身体で自分の身長を計るように頭の上に乗せた手を動かしてくる。
 その小さな手がいつもの位置にあるのを確認すると、満足げに「にぱー」と微笑んで、「それじゃ小鉄君。また休み時間に会おう」と言って、寝癖のように跳ねた髪の毛をぴょこぴょこと楽しげに弾ませながら3年生の教室の方へ消えて行くのが日課になった。

 * * * * *

 そういうわけで、俺とヒノキ先輩は毎日顔を合わせるのが当たり前の関係になっていた。
 だが、突然「一緒に帰ろう」とはどういうことだろうか?
 ……まあ先輩のことだし、単なる思い付きだろう。
 そんなことを考えながら昇降口を出た所で待っていると、先輩が小走りに寄ってきた。
「待たせたね。小鉄君」
「いえ」
「よし、じゃあ、一緒に帰るぞ」
「………」
 気のせいか、ヒノキ先輩が気合いを入れるかのように拳を握っている。なんとなく口をつぐんでいると、先輩が不安そうな顔で見上げてきた。
「どうした? やっぱりボクと一緒に帰るのは嫌なのか?」
「ああ、いえ。その……先輩の家はどっちの方向なんですか? 俺は商店街の北の方なんですが」
 誤魔化すように言うと、先輩は眼鏡の奥から真直ぐ見上げて答えた。
「ボクは商店街の東だ。途中まで一緒だな」
「ですね。商店街のアーケードに入る前までですかね」
「うん、そのくらいだな」
 隣を歩く小さな先輩の小さな歩幅に合わせて、俺はいつもよりも随分とゆっくりした足取りで校門へ向かって行った。

「最近、めっきり寒くなってきたな」
 校門を出て、学校からの帰り道。俺の隣にいる先輩が下から話しかけてきた。
「…………そうですね」
「ん? なんだその間は?」
「いえ、寒くなってきたのは同意なんですが。……なんで俺の腕を抱えてるんですか?」
 先輩は、寄りかかるようにして俺の腕を抱えている。ちなみに何の断りもなかった。
 しかし先輩はいつものようにマイペースでしれっと答えた。
「ああ、寒くてな」
「……なんで寒いからって俺の腕を抱えるんですか……」
 この人は寒いからといって、勝手に人の腕を抱くのか。人懐っこい人だとは思っていたけど、ここまで奔放だったとは。
 思わず呆れた声を出すと、先輩が真っ直ぐ見上げてきた。
「きみに掴まっているとな、何故か身体が内部から火照ってくるんだ」
 そう言って、「きみは実は身体から遠赤外線でも放射しているんじゃないかね?」と不思議そうに眉をひそめる。
 見れば、こちらを見上げた先輩の頬が、熱を持ったようにうっすらと赤くなっていた。
「遠赤外線って……。そんなわけないでしょう」
「ふむ。そうか」
 先輩は独りごちるように頷くと、より強く腕を抱きしめて来た。
「うわっ……と」
 不意に引っ張られるように腕を抱かれ、バランスを崩してたたらを踏んでしまう。
「先輩、急に強くしがみつかないでくださいよ」
 ただでさえ、先輩の歩幅に合わせてゆっくり歩いているのだ。足を小出しに歩いている時にそんな急に引っ張られてはたまらない。腕を抱えられた状態で歩くのがこれほど難しいとは知らなかった。
「ん。これはいいな。身体が温まる」
 しかし先輩はまるで気にせず、満足げに言いながら俺の腕に小さな身体をこすり付けるようにして抱いてくる。……ホントにマイペースな人だ。
「人を暖房器具代わりにしないでください」
「良いじゃないか。温まるし、それになんだかとても幸せな気分だ」
 呆れる俺をそのままに、先輩がうっとりと目を細める。
 その顔が本当に幸せそうなので、なんとなく言葉に詰まってしまった。
 いいともやめてくれとも言えず、腕に感じる先輩の体温がほこほこと温かくて心地よいのもあって、まあいいかと半ば諦めの境地で、結局そのまま歩き続けた。

