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工房の中に異臭が立ち込める。
薄く緑色がかった煙が充満し、この世の物とも思えない光景が現れた。
その中に一人立つ少女は、煙にむせかえりながらも机を離れる事は無く、
懸命に調合を続ける。
いつまで続くのかと思われたこの地獄絵図も、
やがて煙が晴れていくと共に、ようやく終わりを告げようとしていた。
もっとも、匂いと煙が無くなっても工房内に溢れかえるゴミの山は
人によってはまた別の地獄にも見えるのだが。
少なくとも自分がいる場所をそんな風には思っていない部屋の主が、
軽く煙を吸ってしまったのか、激しいせきをしながら完成した物を大事そうに取り上げた。
「やっと……できたぁ」
限られた者しか存在を知らない図書室の奥の部屋、
その片隅に見つけられる事を拒むかのように置いてあった本を見つけてから1ヶ月、
エリーはアカデミーにも行かずにこれひとつを作るのに専念していた。
媚薬……錬金術の起源は金を創り出す事から始まったと言われているが、
その暗がりで、同じくらいの熱心さで研究され続けている禁断の薬。
このあまりに甘美な果実の調合法を知った時、エリーは真っ先に思い浮かべた顔があった。
アイゼル・ワイマール。
下級とは言え貴族の出の彼女に、エリーは一目見た時から心奪われていた。
彼女は同級生のノルディスに想いを寄せているようだったが、
会う度に募る恋心は抑えきれなくなっていった。
だから、薬の力を借りてでも。
それが人の道に反していると判ってはいたが、もう引き返す事は出来なかった。
自分の心を奮い立たせるように頬を軽く叩くと、
エリーはその時の為に大事そうに薬を戸棚に隠した。
それからの数日、エリーはアカデミーに行く気もおきず、
といってもちろん何かを調合する気も無く、
ただ机に座ってぱらぱらと書物をめくりながらその時を待ち続けていた。
しかし、薬を作ってから四日を数えた日の午後、エリーの耳に上品に扉を叩く音が飛びこむ。
「エリー、いるのかしら?」
エリーの知る限り、自分の家の扉をこんな風に叩ける人間は一人しかいなかった。
彼女が、来た。
心臓が痛いほどに身体を打つ。
エリーは逸る心を無理やりねじ伏せて軽くせきばらいをすると、いつもの口調を作った。
「は〜い、開いてます」
静かに扉が開くと、果たしてそこにはエリーが求める少女が立っていた。
「……全く、この匂いなんとかならないの?
ここに来ると服が1週間は着られなくなっちゃうのよね」
「あ、ご、ごめんね」
隣からの苦情も無いし、そんなに匂っているとも思わないのだが、
彼女の身体から漂う芳香を嗅ぐと、
自分の方が間違っている気がしてエリーはつい謝ってしまう。
「まあいいわ。どうせ言っても無駄なんだし。
それより、また揃えてもらいたい物があるんだけど、いいかしら?」
「う、うん。とりあえず中に入って」
それこそが嫌で玄関から動かなかったのだが、
エリーはさっさと身を翻して中に戻り、飲み物を出す準備を始める。
仕方なくアイゼルも、なるべく息を大きく吸わないようにしながら工房の中に入った。
「あなた……最近アカデミーにも来ないで、何してたの?」
「え? あ、ええと、新しい調合なんだけど、失敗しちゃって」
妙に言葉を濁すエリーに、アイゼルは彼女が何か隠している事に気付いた。
(ふーん……人に言えない調合でもしてたってあたりかしらね。確かめてあげようじゃない)
アイゼルはエリーを嫌いではなかった。
初めこそノルディスにまとわりついているのが癇に触ったが、
彼女の性格が、アイゼルも認めざるを得ないほどお人よしだと判ってからは
むしろ友人、と言っても良いくらいに位置付けていたのだ。
ただ、彼女の笑顔を見ていると、どうしようもなく困らせてみたくなる時があった。
自分でもその理由が判らない事に困惑といらだちを覚えつつ
彼女を八つ当たりの的にしてしまい、それでも自分に非があると思って謝るエリーに、
更に刺々しい言葉を投げつけるという悪循環を自制出来なかったのだ。
今も、少し意地の悪い好奇心から、エリーが行っていた調合の正体を突き止めようと決めたアイゼルは、
少しでも手がかりを得ようとさりげなく部屋を見渡す。
調合に使われた机の上に何が乗っているのか、
身を乗り出して確かめるべきか迷っていると、エリーが視界を塞ぐように立ちながらグラスを並べた。
「はい、どうぞ」
出された飲み物を一瞥してアイゼルは何かが入れられているのを確信する。
その徴はわずかな、本当にわずかな匂いだったが、
エリーの態度と合わせて考えればアイゼルには充分だった。
(私も随分馬鹿にされた物ね。何が入ってるか判らないけど、こんな手に引っかかるものですか)
さすがに毒では無いだろうが、もちろんそのまま飲んでやるほどお人よしでも無いアイゼルは、
口実を作ってエリーに席を立たせると、素早くグラスを取りかえてしまう。
「じゃあ、頂くわね」
アイゼルが勢い良くグラスを空けたのを確認すると、
すりかえられた事に気付かないエリーは自分もひと息に飲み干した。
(さ、これでどうなるのか、見せてもらうわよ)
アイゼルはとりとめもない話に付き合いながら注意深くエリーを観察していたが、
目に見える変化は現れて来なかった。
(何よ、調合失敗してるのかしら? ま、ありえる話ではあるけど、ちょっと期待して損しちゃったわ)
これ以上ここに居ても何もない、と判断したアイゼルは拍子抜けしながらも寮に戻る事にした。
「あ、うん。それじゃ、10日くらいで出来ると思うから、またその頃に来て」
「わかったわ。それじゃお願いするわね」
しかし、アイゼルを見送ろうと席を立ったエリーはその場に座り込んでしまった。
「ちょっと、何してるの? 自分の家で転ぶなんて恥ずかしいにも程があるわよ」
「えへへ……あれ? ね、アイゼル。ちょっと立たせてくれない?」
アイゼルは最初エリーが冗談を言っているのだと思って相手にしなかったが、
一向に立ちあがろうとしない彼女に苛立ちを見せて近寄る。
「もう……ふざけるのもいいかげんにしてくれる? 私はあなたと違って暇じゃないのよ」
少し乱暴に手を掴むと、エリーは身体に電流が走ったように身をすくませて手を払いのけた。
「何、あたしの手助けなんていらないって訳? もういいわ、勝手になさい」
「ま、待ってアイゼル、あたし、おかしい、の……」
エリーの声にからかっている様子は無い。
アイゼルはようやく彼女の身体に何かが起こったと知って、真剣な表情で顔をのぞきこんだ。
「……どうしたの?」
「なんだか急に……身体が熱くなって……力が入らなくなっちゃったの……」
そう訴えるエリーの吐息は妙に熱く、そして瞳は潤んでいる。
その状態を目にするのは初めてだったが、
アイゼルにはエリーの身体の変化の正体に思い当たる節があった。
(……この子、もしかして……感じてるの?)
彼女が何を作ったか薄々気付いたアイゼルは、そっと彼女の頬に手の甲を押し当てた。
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