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敬語部下型と幼馴染み型素直クールズ その1

「ここはちょっとタイミング遅らせて表示して…」
「じゃあ、ここはこういうデータを…」
「…ああ! フリーズした!? この糞SIがッ!」
「ええ!? いや無理ッスよ。ゲームショウには1面だけ公開って話だったじゃないですか」

 オフィスビルの1室は、まるで戦場のような様相を呈していた。
 部屋中からカタカタ、カチカチとキーボードとマウスの音が響き、ばたばたと忙しそうに何人かが行ったり来たりしている。
 ここは、コンシューマーゲームの開発現場。近々開催される大規模なゲームショウの出展に備えて、詰め込み作業の真っ最中だ。
 仕様書を片手に、ホワイトボードを使って内容の摺り合わせをしている企画者とプログラマー。ソフトウェアのフリーズに頭を掻きむしるデザイナー。クライアントからの無茶な要求に電話口で応戦しているディレクター…。

 そんな中、デザイナーの一人、笹戸圭介(ささど けいすけ)は、連日の徹夜で眠気が限界を超え、意識が飛んだ。モニターに頭から突っ込み、その衝撃に仰け反って椅子から落下しそうになった。
 どんなコントだ…。圭介は心の中で自分に突っ込む。ため息を付いてズレた眼鏡を掛けなおした。
 情けない有り様に、これ以上、意識を保つのが困難だと悟り、仮眠を取る事にした。このまま仕事を進めても、ロクに進まないだろう。効率を上げるためにも、一度仮眠を取った方が良さそうだ。
 圭介は“仮眠中”の札をモニターに張り付け、おぼつかない足取りで仮眠室へ向かった。

 * * * * *

「……んー…」
 枕の下に仕込んだ携帯が震え、圭介は目を覚ました。頭の下に手を突っ込み、目覚まし代わりにしていた携帯を引っぱりだして時間を確認する。午後3時を少し回った所だ。睡眠時間は丁度1時間半。携帯はちゃんとセットした時間に目覚ましを起動してくれたようだ。
 圭介は幾分すっきりした頭を再起動させ、起き上がろうとした時、視界の左端に映る影に気付いた。
 無意識に影を追い、その正体を確認すると、圭介は仮眠用のソファベッドから落ちそうになった。
 圭介の左側には、ちょこんと、誰かが座っていた。枕元に佇むというよりも、息が掛かるような距離で、その人物はじっと圭介の顔を至近距離で眺めている。
「た、七夕さん?」
 圭介はかすれた声を出した。眼鏡を外しているため、視界がぼやけて良く分からないが、肩の辺りで揺れる黒髪と、眼鏡を掛けた小顔がかろうじて見える。女性で眼鏡を掛けているのは、開発内部には一人しかいない。七夕夜子(たなばた よるこ)だ。
「おはようございます。笹戸さん」
 発せられた平坦な声は、やはり夜子のものだった。
「おはようございます。ってか、何? どしたの?」
 びっくりした照れ隠しに、わざと仰々しく挨拶を返し、圭介は起き上がりながら枕元に置いておいた眼鏡を取るべく手を伸ばした。
「あ、ごめんなさい。眼鏡はここです」
 夜子は自分が掛けていた眼鏡を外し、すっ、と圭介の顔に掛けた。途端に圭介のぼやけた視界がクリアになり、目の前に裸眼の夜子がはっきり映る。
「あ、え?」
 圭介は思わず掛けられた眼鏡を外し、確認した。軽いチタンフレームで出来た極細のフレームは、確かに自分の眼鏡だ。
「笹戸さんの眼鏡を掛けたくなって、ちょっと借りてました」
 夜子は平然と言うと、自分の眼鏡を取り出し、掛ける。地味なツーポイントのレンズの奥に、意志の強そうな瞳が輝く。
「私と笹戸さんは、同じくらいの視力なんですね。あまり違和感がありませんでした」
「ああ、そう…」
 圭介は曖昧に返事をした。なんで彼女が急に自分の眼鏡を掛けたくなったのか分からないが、寝起きの圭介はそこに突っ込むだけの思考力を取り戻していなかった。とりあえず外した眼鏡を掛け直す。
 夜子は未だに至近距離で圭介を見つめている。
 肩の辺りで艶やかな黒髪が揺れ、キリっとした聡明な瞳を控えめな眼鏡が覆っている。ソファベッドのそばでしゃがみこむような体勢のため、胸が両腕で押しつぶされるように強調されている。その大きさに、華奢に見えるけど、以外に大きいんだな。と、圭介はベッドから降りながら観察してしまう。
「笹戸さん。早速ですいませんが、データのチェックをお願いできますか?」
「ああ。いいよ」
 いかんいかん、これはセクハラだ。と詮無い考えを脳みそから掻き消し、頭を切り替えた。
 圭介はデータの一部を総括する立場にあり、夜子は圭介の下でデータを作成しているスタッフの内の一人だ。
 夜子は開発部の中でも若い方で、まだ二十歳を過ぎたばかりだが、技術的には中堅どころの領域に達していた。少々取っ付きにくい性格だが、仕事は真面目にこなすし覚えも早いので、手の掛からない部下だと圭介は評価している。
 二人は連れ立って仮眠室を後にし、開発室へ戻った。