 商店街のアーケードの前、そこにある大きな交差点に差し掛かり、俺たちは足を止めた。
「じゃあ、俺はこっちですので」
 自分の家の方向を指して、未だ腕にしがみついている先輩を見下ろす。
「うん。じゃあ小鉄君。また明日」
 先輩は、さっきよりもほんの少しだけ赤くした顔で見上げてくる。
「ええ、それじゃあ」
「うん」
 帰りの挨拶をして、自分の家の方向に足を向けようとするが、ヒノキ先輩はまだ俺の腕を抱いたままだ。
「………それじゃあ、先輩。さようなら」
「うん」
 念を押すように言っても、先輩は抱いた腕を離そうとしない。
「……………先輩」
「ん? どうした」
 溜め息をつくと、ヒノキ先輩は不思議そうに首を傾げる。
「いや、腕、放して下さい」
「ん? ああ、すまない。ボクとしたことが。忘れていた」
 珍しく慌てたように口を開き、「いや、きみの腕が温かくてな? つい馴染んでしまった」と言い訳するように言う。
 どうやら本当に忘れていたようだ。そのマイペースさに、思わず苦笑した。が……。
「……む。おかしいな」
「どうしました?」
 見下ろすと、腕を抱いたまま、先輩が眉をひそめている。
「いや、腕が放れない」
「は?」
「放そうと思ってはいるんだが、言うことを聞かない」
「いやいやいや」
 何を言ってるんですか。思わず噴き出しそうになったが、当の先輩は本当に困惑したような表情を浮かべている。
「むう。どうなってるんだ。小鉄君、きみの腕は磁石にでもなっているのか?」
「俺のせいですか」
「なんだこれは。一向に放れないぞ」
「いやいやいやいや」

 結局、そのまま20分ほど経って、やっと解放された。
「いや、すまないな。小鉄君。ボクの腕が迷惑をかけた」
 すまなそうに眉を下げ、先輩が後ずさる。
「くっ、これ以上きみに近付くと、また抱き締めてしまいそうだ」
 そう言って、自らの腕を押えるように抱いている。
「はあ。それじゃあ、先輩」
「うん。また明日、学校で会おう」
 先輩が身体を引きずるようにして歩いて行く。少し見送って、俺も自宅に足を向けて歩き出した。

 俺が先輩の突飛な行動の意味に気付いたのは、自宅に帰ってからだった。
 ──ああ、そうか。あれは。腕が放れないと言っていた、あれは……。
「……邪気眼、か」
 変わった先輩だと思ってたけど、そうかあ、邪気眼かあ……。
『くっ! 俺の腕が……! くそっ! 言うことを聞け!』という、アレかあ……。
「まあ悪い人じゃないし、生暖かく見守ろう」
 俺は思わず遠い目で呟いた。

 そんな俺の考えが、全くの見当外れだったと知るのは、翌日の休み時間になってからだった。

 * * * * *

「やあ、小鉄君」
「あれ? 先輩、今日は早いですね」
 1時間目の休み時間にヒノキ先輩が教室にやってきた。教室に来る時は、だいたい午後の休み時間が多かったので、イレギュラーだと言える。
 先輩は早速、「あー。ひのりんだー」「ひのちゃんこっちこっち」と女子に捕まっている。
「待て待て。ボクは小鉄君に用があるんだ」
 先輩は慌てて女子を制して、解放された。
 クラスメイトの女子に絡まれているヒノキ先輩を見ると、彼女の小柄さが際立つ。2年も年上なのに、まるで女子高生に囲まれている中学生(しかも1年生か2年生)にしか見えない。
「ふう、やれやれ」
 ほうほうの体で逃げ出したかのようにため息をついて、俺の席の横に佇む。
 先輩は、じっと挑むような視線でこちらを見つめ、意を決したように口を開いた。
「小鉄君」
「はい?」
「ボクは──」

