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天香學園──女子寮。
八千穂明日香は上気した肌も軽やかに、自室へと歩いていた。
明日香は女子高生らしからぬ好奇心の持ち主であるが、風呂は女子高生らしく好きであり、
特に少し廊下にいただけで肌寒さを感じてしまうような今の季節では一層浴槽が恋しくなるというものだ。
長期の休みで帰省している生徒も多く、ほぼ独占に近い形で風呂を堪能できた明日香は、
部屋に戻ったら何をしよう、と上機嫌で廊下を歩いていた。
と、反対側からやってくる少女に気づく。
闇の中から現れたようなその少女を良く見知っている明日香は、親しく声をかけた。
「あれ、白岐さん、今からお風呂?」
床にまで届きそうな髪を無造作に流した、物静かな印象の少女は、
笑顔の明日香に小さく口許を綻ばせて頷いた。
それが彼女の感情の、最大級の発露であることを知っている明日香は、
彼女の分まで補うように大きな笑みを浮かべた。
「ね、お風呂上がったら、あたしの部屋に遊びに来ない?」
少し前の明日香だったら、そんな風に誘いはしなかったかもしれない。
けれど、學園の地下で起こった、現実とも思えない出来事は、自然に明日香に声を出させていた。
そして明日香に変化が生じたように、恐らくはこの、クラスで最も髪の長い、
誰とも関わろうとしなかった同級生も、いくらかは影響を受けていたようだった。
「ええ……少し時間がかかると思うけれど、それからでもいいかしら?」
誘ったくせに良い返事が返ってきたことに驚いたものの、
明日香は、すぐに人懐っこい笑顔で応じた。
「うん、別にあたしもすることないし」
明日香は最近、話し相手に飢えていた。
数日前まで明日香の生活の大部分を占めていた、途方もなく刺激的な時間。
秋風と共に現れ、木枯らしと共に去っていった一人の転校生がもたらした、
おそらく明日香にとって一生忘れられない記憶となるだろう冒険は、
あまりに魅惑的だったため、それが終ってしまった後、
一種の虚脱状態に明日香を陥らせてしまっていた。
部活ももう卒業していたし、もとよりあまり好きではなかった勉強などまるでする気になれず、
といってこの体験を誰彼構わず話すこともさすがにできず、
ここで出会った幽花はまさに渡りに船だったのだ。
白岐幽花は明日香と『転校生』の『宝探し』に関わった人間の中でも、
もっとも明日香の興味を惹く少女だった。
春に同じクラスになった時から、ずっと気にはなっていた。
全体が深い艶に包まれた、背丈と同じくらい長い髪。
長い睫毛が護る、髪と同じ色をした、常に憂いを宿した瞳。
皆の関心を一身に集めながら、誰とも親しくなろうとせず、関わることさえ避けようとする態度。
新学期が始まり、同級生の興味が一巡し、幽花が永久凍土の氷壁であると知った彼らが
彼女に関わろうとしなくなった後も、明日香は何かと話題を見つけては話しかけるようにしていた。
それでも幽花の態度は変わらなかった──九月に二人目の『転校生』が現れるまでは。
親の都合とやらで短い日数で急遽転校してしまい、
ほとんど印象に残らなかった一人目の転校生と較べると、
二人目の転校生は鮮烈な印象をクラスにもたらした。
顔は際立って良いというほどでもない──女生徒の間で話題にすれば、
笑いながら少しいいよね、でもちょっと変わってない?