 * * * * *

「…うん、いいんじゃないかな。次は?」
「これです」
「うん。……あ、ちょっと貸して。……ここ、動きが少し中途半端だね。最後まで流すか、かちっと止めるか、はっきりさせた方がいいな」
「はい、わかりました。次はこれです」
「……うん、これはいいんじゃないかな。欲を言えば、この角度から見た時にちょっとバランス悪く見えちゃうのが残念だけど」
「なるほど。修正します」
「あー、いや。この作業は後ろに回して。先に終わってないデータを作ってからでいいよ」
「はい、わかりました。次は──」
 圭介はビューワー上に表示されるモーションデータを次々とチェックし、修正箇所を指示していく。夜子は指摘された内容を淡々とメモにとる。
 やがてデータのチェックが終わり、夜子は圭介を真直ぐ見上げ、
「チェックありがとうございました」
 ぺこりと丁寧に頭を下げる。黒髪がさらさらとこぼれ、ふわりと良い匂いが圭介の鼻先をかすめた。
「いやいや。修正よろしくね」
 圭介は手をひらひら振って自分の机へ足を向ける。1歩踏み出した所で、ふと気付き、夜子の方に向き直った。
「もしかして、俺が仮眠取ってる間、データチェックを待ってた?」
「はい」
 即答する夜子に、圭介はばつが悪くなって頭を掻いた。
「ありゃー、ゴメン。どのくらい待った?」
「そうですね、1時間半ぐらいでしょうか」
 彼女の言葉に圭介は目を見開いた。1時間半といえば、仮眠を取り始めた時間ではないか。
「そんな待ってたの? そういう時は遠慮なく起こしてくれていいよ」
「はい。起こすつもりで仮眠室に行ったんですが、笹戸さんの寝顔を見ていたら、いつの間にか1時間半過ぎてました」
「…は? ずっと見てたってこと? 1時間半も?」
「はい」
 平然と答える夜子に、圭介は二つの意味で呆れた。一つは人の寝顔をじっと見ていたことで、もう一つは1時間半も時間を無駄にしたことだ。
 まあ、寝顔の方はどうでもいい。忙しい時期はほとんど会社に住んでるようなものだから、今さらそんなのを見られてもどうという事はない。
 問題は時間の方だ。ゲームショウを間近に控えたこの忙しい時期に、時間を無駄に過ごすのは余り感心出来ない。
 気分転換に買い物に行ってくるとか、仮眠を取って頭をすっきりさせるとか、そういった理由なら分かるが、1時間半もただじっと人の寝顔を観察してたなんて無駄にもほどがある。

「すみませんでした」
 圭介の様子を察したのか、何も言っていない内に、夜子が頭を下げた。
「いや、まあ…。七夕さんは自分の分担をキチンと上げてるし、いいんだけどね…」
 出ばなを挫かれた格好になり、圭介は思わず口籠る。夜子は仕事のスピードも早く、割り当てられている作業はかなり順調に消化しているため、スケジュールにも余裕があった。
 しかし、それは彼女個人のスケジュールであって、全体のスケジュールではない。
 開発というのは、不思議と何処かで遅れが生じるもので、余裕のある人は遅れた部分をカバーしなければならない。
 もちろん、個人個人がキチンとスケジュールを守り、全体進行も遅れないのが理想だし、当然のことながら「作業が遅れてもカバーしてくれる人がいるから、手抜きでいいや」なんて考えはもってのほかだ。
 それでも、「自分はもう終わったから、じゃーねー♪」とはいかないのが、チームというものだ。
 チームで1本のゲームを作っているのだから、個人個人が全力を出しつつ、それでも遅れた所は皆でカバーする。一人は皆のために、皆は一人のために。この業種に限らず、どんな仕事でもそうだろう。
 夜子はその辺まで分かった上で、謝っているのだろう。この辺りのことは、夜子が新人の時に教え込んだ内容で、本人もキチンと理解しているはずだ。
 …まあ、とはいっても、今の所大きな遅れは出ていないし、問題ないだろう。と、圭介は思い直した。
 しかし、夜子は、
「私が謝ったのは、寝顔を見ていたことについてなのですが」
 と、小首を傾げる。
「え? そっち?」
「スケジュールは全体的にあまり遅れていませんし、私がカバー出来る場所での遅れはありませんから、そこは問題ないかなと思っていました」
 うん、まあそこはその通り。そういう圭介の言葉を待たずに、夜子が続ける。
「では、笹戸さんの寝顔をじっと見ていたことは、謝らなくてもいいんですね?」
 なんだか変な質問に、圭介は苦笑して答えた。
「まあ今さらだしねえ。皆ほとんど会社に住んでるしなあ…」
「良かった。それでは、これからは遠慮なく寝顔を拝見させて頂きます」
 そう言って、夜子が微笑む。圭介は彼女と一緒に仕事をして2年目になるが、微笑みを見たのは初めてだった。花が綻ぶような、というのはこういう笑顔のことなんだろうな、と観察しつつ、真面目そうに見える彼女も、こういう冗談が言えるのか。と、夜子のセリフを冗談だと決めてかかった。
「後で俺の寝顔を見てた時間をまとめておいてよ。見物料の請求書を回すから」
 圭介は笑って冗談を返し、机に戻って行った。
 その様子を、夜子がじっと見つめていた。

 * * * * *

「それじゃ、どうも皆さん! お疲れ様でした!!」
 ディレクターの琵琶山が生中のジョッキをかざし、乾杯の音頭を取ると、お疲れ様でしたー! と周囲から歓声が上がり、ジョッキをぶつける音が響く。
 ゲームショウから約10ヶ月。つつがなく開発が終了し、打ち上げが始まった。駅前の居酒屋で総勢15名の開発者がジョッキを傾け、ねぎらいの言葉を掛け合う。あちこちで開発中の苦労話に花が咲く。
 圭介もジョッキを傾け、周囲の同僚と談笑している。出てくるのは、大抵が苦労話とクライアントへの文句だ。とはいっても「あの時は大変だったよなあ」とか「急に注文が来て二日貫徹したよ」などを笑いながら語り合うだけで、ネチネチと愚痴をこぼしているわけではない。喉元過ぎればなんとやら、というやつで、全ての作業から解放された今となっては、開発中の苦労は話のネタとして場を盛り上げる格好の話題に早変わりする。