 * * * * *

 ボクが彼を始めて見たのは、入学式の日だった。
 初々しい新入生の列から、頭1つ飛び出した彼が、妙に印象に残った。
 それから2週間ほど後、図書委員の最初の集会で、再び彼を見つけた。間近で見た彼は、自分の記憶の中よりも更に大きく見えた。
 そんな彼と同じ委員になって、同じ班にまでなれたのは、今考えるととても僥倖だったのだろう。
 当時のボクはそんなことには気付かなかったが、自分の気持ちに気付いた今となっては、本当にそう思う。
 最初は、「大きい1年生だな。ちょっとふけ顔だし、本当に1年生か? 2つ下どころか、2つ上だと言われても釈然としないぞ」などと思っていた。正直に言うと、同じ人間とは思えなかった。
 ボクはよく望美(小学校からの友人だ)に「あんたは何かを言う前に、3秒数えてから口を開きなさい」と言われているので、さすがにこれは口にしなかったが、「彼が噂のUMAじゃないのか? もしくはピクルじゃないのか?」とすら思っていた。
 しかし、彼の名前を聞いて、急に親近感が沸いた。
「これは面白い。そんな大きな身体で小鉄とは」
 ボクの言葉に、彼はムッとしたようだった。 
 しかし、理由を説明すると納得してくれたようだ。それどころか、「名は体を表す」に対するボク考えに同意してくれた。ボクは無性に嬉しくなった。
 彼──小鉄君とボクは、そうして同じ委員の班となった。

 小鉄君は、その豪快な姿に似合わず、とても細やかな男の子だった。
 細かいと言っても神経質なわけでも計算高いわけでもなく、よく気が付く、細かな気配りが出来るという意味だ。
 ボクの言うこともよく聞いてくれるし、最近の若者(ボクも若者だが)にありがちな、先生との馴れ馴れしい関係を疑問に思っていなかったようなので、それを諭すと素直に謝ってくれた。
 大きな身体なのに、気が利いて、自分の非はきちんと認め、望美を始めとする友人から「あんたの言うことは突飛がなさすぎる」とよく言われるボクの話も根気よく聞いてくれる小鉄君が、まるで心優しいグレートピレニーズ犬のように思えてきて、ボクは委員の当番で彼に会うのが楽しみになっていた。

 今にして思えば、小鉄君に対する自分の感情に違和感を覚えたのは、あの時が最初だったのだろう。
 それは、高校生活最後の夏休みが近付いてきた、ある日の放課後のことだ。

 大きな身体で図書室の小さな椅子にせせこましく腰をかけて、帳簿を記入している小鉄君の横顔を眺めていたら、無性に膝の上に座りたくなってきた。そうすることで、とても幸せな気分になれる気がしたからだ。
 しかし、残念ながら彼には断れてしまった。
 仕方ないので翌日、望美に頼んだら不承不承受け入れてもらえた。智子(彼女も友人の1人だ)が「はいはーい! 私の膝の上に乗っていいよ!」と、いつものハイテンションで膝の上をぽんぽん叩いていたが、遠慮させてもらった。
 彼女は一度くっつくと「ああ〜、なんでひののんはこんなに可愛いの〜っ!」と中々離してもらえないからだ。彼女はどうもボクをぬいぐるみか何かと勘違いしている節がある。とても良い友人なのだが、そういうところは困りものだ。
 涙を流している智子を横目に、望美の膝の上に座らせてもらったが、期待していたような満足感は得られなかった。
 しかし、頭の後ろにある大きな膨らみが、存外に心地良かった。望美はボクと違って胸が大きいし、背も高い。
「望美の胸は本当に大きいな。確か89だったか? ふむ、心地良い」
 大きな胸の感触に感動し、感想を述べたところ、
「おおおおおおっきい声で言うな!」
 と真っ赤な顔でぺしーんと後頭部をはたかれた。さすがは女子バレー部部長。実にスナップが利いている。おかげでボクの眼鏡が飛びそうになった。
 眼鏡のズレを直し、後頭部をさすりながら後ろを振り返ると、教室が「うおおおお……!」という歓声に包まれた。
「89だと……!」
「メモメモ……っと」
「おいおい、ランキング変更されるぞ、これは……」
 など男子が騒然としている。
 そんな中、「ひののん! 私! 私、82だよ! 望美ちゃんほどじゃないけど、ほら!」と智子が胸を寄せるようにしつつも、膝をぽんぽんぽんぽん叩いていた。
 またも教室に歓声が上がった。
「このどアホ!」と望美が真っ赤な顔のまま、智子の脳天にチョップをお見舞いしていた。

