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生じる違和感を、俺は拭えないでいた。
手足はあり、感覚もある。
それなのに今の俺は精神だけの存在であり、立っている場所が人の──
悪魔に憑かれた少女の心の中と言われても、容易に受け入れられる訳もなかった。
サイコダイバーと呼ばれる異能力者の助けを借り、少女の精神に入った俺達は、
その奥深くに巣くっているという悪魔を倒し、彼女を救う為に歩んでいた。
積極的ではないにせよ、こんな一文の得にもならないことをする気になったのは、
ひとつには、力を手に入れた途端、あっさりと俺達を見捨てた奴への反感があった。
俺は、力に溺れたりはしない──という自分の意思を、行動によって確かめようと思ったのだ。
元から困っている人間を見ると手を貸さずにはいられない直人がそれに反対するはずもなく、
俺達は少女の精神の中にダイブすることにしたのだった。
悪魔を探してどれだけの時間歩き続けたのかも判らなくなった頃、唐突に目の前が開けた。
辺りは薄暗く、視界は数メートルしか効かなかったから、
正確には、そう感じるだけではあるが、
数知れぬ悪魔との戦いを通して鋭敏になっている自分の感覚を、俺は信用している。
そして、それが間違っていないことを証明するかのように、闇の向こうから声が聞こえてきた。
「だれだ!? あたしの楽しい時間をジャマするヤツは」
どうやら目指す場所に、俺達は来たらしかった。
返事をせず、無言で武器を構える俺達の前に、一体の悪魔が現れる。
何に掴まっているのか、逆さに宙にぶら下がり、顔だけをこちらに向けている。
目を凝らし、敵の全体像を把握した俺は、嫌悪感に声を上げそうになっていた。
完全に悪魔ならば、臆することはない。
人であっても、もうためらいはしない。
最悪なのは、全体としては人間の輪郭を保ちながら、部分部分が異形と化している悪魔だった。
そして彼女──顔と、くびれている腰は女のものだった──はまさしくその一種で、
胴体は人間のそれでありながら、手足の中ほどから先は昆虫の足を思わせるものがついている。
特に、顔が美貌を保っているのが、哀れですらあった。
成仏させてやる──
元よりの目的に、新たな意思を加え、俺は慎重に間合いを詰めた。
「お前が、この人に取り憑いている悪魔とやらか」
「そうさ。あたしの名はアルケニー。闇を織り、混沌を紡ぐ者。
お前達はなんだい? この女を助けにでも来たってのかい?」
アルケニーの声はその顔の方に相応しい、澄んだ音色で俺の鼓膜をくすぐった。
ただし姿勢は相変わらず八の字に広げられた手足で顔だけをこちらに向けており、
ぶら下がっていることもあって、蜘蛛のような印象を与える。
その印象をもう少し深く考えることがあれば、もしかしたら異なる結果を導けたかもしれないが、
その時間は与えられなかった。
振り子のように自らの身体を振ったアルケニーが襲いかかってきたのだ。
素早い体当たりを、身を沈めてかわそうとした俺は、足元が奇妙に不安定なのに気が付いた。
転びこそしなかったものの、大きくバランスを崩してしまう。
地面に手をつくと、気色悪い感触が手にまとわりついた。
アルケニーの二撃目を横転してよけると、今度は身体中を同じ気色悪さがなぶる。
危険を感じ、その正体を確かめようと、俺は手を眼前に持ってきた。
広げた指の間に絡みついていたのは、糸だった。
驚いた俺は身体を見下ろし、そこに同じ物がまとわりついているのを知って愕然とする。
目に見えないほど細い糸が、床一面に敷き詰められていた。
彼女の心奥は、もうこの悪魔が支配していたのだ。
大きく手を振って糸を払ったものの、糸は意思をもったかのように身体から離れない。
子供の頃蜘蛛の巣に触れてしまい、中々取れずに辟易した記憶が脳裏を掠めた。
もちろんこれはそんな生易しいものではなく、俺は剣で回りの糸を薙ぎ払う。
しかしこの時点で、勝負はついていたと言っても良かった。
アルケニーは必ずしも攻撃を当てる必要はなく、
俺達がかわして勝手に糸を巻きつけていくのを余裕を持って待っていれば良かったのだから。
俺達は必死に剣を振り、魔法を唱えてアルケニーを倒そうとしたが、