「笹戸さん、ビールのおかわりはどうですか?」
 圭介の隣に座っている夜子が、空になった圭介のジョッキを手にした。キチンと足を折り畳み、行儀良く手を膝に置いて、小首を傾げる。
「ああ、ビールはもういいや」
「では、何かカクテルとか飲みません?」
 夜子は圭介の前にメニューを広げ、肩を寄せるようにして酒類のページを覗き込んだ。自然と身体が密着する体勢だ。圭介の肘に夜子の胸が当たる。
 またか。と圭介は心の中で苦笑した。
「七夕さんはお酒強いの?」
 圭介はさりげなく体勢を変え、夜子の胸が当たっている肘を引いた。彼女は自分の胸の大きさに、余り自覚が無いようだ。今までも何回か、当たっている胸を気付かれないように避けたことがあった。
 セクハラになりそうで「当たってるよ」とストレートに言えないでいるが、そろそろ気付かせてあげた方が良いかもしれない。圭介はそんなことを考えていた。
「………余りお酒を飲んだことがないので、良く分かりません」
「そうなんだ? じゃあ控え目にした方がいいよ」
 何故かセリフの前に空白があったが、圭介は特に気にしなかった。
 夜子は可愛らしく小首を傾げ、下から覗き込むように圭介を見上げる。
「飲みすぎたら、笹戸さんに介抱してもらいたいです」
「そういうことは、彼氏にやってもらいなさい」
 圭介は思わず苦笑した。
「では、笹戸さんが私の彼氏になってください。今フリーですよね?」
「あはは。七夕さんって意外に冗談好きだよね」
 夜子は度々こういった内容のことを圭介に言ってくる。圭介はそれらを全て冗談だと判断していた。
 この無防備さは少し注意したほうがいいかもなあと、圭介は密かに思い悩む。確かに自分には彼女はいないが、だからといって、部下のスキンシップに勘違いするほどおめでたくも無い。
 圭介は気を取り直して、メニューに視線を戻した。
「で、どれ飲もうか?」
 夜子は何かを言おうと口を開いたが、先に圭介に催促され、口を閉ざした。仕方なく、メニューに目を向ける。
「私、この馬刺ソーダが非常に気になるんですが、一緒にどうですか?」
「七夕さんはチャレンジャーだね」
 明らかなゲテモノメニューに、圭介が苦笑する。
「マズくて飲み切れないかも知れないよ?」
「ええ、ですから一緒に飲もうかと」
「うわ。人を巻き込むつもりか」
「駄目ですか?」
 笑うように言った圭介に、夜子が下から覗き込むようにして真直ぐ見つめる。不意に視線が交叉し、圭介は顔の近さに驚く。夜子の頬にほんの少し赤みが走っているのは、きっと酒のせいだろう。
「もっとマシなのにしようよ」
 圭介は気付かない振りで、視線をメニューに戻した。
「じゃあ、これはどうです?」
「え? オイスターカクテル?」
「牡蠣のカクテルですね」
「……味が想像出来ねえ!」
 圭介は思わず吹き出した。なんだこの店。誰が頼むんだよ、こんなカクテル。
 夜子も可笑しそうにくすくすと微笑んでいる。
「七夕さんは実はゲテモノ好きなの?」
「いえ、そういう趣味はありません」
「じゃあ、普通のにしとこうよ」
 圭介の提案に、夜子は小首を傾げ、細い指を顎に当てて困ったような顔をする。
「うーん、こういう普段飲めないものなら、一つのグラスで一緒に飲める口実になるかなと思ったんですが…」
 口実? なんの口実だ?
「別に、普通のカクテルでいいんじゃないの?」
 夜子の意図が良く分からないまま、圭介が口を開いた。おそらく、一人で飲み切れないかもしれないから、一緒に飲んで欲しいということだろう。酒を余り飲んだことないようだし。それならば、別にゲテモノに走らなくても良い。圭介はそう思った。
「いいんですか?」
「いいよ。むしろ、俺も飲むんだから、まともな飲み物がいいな」
「そうですか。では…」
 夜子は心なしか嬉しそうな表情でメニューを見始めた。
 圭介は正面に向き直り、料理を食べようと取り皿を手に取った。

 その時、豪快な声が頭上から降り注いだ。
「よう! 飲んでるかね? けーくん」
「…けーくん言うな」
 なみなみとビールが注がれた中ジョッキを片手に、圭介の傍らにウンコ座りでしゃがみこんだのは、南東辰美(みなみあずま たつみ)だ。
「何しに来た。俺はゆっくり飲んでるんだから邪魔するな」
「冷たいなあ、けーくん。それが幼馴染みに対する言葉かね?」
 突き放すように言う圭介の言葉に、微塵も傷付いた様子がなく、辰美が片頬を上げてにやりと笑う。
 圭介と辰美は物心つく前からの知り合いで、いわゆる幼馴染みの間柄だ。辰美はその言動と名前から男だと思われがちだが、れっきとした女性である。
 辰美は、中学生よりも小柄な身体を器用に縮め、狭い空間にすっぽりとその身を収めている。ボーイッシュな髪型と化粧っけの無い幼い顔つきは、少女というよりも少年のような印象を与え、終始浮かべた薄い笑みが、いたずら小僧のような愛嬌さとしたたかさをかもし出している。

