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招待した責任も果たさず、明日香がここ数日の日課をまとめて務めていると、
招かれた客がこの部屋に入ってはじめて口を開いた。
「それは……?」
「えへへ、九龍クンから借りたんだ」
風のように現れ、そして去っていった葉佩九龍という名の転校生。
彼が持っていた不思議な道具──オーパーツというらしい──
のひとつを、明日香は餞別としてもらい受けていた。
餞別ってのは出ていく側が貰うもんだ、貴重なモンだから壊すなよ、などとぶつぶつ言いながらも、
九龍はこの遺跡で見つけたという、見た目は何の変哲もない金属板を置いていってくれた。
明日香にはこの板がどういう代物なのか、
どういう原理で作動するのかさっぱりわからないし、知る気もない。
ただこの板の上に材料を置き、しばらく待つと冷たい、
明日香の好物ができあがるということだけが大事で、
この、原理を知ろうと世界中の企業が何億円出しても手に入れようとするに違いない金属板を、
明日香は毎日のように使い、風呂上りの良き伴侶を作っていた。
幽花がやって来た時もちょうど作っていたところで、完成したそれを明日香は見せる。
淡い紫色をした、よい芳香を放つ冷たいアイスクリーム。
全寮制で時間外は買い物もままならない明日香にとって食べ物、
それも美味な食べ物を生み出してくれる金属板は金の卵を生むがちょうにも等しい道具だった。
「幽花さんも食べる?」
「……ええ、頂くわ」
幽花がアイスクリームを食べるとは思わなかったが、
とりあえず薦めてみた明日香に返ってきたのは予想外の答えだった。
驚きながらも幽花が興味を持ってくれたのが嬉しくて、
明日香は大きく頷くともうひとつ、同じものを作ろうとする。
ところが、明日香が手に持ったものを渡すよりも先に、幽花はさらに驚くべき行動に出た。
「……!」
アイスクリームに顔を近づけた幽花は、舌を伸ばし、明日香がそうやって食べるように舐めたのだ。
幽花だって女の子なのだから、当たり前ではある。
あるけれども、普段からサラダしか、それもごくわずかしか食べない幽花が
そうやってアイスクリームを食べるのは、ツチノコを見るよりも明日香には驚きだった。
身を乗り出した幽花は目を閉じてアイスを舐める。
バラの色をした舌が、ひどく鮮明に明日香の印象に刻まれた。
「……美味しいわね」
小さく微笑む幽花に、明日香はとりあえず驚きは呑み込んで胸を撫でおろした。
驚きはまだ胸から消え去っていなかったけれども、
好みで作ったフレーバーが、幽花に受け入れられたのが嬉しかった。
性格が一致する、なんておおげさなものではなくても、
このミステリアスな同級生とたとえ食べ物でも好みが合うのは、単純な喜びを明日香にもたらしていた。
「良かった、この味お気に入りなんだ」
答えながら明日香は、次の問題に直面してしまった。
自分用に作り、幽花が舐めたアイスをどうするのかという問題だ。
幽花に今持っているのを渡して、自分用にもうひとつ作ることもできる。
しかし明日香はその考えをすぐに捨てた。
なぜだか──そうしてしまうと、とてももったいないような気がしたのだ。
短い時間で判断した明日香は一度息を止めた。
部屋に呼んだ時には想像もできなかった展開に、心臓は音が聞こえるくらい激しく鳴っていた。
別にアイスクリームくらい、同性どうしならこうやって食べたところでおかしくはない。
部活の後にスポーツドリンクを回し飲みするのはしょっちゅうだし、
ふざけて食べ物を両端から食べて、軽く唇が触れてしまったことだって一度や二度ではない。
それでもそれらはあくまでも他愛もない遊びで、その場で騒いだら後はきれいさっぱり水に流してしまう性質のものだった。
しかし、今、明日香はこの同級生の少女をはっきりと意識していた。
赤いガウンや細い足首、あるいはまったく幽花らしくない行動に少しあてられてしまっているのかもしれない。
息がかかりそうなくらい近くで、無防備に目を閉じている幽花に、
明日香は生まれて初めてともいえるくらいの気持ちを抱いていた。
アイスクリームを持つ手が震えないよう気をつけ、乾いてしまった唇を舐め、
吐き出しかけた呼気を慌てて呑みこむ。
