<<話選択へ
次のページへ>>

(1/4ページ)

 狭い空間で、九龍はたちまち逃げ場を失った。
恐るべき魔の手はすぐそこまで迫っている。
焦燥の色も露に九龍は、唯一の脱出路である扉までの距離をすばやく測りつつ、
なんとか有利な位置に回ろうと、じりじりと間合いを詰める襲撃者を牽制した。
 九龍とは対照的に余裕の微笑を浮かべた襲撃者は、猫科の獣のようなしなやかな足取りで巧みに退路を遮断する。
九龍から一歩、扉から一歩半の位置を確保すると、有利を確信したのか、穏やかに口を開いた。
「いいからさせろ」
「勘弁してくれ、他の奴に頼めばいいだろ」
「どうしても嫌か」
「嫌だ」
 誤解の余地を与えぬよう、きっぱりと九龍は言い切った。
瞬間、保健室にみなぎっていた緊張が失せる。
それは九龍のせいによるものではなく、白衣をまとった異国の心理療法士にして武術の達人、
劉瑞麗が構えを解いたからだった。
「それなら仕方ない、実力行使に出るまでだ」
 九龍は油断していたわけではなく、瑞麗がわざと見せた隙に素早く扉から逃げ出そうとした。
鼠だって猫を噛むし、兎だって罠を突破することはあるのだ。
扉を右手で弾くように開けると同時に身を外に投げ出す。
将来有望な『宝探し屋ハンター』であり、また、数多くの罠に鍛えられた九龍の動きは、
人間としてほぼ限界の速さであったが、瑞麗はそれをも上回っていた。
「ぐえっ……!」
 半身を扉の向こう側に置いたところで、首根っこを掴まれる。
固い襟のある制服のおかげで首を絞められた九龍は鶏よりもぶざまな悲鳴を外に逃がしただけで、
再び室内へと連れ戻されてしまった。
 狩りを終えたハンターは、細身の身体のどこにそんな力があるのかというほど軽々と九龍を引きずっていく。
白いベッドの上に獲物を投げ出すと、さっそく戦利品を検分しはじめた。
膝の上に九龍の頭を乗せ、ややくせのある髪に手櫛を入れる。
首筋からつむじへ、そこからまた首筋へ、単調ながらも情愛を込めた動きで、
九龍の頭を撫でた瑞麗は、低い笑い声を立てた。
「重すぎず軽すぎず、大きすぎず小さすぎず。お前の頭は本当に理想だよ」
「それは褒めてんのか?」
「当たり前だろう」
 切れ長の目を細めた瑞麗は、なお何か言おうとする九龍の頭を自分の腹部に押しつけた。
薄く上下する身体に、反駁はんばくする気を失った九龍がふてくされたように目を閉じると、
喉を小さく鳴らし、日本人の男の豊かな頭髪に指を梳きいれた。
「それに、髪も硬くなくて、梳きごこちがいい」
「……」
 髪を撫でるだけで何が嬉しいのかさっぱりわからないが、瑞麗は心底喜んでいるようだ。
言いかえす気力も失せた九龍は、彼女のしたいようにさせることにした。
 瑞麗の指先は、身長と体重は平均以上であり、
素早さにも自信のある九龍を軽くあしらったものとは思えないほど優しく、繊細に動く。
親にもされたことのない、頭全体を愛しみ撫でる瑞麗に、九龍は口の中で不満をつぶやいた。
 嫌なのは膝枕を強制させられることでも、子供扱いされることでもない。
この中国人心理療法士の膝の上は本当に心地良くて、無防備になりすぎてしまうのが怖いのだ。
 指先が、髪の中をさまよう。
多めの頭髪を掻きわけ、そっと頭皮を撫でていくしなやかな指先。
我慢してもしきれない心地良さに、身体が昂ぶっていく。
否──昂ぶるのとは違う、力が抜けていく気持ち良さだった。
思わず吐息をつきそうになって慌てて我慢する。
九龍にも意地というものはあって、こんなにいいように、
ほとんど子供扱いされて唯々諾々と従うことはできないのだ。
 そんな気持ちを見透かしたように瑞麗が笑う。
「気持ちいいのに我慢するのは身体に良くないぞ」
「……」
