<<話選択へ
次のページへ>>
(1/3ページ)
窓ガラスが、かたりと鳴る。
虫がぶつかった程度の、何か他のことをしていれば聞こえなかっただろう小さな音に、
読む気もなく読んでいた本を投げ捨てた亜柚子は、
おっとりとした容姿から想像もつかない早さで立ちあがった。
窓に駆け寄り、鍵を外して窓を開けるまでを一息に行う。
開いた一人分の隙間から、軽々、とはいえない動きで外から転がりこんできたのは、
学生服を着た男性だった。
少し窮屈そうに着ている学生服に見合った年頃の少年は、
動くのもままならない様子でしばらくは呼吸を整えるのに専念している。
ようやく一息ついたところで彼は、亜柚子に泥だらけの顔を向けた。
「ただいま、先生」
「おかえりなさい、九龍さん」
二人とも教師と生徒、あるいは夜に女の部屋を訪れた男の態度ではなく、
深夜という時間を除けば、遊びから帰ってきた子供と、それを出迎える母親の挨拶でしかない。
そして少なくとも一方は態度まで子供であり、テーブルの上に置かれた夜食をめざとく見つけた
九龍は、入ってきたときの疲労困憊が演技だったかのように脱兎のごとく駆けだした。
「駄目よ、手を洗ってからでないと」
優しい、だが有無を言わさぬ口調で制された九龍は、
さらに年齢を退行させた態ですごすごと洗面所へ向かった。
亜柚子が作っておいた二合分のおにぎりは、五分とかからず全て消失した。
彼が最後の一粒まで食べ終えるまで一言も発さず見守っていた亜柚子は、
九龍にお茶を注ぐと、部屋に入ってきた当初から気になっていたことを口にした。
「凄い臭いよ」
「水の中に落ちちまったんだよ。冷てえし変な魚はいるし、酷え目に遭った」
顔全体をしかめる九龍に亜柚子が思わず笑みをこぼす。
その、年の離れた姉のような態度に毒気を抜かれた九龍は、
しかめ面を苦笑に変えてお茶をすすった。
天香學園の地下に存在する古代遺跡。
大都会東京の中心部にあるという、にわかには信じられないような場所を探索するために
転校生という隠れ蓑を被ってやって来た宝探し屋、葉佩九龍。
彼の担任となり、ふとしたきっかけで彼の正体を知った亜柚子は、
死と隣り合わせの遺跡に赴く教え子に、たったひとつだけ条件を出した。
どれだけ遅くなってもいいから、遺跡から戻ってきたら顔を出すこと。
九龍はその命令、というよりも頼みを聞きいれた。
頭ごなしに言われていたらきっと反発しただろうが、
瞳を微細に揺らして頼む女性を、すげなくあしらう術を九龍はまだ持っていなかった。
それでも、はじめは本当に顔だけ出して帰るつもりだった。
亜柚子は名目上は恩師にあたるが、本来九龍は彼女、
というよりこの學園の誰とも接点を持たない。
彼女が真剣にこの学校のことを考えているのは伝わる。
だからといって彼女と運命を共にするつもりなど、九龍にはまったくなかった。
それが一言、二言と会話の量が増え、夜食が用意してあるからと部屋に上がり、
ついにはこうしてくつろぐまでになってしまった。
餌に釣られたのだ、という言い訳は、どう見ても格好の良いものではなかった。
「シャワーを浴びていらっしゃい」
「いいよ、向こうで浴びるよ」
「学生寮のお風呂なんてもうとっくに閉まっているわよ」
そもそも日常的に風呂のある世界に生きていない九龍は、
身体を清潔に保つという思想に乏しい。
だが今回は自分でも臭いと思い、さすがに水浴びくらいはしたい。
そして亜柚子の言い分は正しく、秘宝を見つけ出すまでは極力目立つ真似はしたくない九龍と
しては、歩く臭い袋のような状態で登校するわけにはいかず、彼女に従うほかなさそうだった。
そうと決まればさっさと済ませてしまった方がいい。
九龍は立ちあがり、浴室に向かおうとする。
その袖を掴んで、亜柚子が鼻を近づけた。
「服にも臭いが染みちゃっているわね。明日朝一番で洗濯してルイ先生に渡しておくから、
一時間目は休んで取りに行きなさい」
「げッ、いいよ、あの女のところに服なんて取りに行ったら何言われるかわかんねえ」
心理療法士という身分で保健室を占拠している劉瑞麗は、
九龍の共謀者であり、亜柚子の共犯者である。
双方に対して強みを持っている彼女は、二人をからかうことを目下のところ生業としていて、