努力が実ったのか、幽花はそのまま動かない。
テストの時でさえしたことのない緊張を押し殺して、明日香は幽花が舐めた反対側から、おっかなびっくり舌を伸ばした。
幽花は何も言わなかった。
アイスクリームはただ冷たいだけで、味はまったくわからなかった。
二口ほど舐めてから、そっと目を開いてみる。
片目だけを開けた明日香の瞳に映ったのは、再びアイスを舐めようとする幽花だった。
ほとんど限界──何の限界かはわからなかった──まで近づいた顔に、急激に頬が熱くなっていくのを感じる。
この熱で、アイスが溶けちゃったらどうしよう──そんなことを、半ば本気で心配しながら明日香は、
幽花の反対側からアイスを舐めた。
ひとつのアイスクリームを交互に舐める。
それはひどくおかしな、けれどとても胸の高鳴る行為だった。
明日香ははじめ、目を開けていた。
しかしそれだとあまりに間近にある幽花の顔が気になりすぎて、
すぐに幽花と同じように目を閉じてしまった。
すると今度は、ほのかな熱とそれに乗って漂う幽花の香りが鼻腔を刺激する。
アイスの味など最初からわからなかったが、自分が何をしているのかさえわからなくなってしまうくらい、
幽花から漂う幾種類かの花の匂いは快かった。
幽花が今どんなことを考えているのか、目を開けて確かめてみたい誘惑にも耐え、
明日香はほとんど機械的に舐め続ける。
不意に、冷たさに熱さが混じった。
それを明日香は知っている……知っているつもりだった。
アイスが舐めれば少しずつなくなっていく以上、いつかはそうなるのだから。
にも関わらず明日香は、幽花の舌がほんの少し触れた瞬間、飛びあがらんばかりに驚いてしまった。
アイスを取り落とさなかったのはほとんど奇跡としかいいようがない。
それでも顔を反射的に遠ざけ、何度もまばたきしなければ、とても動揺は静まりそうになかった。
「どうしたの?」
幽花の声はいつもと同じ低さだった。
どうやら全く気にしていないらしい。
そうなると驚いている自分のほうが恥ずかしく思えて、明日香は頭を振った。
「う……ううん、なんでもない」
もしかしたら気づかなかったのだろうか。
いくらなんでもそんなはずはない。
──気づいていて、気にしなかった?
そう考えた瞬間、息が詰まる思いがした。
訊いて確かめる勇気はとてもない。
どのような答えが返ってきたとしても、やはり困ってしまうだろうから。
困惑をむりやり鎮めた明日香は、結局アイスを食べ続けた。
舌も、それから唇も幾度か触れたけれども、幽花は何も言わなかった。
始めは避けようとしていた明日香も、
アイスが減るにつれてどうしようもなくなってしまい、ついに諦めた。
不思議だったのは、アイスよりも幽花の方が甘く感じられたことだった。
やがてアイスがなくなった時、奇妙な停滞が生まれた。
いつもならコーンまできれいに食べてしまうのだが、今日はいつもとは全く違うから、
どうするべきなのか明日香は迷ったのだ。
目を開け、ちらりと幽花を見る。
幽花は目を閉じたまま、何かを待っているように動かない。
明日香は必ずしもそうするつもりではなかったけれども、
幽花の唇に紫色の染みがあるのを見つけた瞬間、ほとんど自動的に顔を押しだしていた。
薄い幽花の唇は、とても冷たかった。
アイスを食べた直後なのだからとわかっていても、その冷たさに明日香は驚き、息を呑んだ。
その驚きが伝わってしまったのか、幽花の気配がゆらめく。
慌てた明日香は少しだけ唇で意思を伝えた。
「……」
触れている幽花の皮膚が、少しずつ温かくなっていく。
それは自分が温めているからだ、と考えるのは、明日香にとって悪い気分ではなかった。
コーンを持っている左手はそのままに、右手を絡める。
幽花は相変わらず何も反応を見せない。
ただ、髪が揺れるごく小さな音が聞こえるだけだ。
だから明日香は、ずっと、ずっと──幽花の口唇が温もりを取り戻すまで、唇を離さなかった。
唇を離す時は、触れ合わせる時よりも遥かに慎重に行った。
息を殺し、幽花を毛筋ほども動かさぬように慎重に。
そうすることで、今の数秒、あるいは数十秒が幻になることを期待したわけではないが、
怖れが明日香にあったのは確かだった。
だから、顔を離した後も、目はしばらく開けられなかった。
