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無口系素直クール その1

『石瀬ぇ〜。石瀬です。降り口は左側でございます』
 車掌のアナウンスと同時に電車の左側のドアが一斉に開き、沢山の乗客と共に冷たい外の空気が車内に滑り込んできた。
 冬の厳しさが薄れ始め、少しずつ春の足音が聞こえてきたとはいえ、朝はまだまだ寒い。俺は制服の上に羽織ったコートの前を掻き合わせ、冷気に首をすくめた。

『水都線、桜川行き。間もなく発車致します。閉まるドアに御注意下さい』
 独特なイントネーションのアナウンスが電車内に響き、プシューと音を立ててドアが閉まった。
 その直後、たすき掛けにしたバッグを、くいっと軽く引かれる感触が。
「おはようございます」
 いつものように俺のバッグを掴んでいる女の子が、無表情で挨拶をしてきた。
 大きく、意志の強そうな漆黒の瞳。瞳と同じく、漆黒の艶やかな髪の毛。それとは対照的に、雪のような白い肌。着ている制服が高校のものだと知らなければ、小学生と間違えてしまいそうな、華奢で小さな身体。
 寒さで少しほっぺたを赤くしているのが、ただでさえ子供に見える彼女を、更に幼く見せている。
「ん。おはよ」
 斜め下から真直ぐ見上げる彼女に軽く視線を合わせ、俺も挨拶を返す。
 ガタンと電車が揺れ、動き始める。
 彼女は俺のバッグのたすき部分を控えめに握り、平坦な声で告げてきた。
「今日も、お世話になります」
「ん、どうぞ」
 一言、簡単な俺の承諾を聞いた彼女は、まるで命綱でも握るかのように俺のバッグのたすきを手袋をはめた両手でしっかと握り締める。
 俺はそれを横目で確認した後、視線を正面に戻した。

 朝のラッシュで満員となった電車は、ガタンゴトンといつもの調子で見慣れた風景の中を走って行く。
 俺は吊り革に掴まり、幾分重みを増したバッグを肩に感じながら、流れる風景をぼんやりと眺める。
 このまま時間が流れ、6つ先の駅で「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」とまた平坦な口調でお礼を言われ、彼女が降り、その2つ先で俺も降りる。

 これが、毎日繰り返えされる、俺と彼女の通学風景だった。

 彼女と言っても、いわゆる「彼氏彼女」の彼女ではない。
 そもそも名前すら知らないのだ。
 俺が彼女について知っていることは、彼女が着ている制服から、この辺りでは有名なお嬢様学校の生徒で、おそらく1年生だろうということだけだ。

 毎日同じ電車に乗っていると、名前は知らなくとも顔見知りは出来る。朝の通勤通学で混み合う電車は、だいたいいつも同じ人間が利用するからだ。
 俺のバッグに掴まっている彼女も、そんな、名前は知らないが顔はいつも見かける中の一人だった。ちなみに、彼女を1年生だと判断したのは、今年から見かけるようになったからだ。

 すなわち、俺の彼女の関係は、毎日同じ時間の、同じ車両を利用する乗客ということだけ。一言で言えば、全くの他人。
 そんな赤の他人が、なんで俺のバッグのたすきを握っているのか。それを説明するには、半年ほど時間を遡らなければならない。

 * * * * *

 あれは確か、夏休みが終わり、2学期が始まる日だったと思う。
 満員電車に揺られ、いつものように吊り革に掴まっている俺のバッグが、くいっと引かれた。最初は、満員電車ゆえに、バッグが人に押されただけだろうと思っていたが、その後もくいくい引かれるので、不思議に思って見てみると、女の子がバッグを掴んでこちらを見上げていた。
 彼女と真っ向から視線が合い、あ、いつも同じ車両で見かける女の子だな。と俺が認識したと同時、
「すみません。掴まっていても、いいですか?」
 と、彼女が口を開いた。
「あ、え?」
 唐突な彼女の発言に、俺は思わず言葉を失った。
「私、背が低くて吊り革に掴まれないので、もし良ければ掴まらせてもらいたいのですが、いいですか?」
「え、あ…。ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
 物凄く変で、物凄く常識外れなお願いなのに、俺は思わず承諾してしまっていた。
 真直ぐこちらを見上げている彼女の瞳があまりに綺麗で、それにつられるような形で頷いてしまっていた。
 または、彼女の身長が俺の鳩尾ぐらいまでしかなくて、満員電車の人の海に溺れてしまっているように見えて、思わず助けないといけないような気分になったせいもあるかもしれない。