特にあらゆる意味で頭の上がらない九龍は苦手意識が強かった。
「あの女、なんて言っては駄目でしょう? ルイ先生は年上なんだから」
「先生が授業サボれって勧めるのも駄目だろ」
「九龍さん」
「な、なんだよ」
亜柚子はそれ以上言葉にせず、九龍を見つめる。
童顔の彼女がそういう態度を取っても迫力に欠けるのだが、
年長者からの罵声や嘲笑には慣れている九龍も、これにはほとほと手を焼いていた。
結局口の中でもごもごと何事か呟き、それも消失してしまうと、拗ねたように目を逸らした。
満足げに微笑んだ亜柚子は、彼の腕を取る。
「さあ、シャワーを浴びましょう」
「なんで先生がついてくるんだよ」
「背中を流してあげる」
「いいよ、子供じゃないんだから」
「子供じゃないから、背中を流してあげるのよ」
「……」
反撃を考えているらしい九龍の背を押して、亜柚子は脱衣所へと入った。
「脱ぐから、先に入っていて」
「ああ」
促されるまま浴室に入った九龍は、扉を隔ててさらに亜柚子から背を向ける。
要らぬ誤解を受けたくないとの考えだが、同時に、一緒に風呂に入るなどと大胆な提案を
しておきながら、脱ぐところは見られたくないという亜柚子の心理を図りかねてもいた。
女というやつはまったく、迷宮よりも複雑だ。
滲んだ涙にほだされてつい探索後に顔を出すことになってしまったが、
九龍は実のところ、さっさと自室に戻って戦利品の検分をしたいと思う時もある。
彼女が自分の目的の達成よりも九龍の身を案じているのはわかるし、夜食は確かにありがたい。
けれども目的を遂げたとして亜柚子の願いまで叶えてやれるかどうかは定かでなく、
どうして彼女がそこまで肩入れするのか、時として疑問にも思う九龍だった。
背後で扉が開く音がする。
危険の中に生きる者の反射で九龍は振り向いた。
見たくて見たわけではない、という下劣な言い訳をかろうじて呑みこむ。
それは努力のたまものではあったが、亜柚子の姿に救われた部分も大きかった。
栗色の髪をまとめ、バスタオルを巻いている亜柚子は、
女性という存在にほとんど縁がなかった九龍には女神のようにすら見えた。
胸のたもとから足のつけね辺りまでを隠すに過ぎないピンク色のバスタオルは、
もちろん彼女の身体の線を隠す役目などおおせつかってはおらず、
九龍の想像力をかきたてることはない。
むしろきちんと胸元で留められたバスタオルが、
裾のところでほんのわずか合わせ目がほぐれているのが、
それを包む太腿を嫌でも惹きつけて、九龍を直情的に煽るのだった。
腹部から――正確には、もう少し下から――上へと顔を上げた九龍は、
亜柚子の瞳をまともに見つめてしまい、慌てて向き直った。
背中に気配が近づく。
普段の三割り増しで鋭敏になっている感覚が、
鏡を目の前に置いたかのように背後の亜柚子を、より正確には彼女の身体の曲線を意識させる。
足を揃えてつま先座りをし、ボディソープをスポンジに取る。
背中を丸めている九龍の、ちょうど中央に彼女の身体が一番近づいている。
「もう少しまっすぐにして」
それでは触れてしまうとは言えず、九龍は背筋を伸ばした。
バスタオルは触れない。
安堵はしたが息を止めたまま、九龍はさらに気配を探った。
亜柚子がスポンジを泡立てる。
こころもち身を乗りだし、九龍の右の肩に当て、左手も左肩に添え、スポンジを動かし始めた。
亜柚子はスポンジを見ている。
だが、それがスポンジだけではないような気も九龍にはする。
それを問うのははばかられた――彼女が自分の肉体を凝視しているかなどと訊くのは、
自意識過剰も甚だしいではないか。
亜柚子の洗い方は優しすぎてくすぐったい。
しかも妙に丁寧に洗うので、声は出すまいとする九龍は長時間の忍耐を強いられる羽目となった。
「今日は、危ない目には遭わなかった?」
「別に、遭ってねえよ」
九龍は嘘をついたつもりはなく、ただ、彼女とでは危なさの基準が違うだけだ。
以前何気なく罠を踏んで矢ぶすまにされそうだったことを話したらずいぶんと怒られて、
以来九龍は彼女の前では武勇伝を語らないことにしたのだ。
「嘘。火薬の臭いがするわ」
「そりゃ、敵がいれば銃を使うからな」
「……」