と言われる程度で、眉目の秀麗さで皆の印象に残ったのではなかった。
彼がクラスのほとんど全員の注目を受けた理由は、卓越した運動能力と、
何より『生徒会』の面々と一緒にいるところを度々目撃されたからだった。
この學園にいる全ての人間の畏怖の対象となっている『生徒会』。
厳しく定められている校則を破った時の仮借ない罰によって存在を誇示していた彼らと、
三年生も後期に入っての転入という不自然な時期での転校生が笑顔で会話を交わしている光景は、
充分に學園中のニュースとなるに値した。
學園の文字通り上から下、一年生から教師達に至るまで、明らかに様子の変わった『生徒会』の面々と、
彼らとまるで友人のように騒いでいる『転校生』について語り、憶測し、
あることないことさまざまな噂が乱れ飛んだ。
一躍時の人となった『転校生』を取り囲む輪に、明日香は参加しなかった。
噂話は人一倍好きな彼女が、この降って湧いたゴシップに興味を示さなかったのには理由がある。
明日香は『転校生』が生徒会の連中と親しくする理由を知っているどころか、
その理由を生み出すことにも関わっていたのだ。
天香學園の地下に広がる大遺跡。
三年間過ごしながら知らなかった驚愕の事実を、転校生は探索し、
そこに眠る『秘宝』を手に入れるために来たのだという。
偶然、本当に偶然に彼が『宝探し屋』であることを知った明日香は、
ほとんど強引に彼について遺跡を探索した。
彼が何を求めて探索しているのか、遺跡の果てに何があるのかも知らぬまま、奥へと進む。
やがて生徒会とこの遺跡が密接に関係していること、
特に生徒会長である阿門帝等は明確に九龍達が奥に進むのを望んでいないことがわかったが、
九龍は歩みを止めず、当然明日香も引き下がらなかった。
奥に進むにつれて明らかになる謎と真実。
平凡な生活に飽きていた明日香にとって、探索の全てが刺激的であり、魅力的であった。
死の危険、とまではいかなくても、一歩間違えれば大怪我をしてしまうような罠も、
現代よりも遥かに進んだ超古代の科学によって生み出されたおぞましい化け物達も、
刺激に飢える少女を引き下がらせることはできず、ついには本職である九龍さえ苦笑して認めたほど、
明日香はこの探索に熱中した。
その熱意が実ったのか、あるいは九龍が『宝探し屋』として優秀だったからなのか、
探索は予定通りに進んでいた。
明らかになった『真実』──この學園そのものが、地下に眠る存在を封印するために建てられたのであり、
生徒会とは封印を守るための組織であった──も充分に明日香を驚かせたが、
同級生である白岐幽花が封印に関わる重要な役目を担わされた『巫女』であったことは、
見かけよりもはるかに神経の図太い明日香でさえとっさには二の句が継げないほどだった。
幽花が他人と関わろうとしない、厭世的な態度を取っていたのは、自分は封印の鍵でしかなく、
それ以外の存在理由などないと思っていたからなのだ。
しかし、幽花が纏(っていた、初めて彼女を見る者は誰しも奇異の目を向けずにいられない、
文字通りの鎖は、一人の宝探し屋によって解き放たれた。
生徒会の妨害を排除し、遺跡に仕掛けられた罠も突破して最奥部にたどり着いた九龍は、
卓絶した科学力を持つ超古代人ですら手に負えず封印するのが精一杯だった荒波吐を斃(し、
この學園のみならず世界の平和を守った。
そして生徒会の呪縛を解き放ち、永劫の昔より囚えていた運命の輪から幽花を救いだしたのだ。
英雄と呼ばれるだけの働きをした九龍は、それを誇るでもなく、ただ『秘宝』を見つけられなかったことのみを悔やみ、
埋没した遺跡を恨めしげに見やった後、新たな秘宝を求めて學園を去った。
彼の『宝探し』に関わった者は敵味方問わず引き留めたが、九龍は来たときと同様、
遥か遠くを見すえる、強い印象を与える眼差しを皆の記憶に残し、新たな『秘宝』を求めて旅立っていった。
そうして残された者達は元の生活に戻った。
彼が来る以前と同様、いささかの閉塞感はまだ残っているとしても、
天香學園の生徒として勉学に、あるいは運動に励み、それぞれの青春を謳歌する日々へと還っていった。