 ともかく、その日から、名前も知らない女の子に吊り革代わりにバッグのたすきを提供するのが俺の日課となった。

 * * * * *

「……」
「……」
 ガタンゴトンと揺れる電車の中、二人の間に会話は発生しない。
 朝の挨拶と、降りる時のお礼。それに対する俺の返事。それが俺と彼女の会話の全てだ。
 我ながら無愛想な男だ思うが、彼女も無愛想なのでそれはお互い様だ。
 彼女とこういう関係になった最初のうちは、なんとなく落ち着かずにいろいろと話し掛けてみたが、それに対する彼女の答えは全て「はい」か「いえ」だけだった。
 もっと会話らしい返答をしてくれることもあるにはあったが、大多数が「はい」か「いえ」で、とても会話を楽しむという感じではなかった。
 もともと俺は、女の子と積極的に会話出来る人間じゃないし、彼女も特に俺との会話を望んでいるわけではないようなので、今ではすっかり無言で、俺は文字通り、彼女専用の吊り革と化している。

 会話も無く、名前も知らぬ女の子にただ吊り革代わりにされるだけだが、少なくとも俺はこの吊り革役を楽しんでいた。
 彼女は無愛想だが、朝の挨拶とお礼の時だけ、真直ぐこちらを見上げて、綺麗な瞳を正面から見せてくれる。その瞬間が、毎日の楽しみになっていた。

 それだけに、今日でこの吊り革役が出来なくなるのが、残念でならなかった。

「…あのさ」
 彼女が降りる駅に着くまで、後数分の所で、俺は久しぶりに彼女に挨拶以外の声をかけた。
「はい?」
「えっと、その…」
 彼女はいつものように無表情でこちらを見上げてくる。綺麗な瞳と正面から視線が交叉し、俺は思わず口籠ってしまった。

『俺、今日でこの電車を使うの最後なんだ。今日、卒業式だから』

 その一言を言おうとして、口をつぐんだ。

 だからなんなんだ。卒業だからなんだというのか。吊り革役が出来なくなるのがなんだと言うのか。
 今までだって、完全に毎日吊り革役をしていたわけではないじゃないか。試験などで電車の時間がずれることもあったし、その時は別に彼女に何の断わりも入れていなかったじゃないか。

 自分が伝えようとしている内容が、なんとも間の抜けたことのように感じて、口に出すのを躊躇してしまう。

「……いや、ごめん。何でも無い」
 結局俺は、誤魔化すことにした。
 彼女は微かに不思議そうに首を傾げたが、すぐに無表情に戻り、正面に視線を戻した。

『黒羽根ぇ〜。黒羽根です。降り口は右側でございます』
 電車は定刻通りに駅に到着し、彼女がいつものようにお礼を言ってきた。
「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「あっ…」
 俺のバッグのたすきを掴んでいた、小さな手が離れ、彼女が踵を返す。
 彼女のセリフが、脳内にフラッシュバックした。

『明日もよろしくお願いします』

 明日は、無いんだ。今日で、最後なんだ。

 小さな身体が人波の中に消えていくのが、まるでスローモーションのように見えた。

「──ごめんっ」
 思わず、声を上げていた。
「ごめんっ。明日無理っ。というか今日で最後。俺、今日卒業式で、春から大学で、そんで、大学は電車使わないからっ」
 近くにいた乗客が何人か俺の方を振り向く。瞬間的に赤面した。そんな大声ではなかったが、明らかに場違いな声だった。
 おまけに、肝心の彼女には届かなかったようだ。彼女の姿はとうに消え、電車は無情にも発車のメロディと共に扉が閉まり、動き出した。

