ベッドに投げ捨てられるように置かれた布切れを、ゆっくりと目線を動かして見つめる刹那に力はない。
見つめるその目が子供のようだ。黒目がちが目が、布を見つめてしばらく。
「…ぁ…」
ようやく、服だという事に気付いて、顔を上げる。
その動きさえも、随分とゆっくりとした動きだった。

全裸の刹那は、布を纏う事もさえ、しないようになった。
少しずつ壊れていく様が、手に取るように判る。
甘いにおいを身体中にくゆらせ、体内には誰かの精液がねっとりと絡みついている。
汚れていくベッド。身体の中の残滓を拭い去る事もせずに眠りにつく事も多くなった。
食事の回数が減り、表情が減り、動く事さえも少なくなった刹那の仕事は、身体を明け渡すことばかり。
己の意思で、サーシェスに抱かれていた頃とはまるで様変わりをした刹那にも、サーシェスは目線をちらりと向けるだけで、それ以上に何を言う事もない。
「着替えさせろ」
言われた言葉さえ、刹那に対してではない。
ベッドの上、精液の臭いをしみこませた刹那の肌に男の不躾な手が動く。
とろりとした目でそれを見つめていた刹那は、自分を見る事もなくなったサーシェスの顔を、それでもじっと見つめていた。

…麻薬によって、頭が、おかしくなったのではない。
何もかも失い、数知れぬ程の男に抱かれた事で、神経が焼き切られたわけでも。
深い思考はあるのだ。けれど、身体が追いついていかない。
言葉をしゃべりたいのに、口が動かない。サーシェスに伸ばしたい手が届かない。ただそれだけ。

判っている。こうして、まるで人形のようになってしまった自分も、サーシェスが望んでいた事だと。
服を着せられるのは、おそらく移動させられる為。かすかに響く地鳴りは、MSがここに近づいている証拠だ。…襲撃を受けるのだ、ここは間もなく。
サーシェスが、ここを軍に察知させるようなミスを犯す事はないだろう。ならばこれは計画の一部だ。
そうして、ここを壊させて、脱出するサーシェスは何処に行くのか。…服を着せられているのならば、ここでまだ殺すつもりもないのか。…こんな、何も役に立たなくなった身体を。
何を考えている?サーシェスは、今。
それだけが判らない。
無骨な男の手によって、用紙された服に袖を通され、ボタンが留められ、腰を絞るようにパンツを履かせ。民族衣装に身を包んだ刹那をベッドから立たせてみれば、その足腰は驚く程弱くなっていた。歩くことさえままならず、よろよろと蛇行するようにして歩く事が精一杯だ。

「こい」
よろめく刹那の腕を取り、引き上げる。
サーシェスの胸にもたれるように歩いて、あぁこの肌を感じるのはどれだけ久しぶりかと思った。
サーシェスに抱かれなくなってからしばらく、この男の肌を知らない。
引き上げられる腕、寄り添う身体。
扉が開いて、高い窓から太陽の光が差し込み、刹那は目を細めた。

たいよう。
…なんて、明るくあたたかい。

ここから連れ出される事など、初めての事だ。
長い回廊、足が縺れるかと思う程に走りぬけながら、身体を支えるサーシェスを見つめる。…優しさなど、この男には無いと思っていたのに。

長い時間、あの部屋に居た。
あの部屋だけが、刹那に与えられた部屋。
サーシェスが戻って来た時、それが自分が与えられたサーシェスの時間。
あの部屋に来た時だけが、サーシェスを独占できる時間になる。…それが全てだと思っていた。

轟音は、遠くから着実に響いている。
一際、大きな破壊音が聞こえてきたのは、その直後だった。
爆風。轟音。振り返る。
つい今しがたまで居た、あの部屋は、今は瓦礫となっていた。…あぁ、敵襲を受けている。

この城は、いばらの城。
来るものを拒み、出る事も出来ない。
隔離された部屋。
拘束され続けた身体。
けれど、本当は、城の中に咲くいばらの花に誘い込まれて出られなかった、あわれな人間だったんだ。

薔薇の花に誘い込まれ、好きなだけの快楽を与えられ、そうして今、枯れかけようとするこの時に、城を出ようとすれば、いばらが拒む。
花は鋭利な棘をなって、出るものを拒む。

