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空気が淀み、瘴気にも似た気配が辺りを覆った。
慣れたからといって受け入れられる訳でもないこの苛つく感覚に、身体の隅々に血が漲る。
最初っから交渉する気など無い、出現即戦闘タイプの敵だ。
俺の左右でもそれぞれの方法で身構え、闘いが始まる瞬間を待ちうける。
デカい……!
もう目視出来るほどになった空間の歪みは、ほぼ通路全体を埋め尽くしていた。
もちろん大きいからと言って強い、と決めつける事は出来ないが、
基本的にこの世界に実体化するにはその大きさに比例して
大量のマグネタイトが必要な事を考えると、
やはり大きければそれなりの実力を持っている、と考えて差し支えないだろう。
改めて剣を握り直したのと、敵が実体化するのはほとんど同時だった。
八つ首の、蛇。
初めて遭遇する奴だが、コンピュータにデータは無くても、
俺の日本人としての知識が、それがヤマタノオロチという名前であると知らせていた。
神話の世界で神でも無いのに名を残すほどの強大な奴だ。
恐怖からか、勝手に踏みこもうとする足を必死で押さえて実体化の時を待つ。
「嫌……!」
突然背後から悲鳴が上がった。
前方に気配を残しつつ素早く振り向くと、俺の斜め後ろにいた櫛名田の身体が薄れていく所だった。
殺られたのか? 違う、あれは還っていく仕種だ。
しかしそこまでを把握するのが精一杯で、
それ以上の事情を知る余裕は無く再び目の前の敵に相対する。
死闘が始まった。
俺達の数は五人、オロチの首は八本。
分が悪い闘いだったが、俺の手にする剣は所有者を六本腕の闘神のように操り、
次々とオロチの身体に傷を与えていく。
小さい頃に聞いた話の通り、オロチは再生能力を持っていて闘いは長期戦になったが、
やがて奴は咆哮を轟かせて奴の世界に戻っていった。
剣を収めると、仲間の状態を確認する。
ここでようやく櫛名田のことを思い出す余裕が出来た俺は、
反射的に櫛名田を呼び出そうとコンピュータに伸ばしかけた手を慌てて止めた。
彼女は闘いを好まない性格だったが、意味も無く逃げ出すようなことも無いはずだ。
先にその理由を考えてみると、やがて子供の頃に読んだ太古の因縁に思い当たった。
その時は神話として得た知識が、まさか現実の、それも自分と関わる羽目になろうとは。
今更ながらにこの世界で起こったことに眩暈を感じながら、
俺は櫛名田を呼び出すのを夜まで待つことにした。
皆が寝静まった頃を見計らって、俺は少し離れた所へ移動した。
あいつ等が起きてこないのを確認すると、
待ちきれない指先が勝手に動いてもどかしげにキーを叩き、櫛名田を呼び出す。
召喚に応じて姿を現した櫛名田の顔は、月の灯りのせいか、やや青ざめているようにも見えた。
呼んだはいい物の、なんといって声をかけたら良いか解らない俺と、
言うべき言葉は解っていてもそれを口に出せない櫛名田との間に青白い沈黙がたゆたう。
もともと、文字通り浮世離れしている女神の白い顏がほとんど血色の無い物になっている。
その愁いを帯びた顔に、俺の口は凍結してしまったかのように動かせなくなってしまった。
俺は不甲斐ない自分を殴りたくなったが、その前に櫛名田が口を開いた。
「昼間は失礼いたしました。主様を置いて逃げるなど許されざること。
いかようにもしてくださいまし」
「……そんなつもりで呼んだんじゃないんだ」
俺の不器用な慰めの言葉にも、俯いたまま櫛名田は答えなかった。
上質の絹のような顔が今は深い影に覆われているが、そんな表情ですら美しい。
俺はいつのまにか間抜けに開いていた口を慌てて閉じると、
なんとか呼び出す前に考えていた台詞で説得を始める。
「……オロチとの関係を考えれば逃げ出すのも当然だ。別に気にしちゃいないよ」
「ご存知だったのですか」
じっと顔を伏せていた櫛名田が驚いたように顔を上げる。
「あの時は気付かなかったけどね。ヤマタノオロチの話は結構有名だからすぐ思い出したよ」
自分のことが書物に載っていて他人に読まれるという感覚がむず痒いのか、
櫛名田の口元がわずかにほころんだが、長い間では無かった。
「いずれにしても、主様をお護り出来なかったわたくしは
これ以上お仕えする訳にはまいりません。おいとまをいただきとうございます」
あくまでも頑なな櫛名田に、俺は仕方なく、出来れば言わずに済ませたかった言葉を口にした。