「せっかく点穴を刺激してやっているのだから、もっと感じてみせろ」
「そのせいでかよ」
 答えてしまってから、手玉に取られたと気づいて九龍は一層憮然とする。
頭を乗せている膝が小刻みに揺れたのがますます気に入らなかったが、
今の時点では負けを認めるしかなかった。
 それにしても、と九龍は思う。
チャイナドレスの上質な肌触りと、清潔な白衣から漂う独特の匂いはいかにも反則ではないか。
瑞麗はやや肉付きが薄く、それが太腿の心地をごくわずかだけ減じているものの、
それがなかったら瑞麗の膝の上は財宝にしかけられた罠よりも性質の悪い陥穽かんせいと化していただろう。
 九龍は服装に色気を感じる性癖は乏しかったが、
それでも瑞麗にチャイナドレス以外の服装は考えられないし、白衣を抜きにすることも考えられない。
 瑞麗と初めて会った時、彼女に会いに保健室に来る輩が多いと聞かされても
それほど関心はもたなかった九龍だが、どういうわけか瑞麗の方が興味を示し、
あの手この手で翻弄された挙句、遂にこうして膝の上に乗せられるに至ってしまった。
その経緯から九龍は、瑞麗の膝枕という、學園中のほとんどの男がうらやむ権利を何の努力もせずに得たにも関わらず、
その栄誉をさほど光栄だとは思っていなかった。
何しろ彼女は気が強く、ほとんど一方的に言うことを聞かせ、従わせようとするからだ。
世の中にはそういうのを好む男もいるようだが、
齢十八にして宝探し屋ハンターとして世界を股にかけて探索を行う九龍には、
同年代の連中とは異なり、一人立ちしているという自負がある。
むしろその客気かっきこそを武器としてこれまで生きてきたのだから、
女などにまとわりつかれるのは今のところうっとうしいだけでしかなかった。
 そんなある日、この学校での初めての友人を呼びに保健室を訪れた九龍は、
なにかにつけてちょっかいを出してくる瑞麗に遂に爆発した。
相手が女性であることも、教師であることも忘れ、本気で挑みかかったのだ。
激発した九龍に、瑞麗は目を細め、口の端に笑みを浮かべただけだった。
それがますます九龍の怒りを焚きつけ、そして──結果は見るも無惨だった。
 彼女がM+M機関という妖魔を狩る組織のエージェントであることを知らなかったのは言い訳にもならない。
銃の使用を控えたのも、結局は意味がなかったことだろう。
何しろ校舎裏で対峙した途端、九龍はしたたかに打撃を受け、
指一本触れぬまま気絶させられてしまったのだ。
「気がついたか?」
 保健室の、今まさにしているように瑞麗の膝の上で目を覚ました九龍は、
怒りと羞恥に身体を燃やしたが、それを彼女に叩きつけることはできなかった。
たった一発掌底を受けただけなのに、全身にまるで力が入らなかったのだ。
起きあがることさえままならない九龍は、まるで子守唄のように彼女が中国拳法の達人であること、
さらに『氣』という体内エネルギーの一種を操ることができることを聞かされ、
自分が完膚なきまでに敗北したことを思い知らされたのだった。
 以来九龍は一日一度は保健室に顔を出すことを義務づけられ、
九龍以外に誰もいなくなった時はこうして膝枕を強要されていた。
大の男が手足を曲げて──なぜかはわからないが、横向きに膝枕をされるとそういう格好になってしまうのだ──
女に膝枕されているところなど、絶対に他人に見せるべきものではない、という貞操観念を持っている九龍は、
幾度となく抗議し、時には今のように実力行使で逃げようとした。
しかし拳法の達人というだけでなく、仙術という九龍には原理すらわからない技の使い手でもある瑞麗から
逃れることは極めて困難であり、そうやって無駄な抵抗をした後に膝枕をされるのはまた格別の屈辱であると
骨の髄まで沁みこまされるだけのことであった。