 …ああ、踏んだり蹴ったりだ。言わなきゃ良かった。
 俺は顔を両手で覆いたくなるのを抑えながら、吊り革に掴まった。
 いいやもう、どうせこの電車を使うのは今日で最後なんだ。ああ、くそっ。
 俺は、吊り革を掴んでいる右腕に赤くなった顔を埋めて、羞恥心に身悶えながら2駅の間を過ごした。

 * * * * *

 翌日、気になっていつもと同じ時間に、いつもと同じ車両に乗ってみたが、彼女は姿を現さなかった。
 その翌日も、そのまた翌日も、彼女の姿は無かった。
 1週間ほどその行為を繰り返し、とうとう彼女に出会えなかった俺は、その時、初めて激しい喪失感に襲われ、自分は彼女が好きだったんだと気付いた。
 同時に、もう二度と彼女と会えないのだと気付き、満員電車の中で泣きそうになった。

 * * * * *

「いってきます」
 玄関のドアを開けた俺を出迎えたのは、見事な五月晴れだった。
 眩しい朝日に目を細め、今日は半そででも平気かも知れないな、などと考えながら自転車に跨がる。
 大学生になってから1ヶ月が過ぎ、随分大学にも慣れてきた、そんな日だった。

 麻のYシャツのそでをまくり、大学に向かって漕ぎ始めた時、目の前に停まっていた黒塗りのハイヤーから白髪の運転手が降りてきた。
 こんな平凡な住宅地に立派なハイヤーが何の用だ? と脇目で見ながら通り過ぎようとした時、運転手がうやうやしく開けた後部座席から出てきた女の子が目に入り、俺はスッ転びそうになった。
 急ブレーキをかけ、ほとんど足で強引に止めるような形で自転車を停止させる。
 綺麗な瞳を真直ぐにこちらに向ける彼女は、相変わらず綺麗な黒髪を風に揺らし、小さい身体で佇んでいた。

 彼女は俺の傍に歩み寄り、こちらを見上げて静かに口を開いた。
「あなたに掴まれないと、私は朝の満員電車で押し流されそうになるので、あなたの卒業式があった翌日から、車で登校することにしたんです」
 その口調は、いつも聞いていたように平坦だが、心なしか楽しそうに聞こえる。
 突然の再会に声が出ない俺をそのままに、彼女は微かに首を傾げ、続ける。
「でも、何か落ち着かなくて。どうも何か掴まるものが無いと駄目みたいなんです」
「…よく、ウチが分かったね?」
 ようやく出た言葉は、そんな内容だった。そういうことが言いたいんじゃないのに。
「調べるのに2ヶ月近くかかりました。通っている学校と、水都線を利用しているという事しか知りませんでしたから」
「…あの日、俺の言ったこと、聞こえてた?」
「はい。降りてしまっていたので、また電車に乗ろうとしたんですが、間に合いませんでした」
「そうだったんだ。ごめん。もっと早く言うつもりだったんだけど…」
「いえ。あの時の言葉で、あなたが私の事気にかけてくれていると気付いて、とても嬉しかったです」
「…今日は随分おしゃべりだね。もっと無口なのかと思ってた」
 気持ちを見透かされたような気分になり、恥ずかしくなって、つい意地悪なことを口にしてしまう。
「2ヶ月分ですので」
「…そっか。2ヶ月か」
 何気なく呟いた途端、彼女の顔が泣きそうに歪んだように見えた。
「…これまでの人生で、もっとも長く感じた2ヶ月でした」
 彼女は微かに首を傾げ、泣き笑いのような顔で続ける。
「これから、私はどこに掴まれば良いのですか?」
 彼女の問いに、自然に口から言葉が出た。
「ここ、空いてるけど、掴まる?」
 車より乗り心地悪いと思うけど。と、自転車の後ろを指すと、彼女はとびっきりの笑顔で答えた。
「はいっ」

終わり






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