「だからけーくん言うな」
 圭介は眉をしかめて露骨に嫌がり、まるで犬を追い払うかのようにシッシッと辰美に手を振っている。
 そこだけ見ると、圭介の言動は酷く冷たく見えるが、どちらかというとそれは幼馴染みゆえの気安さというものを感じさせる。その証拠に、手で払いつつも、もう片方の手では、床に置かれた荷物をどかして辰美がゆったり座れるスペースを確保してやり、座布団まで敷いてやっている。
「そんな邪険にしないでくれ。泣くぞ?」
 辰美は敷かれた座布団に移動し、その姿に似つかわしくない男らしさであぐらをかく。
「泣く? お前がか?」
 冗談言うな。と言わんばかりに圭介が苦笑する。
「私だって泣くぞ? 例えばきみに嫌われた時とかな」
「それならお前は、一生泣いていることになるな」
「ふふふ。きみのような性格をなんというか知ってるかね? ツンデレというらしいぞ?」
「何言ってやがる。俺は自分に正直な男だ」
 きっぱりと言いつつも、圭介は誤魔化すようにマグロのカルパッチョを取り皿に盛った。
 辰美は満足そうに、くくくと喉の奥で笑い、中ジョッキに口をつける。少年のような姿の辰美には不釣り合いな中ジョッキをぐいっと傾け、ゴクゴクと黄金色の液体が喉に吸い込まれて行く。
「おお、そうだ。忘れてた」
 辰美はジョッキを口から離し、不意に真顔になった。行儀悪く組んだ足を正し、圭介に向き直る。
「や、この度は、マスターアップおめでとうざいます。どうもお疲れ様でした」
 芝居がかった口調でお辞儀をし、辰美はわざとらしい真摯な瞳で圭介を見上げる。
「…はいはい。こちらこそお世話になりました」
 おざなりに言う圭介だが、世話になったのは事実だ。辰美の方に身体を向け、頭を下げる。
「また次回もお声を掛けて頂ければ、この南東辰美、粉骨砕身で頑張らせて頂きます」
 次回も何も、辰美には確実に声が掛かるだろう。こいつが居ないと仕事が進まない。
「そういうことは俺に言うなよ。琵琶山さんか社長に言え」
「もちろん、そちらにはもう挨拶済みさ」
「じゃあ俺に言う必要はないだろ。俺がお前に仕事を振ってるわけじゃないんだ」
「分かってないな。こういう地道な営業活動がフリーランスには必要なのだよ」
 そう教えてくれたのはきみだぞ? と偉そうに言って、辰美は正した足を崩して片膝を立てたあぐらをかく。まるで、缶ビールを片手にテレビで野球中継を観ているオヤジのような格好だ。
「ま、面倒なことこの上ないがね」
 この監督は選手の使い方が分かってないよ。とテレビに向かって文句を言うオヤジの口調で言い、辰美はジョッキを傾ける。
「お前が自分で選んだ道だろ?」
「まあ、その通りなんだがね。人付き合いが嫌だからフリーになったのに、フリーランスの方が人との繋がりが重要だったとは、皮肉にも程があるだろう?」
 辰美は社員ではなく外注のスタッフだ。在宅のフリーランスのプログラマーとして、圭介の会社の仕事に広く携わっていた。

 辰美はハードの基礎的な部分を解析し、効率よく使うための土台となるエンジンを作成している。
 そのため、辰美が居ないと成り立たないプロジェクトがあるほど、重要な人物だ。
 プログラマーが在宅というのは、開発の視点から見ると百害あって一利なしだが、辰美の場合は、請け負っている部分が部分だけに、在宅でも問題は発生し辛かった。

「フリーランスはそういうもんだろ、普通。少し考えたら分かるだろうが」
 圭介は呆れた声を出した。会社員と違って、フリーランスは自分で仕事を取って来なければならない。それゆえに人脈がものを言う世界だ。人付き合いを敬遠している辰美に、おいそれと務まらないのは、火を見るより明らかだった。
「だから言ったんじゃねえか。お前に営業が出来るのかって」
「プログラマーというのは、技術職なのだよ。要は技術があれば、仕事なんざ向こうから勝手に降ってくる。……と、思ってたんだがねえ」
 やれやれと言った感じで、辰美は手を伸ばして圭介の取り皿から勝手にマグロの切り身を摘む。
「人の皿のものを食うな。しかも手掴かみで」
「固い事を申すな。圭介どの」
 辰美はおどけてみせ、ドレッシングがついた指を、子どものようになめる。
「いつの時代の人間だ、お前は。ほら、手ぇ貸せ」
 圭介は辰美の返答を待たずに、無遠慮に小さな手を取って、だ液とドレッシングでべた付いている指先をおしぼりでぬぐってやる。子どものように小さいその手は、マニキュアも何も塗られていない。
「潔癖だなあ。けーくんは」
「お前が無頓着過ぎるんだ」
 けーくん言うな。と眉をしかめつつも、圭介は指先をぬぐう手を止めない。
 辰美は嬉しそうに頬を緩め、幼馴染みに無遠慮にぬぐわれている自分の指先を見つめる。
「お礼にちゅーしてあげよう」
「やれるもんならやってみろ」
 唇を突き出して迫る辰美に、圭介は気味悪そうな視線を送り、慣れた手付きでガッキとオヤジ女の額を掴み、アイアンクロー。
 ギブギブ! と辰美は圭介の腕をタップする。
「ところで、けーくん」
「今度はなんだ?」
 辰美はアイアンクローから解放され、痛むこめかみをさすりながら、圭介の背後へ視線を投げた。
「そちらの可愛らしいお嬢さんが、きみに何か言いたそうだぞ?」
「ん?」
「………」
 振り向くと、夜子が無表情で圭介を見つめていた。
 あ、忘れてた…。とは当然言えずに、圭介は平静を装って夜子に声を掛けた。
「あ、えっと。飲み物決まった?」
「………」
 夜子は圭介をじっと見つめるのみで、返答をしない。その顔からは、何も感情を読み取ることが出来ない。
 その鉄壁の無表情に、思わず、うっと、圭介は身体を仰け反らせた。
「………………………………………今、決まりました」
「…ああ、そう。それは丁度良かった」
 永遠に続くかと思われた沈黙を破り、夜子がいつの通りの平坦な口調で告げた。
 圭介は何とも言えない居心地の悪さに、俺が注文してくるよ。どれ頼むの? と聞くが、いえ私が。と夜子に断れた。彼女は席を立ち、注文に向かった。
 その様子を見送り、圭介は思わず止めていた息を吐き出す。彼女は無表情だったが、どう考えても怒っていそうだった。
 忘れていたのは悪かったが、夜子がそこまで怒る理由が圭介にはとんと分からなかった。というか、適当に飲み物を選んで、もうとっくに注文してるものと思っていた。

