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 今日の探索はすこぶる順調で、まだ時刻は十時を回った辺りだった。
後ろを歩く亜柚子は、腕時計で時刻を確かめたが、九龍には告げない。
 二人だけの探検隊における亜柚子の役割は、リーダーである九龍の邪魔をしないこと、
ただそれだけだった。
 そもそも亜柚子は無理を言って遺跡探索に同行した身であり、
こういったことに関しては知識も技術も皆無に等しい。
当然、亜柚子がついていくと言いだしたとき、九龍は相当渋ったが、
年上と教師と、そして女という立場をフルに活用して、強引に承知させた経緯があった。
 亜柚子には当初、いくら彼が『宝探し屋』という、日本の職業リストにはまず載っていないような
職業の専門家であるといっても、年齢的には未だ彼女の教え子たる歳でしかなく、
年齢による経験、いわゆる年の功で多少は手伝える部分があるとたかをくくっていた。
ところが、職場であり、住んでもいた學園の地下という、未だに信じられない場所に存在する、
歴史にはさほど詳しくない亜柚子でさえ認めざるを得ない、明らかに亜柚子が知る人類の文明とは異なる遺跡内は、
国語教師などという肩書きなど何の意味も持たない、想像を絶する危険に満ちた場所だったのだ。
 自分の見込みがひどく甘かったことを思い知らされた亜柚子に、
九龍はそれ見たことか、とは言わなかった。
一人で行動するつもりだったから、予定が狂ったと口にしただけで、
それも、たとえばワイヤーロープを使って降りるときに、二人分の体重を保持できるかといった、
きわめて実際的な不安にすぎず、その不安も問題なく解消され、
それどころか、九龍は身体が密着するのを申し訳なくさえ思ったらしく、
しっかりしがみついてくれ、というだけのことを口にするのに、何度も口ごもりながら告げたものだった。
 もちろん、亜柚子は指示に従った。
そして九龍に対して穏やかならぬ感情が芽生えたのは、その時からだった。
 可愛い、という感情から始まった、異性に対する想い。
早くから大人たちに混じって仕事をし、それが故にどうしても少し背伸びをせざるを得ない少年。
しかし少年は少年でしかなく、彼の専門分野はともかく、それ以外は初心うぶな子供であり、
その落差は亜柚子の自制心を裂いてしまうほど大きかったのだ。
 九龍に女を意識させるのは簡単だった。
思春期の扉を開けたばかりの子供のように、観念的なものでしか女性を知らない九龍は、
亜柚子が少し女の仕種をするだけで面白いように狼狽し、
目の前にある魅惑的な果実をかじってしまって良いのかどうか、哀れになるほど迷った。
ロープを掴む時に手を握る、胸元を開けて谷間を覗かせてやる、彼の汗を拭ってやる――
そんな、年の割に男性と触れあった経験の少ない亜柚子ですら子供じみていると思うことでも、
九龍は目をそむけ、あるいは息を止めて惑うのだった。
 だから、亜柚子がついに誘惑の真似事ではなく、本当に彼を抱きしめた時も、
九龍は探索時のような決断力や判断力など微塵もみせず、
それどころか女に対する最低限の礼儀すら遵守できず、ただただされるがまま、
喘ぎ声以外は一切発さず硬直していた。
 亜柚子はそれを良しとした。
彼の初心なところを好いた亜柚子にとって、九龍がそういったことに全く疎いというのは、
歓迎こそすれ蔑む理由などなかったのだ。
問題があるとすれば、亜柚子にも男を悦ばせるだけの経験はなく、
ともすれば二人とも硬直して気まずさを覚えてしまう危険があることだっただろう。
だがそれも、九龍の圧倒的な朴念仁ぶりによって杞憂に終わり、
亜柚子は恥ずかしいながらも思う存分振る舞って、彼を虜にすることに成功したのだった。
「今日はこの辺で終わりにしよう」
 玄室の幾つかを抜けたところで、九龍が告げた。
どうもこの辺りが中間地点に当たるらしい、一度地上に戻って装備を整え、また明日潜ろう。