 夏休み中は、受験勉強に忙しかった。
 でも、小鉄君の事を思い出さない日はなかった。

「あーあ。高校最後の夏休みも、もうすぐ終わりかあ」
 シャーペンをクルクル回しながら、智子が漏らした。
「ボクは、早く終わって欲しいな」
「えー! どうしてーー!?」
 ボクの言葉が相当意外だったらしい。智子がテーブルから乗り出すようにして驚いている。
「しばらく小鉄君の顔を見てないからね。早く会いたい」
「……なッ!!!」
「ほう」
 理由を言った途端に、智子と望美が驚いたような声をあげた。ちなみに「……なッ!!!」が智子で、「ほう」が望美だ。
「ちょ、ちょちょちょちょ! ちょっと! ひののん!」
「なに?」
「こっ、こて、こてこてっ、こてっちゃん! じゃなくて!」
「小鉄君?」
「そうっ、それ! なに!? なんで!? 会いたいって……。ええええええ!!!」
「あんたはちょっと落ち着きなさい」
 両手をほっぺたに当てて、ムンクの叫びのようになっている智子に、望美がいつものように冷静に突っ込んだ。
 望美は楽しそうな顔でボクに向き直り、
「陽乃樹。小鉄君って、同じ委員の子だっけ?」
「うん」
「そっか。会いたいんだ?」
「うん。どうも小鉄君の大きな姿が見えないと、落ち着かなくてね」
 そう言うと、望美は優しい笑顔で「そっか、そっか」と頷いた。
「ついに陽乃樹にもそういう人が出来たかあ。あたしも智子も協力するよ」
「いーーやーーーー!! ひののんは私のなのーーーーーー!!!」
 絶叫しながら智子がボクに抱きついてきた。首を抱かれ、頭をくしゃくしゃと撫で回されて目が回りそうになった。
「こら! せっかく陽乃樹にも好「いやー!」が出来たんだから、放しなさい!」
 望美のセリフに智子が強引にかぶせたので、ボクの耳には届かなかったが、ボクはそれどころではなかった。智子にもみくちゃにされ、望美がボクを引っ張り、暑さと苦しさに気が遠くなりそうになっていたからだ。

 夏休み明けの、最初の図書委員の当番の日は、丁度2週間後だった。
 しかし、どうにも我慢出来ず、午後になってから小鉄君の教室に行くことにした。

「やあ、小鉄君」
「ヒノキ先輩!?」
 突然のボクの訪問に、小鉄君は驚いているようだった。
 久しぶりに見る小鉄君は、やっぱり大きくて、その姿を見ているとボクは何故か心が温かくなっていくのを感じた。
 それが心地良くて、じっと見つめていると、小鉄君もボクを見つめてきた。
 途端に、心臓が破裂しそうになった。思わず彼から視線を外す。
 小鉄君を見たいのに、小鉄君と目が合うと恐ろしく落ち着かない気分になって、非常にもどかしい。
「……小鉄君。そんなに見つめるな。何か落ち着かない」
「はあ、すみません」
 小鉄君の声が横からボクの耳に届く。それだけで、さらに落ち着かない気分になっていった。
 でもそれは、決して不快な気分ではなかった。むしろ、なんというか。非常に形容し難いが、とにかく、落ち着かなくも心地良い気分だった。
 初めて感じた気持ちに、この時のボクは大いに戸惑い、小鉄君の視線に慣れるまで、結構時間がかかった。

 最初のうちは、1週間に1度程度、発作的に小鉄君の顔を見たくなり、その度に彼の教室にお邪魔した。しかし、だんだんとその間隔が縮まり、それがほぼ毎日になるまでたいして時間はかからなかった。

「ちょっと小鉄君の所に行ってくる」
「はいよ」
 休み時間になり、ボクが望美と智子にそう声を掛ける度に、望美が慣れた手付きで智子を羽交い締めにした。
「やーー! お願い、望美ちゃん、放してぇ!」
「だーめ。あんた、邪魔しに行くでしょ」
 何故か、智子はボクが小鉄君に会いに行くのを嫌がっていた。
「ほら、陽乃樹。行ってきな」
「うん。行ってくる」
「やーーーー! ひののーーん! カムバーーーーック!」
 いつもの悲壮な智子の声を背中に、ボクは小鉄君の教室へ足を進めた。
 智子が嫌がっているのが残念だけど、ボクはそれでも小鉄君に会いたいのだ。