 くくく、と背後から辰美の忍び笑いが聞こえてきた。
「やはり、今日は打ち上げに参加して正解だったな」
「来ないつもりだったのか?」
「野暮用があったんだがね。ちょっと確認したいことがあったんで、こちらを優先した」
 辰美は楽しそうに笑って、ジョッキを傾けぐびりと一口、上機嫌にぷはっと息を付く。
 口元についたビールの泡を手の甲で拭う辰美を見て、圭介は息をするように自然におしぼりを放って寄越した。
 幼馴染みのその行動に、辰美は思わず苦笑した。
「圭介、きみの為に言っておこう。あのお嬢さんの前では、私に対してこういう気遣いをしない方がいいぞ?」
 私はとても嬉しいがね。と片頬をゆがめて笑い、圭介から受け取ったおしぼりで、泡が付いた手の甲を拭く。
 圭介は「どういうことだ?」と、言おうとして、セリフを飲み込んだ。
 このオヤジ女は時々訳の分からないことを言う。……いや、時々じゃなくていつもだな。と圭介は思い直し、気にしても無駄だ。こいつの考えてることなんぞ分かりたくもない。と肩をすくめるに留めた。圭介は、身体に染み付いてしまっている行動に、まったく自覚が無い。

「飲み物を注文して来ました」
「ああ、ありがとう」
 夜子はすっと圭介の隣に腰を下ろすと、まだ封が切られていないおしぼりを差し出した。
「新しいのをもらってきました。どうぞ」
「ありゃ、悪いね」
「いえ。汚れたおしぼりを下さい。私が処分してきます」
 “処分”に力を込めて、夜子は手を差し出す。それには気付かず、何から何まで悪いね、と圭介は今まで使っていたおしぼりを手にしたところで、辰美が割り込んだ。
「いや、それには及ばない。このおしぼりは私が使おう」
 ひょいっと圭介の手からおしぼりを取り上げ、にやりと笑ってみせる。
 その様子に、夜子が口を開きかけたところで、「何言ってんだ。お前は」と圭介に奪い返された。
「せっかく、持って行ってくれるって言ってるのに、わざわざ汚れたのを使うヤツがいるか」
 子どもを叱りつけるように言う圭介に、夜子は顔を輝かせた。
「笹戸さん、それをこちらへ。持って行きますから」
「ドレッシングやらビールやらでべたべたじゃねえか。全く。お前はこれを使え。俺は新しいのをもらってくるから」
 圭介は夜子の声に全く気付かず、先ほど夜子が持ってきた新品のおしぼりを辰美に渡してしまい、そのまま席を立っておしぼりの交換に行ってしまった。
「……」
「……」
 呆然としたのは夜子だけではない、辰美もぽかんとしている。

「……くっ…」
 先に沈黙を破ったのは、辰美の方だった。
「くく、うくくくく…!」
「…何が可笑しいんですか?」
 身体をくの字に折って笑う辰美に、夜子は突き刺すような視線を向けた。いや、失礼。と辰美は涙を拭う。
「きみのことを笑ったわけではないよ。七夕夜子さん」
「私のことをご存知なのですか?」
「そりゃあね。私は外注だが、一緒に仕事している人たちの名前くらいは覚えているよ」
 辰美は片頬を上げてにやりと笑い、付け足す。
「特にきみのことはね」
「どういう意味ですか?」
 途端に、夜子が鋭い視線を投げた。辰美はそれを、片頬を上げた笑みのまま平然と受け止める。
「なに。たいしたことじゃない。開発室にお邪魔する度に、彼に必要以上にくっついているきみを見かけたのでね。少々気になっていた」
「それは奇遇ですね。私もあなたのことを気になっていました。南東辰美さん」
「ほう?」
 向き直って正面から辰美を捕らえて言い募る夜子に、辰美は不敵に頬をゆがめる。
「たまに開発室にいらしたと思えば、笹戸さんに馴れ馴れしく声を掛けてましたからね。否が応にも気になります」
「なるほど」
 辰美は不敵な笑みを浮かべたまま、残り少なくなったビールを飲み干した。
「実を言うとだね、今日はきみに会いに来たのだよ」
「それは残念です。私は会いたくありませんでした」
「まあ、そう言わないでくれ」
 辰美は空になったジョッキをテーブルに置くと、夜子の方に向き直った。
「私はね、前々から不思議だったんだ」
「何がですか?」
「彼のことだよ」
「笹戸さんが何か?」
「正直、彼は素敵だ。あれほど良い男は見たことがない」
 辰美は夢見る少年のような顔になって、きっぱりと言い切った。
「その点は同意します。でもそれは不思議でも何でもありません」
 即座に夜子も負けじと言い切る。
「いや、そうじゃない。それは分かっている。彼が良い男なのは、不思議でもなんでもないんだ」
「…何が言いたいんですか?」
 夜子は、目の前の少年のような女性に、上手いこと誘導されているような焦燥感を感じつつも、先を促す。
「彼の良さに気付く女がほとんどいないということさ。私はそれが不思議でならない」
 本当に不思議そうに、辰美がため息をついた。
「なるほど。そういうことですか」
「私が知る限り、現時点で彼に好意を寄せている女は、私ときみだけだ」
「ということは、敵はあなただけ、ということですね?」
 夜子は心の中でデフコンを即座に1段階アップさせ、緊急警報を発令した。
「きみは意外に血の気が多いな。まあ落ち着きたまえ」
 しかし辰美は、挑むような夜子の視線をさらりとかわす。と思えば、不意に真面目な顔になって夜子を見つめてきた。
「きみに質問があるんだ。──彼の何処が気に入ったのかね?」
「愚問ですね。彼の全てです」
「なるほど。私と同じだな」
 光の速さで即答する夜子に、辰美は嬉しそうに微笑む。いつもの人を食ったような片頬笑いではなく、心の底から嬉しそうに微笑んでいる。そんな彼女に、夜子は少し毒気を抜かれた。
「なぜ他の女は、彼の良さに気付かないんだろうなあ」
 世間話でもするかのような気楽さで、呟くように言う辰美に、夜子はふと疑問が湧いた。
「どうして彼の良さを知って欲しいのですか? ライバルを増やすだけだと思いますが」
「それこそ愚問というものだよ。彼はもっと多くの選択肢を持つべきなんだ」
「…多くの女性が、立候補に名乗りを挙げるべきだと?」
 辰美の独特な言い回しを、夜子は噛み砕いて理解する。
「そう、その通り。彼にはその価値がある」
「彼にそれだけの価値があるのは同意します。しかし、分かりませんね」
 夜子が真直ぐ見つめて言い切ると、辰美は、ん? と片眉を上げて先を促す。
「あなたはなぜ、彼の良さが広まるのを望むと同時に、他の女性が彼に近付くのを邪魔するのですか? あなたの行動は矛盾しています」
「きみは何か勘違いをしているね? 私は他の女の邪魔をしたことなど一度も無いぞ」
「いえ。現にこの私が邪魔をされました」
「いつ私がきみの邪魔をしたね?」
「私と彼が、仲睦まじくメニューを選んでいる時に、割り込んできたのをもうお忘れですか?」
「別にきみと彼の会話に割り込んだわけじゃないだろう? 会話がひと段落したようだから、彼に声を掛けただけだ」
 平然と、辰美は続ける。
「私は彼に話し掛けただけで、その後は自然な会話だったはずだが? それに、忘れているのはきみの方だ。そもそも彼にきみのことを思い出させたのは、他ならぬ私だぞ?」
 片頬を上げて、にやりと人が悪い笑みを浮かべる。うくっと夜子が怯んだ。
「私が他の女の邪魔をしようとするならば、そういったことはしないはずだがね?」
 確かにその通りだ。しかし、と夜子は食い下がる。
「もう一つあります。なぜおしぼりを横取りしたのですか?」
「そんなのは決まっている。“処分”などと言われては、黙ってみてるわけにはいかない。私は彼に他の女が近付くのを邪魔はしないが、私自身に売られたケンカは買う主義だ」
 いつになく鋭い視線で、辰美は夜子を真直ぐ見つめてきた。二人はしばし視線を交叉させ、
「…なるほど。それは失礼しました。謝ります」
 意外なほど、夜子はあっさり非を認め丁寧に頭を下げた。再び上げたその顔からは、今まで発していたトゲが消えていた。
 彼女の変化に、辰美は頬を微かに上げる。と、その時、