潰された部屋。遠くから響く、MSの駆動音。
刹那に許されていた小さな部屋は、もう瓦礫と土埃の中。


「役に立てばいいがな」
ふと、サーシェスが告げた言葉に、仰ぎ見る。
役に。…立つだろうか、この身体は。
ガンダムパイロットとして、AEUに売りつける事が出来れば、少しはこの男の金の足しにはなるだろうか。
…ロックオンストラトスを殺した今、ガンダムマイスターとして売れる価値があるのは自分しかいない。

どこへ行くのだろうか。
もしかしたら、AEUだろうか。…だから自分はきちんとした服を着せられて、こうして外へと出される。
こんな腑抜けになった自分が、AEUに必要だといわれるかどうか解らないが、売れば多少の金にはなるだろう。
細胞が死に絶えたこの頭で、果たしてどれだけの情報をAEUに流せるのか。
…それは刹那にも解らない。この男の傍を離れる事で、自分が何を出来るのか。
わからない。

壊れゆく、城の壁。
長い通路を走り抜け、高い天井付近に取り付けられた窓から洩れる、太陽の光を見つめた。

…なんて、あかるいあたたかな太陽。

あんなあたたかな光を、持つ男を知っている。
もう死んでしまったけれど、何もかも無くなったけれど。
命なんだ。あの太陽のように、永遠に続くものではない。知っている。判っていた。

もう、いい。
もう、何もかもは終わった後だ。
親を殺し、世界を殺し、そうしてあの男も殺した。
全て自分の手で、声で、兵器で、そうして失くしてきた後に、この身がどうなろうと。


まぶしすぎる太陽から目をそらし、目を閉じる。
光に、重なる、それは。

「…刹那…!」

声。
よく知る、男の。
もう、聞けるはずのない、まぼろしの。

「…せつ、なァッ…!」

刹那の耳に、届いたのは、よく知る男の声だった。


「…ックオ、…」

細めていた目を見開く。
聞こえた。…確かに、聞こえてしまった。あの声、は。
走り続けていたサーシェスの足が止まる。
やっぱりか、そんなサーシェスの舌打が、耳に入って通り抜けた。ロックオン。

ゆっくりと刹那の顔が、声のする方へ動く。
そんな馬鹿な。死んだはずだ。殺した。自分が、殺せといって。…なのに何故。

刹那の目が、ロックオンを捕らえる、その瞬間。
身が強く引き寄せられて視線が外れた。
刹那の腕を取っていたサーシェスの腕が、刹那を突き飛ばす。よろけた刹那にロックオンの声が響く。

「…刹那ァ!」

響いた声、そうしてようやくその姿が、本当にロックオンストラトスである事を知る。拳銃を構え、こちらを睨み見据える男の姿。銃口は正確にサーシェスの胸に照準が合わせられている。
歓喜か恐怖か。震える刹那の横には、サーシェスが居た。目の前に差し出されたのは拳銃だった。
向き合う銃口。サーシェスの顔がにやりと歪む。

「しぶといやつだなお前は」
「…生かしておいて何を言う…!」

離れた距離からでも、ロックオンが唇を噛み締める音が聞こえたような気がした。
怒りに満ちた顔で、サーシェスを睨む、その目に映るのは、あきらかな殺意と憤りだ。

「…刹那を渡せ」

向けられる拳銃が、音を立てる。引き金にかかった指が、動く。
頭から血を流し、身体中泥まみれだ。いたるところからの出血、それだけの傷を負っても、照準の狙いは狂うことがない。

「刹那を渡せと言っている」
「渡してどうする。お前がどうするっていうんだ、このガキはもう何の役にも立たない」
「刹那なモノじゃねぇ」
「詭弁だ」
「うるせぇ!」

怒鳴るロックオンの声、その瞬間、サーシェスが動いた。
ロックオンの指先も。

口端を吊り上げたサーシェスが、刹那へと腕を伸ばしたのが見えた。

「…っくそっ…!」
瞬間、ロックオンが放った銃弾は、狙い定めた場所へ、確かに命中していた。
…そう、確かに、サーシェスの胸があった、その場所に。

一発の銃声音。
それは破壊音が響く城の中に、甲高く確かに響き渡って反響し、やがて消えた。

銃弾が、めり込んだのは、背中。
黒髪が跳ね上がり、身体が硬直した。
着せられた服、背中にめり込んだ弾。
そう、それはサーシェスの背中ではなく。

「……っ…せ、つ、…、」

降ろした拳銃、撃った弾がめり込んだ身体が誰のものか。理解した途端に、身体中の力が抜け落ちたのかと思う程の錯覚。

「…ぁ…、」
小さな少年の背中が、見る間に赤く染まった。弾は、その体内に止まったのか。
ゆっくりとサーシェスは動いた。…その胸は無傷。
そして、その胸のあった場所に。
「刹那ッ…!」
ロックオンの声が、高い天井に響き渡った。
刹那、刹那、刹那!