「その……俺じゃ駄目かな? オロチから君を護るのは」
真意を量り兼ねたように櫛名田が軽く首を傾げる。
これから言おうとする言葉に早くも俺の顔は沸騰したように熱くなったが、
ここまで口にして引き下がる訳にはいかなかった。
「あ、ああ…もちろん君がもう結婚してるのは知ってるよ。
でも、この世界にいる時くらいは、……そばにいて欲しいんだ」
俺の人生初めての告白は人間相手では無かったのだが、そんなことを気にする余裕も無かった。
「主様……」
櫛名田はそう言ったきり口を閉ざす。
そりゃそうだろう、人間に好きだなどと言われるのは初めてだろうし、
そうでなかったとしても何もかもが俺達は違っていた。
櫛名田が口を開こうとしないのは何と言って断ろうか言葉を選んでいるに違いない。
余程の阿呆でなければ導ける結論だったが、生憎と俺はその上を行く阿呆だった。
断られようが何だろうが、こうなったらとことん気持ちを伝えるしかない。
俺は長期戦になることを覚悟しつつ、櫛名田の言葉を待った。
「主様はこの御世をお救いになられる方。わたくしなどでは畏れおおうございます」
ようやく口を開いた櫛名田の言葉は否定と言うにはやや弱く、
俺は意外に思いつつも説得をはじめる。
「君だって女神だろう? それを言ったら俺の方が畏れおおいはずだよ」
「……ですが、お戯れで申されているのではないのですか?
わたくしは、自分のどこが主様のご好意に値するのか判りませぬ」
「どこが……って、そりゃ、全部……としか言いようが無い……けど……」
随分とこっ恥ずかしいことを言っている気がして眩暈がしたが、
本当のことだから仕方が無かった。
「それでは、本気……なのですか?」
ようやく、仲魔として使えるから、ではなく思慕の情で今まで召喚されていた、
と悟った櫛名田は目を軽く見張って手を口元に当てる。
「……ああ」
告白の最後の一言を言った時、全身から冷や汗が吹き出してしまった。
その場に座り込んでしまいそうになるのを耐えながら、櫛名田の返事を待つ。
彼女はしばらく俯いていたが、やがて意を決したように顏を上げた。
「そのお気持ち、嬉しゅうございます。
わたくしも……主様の……お傍に仕えさせて頂きとう存じます」
月の逆光で表情は良く見えなかったが、声はわずかに震えていた。
櫛名田の言葉に、俺の中に青臭い中学生のような喜びが満ちる。
しかしその感情を恥ずかしいとは思わなかった。
それでも、この場で飛びあがるのは流石に子供っぽい気がして拳を握りしめるだけで我慢する。
拳の中で喜びを爆発させた後、不意に頭の中に気になることが浮かんできた。
「ところで、その」
「なんでしょう?」
「旦那さん……なんだけど」
ここまで来て及び腰だと思われるのは嫌だったが、どうしても確認しておきたかった。
俺の意を正確に理解した櫛名田は軽く微笑んで答える。
「神々の夫婦の契りは様々ですわ。
イザナギ様とイザナミ様のように仲睦まじい物もあれば、
契りという言霊自体に重きをおかれる方々もいらっしゃいます」
「それで……君は?」
俺はどこか遠くで自分が生唾を飲み込む音を聞いた。
ひとたび気持ちを受け入れてもらった以上、たった今告白を終えたばかりだとしても、
精神的な繋がりだけで満足です、などと聖人のような考えは毛頭なかった。
だから聞いても聞かなくても同じではあるが、やはり先に知っておきたかった。
「……あの人は、ずっと子供みたいなものですから、
女性と戯れるよりも暴れる事の方がお好きなようです」
櫛名田は口元をほころばせながらそう言った。
その微笑みが誘っているような気がして、俺の中の欲望に歯止めが効かなくなってしまった。
「あの……その、契り……なんだけど、今……したいっていうのは駄目かな?」
「今……ですか?」
櫛名田は急いた頼みに驚いたような声を上げたが、しばしの沈黙の後に軽く俺の額を小突いた。
子供扱いされたような気がしたが、
実際2000歳以上も離れているから仕方の無い事かも知れない。
そう思って俺は気付かれないように苦笑いを浮かべた。
尤も冗談でもそんなことは言えないし、櫛名田の美貌の前には年月さえ膝を屈するだろうが。
「せっかち……なのですね」
やや砕けた言葉使いになった櫛名田は、立ちあがると俺の正面にある天空の灯を背に向き直った。
かすかな衣擦れの音がして羽衣が彼女の身体から落ちる。
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