「………あのぉ……、ラブラブジュースをご注文のお客さまはぁ……?」
 周囲の異様な空気に、勇気を振り絞って、店員が注文の品を持ってきていた。
 見れば、いつの間にか周囲の視線が辰美と夜子の二人に集中している。同僚も、他の客も、二人の女の戦いを、固唾を呑んで見守っていた。
「あ、あのぉ……、ラブラブジュースは、どちらに置けば……?」
 店員は、針のむしろのような空間に、自分の職務と逃げ出したい感情のせめぎ合いに悶えていた。
 ここは店なのだから、決して場違いではないはずなのに、空気読め。とか周囲で囁かれ、まだ若い女の店員は泣きそうになっている。
「そのジュースは私です。ここに置いておいて下さい」
「あ、はい。かしこまりました」
 夜子が手を挙げ、店員はほっとしたように品物を置くと、そそくさと去って行った。
「その飲み物を彼と飲もうとしたのかね?」
「ええ、そうです」
 夜子が注文したのは、ラブラブジュースという名前の品物だった。大きなグラスにピンク色の液体がなみなみと注がれ、二本のストローがハート型を描き、二手に分かれている。
 よくある、バカップルご用達の、二つに分かれたストローで一緒に飲むタイプのジュースだ。この居酒屋は、馬刺ソーダといい、オイスターカクテルといい、ヘンなメニューが多いようだ。
「そういえば笹戸さん、遅いですね」
「ふむ。──私のけーくんはどこに行ったか、誰か知らないかね?」
 周囲に呼びかけた辰美に、会社の皆が申し合わせたかのようにブルブルとシンクロで首を振る。
「私の、とは聞き捨てなりませんね?」
 耳ざとく聞き付け、夜子がにらむ。
「しかし、きみのでもないだろう?」
「今は、私のではありませんが、あなたのでもありません」
「いずれそうなるさ」
「いえ、なり得ません」
 二人は静かに火花を散らす。辰美はにやりと笑って、先ほど運ばれてきたジュースを一瞥した。
「恐らく、彼は一緒に飲むのを拒否すると思うぞ? 鈍感のくせに、恥ずかしがり屋だからな」
 辰美は苦笑してピンク色の物体を眺める。
「笹戸さんは何でもいいと言ってくれましたから。それより、また質問してもいいですか?」
 圭介は何でもいいとは言っていないはずだが、夜子はもう飲み物などどうでもよさそうな調子で、辰美に問いかける。
「なにかね?」
「彼が多くの女性から迫られ、その結果、自分が選ばれなかった時はどうします?」
 望んでライバルを増やすということは、自分が彼に選ばれる可能性を自ら減らすことと同義だ。夜子には、それは自殺行為に思えた。
「その時は諦めるさ」
「あ、諦めるんですか!?」
 あっさりと言い切る辰美に、夜子は唖然となった。
「まあ大泣きするだろうがね。その後は、まあ、彼次第」
「あ、あなたは、諦められるんですか!? あなたの彼への想いは、その程度なのですか!?」
 思わず、夜子は立ち上がるような勢いで問いつめていた。
「きみは早合点が過ぎるな。まだ話の途中だ」
 辰美は片手を上げて夜子を制し、続ける。
「私は、全てにおいて彼の意志を尊重したいのだよ。その結果、彼が選んだのが私でないのならば、それはすなわち、彼は私とそういった関係になるのを望んでいないということに他ならない」
「……」
 夜子は押し黙り、真剣な表情で辰美の言葉を聞いている。
「もしそうなったら、私はすっぱりと諦め、彼が望む私との関係を築くだけだ」
 例えそれが、彼の前から消えることでも、私は喜んで引き受けるさ。そう言って、辰美はテーブルにおいたジョッキを掴み、口元まで運んでから、中身が無いことを思い出した。
「これをどうぞ」
 夜子はラブラブジュースを辰美に差し出した。
「いいのかね? 彼と飲むつもりだったのだろう?」
「いいんです。その代わり、私も一緒に飲みます」
 まるで、一緒に死地へ赴く戦友のように、夜子は辰美に接していた。辰美はいつものように片頬を上げた微笑みで答えた。
 二人は同時にストローをくわえ、迷いを吹っ切るかのように、一気に中身を飲み干す。
 辰美は大きく息を付き、
「きみの言いたいことは分かるよ。私も、その時は諦めると言ったが、実際に諦めが付くかどうかはよく分からない。でもね、」
 少年のように屈託のない笑顔を夜子に向ける。
「想像してみたまえ。目の前に並べられた、この世の全ての女の中から、彼が自分を選んでくれたとしたら?」
 ぞくり、と夜子の背筋が震えた。思わず持っているラブラブジュースを落としそうになった。
「確かに分が悪い賭けかも知れない。しかし、それは賭けるだけの価値がある勝利だと思わないかね?」
 夜子は震えた。彼女の真意を今こそ理解した。
「もちろん、ただ指をくわえて彼に選ばれるのを待っているわけではない。選ばれるだけの努力はしてきているし、これからもするつもりだ」
 辰美の覚悟と意思に、夜子は一言だけ、絞り出すように言った。
「あなたは、とんでもなく手強い相手ですね」