剣の届かないところから襲いかかり、
魔法の当たらない速さで動き回る悪魔に有効打さえ与えることが出来ず、
気付いた時には四肢の動きはおろか、指一本動かす事が出来なくなっていた。
「気は済んだかい?」
俺達が動けなくなったことを確かめたアルケニーは、
俺の目の前でぶら下がり、嘲りを込めて囁く。
俺はなお右腕を動かし、彼女に剣を突き立てようと試みたが、
幾千の悪魔を屠ってきた剣は、もはや新たな血を啜ることはなかった。
直人も同じように全身に糸を巻かれ、話すことすら出来ない状態にされている。
悔しさに歯軋りすると、それを合図にしたように後ろに引き摺り倒された。
床に頭をぶつけ、鈍い痛みが頭の中に響いたが、それも、敗北し、
これから為されることへの恐怖と較べれば、大した物ではなかった。
両腕を広げ、十字架に磔にされたような格好をさせられた俺の上に、アルケニーが跨る。
二十代前半に見える顔は目鼻立ちが整っており、歴然とした美女であったが、
耳の横に突きたてられている彼女の、鋭い歯を持った昆虫の足を思えば、
そんなものに惑わされるはずも無かった。
俺の目を覗き込んだアルケニーは、その瞳に興味を浮かべる。
「ふうん、お前……この女の意識に出て来る男だね。
気に入ったよ、まずはお前を食らい尽くすとしようか」
朱(く滑る舌で唇を舐め回したアルケニーは、その端に滴った唾液を俺の口に落とした。
せめてもの抵抗として硬く唇を噛む俺を、愉しそうに笑う。
「そうそう、あんまり最初から従順でも面白くないからねぇ」
身動きの取れない俺の顔に、次々と唾液を垂らし、ねっとりと舌を這わせる。
俺はその舌を噛み千切ってやりたかったが、
そうすれば唾液を呑みこむ事になってしまうので、耐えるしかなかった。
懸命に口を閉じる俺に構わず、アルケニーは粘る糸を吐きかけ、
唇と言わず鼻と言わず、顔中に唾液の膜を広げていく。
顔中を汚される敗北感に耐えながら、俺は最後の砦とばかり、
口を閉ざし続けることに意識を集中させていた。
口を開かない俺に、一通り唾液を塗りたくったアルケニーは慌てるでもなく、一度顔を離す。
次に彼女が取った戦法は、唇に集中して唾液を落とすというものだった。
わずかな、しかし確かな重みが口をこじ開けようとしてきて、
砕けんばかりに奥歯に力を込め、俺は抗う。
そのさなか、いきなりぬるりとした感触が唇に触れた。
「……!!」
アルケニーが、自分の作った澱んだ水溜まりを、舌でかき回してきたのだ。
温(い液体を皮膚に染み込ませるような、繊細な刺激。
堕落に誘う艶めかしい愛撫は、頑なに拒む俺を、外側と内側の両方から苛んでくる。
反応しては、いけない──
そう、呪文のように頭の中で繰り返しても、アルケニーの舌は、時に強く、時に弱く、
これ以上無い的確な淫らさで俺を責める。
動かない身体に走る愉悦に、少しずつ閂が外れていく。
その最後の鏨(となったのは、悪魔の頭髪だった。
アルケニーの、切り揃えられた髪が頬をくすぐった時、
それまでとは異なる感情が裡に芽生えたのだ。
それはもちろん錯覚、あるいは妄想に類するもので、
一瞬の自失で気付いた俺は、急いで再び奥歯を噛む。
しかし、時既に遅かった。
舌が、まさしく悪魔的な素早さで口内に潜りこんで来たのだ。
唾液と共に入りこんだ舌は、小娘のように逃げ惑う俺の舌を掘り起こし、じっくりと掘り起こす。
喉の奥までねぶられて、目の眩むような快美感が俺を包んだ。
絡みつくアルケニーの舌は、蜘蛛というよりも爬虫類のそれのように自在に動き、
捉えた獲物を心ゆくまで犯す。
怒涛のように押し寄せる快感に、俺の矜持はあえなく崩壊していった。
「あ……が……っ」
唾液が幾滴も流れ込み、舌に乗せることも出来ないまま喉に落としこまれる。
呼吸を妨げられ、苦しいはずの身体は、胃に落ちて行く粘液を受け入れ、その感覚を反芻していた。
悔しい、と思う暇(も無く、新たな体液がアルケニーの口から滴る。
時間をかけて腹に落ちて行く唾液は、俺の胃と、そして心を灼いた。
そんな俺を見透かしたのか、アルケニーはその異形の身を乗り出し、更に激しく舌を絡めてきたのだった。
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