「ねえ、ひのりんと浜園君って、付き合ってるんだよね?」
 小鉄君の教室で聞かれたその言葉の意味を、始めは分からなかった。
「付き合っている、とは、つまり恋人ということか?」
 その言葉の意味するところを思い当たり、尋ねると、「うん、そう。違うの?」と意外そうな声で聞かれた。
「違うな。ボクと小鉄君は友人であって、恋人ではない」
 小鉄君は後輩であり、友人だ。つまり恋人ではない。それは事実だ。
 しかし、「恋人」と口にした瞬間に、ボクの心は大きくざわついた。
 恋人、それはつまり、お互いに恋愛感情に基いた好意を寄せている関係の事だろう。ボクにはそういう経験はないが、そういう関係があることは知っている。
「恋人」
 そう呟いただけで、心臓が大きく脈をうつのを感じた。

 その日以降、ボクは今までにも増して、小鉄君の顔が見たくなって、朝、昇降口で小鉄君を待つようになった。
 近くで見ると、彼は本当に大きく、ボクは彼と自分の身長差が知りたくなった。
 小鉄君のブレザーの上のボタンよりも少し上あたりが、ボクの身長だと分かった。それが分かったら、今度はそれを毎日確認したくなった。

 そして、秋が深まり、そろそろマフラーが恋しくなってきた今日この頃。
「陽乃樹」
「ん?」
 ボクの首に後ろから抱きついている智子が、ゴロゴロと猫のように喉を鳴らしている横で、望美が神妙な顔で語りかけてきた。
「あんた、例の小鉄君とはどうなってるの?」
 途端に、頭の後ろで智子が「シャーーッ!」とケンカ中の猫のような声をあげて望美を威嚇した。
「どうって?」
 望美の質問の意味が分からず聞き返すと、望美はため息をついた。
「そんなの、進展してるのかどうかを聞いてるに決まってるでしょ」
「このワシの目が黒い内は、進展なんてさせんわ!」
「あんたは黙ってなさい」
 何故か野太い声で言う智子に望美はぴしゃりと言い放ち、催促するかのようにボクを見つめてきた。
「今日も、小鉄君のボタンよりも少し上がボクの身長だったよ。小鉄君もボクも、進展無し」
「そういう事じゃないでしょ……」
 望美は呆れたような声を出した。
「?」
 ボクはその理由が分からず、彼女を見上げると、望美がずいっと迫って口を開いた。
「大して進展してないのは、今のあんたの反応でよーく分かった。陽乃樹、小鉄君を誘って、一緒に帰るとかしてみたら?」
 望美のセリフに、頭の後ろで「ヒッ」と息を飲んだような声が聞こえた。
「ななななな何を言ってるの望美ちゃん! あんな男と一緒に帰ったら私のひののんが拉致られて襲われてヘンなクスリ打たれてガッシ!ボカ!でスイーツになっちゃう!」
「……あんたは黙ってなさい」
 なにやら騒ぐ声が聞こえるが、ボクの耳には入らなかった。
『小鉄君と一緒に帰る』
 その言葉でボクの頭が一杯になっていたからだ。
 こんなに胸踊る行動に、何故気付かなかったのか。
 ボクは放課後がとても待ち遠しくなった。

「最近、めっきり寒くなってきたな」
 気温が低いというよりも、空気が冷たいと感じる季節になってきた。でもボクは現在、身も心もとても温かだった。なぜなら──
「…………そうですね」
「ん? なんだその間は?」
「いえ、寒くなってきたのは同意なんですが。……なんで俺の腕を抱えてるんですか?」
 そう、小鉄君の腕を抱いているからだ。
 帰り際、智子を卍固めで抑えている望美が「思いきって手とか繋いじゃえ」と言っていた。それを思い出して小鉄君の大きな手を見ていたら、なんだか腕ごと抱えたらもっと幸せそうな気分になれる気がして、早速実行した。
 結果は、想像よりもずっと良いものだった。彼の腕を抱くと、身体の奥からぽかぽかしてきて、顔が火照るくらい温かかった。(まるで遠赤外線で炙られているかのような熱を感じて、小鉄君にそう尋ねたが否定された)
 しかも温かいだけでなく、心が溶けそうに幸せな気分になった。いつもならば10分はかかる道のりも、その時は幸せすぎてほんの一瞬で着いてしまったような錯覚を覚えた。
 小鉄君の腕の温かさと心地良さも不可解だったが、それよりもボクの腕が言うことを聞かなくなったことはもっと不可解だった。