そう説明する九龍に、亜柚子は一切反対しなかった。
遺跡探索における九龍の判断に、亜柚子は全幅の信頼を寄せている。
たとえ近頃、九龍は意図的に探索を早めに切りあげるようになったとしても、
亜柚子がそれを非難することなどできはしなかった。
 なぜなら、九龍がそうなるように仕向けたのは、他ならぬ亜柚子だからだ。
生徒が道を誤りそうになったのなら、正してやるのが教師の務めだ。
この一点だけで亜柚子は聖職者たる資格を失うことになるが、
九龍に与えた禁断の果実は、亜柚子にも美味をもたらしていて、
しかも未だ味わいつくしておらず、現在のところ、學園の闇を払うという大義名分で、
かろうじて楽園の端にしがみついているという有様だった。
 地上へと続くロープをいったんは握った九龍が、不意にその手を放した。
「どうしたの?」
 亜柚子はやや緊迫した声で訊ねる。
九龍はそれに答えず、亜柚子から一歩離れると、不意に顔をそむけた。
「九龍さん……?」
 異変を感じた亜柚子は歩み寄ろうとする。
その瞬間、鼓膜を裂くような大きなくしゃみが、千年以上前からたゆたっていた空気を吹き飛ばした。
思わず顔をしかめた亜柚子に、九龍は悪びれた様子もなく笑った。
「へへッ、上に出たら部屋に帰るまで音出せないからな」
 つい数分前までの年下とは思えない精悍さを、
迷宮に置いてきたかのような子供っぽさに亜柚子は呆れるほかなかった。
彼の肉体的な男らしさは、亜柚子と同年代の男をすら上回る。
けれどもある面では、九龍の同級生よりもずっと年下であるのが、好ましくも疎ましい。
まさにその疎ましい一面を見せつけられて、
予定通りに授業が進められなかった時にも似た腹立たしさを抱いた亜柚子は、小言を言いそうになった。
しかしそれよりも早く、九龍の腹の辺りから、盛大な音楽が奏でられた。
「……」
 盛大ではあっても格調とか気品とかいったものからは遙か遠く離れている音に、
怒りも抜け落ちてしまい、亜柚子は静かにため息をついた。
「なんだよ、先生は腹減ってないのかよ」
 馬鹿にされたと感じたのか、九龍が口を尖らせる。
それが今度は好ましい方の子供らしさに見えて、亜柚子はついに小さく吹きだした。
「ふふッ、空いているわよ」
 すまして答え、九龍が憮然としたところで、彼の腕をさりげなく取る。
「ね、早く終わったことだし、私の部屋で何か食べていかない?」
「……いいのか?」
 やせがまんをするのは無益と悟ったようで、九龍は提案を拒まなかった。
 このところ二回に一回は探索後、亜柚子の部屋に寄るようになっていて、
それも三回に二回になりつつある。
今日も亜柚子は最初から誘うつもりだったので、軽い食事をするというのは
より堂々とした口実がひとつ増えたに過ぎなかった。
 そしてその効果は亜柚子より九龍の方に表れていて、
はっきりとした下心をまだ口に出せない少年は、
そういったささいな言い訳に過剰なくらいに飛びついてくるのだった。
「ええ、もちろん。でもあまり期待はしないでね」
 笑って頷いた亜柚子は、その言葉も耳に入っているか怪しい早さでロープを上りはじめた九龍に続き、
自分も地上への道を上りはじめた。
 天香学園へと戻った二人は、地下への入り口がある墓地から、教員の宿舎がある区画へと小走りで向かう。
教師と生徒のほとんどが学園内で生活するという天香だが、
半ば自治を行っている生徒会の監視は厳しく、あえて校則を破ろうとする生徒はほとんどいない。
それが幸いして思いきって出歩いても人目につく可能性は少なく、
職員用のバーと学生用のファミリーレストランは営業しているものの、
墓地からは離れた場所にあり、見つかる心配はほとんどなかった。
 物陰から物陰へ、九龍が先に行き、亜柚子が続く。
職員宿舎までは順調で、ここまで来ればもう安心といって良かった。
「あの、明かりがついている部屋よ。先に戻るから、窓が開いたらそこから入ってきて」