「当然だ。この世に生まれ落ちた瞬間から、それこそ同じ病院の新生児ベッドで共に寝ていた時から、25年間も彼のことを狙っているのだからね」
 にやりと、いつもの笑みを浮かべる辰美に、夜子は挑戦的な笑みを返す。
「25年かけても落とせなかったんですね? 私は彼にアプローチを始めて1年弱ですが、随分と親しくなれたと思いますよ?」
「それはきみの頭の中だけだと、老婆心ながら忠告しておこう」
「それはどうでしょうか? あなたは在宅、私は同じ職場。しかも彼と同じ班です。このペースならば、25年のハンデを覆すのも、時間の問題ではありませんか?」
 お互い一歩も引かず、笑みを浮かべ続ける。今度は辰美が切り出した。
「私がなぜフリーランスをしているか、きみは分かっていないようだね?」
「さっき、笹戸さんと話している内容を聞きました。人付き合いが嫌いだからですよね?」
「それは理由の半分に過ぎない。いいかね。私がフリーで仕事をしている理由は彼との生活のためだ」
「どういうことですか?」
 彼との生活、という生々しいキーワードに、夜子は眉を潜め、一時は下がったデフコンを再び引き上げ始めた。
「私の仕事内容は知っているね?」
「はい。断腸の思いであなたが作ったコンバーターを使ってますよ」
「それは結構。こういったエンジンは非常に儲かるのだよ。私は自作のエンジンで複数の会社とライセンス契約を結んでいる。圭介の会社もその1つだ。フリーじゃないと、こういうことは出来ないからね。つまりだね、下賤な言い方をすれば、私は同年代の人間の中ではお金持ちの部類に入るのだよ」
「あなたを見損ないました。笹戸さんはお金で釣られるような人ではありません」
「さっきも言ったが、きみは早合点が過ぎるぞ。圭介に注意されたことはないかね?」
「余計なお世話です。あなたこそ、言い方が周りくどすぎます。笹戸さんに呆れられたことはありませんか?」
「なかなかどうして、きみも鋭いね。よく言われるよ」
 余裕の笑みで、辰美が受け流した。
「おだてても何も出しませんよ。で、そのお金持ち様がどうだと言うんですか?」
 何も出ないではなく、出さないと言って、夜子は先を促す。
「私は将来的に圭介と会社を興そうと考えている。そのための準備金を溜めているところだ。私はプログラマー、圭介はデザイナー。二人いればゲームは作れる。圭介は今はモーションを専門にしているようだが、彼は2Dも3Dも行けるからね。どうだ? 夫婦でゲーム作りだぞ? 羨ましく無いかね?」
「まだ実現もしていないことで羨ましがらせようとは、あなたのお目出度さには頭が下がります。取らぬ狸の皮算用という言葉をご存知ですか?」
「確かにまだ実現はしていない。しかし、準備はあと2年以内に整う予定だ。どうだね? きみの言っていた時間の問題とやらは、実はきみの方が危ういのではないかね?」
 隙がない。夜子は突破口を探して、言葉を探した。
「…笹戸さんはその話を知っているんですか?」
「いや、この話はしていない。ちなみにこの計画を話したのはきみが初めてだ」
「それは光栄ですね。では全力持って望ませて頂きます。その余裕を後悔させて差し上げますよ」
「さっきも言ったがね、私は余裕を披露しているわけではない。あらゆる条件に置いて公平に、彼に選ばれたいだけだ」
「自分がどう攻めるか、公開するということですね?」
「その通り。もっとも、これは私の内部ルールだ。きみがそれに付き合う必要は無い」
 挑発するかのように、辰美が言う。夜子としては乗らないわけには行かない。
「さっきも言いましたが、私は同じ会社で同じ班という好条件を、最大限に利用させてもらうだけです。忙しい時期は、それこそ寝食を共にするほどの密度ですからね。ちなみに、これを見て下さい」
 ハンドバッグから紙切れを取り出し、辰美に差し出す。
「…一体、これはなにかね?」
 紙切れには、“942時間48分12秒”と記されていた。
「これは、私が彼の寝顔を見ていた総時間です」
「寝顔? 盗撮でもしてるというのかね?」
「いえ。これは彼の許可を得て、正当な権利として至近距離から眺めていた時間ですよ」
 言い方は仰々しいが、ただ単に、仮眠室で寝ている圭介の寝顔を見ていただけだ。
「どうせ会社の仮眠室で寝てるところを見ていただけだろう?」
 あっさり看破し、くだらない。とでも言いたそうな顔つきで、辰美は続ける。
「つまりきみは、この時間分だけ無駄に過ごしていたということだね」
「この時間分だけ、無防備な彼と接しているということです」
 夜子が辰美の言葉を訂正した。その言葉に、辰美はピクリと眉を動かした。下からにらみ付ける様に夜子を見上げる。
「こっちこそ見損なったよ。彼をレイプなどしてみろ。私は必ずタイムマシンを作り上げて、きみの先祖を七代前から抹殺してくれる」
 絶対にやり遂げる意思を持って、辰美が宣言した。辰美にしては珍しく苛ついているようだ。
「荒唐無稽な復讐方法ですね。安心して下さい。レイプなど畜生の真似はいたしません。もっとも、彼の寝顔を見てるとムラムラして襲いたくなってしまいますが」