「……む。おかしいな」
「どうしました?」
 真上から怪訝そうな小鉄君の声が聞こえた。
「いや、腕が放れない」
「は?」
 放そうとしているのに、一向に腕が言うことを聞かない。それどころか、より腕に力が入って抱き締めてしまいそうになる。
 小鉄君とはここで別れるのだから、腕を放さないといけないのに、ボクの腕はまるで磁石にくっついたクリップのように、頑なに密着したままだ。
 やっと放れた時は、20分も経過していた。
 しかし、ともすればまた小鉄君の腕を抱き締めそうになって、ボクは自分の腕を押えるように、きつく腕を抱いたまま小鉄君と別れた。

 自宅に帰ってからも、ボクの腕には小鉄君の感触がずっと残ったままになっていて、胸が激しくざわめいた。
 小鉄君に会いたい。小鉄君と話したい。小鉄君にくっつきたい。
 彼の連絡先を聞いていなかったことを、これほど後悔したことはなかった。
 何故ボクはこんなにも小鉄君に会いたいのだろうか。
 夜中、ベッドの中でそれをずっと考えていた。
 腕は未だに小鉄君の感触が残っていて、胸の前で腕を抱くと、なんだか落ち着かなくなってきた。自然と息が荒くなり、身体の奥がじんじんと熱を持っていくのを感じた。
 今すぐ、小鉄君に抱きつきたい衝動に駆られ、腕をきつく抱いて目を瞑った。
「小鉄君」
 彼の名前を呟くと、目蓋の裏に、小鉄君の姿が浮かんだ。想像の中で、小鉄君に抱きつく。小鉄君もボクを抱き締めてくれた。
 小鉄君の大きな腕がボクを抱き締め、身体の奥がどんどん熱くなっていく。まるで、身体が小鉄君と溶け合うような一体感を感じ始めた。
 それは、大きな力でボクの気持ちをどんどんどこか知らない場所に向かって高めて行く。その大きな衝動に、ボクは少し怖くなったが、止めようとは思わなかった。
「小鉄君、小鉄君、ボク、ボクは……」
 頭のどこかで、引き返せる臨界点を越えたのを感じた。途端に、ボクの身体の奥から沸き上がる大きな力が、これまでとは比べ物にならないくらいの激しさで、ボクの身体を駆け巡った。
「……ッ! ……んッ! ……ふぅッ!」
 正体不明の虚脱感に見舞われ、ボクは身体を2度3度震わせた。
「……はっ、あっ、はあ……」
 気が付けば身体は汗ばみ、無意識の内に噛んでいたらしい布団から口を放した。
 まる全力疾走の後のように息が荒くなり、身体が弛緩して言うことをきかない。でも、それは決して不快な気分ではなかった。むしろ心地良いくらいだった。
 汗で濡れた肌が少し気持ち悪かったけど、心地良い痺れもあって、ボクはすぅっと眠りに落ちていった。

 翌朝、ボクは汗だくで目が覚めた。
 よく覚えていないけど、夢の中でも眠る前と同じ感覚を味わっていたようだ。
 身体が甘い痺れに支配され、ボクはぼーっと天井を見つめて、夢の内容に漫然と気を向けていた。
 夢の内容にはすでにもやがかかり、思い出すことは出来なかったけど、1つだけ思い出すことが出来た。それは、とても大事なことだった。
「小鉄君。好き」
 ボクは、夢の中で何度もそう口にしていた気がする。
「ボクは小鉄君が……好き?」
 口の中で呟いた途端、頭の中で、ごちゃごちゃだったパズルが一気に組み上がって行くのを感じた。
 今こそ分かった。ボクは、
「小鉄君が、好き」
 足下しか見えないような深い霧が、ぱあっと晴れたかのような気分になって、ボクはベッドを飛び出した。

 そのまま制服に着替えて学校に行こうとしたが、あまりに汗だくだったのでシャワーを浴びることにした。
 パジャマは汗で湿り、特に下着はひどく濡れていて、パンツなんて、まるでお漏らしでもしたかのような濡れ方だった。よほど汗をかいたに違いない。用を成さなくなったパジャマと下着を脱いで洗濯カゴに入れ、熱いシャワーを浴びた。