駆け寄ろうとしたロックオンを、しかしサーシェスが構えた拳銃が銃口を向けて止めた。
「…っ、…」
今、構えてもこちらが撃たれる。
刹那はサーシェスの腕の中。助け出す間に、銃口はロックオンを撃ち抜くだろう。

「…ぁ…」
小さな、刹那の声が聞こえた気がした。
自分が撃たれたのだと、ようやく判ったのだろう。ひくりと震えた身体が、サーシェスを見上げるその動きがぎこちない。
信じられないものを見るかのように見開いた刹那の瞳に、サーシェスの赤い赤い髪と、細められた目が映る。
「最後で役にたったな」
盾になってくれた。

刹那を引き寄せたのはサーシェスだった。
ロックオンがサーシェスの胸を撃ち抜くその瞬間、刹那を引き寄せ、その身体を盾かわりに使った。
予測もできなかった行動に、ロックオンも、盾にと利用された刹那でさえも、言葉を無くす。

「サ…、」
おそらく名を呼ぼうとして、口端から溢れる血が邪魔をした。けほっと咽れば、口の中に血が広がる。立っていられない。心臓が上手く動いていないのだと自分で判る。これは出血の量が多すぎるからだ。

「…ぁ、」
死ぬのか。…ここで。
サーシェスの、腕の中で。
理解しながら、身体の力が抜けていく。崩れそうになる刹那の身体を、サーシェスの腕が支えた。
それは逞しく、倒れ伏すばかりの刹那の弱弱しい身体を掬い上げる、腕。
「…さ、しぇ、…」
見つめ合った目、頬を撫でるサーシェスの手。
あたたかい。…あたたかい。
唇に、ふってきたのは、キス。
血の滲む唇を一瞬だけ掠め、そしてサーシェスは刹那から手を離した。刹那の身体が床へと落ちる。

役に、たった。
最後に?
…これで、終わり、だから?

「刹那!」
ロックオンの目線が刹那に移ったその瞬間、サーシェスは振り返らずに、廊下を走り抜けていた。
「っ…貴様、ッ!」
一度銃を下ろしてしまった後だ。今更引き金を引いても、もう間に合わない。
「……っ、刹那ッ…!」
叫んだ。ロックオンが手を伸ばす。床に崩れ落ちた刹那の目が、逃げさるサーシェスを見つめていた。
遠ざかる。
赤い、赤い、髪。
…赤い、太陽のような、おおきな、あの、…。

「刹那、刹那!」
ようやく触れる事が出来た刹那の身体を抱き寄せ、叫ぶ。
…叫んで、そうしてその目がまだサーシェスが逃げた場所を見ているのだと知って、ロックオンは刹那を抱え込んだ。
もう見なくていい。見なくていいんだ!
「刹那っ…」
その瞳を覆う。ロックオンの胸で。

「…さ、…ぇ、…」
「違う、せつな、もう…」
塞いだ瞳の奥、それでも刹那は逃げ去った男の背中を見つめる。
どれだけロックオンの身体で塞いでも、それでも。

撃ち抜いてしまった。
この身体を。
違う、お前を殺したかったわけじゃない。
お前を、一人にさせたかったんじゃない。

「刹那、刹那、俺は…!」

どうしてこんな事になった?
ロックオンの手は、刹那の背中から溢れた血で真っ赤に染まり、指先から洩れる赤い血が、石畳の床へとめどなく落ちて流れ行く。

これは刹那の血か。
刹那の中から流れ出る、真っ赤な血。
それは刹那の命だった。
零れ落ちる、真っ赤な命のかたまり。

やめてくれ、もう流れていくんじゃない。
お前が捨てていいものなんて1つもない。
大切なお前だけのもの。この血だってこの命だって、爪のひとかけらだってお前だけのものだ!

「いくな、…いくんじゃねぇ刹那、なぁ刹那、お願いだ、もうどこにも…!」
血の一滴たりとて誰にもやるものか!

出血を止めるかのように抱きしめる。
刹那の身体を強く強く抱きしめる。
けれどそれでも血は流れ出るんだ。あふれ出して止まらずに、まるでそれは命の流出のように。

「…刹那ぁッ…!」

ロックオンの叫び声が、高い廊下の天井にこだました。
それは、悲鳴だった。








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