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春、というにはまだほんの少しだけ暖かさが足りない季節、
授業もほとんど終わって教師達はのんびりとしたムードになり、
卒業を間近に控えて生徒達も皆浮き足だっていた。
この日も半日で授業が終わると、それぞれの教室から子供達が弾かれたように飛び出し、
数分後には水を打ったような静寂が訪れる。
春休みの予定を楽しそうに話し合う同級生の声を遠くに聞きながら、
愛はゆっくりと立ちあがる。
それに気がついた何人かが声をかけたが、
愛は全く耳に届いていないかのように教室を後にした。
無視された格好になった生徒が抗議しようと愛の横顔に目を向けると、
普段からあまり感情が表に出ない愛だったが、
今日はいつになく思いつめた表情をしているような気がした。
その生徒は心配してやるべきかどうか迷ったものの、
すぐに級友とのおしゃべりに戻るとそれっきり愛の事は頭から追い出してしまった。
友達も、周りの全ても、ほとんど愛の五感には認識されていなかった。
愛は自分でもどうしたら良いのか判らないまま、
しな子と拓也のクラスまでの短い廊下を歩いていく。
何歩も歩かない内に隣の教室についてしまうと、中に入る前に素早く扉越しに中を見渡す。
拓也がいない事に胸をなでおろしながら、静かに扉を開けるとしな子の方にまっすぐ向かう。
しな子も愛の同級生と同様に友達と何事か楽しそうに話していたが、
愛に気付くと軽く手を振って挨拶した。
「深谷さん、ちょっといいかしら?」
「あ、うん。ちょっと待って」
しな子は友達に挨拶すると手早く荷物をまとめて席を立つ。
同じクラスの友達よりも自分を優先してくれるしな子に、
愛は胸が刺すように痛むのを感じながら無言で前に立って歩きはじめた。
最近は二人の話はほとんど廊下で話を済ませていたから、
しな子は愛が何も言わず歩くのを奇妙に思ったが、黙って後ろをついていく。
ほとんどロボットのように規則正しく手足を動かしながら、
愛の脳裏には自分をこんな事に駆り立てるきっかけになった出来事が浮かんでいた。
昨日の夕方の事だった。
愛は親に頼まれて商店街に買い物に向かう途中、
拓也としな子が並んで歩いているのを見つけた。
いつもなら普通に、あるいは普通でなく後ろから挨拶していたのが、
何故かその日は出来なかった。
気付かれないようにこっそりと後ろをついていくと、
二人は何事か話しながら、時折楽しそうに笑っていた。
拓也の笑顔が自分が見た事の無いものだと感じた時、
自分の心の薄暗い部分が頭をもたげてしまうのを止める事が出来なかった。
いたたまれなくなった愛は買い物の事も忘れて、その場を逃げるように走り去った。
二人はたまたま拓也が買い物に行く時に出会っただけで、
その後も少し立話をしてすぐに別れていたのだが、
たとえそれを愛が知ったとしても、もう砕けてしまった心は戻らなかっただろう。
それからの事を、愛はあまり覚えていなかった。
ただ、拓也としな子の事をずっと考えているうちに夜が明けていた。
愛はいつのまにか自分の足が止まっていたのに気がついて目の前に意識を戻すと、
そこは体育倉庫の前だった。
「どうしたの? わざわざこんな所で話さなくちゃいけない事?」
しな子はこんな所まで連れてきたのを怪しんでいる訳ではなく、
単に疑問を口にしただけのようだった。
自分の事を疑おうともしないしな子に胸の痛みが増していくが、
心と身体は別々になってしまっているのか、手が勝手に扉を開き、
薄暗く、わずかに光が差しこむだけの倉庫の中に足が踏み込む。
「ね、槍溝さん? 何かあったの?」
自分の方を振り返ろうともしない愛に、さすがにしな子の口調は不審そうなものになる。
その声に愛は目を閉じ、何かを振り払うようにゆっくりと開きながら向き直ると
突然しな子を軽く突き飛ばし、驚いているしな子の手首に素早くマフラーを巻きつけてしまう。
「や……槍溝さん?」
慌てて抵抗しようとしたしな子だったが、
あっという間に両手首を結わえられて頭の上に吊るされてしまった。
「ねぇ、槍溝さんってば!」
しな子はさすがに少し怒りを含んだ口調になるが、
愛は無言のまましな子の上着の中に手を滑り込ませる。
愛の手はしな子の胸の敏感な所を撫でまわすが、
あれほど心地よかった指先が今は嘘のように気持ち悪く感じられる。
突然、指の動きがつねりあげるものに変わった。
「痛っ……ちょっと……嫌よ、止めて!」
痛みと、愛の不可解な行動に、とうとうしな子は大きく暴れるとはっきりと拒絶の意思を示す。
それは二人が友達になってから初めて口にされた嫌悪の言葉だった。
「……もう、駄目なの」
しわがれてひびの入った声で愛は絶望を口にする。
しな子は愛のこんな声を聞いた事がなかった。
思わず暴れるのを止めて愛の顔を見るが、愛はしな子の方を見ずに独白を続ける。
「拓也君があなたの事を好きになったらって思うと、耐えられないの」
しな子の胸に置いた手を強く握ると、小さな胸が痛々しく形を変える。
「深谷さんは拓也君と同じクラスだし、私の居ない所でたくさん話してるって思うと、
胸が張り裂けそうになるの」
一言一言、心の塊を削り取るように愛は心境を語る。
「自分が間違ってるって事は解ってるの。でも……私、もうどうしたらいいのか……」
「……あたしだって」
愛の心の奥底に秘められていた物を理解した時、
しな子の口からほとばしったのは怒りだった。
「あたしだって、榎木君が槍溝さんと付き合ったらどうしようって、ずっと怖かったんだから!」
周りに聞こえてしまう事も構わず、胸の痛みも忘れてしな子は叫んでいた。
その声に、愛の身体が雷に打たれたように跳ねる。
「いっつも槍溝さんは一歩引いてくれてたけど、
裏でこっそり榎木君と会ってるんじゃないか、
あたしの知らない所で知らない事してるんじゃないかって不安だったんだから!」
「それに、槍溝さんの方が可愛いし、大人っぽいし、
榎木君が突然あたしの事なんて無視するようになるんじゃないかって」
最後は半分涙声になりながら思いの丈を打ち明けるしな子に、
まさかしな子が自分と同じような悩みを秘めていたなどと思っていなかった愛は
とまどったような表情になる。
「………ごめん……なさい……」
愛には数分にも感じられた何秒かが過ぎ、
やがてのろのろとした動きでしな子の上から降りると、
両手の縛めを解き、小さな声で謝った。
不意に自分のした事にどうしようもなく腹が立って、目に熱い物があふれてくる。
「私……私、ごめんなさい……こんな事して……」
そのまま泣きはじめた愛を、しな子は優しく抱き寄せる。
愛は逆らわずしな子の肩に額を押し付けると、そのまま静かに泣きはじめた。
しな子はその背中をさすってやりながら、愛が落ち着きを取り戻すのを待つ。
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