 起きた時間はいつもよりも少し早かったが、シャワー浴びたので学校に着いた時間はいつもより遅くなってしまった。
 小鉄君は既に登校しているらしい。出来れば朝一番に伝えたかったが、仕方がない。一瞬、シャワーを浴びて時間が遅くなったことを後悔したが、激しく寝汗をかいた状態で会うのはさすがに躊躇われた。
 1時間目の休み時間に会いに行こう。そして自分の気持ちを伝えるんだ。
 ボクは逸る気持ちを抑えて自分の教室に向かった。

 * * * * *

「やあ、小鉄君」
「あれ? 先輩、今日は早いですね」
 1時間目の休み時間になった瞬間に、ボクは自分の教室を出て小鉄君の教室に向かった。
 小鉄君は机に座ったままボクに顔を向けた。昨日会ったばかりなのに、何故かとても久しぶりに会うかのように感じた。
 小鉄君のクラスの女の子たちがいつものようにボクを囲んでくる。
「待て待て。ボクは小鉄君に用があるんだ」
 包囲網をくぐり抜け、小鉄君の机の横に立った。
 小鉄君は、「どうしたんですか?」と言いたげな顔でボクを見つめてくる。
 ボクは、やっと自分の思いを彼に伝えられる喜びを感じながら、口を開いた。
「小鉄君」
「はい?」
「ボクは──」

 * * * * *

「ボクは今、とても晴れやかな気分だ。何故かって? 決まっている。やっと自分の気持ちが分かったんだ。ここ数カ月の不可解な気分の正体が今朝、正確には6時45分2秒に、やっと分かったのだよ。いいか? 小鉄君」
 背の高いの彼の前に立つ陽乃樹のセリフが、教室中に響いて、廊下にまで聞こえている。
 迷いのない、真直ぐな声だ。陽乃樹は彼を見据え、思いをぶつけた。
「ボクは、きみが好きだ」
 その瞬間、それなりにざわついていた1年生の教室が、しんと静まり返った。
 陽乃樹の真直ぐな声だけが、凍り付いているかのような教室の空気をさらに震わせる。
「小鉄君、きみが好きだ。大好きだ。きみとくっつきたい。寄り添って、ずうっと離れたくないし、放したくない。きみのそばにいつまでも居たいし、きみもボクのそばにいつまでも居て欲しい。きみさえ居てくれれば、ほかに何もいらない。きみと水と空気さえあれば生きていける」
 一息で言い切って、また陽乃樹が口を開いた。
「更に言えば、きみが口を利くのはボクだけであって欲しいし、きみと触れ合うのはボクだけであって欲しいし、きみの視界にはボクだけを映して欲しい。つまり、きみを独占したい。」
 淀みなく言い切り、また一息付いて陽乃樹が続ける。
「でもさすがにそれは無理だと理解している。……だからそんなに力いっぱい引かないでくれ」
 見れば、彼は椅子からずり落ちそうになっている。陽乃樹の言葉通り引いているのか、それとも単純に驚いているのか。廊下からでは判断が付かなかったが、たぶん後者だろう。いきなりこんな事を言われたら、驚くに決まっている。
「ボクが言ったのはあくまで理想だ。それこそ人っ子一人いない未開の奥地にでも行かないと叶えられないということは分かっている。そしてそれはきみが望むことではないだろうということも分かっている。もちろん、きみがOKしてくれるのなら、今すぐ飛行機のチケットを二人分買って、アマゾンの奥地まで旅立ちたいわけだが」
 いよいよ無茶苦茶な事を言い出した。いや、こんな公衆の面前で告白すること自体が無茶苦茶ではあるが。
「だから、きみがそれを望まないのは理解しているから、そんなに首をブンブン振らないでくれ。少し悲しくなる」
 噂の小鉄君が、首をぶんぶか横に振っていた。その様子に、私は少し可笑しくなってしまった。
「小鉄君。ボクはきみが好きだ。どうしようもなくきみが大好きなんだ。きみは、ボクのことをどう思っている?」
 いよいよ核心に迫り、私は手に力が入った。教室の様子を聞き漏らすまいと、廊下から耳をそばたてた。
 その時、私の下から苦しそうな声が聞こえてきた。