真後ろは見えないが、亜柚子は怒っているようだ。
悪意を持った相手と対峙したとき、銃を使わない方がより危険だと九龍は思うのだが、
平和な日本で安全な職業を選んだ彼女はそういった発想に至らないようだ。
彼女を甘いと笑うつもりはなくても、宝探し屋の生き様は彼女には理解できないだろうと
思ってもいる九龍だった。
亜柚子が背中に触れる。
どうやら傷を受けていないか探っているようで、砂漠の中から一粒の宝石を探すような
繊細な手つきに、九龍は一層のくすぐったさを我慢させられた。
「大丈夫だよ、怪我なんかしてねえよ」
今日に関しては真実を語った九龍だが、亜柚子は聞く耳を持たないらしく、
スポンジとは別に背中の全体をくまなく撫でまわした。
「本当に……危ないことはしないでね」
調べ終えた亜柚子は、まだ納得のいかない様子だ。
ここで何か言えば、十の反論が飛んでくるのは確実なので、九龍は慎ましく沈黙を守った。
「はい、後ろは終わったわ。前を向いて」
「前は自分で洗うって」
「先生の言うことは聞きなさい」
先生は生徒の身体を洗ったりはしないと、反転しながら九龍は思った。
入るときに亜柚子に急かされたので、九龍はタオルすら持っていない。
手で隠そうとも思ったが、亜柚子は承知しているはずなので、
開き直ってそのままでいることにした。
亜柚子は何も言わず、足の間に陣取って身体を洗いはじめた。
バスタオルは巻いているが、豊かな胸は隠しきれるものではなく、
上からだとかなりの部分が見える。
それに加えて亜柚子の微細な手つきに九龍の肉体はとても耐えられず、
先に続いて男性器をいちじるしく興奮させてしまう。
見せつける趣味などなくても、引っこめるのも容易にはできず、
九龍は亜柚子の後方にあるタイルへと視線をそらせた。
不自然すぎる沈黙がただよう。
探索中ならあらゆる状況に対応できる道具をサバイバルベストに詰めこんである。
また、年齢に似合わぬ、危地から脱した多くの経験から得た知識がある。
しかし、年上の女と裸で話すときの対応策は、脳細胞の隅々まで探してもなかった。
「ねえ、九龍さん」
亜柚子が心を読んだかのようなタイミングで話しかけてくる。
それは九龍を救い、同時に新たな窮地に追いこむ扉だ。
その扉以外に逃げ場はなく、九龍は鍵はかかっていないが重い扉を、半ば体当たりで開いた。
「なんだよ」
「いつもあなたを心配していること、忘れないでね」
「……わかったよ」
亜柚子が妥協した以上、これ以上はみっともないだけだ。
九龍が軽く頭を振ってみせると、亜柚子は柔らかな微笑で応じた。
シャワーを手に取った亜柚子が九龍の身体を流し始める。
洗うときほどではないものの、丁寧に手ですすぐので、九龍は興奮を鎮めることができない。
しかも、前を終えて後ろを流す時に、九龍を振り向かせる手間を亜柚子は取らなかったので、
必然、二人の身体は密着寸前まで近づいた。
「お、おい」
「動かないで」
九龍が上体を起こそうとすると、亜柚子に遮られてしまう。
まだ欲望に身を委ねきれない若さの九龍は
こうなったら一秒でも早く終わらせるしかないと覚悟を決めて、
亜柚子の肩に顔を乗せるような前傾姿勢を取った。
たちまち甘い香りに、鼻腔だけでなく顔全体が包まれる。
熱帯雨林の物理的な質量を持っているかのような濃密な草木の臭いよりも、
千年の間誰も足を踏み入れたことのない遺跡の湿った臭いよりも蠱惑的な匂い。
女の体臭などにはまるで興味がなかったはずなのに、
彼女の許に顔を出すのは、確かにこの匂いを嗅ぐためだからだ。
シャワーの音に紛れて九龍は深く空気を吸い、香りを肺に導く。
胸郭に満ちる安らぎに、しばし心を委ねた。
「はい、次は頭ね」
九龍はおとなしく目を閉じ、頭を傾ける。
亜柚子の洗髪は、身体と同じく優しく柔らかい。
頭皮への微弱な刺激は眠りに誘う快美さがあり、九龍は身体の力を抜いた。
自然と前に垂れる頭は、倒れることなく何かに支えられる。
それが何なのかを九龍は知っていたが、眠りに落ちたふりをして顔を埋めた。
亜柚子は何も言わない――きっと、意識していないのだろう。
それが都合の良い考えだと自覚しつつ、九龍は頭を起こさなかった。
<<話選択へ
次のページへ>>