八千穂明日香も当然その中に含まれていたが、部外者(の中で最も深く學園の秘密に関わった彼女は、
夢としか思えない出来事が全て終わった後、とても勉強などする気になれなかった。
生徒会、九龍、そして幽花。
瞼を閉じれば浮かぶのは命を賭して探索した遺跡の光景であり、彼らと過ごした記憶だった。
控えめに部屋の扉がノックされたのは、幽花と別れてから一時間ほども過ぎた頃だった。
幽花の髪の長さならそれくらいはかかるだろう、と読んでいた明日香は、
そのタイミングに合わせて始めていた作業を中断し、扉の向こうに呼びかけた。
「どうぞー」
言ってからこんなぞんざいな応対では入ってこないかもしれない、と思い、
立ちあがって扉に向かう。
はたして幽花は迷っているのか、なかなか入ってこなかったが、
明日香が扉を開けようとすると、ちょうど向こうから開いた。
明日香にとって幽花は、親友というわけではまだない。
残念だけれど明日香はこの寡黙な同級生のことをあまり知らず、
知りたいと思ってはいてももう少し時間がかかりそうなのだ。
だから明日香も、多少は気を遣っているつもりだ。
しかし一時間前とはまるで違う幽花の服装は、思わず明日香に多少の壁を超えさせてしまうこととなった。
「……白岐さん、その格好で来たの?」
幽花はゆったりとした、きれいな赤色のガウンを着ていた。
天香(は全寮制で男女の寮は当然分かれているし、
幽花の部屋は近いから問題はないのかもしれない。
しかし紫に近い赤のガウンは、明日香がこれまで見たことのない大人びたもので、
自身が持っている雰囲気がそもそも俗世を離れた感のある幽花が着ると、
映画の中から抜け出てきたヒロインのように見えるのだった。
「ええ」
幽花は小首を傾げて頷く。
この服装のどこに問題があるのかわからない、といった態度に、
明日香は失言を取り消すように大きく首を振った。
下着姿でもなければ、寮内はどのような格好でいても構わないはずだ。
それに実際幽花の格好は良く似合っていて、それならそれでいいか、
と細かいことは気にしないことにして、明日香は初めて部屋に遊びに来た客を招きいれた。
「ま、とりあえず座ってよ」
勧め、明日香は先に座った。
まだ入り口に立ったままの幽花の、わずかに覗く足首が妙に浮き上がって見える。
ひとつ、自分の鼓動が聞こえた明日香は、なんとなく視線を逸らせた。
足首といえば、ひねるか、くじくか──そんな連想しかなかった明日香にとって、
思い浮かんだ細い、だのきれいな、だのいう修飾はとても恥ずかしかったのだ。
明日香が不自然に首をねじる時間は、幸いそれほど長くなくて済んだ。
体重をまるで感じさせない歩調で部屋に入った幽花は、音もなく腰を下ろした。
行儀悪くあぐらを掻いている自分と違い、
無造作に足を揃えて座っているだけなのに色香を漂わせる幽花に、
明日香は少しコンプレックスめいたものを感じてしまう。
同級生にもっと綺麗な子や色っぽい子はいたが、
明日香がそんな風な気持ちを抱くのは幽花以外にはいなかった。
それが真似をして追いつけるものであったならそうしたかもしれないが、
幽花は目標とするにはあまりに高みにいて、ため息しか出てこなかった。
幽花は白と黒の女性だった。
ほっそりとした白い身体と、それと同じくらいの割合で彼女を印象づける髪。
その長い髪はいま、意思を持っているかのように持ち主の邪魔にならぬようまとまっている。
部屋の中でそこだけ光を吸収してしまっているみたいな黒いカーテンは、
光だけでなく明日香の視線も吸収していた。
幽花の髪に触れてみたい、とまで明確な想いはないものの、
授業中でも気がつけば教室を見渡し、一角にある黒髪を見つけて安心するといった
ささやかな日課めいたものが明日香にはあった。
今は冬休みに入っていて、その日課を果たすことができないのも、
もしかしたら幽花を招いた一因だったかもしれない。
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