「むー! んむー! んんー!」
「あ、ゴメン。忘れてた」
 廊下で、私がキャメルクラッチの体勢で押さえ込んでいる智子が、腕をパンパン叩いてギブアップを知らせてきた。

 授業が終わり、休み時間になった瞬間に、陽乃樹が「ちょっと小鉄君に告白してくる」と言ってきた。  私は、「ああ、いつもの日課か」とほとんど自動的に智子を羽交い締めにしたあと、遅れて驚いた。
「こ、告白!?」
 慌てて振り返れば、陽乃樹が寝癖のように跳ねた髪の毛を楽しげに揺らしながら教室を出て行くのが見て取れた。
 思わず呆然と見送った、数十秒後、私の腕を振りほどいて智子が駆け出した。驚きのあまり、羽交い締めが弛んでしまっていたらしい。私も慌てて後追い、現在に至る。
 いやあ、間一髪だった。
 スライディングからカニばさみ。引きずり倒して流れるようにキャメルクラッチを極めた。
 通常のキャメルクラッチはあごに手をかけて仰け反らせるが、智子が声を出して陽乃樹の告白を邪魔してはいけないと、口を手で塞ぐようにして技を掛けている。
「今いい所だから、もう少しだけ我慢してて」
 私はむーむー唸っている智子に囁き、少しだけ手の力を緩めて教室に視線を戻した。

 小鉄君は、廊下からでも分かるくらい、顔を真っ赤にしている。逆に陽乃樹は後ろ姿しか見えないが、その佇まいは落ち着いているように見える。寝癖のように跳ねた髪の毛もピンと立ち、陽乃樹の真直ぐな気持ちを表しているかのようだ。
 今だ静まり返った教室で、大きな小鉄君が、縮こまりそうになりながら、もごもごと口を動かしている。陽乃樹が相槌を打つように小さく頷いているのが見て取れるので、何か言っているらしい。
「……くそう。ここからじゃ聞こえないか。……おおッ!?」
「んむぅうううううーーーーーーー!!!!!」
 彼の言葉は聞こえなかったが、その意味する所は分かった。なぜなら、
「小鉄君!」
 陽乃樹が感極まった声をあげながら、彼に飛びついたからだ。
 そのまま小鉄君は陽乃樹の身体の勢いを吸収し切れずに(情けないやつだ)、後ろに倒れた。 
 椅子が横倒しになった音で凍り付いていた空間が解かれたのか、周囲が弾かれたようにどよめき出した。
 騒然となった教室で、尻餅を付いた小鉄君の膝の上に向き合う形で座っている陽乃樹が、周囲の声にも消されない、良く通る声で告げた。
「ふふふ。やっと小鉄君の膝の上に座ることが出来たな? 予想通り、とても幸せな気分だ」
「……こんな膝で良ければ、いつでもどうぞ。ヒノキ先輩」
 初めて聞いた小鉄君の声は、図体の割には優しい響きを含んでいた。
 開き直ったのか、かなり大胆なことを言っている。いつでもどうぞって、聞いているこっちが赤面しそうだ。
 というか、前にお前が素直に膝に座らせておけば、私のバストサイズが暴露されることはなかったんだぞ。責任を取れ。もちろんそれは、私の小学校からの友人を幸せにすることだ。
 その友人は、実に嬉しそうに微笑んでいる。智子が一目惚れした、あの「にぱー」だ。
 そのとびきりの笑顔を彼に向け、口を開いた。
「『先輩』は余計だぞ? 小鉄君」
「あ、えっと、その……ヒノキさん?」
「クエスチョンマークは要らない」
「ヒノキさん」
「ん。よろしい」
 偉そうに言って、陽乃樹が……って、ちょっと待った! それは……ッ!
「んむううううううーーーーーーー!!!!!!」
 とんでもない光景に、バタバタと私の下で智子が暴れた。
 目の前で起きたその行為に驚いて、力が弛んだ瞬間をつかれた。
 キャメルクラッチが解かれ、弾かれたように智子が叫んだ。
「ひののんのファーストキスは、私が予約してたのにいいいいいいいいいい〜〜〜〜〜!!!!」

 悲痛な叫びの向こうで、小さい彼女が大きな彼と、幸せそうに唇を重ねていた。

終わり






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