「正体を現したな。このニンフォマニアめ。圭介に近寄るな汚らわしい」
 はき捨てるように、辰美が凄んだ。おや? と、夜子は辰美の変化に気付いた。
「彼に抱かれたいと思うことは正常なことだと思いますが? それに、私が抱かれたいのは彼だけですから、色情狂ではありません」
「どうだかな? 性犯罪者の再犯率は高いそうだがね?」
 色情狂の次は性犯罪者と来たか。ここにきて、急に酷い言われようだ。
 辰美は明らかにさっきまでと様子が違う。夜子はカマを掛けてみることにした。
「何を、そんなに焦っているんですか?」
「焦ってなどいない」
「嘘ですね。そんなに私が彼を誘惑するのが怖いですか? 彼が、私の身体にコロッと参ってしまうのが、そんなに怖いですか?」
「違う! ──ああ、いやだいやだ。これだから、胸にぜい肉がある女は嫌いなんだ。すぐシモの話をする」
 嫌なものでも見るように、辰美は夜子の胸を一瞥する。興奮しているらしく、辰美は止まらない。
「不恰好な胸のぜい肉に彼が惹かれるくらいならば、とっくの昔に私がものにしている」
 言ってもいないのに、辰美は胸の話をしだした。風向きが変わった感触を、夜子は確かに感じた。
「それは分かりませんよ? あなたには出来ない誘惑方法ですからね?」
 わざとらしく胸を寄せ、挑発する夜子に、辰美が苛ついたように言った。
「大きさは関係ない。胸を触らせたり押し付けたりした程度では、彼は動じないという話をしているんだ!」
 確かに彼は、夜子が散々、胸を押し付けても梨の礫だった。だが、引けない。
「ですからそれは、クレープ生地のように薄いあなたの胸だからです。私の胸とあなたのクレープ生地を一緒にしないでください」
「ク、クレープ生地だと!?」
 これまで、ある程度は冷静に対応してきた辰美だったが、ここに来て初めて怒りをあらわにした。
 どうやら胸は本格的に弱点らしい。手応えを感じた夜子はさらに畳み掛ける。
「あら? クレープ生地に失礼でしたね。言いなおします。シングルのトイレットペーパーのように薄い…」
「よおおおし! いい度胸だ表へ出ろ!!」
 ロケットのような勢いで、辰美が立ち上がった。短く切ったボーイッシュな髪が、猫のように逆立っている。完全に辰美の逆鱗に触れたようだ。
「胸の大きさが、女の魅力の決定的な差でないことを教えてやる!」
「いい加減にしろ」
 ゴヅン! と腹に響くような鈍い音を立てて、辰美の脳天にゲンコツが降った。
「〜〜〜ッ! な、何をする!? 圭介!」
「お前が何をしているんだ? 全く、人がトイレに並んでる間に、なんか騒がしいと思ったら…。何が表へ出ろだ。慌てて飛んできたぞ」
 いつの間に戻っていたのか、呆れた顔で圭介が辰美を見下ろしていた。
「ち、違う! それは違うぞ!」
「言い訳はゆっくり聞いてやるから、とりあえず帰るぞ」
 圭介は答えを聞かず、辰美の腕を掴んで引きずる。
「待て! あの女にせめて一太刀…!」
「まあまあ。とりあえず来なさい」
 圭介は中学生よりも小さい辰美を、まるで荷物のように小脇に抱えて、歩き出す。
「待て! 下ろせ! ああでも抱えられてるのも嬉しい! いや、やっぱり下ろせ! ああでもっ」
 夜子へ逆襲したい気持ちと、圭介に抱えられて嬉しい気持ちが、辰美の脳みそを綱引きする。
「明日は臨時休暇だからな。朝までたっぷり説教してやるから覚悟しろよ」
「あ、朝までだと!? 私は初めてなんだぞ! う、嬉しいが、そんなにされては壊れてしまう!」
 辰美の脳みそは、綱引きで何か重要な部分がイカレてしまったようだ。しなくてもいい告白をしている。
「はいはい。いいからいいから」
 圭介は何事もなかったかのように、辰美をしっかり抱えて、ぽかんとしている皆に向き直った。心から済まなそうに眉を下げ、
「それじゃ、すみません。こいつ連れて帰ります。七夕さん、ごめんね? 後で何かお詫びするから」
「圭介! そんな女に詫びる必要など…あだッ!」
 口を挟む辰美に、抱えたままでダルシム折檻。
「ホントすみません。お騒がせしました」
 頭を下げ、全身から申し訳ないオーラを出しつつ、笹戸圭介が南東辰美を強制退場させた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……し、しまった…!」
 静寂の中、夜子が沈痛なうめき声を上げ、がっくりとうなだれた。
 舌戦には勝ったかもしれないが、肝心の彼は辰美をお持ち帰り(決してそういうわけではないが)してしまっているこの現状。
 試合に勝って勝負に負けたとはこのことか…。


 静寂の中、誰かがボソリとつぶやいた。

七夕夜子 VS. 南東辰美
8分22秒、七夕選手のTKO勝ち。

終わり






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