 膝の上がどれほど居心地のよい場所であったとしても、
一秒でも長く土埃と未踏の冷気漂う遺跡に潜っていたいと願う、ある種変人である九龍にとっては牢獄と変わらない。
さっさとスリルとロマンに満ちた地下世界に旅立ちたいのだが、この牢獄は脱獄がほとんど不可能で、
脱出する唯一の方法は看守の機嫌を取ることなのだ。
そして看守の機嫌は、ただじっと横になって彼女のしたいようにさせるという、
鋭気が指先にまで漲っている九龍にとってはもっとも辛い行為でしか好転させることができないのだった。
 頭皮を優しく揉んでいる瑞麗の手が、腹部に頭を押しつけようとする。
多くの男たちが求めて触れることの叶わぬチャイナドレスに顔を埋められそうになった九龍は、
抗議の意味を込めて瑞麗を睨んだが、瑞麗はきれいに切りそろえられた髪を小さく揺らし、微笑さえ浮かべていた。
「女は子宮で男を感じるものだ」
 彼女は生半可な日本人よりも流暢な日本語を操るが、実は語彙に乏しいのではないか、
そう思ってしまうほどストレートに過ぎる物言いだった。
 凝った刺繍が施された絹の生地が、柔らかく波打っている。
瑞麗から感じる生命のリズムは九龍の裡にある力、
どのような困難にも怯むことなく立ち向かう強い意思を減衰させてしまう、不思議な律動だった。
あながち瑞麗の言っていることも間違いではないのかもしれない、と九龍は思いかけ、
慌てて否定しようと眉間に力を込め、固く目を閉じた。
小さな、腹に顔を埋めている今の姿勢では気づかれないはずの表情の変化だったのに、
瑞麗は茶化すように髪を引っ張ってくる。
どうせ気づかれているのだから、と思いきりしかめ面で見上げると、すました顔の瑞麗が視線を重ねていた。
「どうした?」
「なんでもねぇよ」
「フフ……そうか」
 長い睫毛を軽く伏せ、瑞麗は再び頭を撫でる。
怜悧ながらもどこか、本能的に男には抗えない笑顔に、鋭気を削がれた九龍はそれ以上反論を重ねる気をなくし、
今度は気分を落ち着かせるために目を閉じた。
「……」
 しなやかな指先が頭部をさまよう。
適度な刺激はもとより、時折浅く立てられる爪が気持ちよかった。
腕の良い理髪師に洗髪してもらっている時のような、不思議な快感を九龍は覚えていた。
さきほどまで嫌がっていたことも忘れ、ぬるま湯に心を浸たす。
そっと息を吐き出すと、こんなに溜まっていたのかというほど力が抜けていった。
 腿の上に頭が沈む。
足と腹部と手と、瑞麗に包まれた頭部は、感覚があやふやになっていた。
冷たい石の床や土の壁が九龍は好きだったが、それにも劣らないくらい、いつからかこの温かさを気に入り始めていた。
瑞麗に対する好悪の念とは矛盾するが、この膝枕があくまでも強制されてのことなのだからという理由で
自分に折り合いをつけている。
では強制されなかったら、瑞麗にもう保健室に来る必要はないと言われたら──
その時は嬉しいのかそうでないのか、九龍にはわからなかった。
 いつしか指先は頭だけに留まらず、首筋や耳にまで触れるようになっている。
「……」
 優しい、産毛だけを撫でるような指先は、それまでよりもずっと繊細で、
力を抜いていた九龍は声を上げそうになってしまった。
慌てて下唇を噛んだが、もう口元まできていた呼気は抑えられず、
しゃっくりのような嗚咽となって出てしまい、瑞麗を不審がらせた。
「声出たら……格好悪いだろ」
 幾分声を尖らせながらも、九龍はついに快感を認めた。
瑞麗がそのつもりで触っているのは最初から明らかだったし、
やせ我慢をすれば彼女は声を出させようと愛撫を続けるだけだろう。
そう九龍は理屈だてて自分を納得させたつもりだったが、
それが本心なのかと聞かれたら返答に困ったかもしれない。



<<話選択へ
次のページへ>>