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 保健室の主である劉瑞麗は、扉が開けられたくらいでいちいち反応はしない。
ここには見たところ診察の必要などないのに大げさに騒ぐ生徒や、
時にはここを休憩所か何かと勘違いしている輩までもがやってくるのだから、そんな生徒に構っていてはきりがない。
 だからその日の朝一番、まだ部活の朝練をしている生徒くらいしか校舎にいない時間に扉が開けられても、
瑞麗はいつものようにぼんやりと机に座って煙管を咥えたままだった。
おおかた転んで膝を擦った生徒が絆創膏を貼りに来たのだろうと、保険医らしからぬやる気のなさで無視していたのだ。
そもそも瑞麗は朝が苦手と言わないまでも弱く、
二時限目が終わるあたりになるまではぼんやりとしていることが多い。
軽い傷なら勝手に治療して出ていってもらいたいところだった。
 ところが、その生徒は瑞麗の後方で立ち止まり、そのまま動かない。
絆創膏ならそこにある、勝手に持っていけ、と煙管を振ってみせたが、生徒はじっと立ったままだ。
氣という、生体エネルギーの一種を読める瑞麗は直接見ていなくても人の気配をある程度把握できる。
しかし今はなまじ氣を読めてしまうために、こちらをじっと見ているだけで何も言わないその男がうっとうしくてたまらず、
遂に朝の優雅な気だるいひと時を邪魔する無粋な侵入者に容赦ない一言を浴びせてやろうと、面倒くさげに椅子ごと振り向いた。
「お前は……」
 鋭い目つきを準備した瑞麗の視界に入ったのは、目下のところ彼女にとってもっとも重要な生徒だった。
元から少し癖のある髪は、ブラシも入れていないのか後ろの一部が跳ねている。
それだけでも失笑に値するものだったが、生徒は彼女の弟が無理難題を押しつけられた時の数倍は情けない表情をしており、
瑞麗は笑うのを我慢するために結構な努力をしなければならなかった。
それでも完全に封じこめるのは不可能で、いくばくかの笑いがこぼれてしまう。
すると生徒は一層情けない顔をしたため、とうとう瑞麗は抑えきれず笑いだしてしまった。
「どうした、その顔は」
「昨日ちょっとドジ踏んじまって」
 ふむ、とうなずいた瑞麗は、まだ笑うのをやめず男の全身を上から下まで眺めた。
 一見どこにでもいる高校生に見えるこの生徒は、世界中を駆け巡って秘宝を探す『宝探し屋ハンター』であり、
天香学園にも地下に眠るという秘宝を求めて潜入している。
それはもちろん秘密裏に行われていたが、瑞麗は事情を知る数少ない人間の一人であり、
保健医としても個人的にも彼の健康を気遣うべき立場にあった。
「またひどくやったな。その顔で教室に行けば、すぐに怪しまれるぞ?
全寮制の学校で、どこで怪我をしたんだとな」
 保険医の指摘に、宝探し屋ハンターは黙ったままうなずいた。
瑞麗の言うことはもっともだ。
だからこそ九龍も早朝、まだ人気の少ない時間を狙って保健室に来たのだ。
瑞麗は腐っても保健医であるし、適切な治療を施してくれるに違いない。
そんな九龍の期待が、朝露よりも儚く消え去るのに時間は必要としなかった。
「よし、まず服を脱げ」
「なんで脱ぐ必要があるんだよ!」
 言い放つ瑞麗に、九龍は思わず叫んでいた。
応急処置を施してほしいのは見た目だけで、服で隠れる部分は放っておく。
それで充分だというのに、この中国人女保健医はなぜこう噛みあわないのだろうか。
「大事なところを怪我しているかもしれないじゃないか」
「……」
 化け猫が舌なめずりした、と九龍は思った。
化け猫など見たことはないが、キセルを置いた瑞麗に、なぜかそんなイメージが重なったのだ。
 瑞麗が近づいてくる。
俊敏さを身上とする九龍だったが、昨日の怪我で飛びすさるような動きは期待できない。
それに九龍の俊敏さを瑞麗はさらに上回っており、以前全力で逃げだそうとしたのにも関わらず
捕まえられてしまったことがあるのだ。
逃げられる可能性は皆無に等しかった。
「そうそう、怪我人はおとなしくしているのが一番だ」
 爽やかな早朝だというのに重い空気が立ちこめる中、瑞麗がやけに艶かしい手つきで制服のボタンを二つ外す。
九龍はそれを、どうすることもできず見ているしかなかった。
さっきは猫にたとえたのに、今は蛇にたとえたりもする。
もちろん九龍自身は哀れな蛙だった。
 時間をかけて全てのボタンを外した瑞麗は、今度はシャツのボタンに手をかける。
そっと胸の中心を掠めた指先が、シャツと肌の狭間を行きつ戻りつする。
我知らず九龍が生唾を飲んでしまうほど、色気に満ちている瑞麗の仕種だった。
 シャツも瑞麗の魔の手から身を守る役にはたたず、脱がされてしまった。
残された砦は肌着だけだ。
鎧でも着てくればよかった、と後悔するもすでに遅く、
爪先ですら破かれてしまいそうな心もとない薄手の布地一枚に貞操を託さねばならない九龍だった。
むろんそんなものがどれほどの役にたつはずもなく、瑞麗はご丁寧に背中側から手を入れ、
皮を剥くように肌着を引っ張りだしてしまった。
ほどなく無防備になった肌に掌が吸いついてくる。
「……っ」
 ひんやりとした掌は、認めたくないが快く、九龍は小さくうめいてしまった。
瑞麗はすました顔で触診をはじめ、それが九龍にはまた悔しい。
騒ぎだした心臓の音を知られたら恥ずかしい、と危惧したが、
瑞麗は珍しく職務を果たすようだった。
「ふむ……結構打撲があるな。高いところから落ちたのか?」
「まあな」
 自分の失敗を語ることになるので、九龍は極端に短く答える。
それでも瑞麗は気分を害したふうもなく、打ったと思われる場所をあちこち触っていった。
胸から腹。それから、背中も。
瑞麗は九龍に後ろを向かせるようなまだるっこしいことはせず、
正面から直接背中に腕を回して触診してきた。
「……」
 軽やかな体香とかすかに触れる瑞麗の肢体に、九龍はなんともいえない気分になる。
なんともいえない、というのは文字通りなんともいえず、九龍は瑞麗に対し未だ明確に感情を定めていなかった。
好きなのか、と言われれば好きなような気もするが、
瑞麗は九龍を、彼女が良く語る出来の悪い弟の代替にしているような節もあって、
簡単にいうと子供扱いされるのが気にいらない。
では肉体だけの関係、と割り切るにしても、そもそも九龍はまだ恋愛より遺跡の方に夢中である変人であり、
まがうことなき中国美人である劉瑞麗の魅惑的な肢体を目の前にしても、
反応してしまうのを恥ずかしいと思ってしまうのだ。
それこそが瑞麗に子供扱いさせている要因なのだとは、気づきもせず。
 手を抜いた瑞麗が、腹の上に手をかざす。
ほのかな熱が伝わってきたが、良く見れば瑞麗は手を肌に触れさせてはいなかった。
不思議な『力』に疑問を抱くよりも早く、肩から力が抜ける。
「なんだ……?」
「しばらく余計な力が入らないようにしたのさ。その方が治りが早い」
「そ、そうか」
 納得したところで、九龍はいきなり突き飛ばされた。
「うわっ」
 名うての『宝探し屋ハンター』は踏ん張ることもできず、よろめいたあげくに倒れてしまった。



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