もし幽花が怒っていたら──いや、怒っているならばましで、悲しんでいたら、
きっとどうしたら良いかわからなくなってしまうだろう。
それでも、いつまでもこうして目を閉じているわけにもいかない。
明日香は意を決して幽花を見た。
黒いのだけれども、髪よりは幾分澄んでいる瞳が真っ向から見据える。
今の行為を肯定も否定もしない瞳に、明日香は安堵した。
「美味し……かった?」
そのせいで、半ば無意識に訊ねてしまった明日香は、
誤解を招く訊き方だったと気づいて急いで訂正した。
「あ、美味しかったってアイスのことね。って、他にないよね、やだな、何言ってんだろ、あたし」
しゃべるごとに頬が熱くなり、ろれつが回らなくなる。
だがそれも、幽花がゆっくりと一度まばたきをしただけでしゃっくりをしたように
続く言葉が出てこなくなってしまった。
開きかけていた口もそのままに、明日香はぼんやりと幽花の紅が動くのを見つめた。
「ええ……美味しかったわ。だから、もう一度食べてもいい?」
「え、あ、うん、それじゃもう一回作る──!!」
幽花の手は掴むというよりも添える程度のものだった。
それでも、もう驚きへの耐性は使い切ってしまったらしく、明日香はびくりとしてしまう。
風呂あがりのはずなのに、幽花の手は冷たさを感じさせた。
ぞくりとする──毛が逆立つ感覚は、不快なものではなく、むしろ身を任せたくなるものだった。
幽花の手が、明日香の手を持ち上げる。
しなやかな指先に摘ままれて持ち上がる自分の手を、他人事のように明日香は見ていた。
幽花が何をしようとしているのかはすぐにわかった。
溶けたアイスが指についていたのだ。
どうやって拭きとろうか明日香が悩む必要はなかった。
指先だけを触れ合わせている幽花は、何の迷いも見せずに顔を寄せたからだ。
唇が手の甲に触れる。
冷たく、そして甘い感触。
どうして舐められているのに、甘く感じるのかな──
うやうやしく手を捧げもち、頭を伏せて手にくちづける幽花をぼうっと見ながら、
明日香はそんなことを考えていた。
下から上へ、同じ場所を規則正しく動く舌だけが、くっきりと映っている。
紅い舌。
髪以外色素が抜け落ちたような幽花にあって、そこだけが色づいていた。
白と黒と、紅──
三色となった幽花を構成する色彩は、鮮烈な像となって明日香の裡に焼きついた。
心臓が、忙しく活動を始めている。
幽花に冷やされた分を補おうとするかのように、、
外にまで漏れ聞こえているのではないかというくらい激しく、せわしなく。
息苦しくなるほどの鼓動に気を取られていると、いつのまにか幽花の手は肩に触れていた。
左肩に感じる、小さな点。
睫毛すら動かさず見つめている瞳と、肩からまだ先を目指す指先に、明日香の意識は奪われている。
肩からうなじへ、そして耳へ。
辿るところを予測した明日香は、その通りに幽花が触れた時、思わず嬉しくなってしまった。
幽花に想いが繋がったことを話そうと微笑みかける。
開きかけた口に、柔らかな感触がはじけた。
キスされた──明日香がそう思ったのは、幽花の唇が触れてから、もうかなりの時間過ぎた後だった。
話しかけようとしていたところを遮られて、記憶が少し飛んでしまったようだった。
もう冷たくなっている、さっき温かくなったはずの唇は、
ひんやりとしていて、それでいて柔らかくて、明日香よりも少しだけ積極的に触れてくる。
意外な積極性は明日香にとって喜ばしいもので、触れるか触れないかのキスを繰り返す幽花の手を、
いつしか明日香はしっかりと握っていた。
ほっそりとした、女の明日香の力でさえ強く握れば砕けてしまいそうな手は、明日香の問いかけには応えない。
ただ──ビロードのように触れた、小指の先を除いては。
一番外側にあるか細い指は曲げられ、先端だけが明日香の手の甲に触れている。
指全部ではなく、少しだけを触れさせるのが、こんなにも意思を伝えるのだと明日香は初めて知った。
くっついてしまったように離れない唇をそのままに、明日香は身を乗り出す。
友人ではありえない距離まで近づいても、小指の先は立てられたままだった。
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