 九龍に小声で囁いた亜柚子は、音を立てず職員寮の玄関へと歩きだした。
走りたくなるのをこらえ、変に見えないぎりぎりの早さで自室へと向かう。
まだ外にいること自体が不審な時間でないとはいえ、同僚に見つかれば何か言いつくろわねばならない。
しかし幸いなことに、亜柚子が不慣れな嘘を試される機会は、今夜は訪れずに済んだようだった。
 誰に出会うこともなく部屋に戻ってきた亜柚子は、
一息つく間も置かず、窓に立ち、鍵を外した。
シルエットで充分だろうという予測は当たり、
ほどなく窓が数センチ開き、九龍が音もなく部屋へと入ってきた。
小さく笑う九龍の手には、彼が履いていたブーツがある。
「靴を脱いでくれるなんて、細かいところに気が利くのね」
 九龍のブーツを受け取り、玄関へと置いた亜柚子は笑って言った。
「先生こそ、明かりをつけたまま来るなんて悪知恵が働くようになったじゃないか」
 初歩のアリバイ工作だが、しないよりはしておいた方がずっとよい。
それにこの学園内に居る人々の中に、まさかこの学園の地下に歴史を揺るがすような大遺跡があり、
さらに教師が秘密裏に探索をしているなどと考える者などまずいないだろうから、
この程度の工作でも充分すぎるほどだろう。
 年下とはいってもこの手の分野においてははるかに詳しい九龍に褒められて、
少し耳朶が熱くなるのを感じながら、亜柚子は目を細めた。
「ふふッ、本当はね、ドキドキしたのよ」
 欺くために部屋の電気をつけたままにしておく、ただそれだけのことでも、日常からは逸脱しており、
つい一ヶ月ほど前までは逸脱という言葉とは無縁の人生を送っていた亜柚子にとっては冒険だったのだ。
 そしてもちろん、夜に教え子を部屋に招き入れるという、逸脱どころではない行為も冒険である。
初めて教壇に立ったときよりも、もしかしたら早鐘を打っているかもしれない心臓の音を
九龍に聞かれないためにも、亜柚子は彼を呼んだ口実を叶えるために台所へと向かった。
 事前に作ってあったチョコスコーンを軽く温め、紅茶を添えて出す。
かなりの量を作っておいたのだが、九龍はほとんど一瞬でたいらげてしまい、
亜柚子は嬉しさと同時に彼の体型を心配せざるを得なかった。
次からは作る量を少し控えた方がいいかもしれない、
と満足げに腹をさする九龍を横目で見ながら亜柚子は食器を片づける。
「ふぅ、ごちそうさま」
 亜柚子の心配をよそに九龍は、落ちつかない子供の態で、さっそく鞄から今日の戦利品をとりだしていた。
 九龍の大目的はこの、存在を秘匿された大遺跡の最深部に辿りつき、
そこにあるはずの『秘宝』を手に入れることだそうだ。
しかしその過程で手に入ったものも、好事家には高く売れるので、おろそかにはしないのだという。
 この東京の中心にある、公になれば歴史を根底から覆すであろう遺跡は、
九龍によれば相当に変わった存在なのだそうだ。
 まず、人が生活していた気配が全くないので、生活遺跡ではない、というのは亜柚子にも分かる。
次に遺跡として良くあるのは、当時の権力者による墳墓だが、それとも雰囲気が違うらしい。
「地球上の気候を全て再現しているみたいだ」
 とは幾つめかの玄室を突破したときに九龍が呟いた台詞だが、
確かに、ジャングルやら寒冷地やら扉の向こうは正に別世界とばかりにバラエティに富んだ各玄室は、
なにやら実験室のような趣があった。
科学にはそれほど詳しくない亜柚子にも、この遺跡を作った先人達の科学力は、
現代と同等か、もしかしたらそれ以上だというのは見当がついた。
 事実、九龍が持ち帰ってきた戦利品は、何に使うものかまるでわからないものも数多くあった。
九龍にもよくは解らないらしいのだが、それらをひとつひとつ手に取り、検分している姿は、
骨董に惚れこむ好々爺さながらだった。



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