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 薄闇に、男女がたたずんでいる。
二人の距離は他人のそれではなく、といって恋人の近さでもなかった。
手を伸ばせばかろうじて届く位置に、魔法をかけられたように直立する女を、男はじっと見つめていた。
 男の瞳には同世代の人間にはない光があり、それがどちらかといえば平凡な顔立ちを強く印象づけている。
その、まともに浴びれば灼けてしまいそうな視線を受けとめる女の瞳は、
これも同世代の同性にはない深さを備えていた。
それも、受けいれ、受けとめる深さではなく、底の知れない海溝のごとき深さだ。
美貌に酔わされて彼女を口説こうとした男たちは、皆彼女に正面から見つめられただけで、
光の決して届くことのない深淵を覗きみて怯え、半ば逃げるように去っていった。
 その、今では声をかける者とてない女の前に、男は立つ。
彼女の裡に存する亀裂の深さなど知らぬかのように、息さえかかるほどの距離に。
そしてあまねく男たちを退けてきた、本当の夜の色をした瞳を、臆する色もなく覗いた。
「……」
 女は何も言わない。
もとより細長の目を、威嚇するようにいっそう細めたほかは、呼吸すらしていないかのように微動だにしない。
二人はそのまま、闇が全てを包み隠すまでそうしているのかと思われた。
 先に動いたのは、男の方だった。
いつしか完全に瞼を下ろし、何かを待つようにじっとたたずむ女の両肩に、男は手を乗せる。
肩の薄さを確かめるように、端まで滑った手は、一転、女の細い顎に触れた。
 女は抗わない。
睫毛を伏せ、薄めの唇を引き結んだまま、男の指に全てを委ねていた。
女の表情は諦観を宿しているようにも見えたが、男は構わずに顔を上向けさせる。
重ならない視線にもまるで頓着せず、口だけを、見ようによっては笑っている形に歪めた。
どれほど愚鈍な女でも、男の表情を見ればこれから自分の身に何が起こるのか、
昨日の・・・天気よりも容易に予想がつくだろう。
女は目を閉じていたが、気配と、顎に添えられた手から想像することはできるはずだ。
それでも、女は表情を変えなかった。
呼吸も乱さず、目を見開きもせず、氷像さながらに動かない。
 女の顎に乗せた指もそのままに、白い、
目を閉じている今ではただ美しいというだけにすぎない顔を眺めていた男は、
やがて満足げに小さく頷くと、静かに顔を寄せた。
 二つの顔は重なり、そしてすれ違う。
ほとんどの男が目指すであろう柔らかな紅をいともあっさりと通過し、
その向こうに広がる深い黒を目指した男は、目的の場所に辿りつくと、
女にかけられた魔法を解く、秘密の呪文を囁いた。
「好きなんだろ、明日香のことが」
「……!!」
 効果はてきめんだった。
女は物憂げな眼を大きく見開き、眼前にいる男に驚愕の視線を遠慮なく投じた。
 漆黒の瞳が左右に揺れるのを、男は満足げに見守った。
これくらいは――恋を失った代償として許されても良いはずだ。
白岐幽花を知ってから数ヶ月、初めて目の当たりにした彼女の動揺を脳裏に留め、葉佩九龍は教えてやった。
なぜ彼女が心の奥底に秘めていたはずの想いを、自分が知りえたのかを。
「やっぱりな……明日香を見るときだけ、目の色違ったもんな」
 幽花はあまりに浮世離れした態度のため、彼女に話しかけようという人間もほとんどいないのだが、
少し内側に入って観察してみればその感情のおもむくところは容易に察知できる。
言葉にこそ出さないだけで、明日香に注がれる幽花の眼差しは友愛という範囲を大きく超えており、
九龍はごくわずかな嫉妬と共にそれを理解していたのだった。
「……」
 想いを言い当てられた幽花は長い睫毛を伏せて無言でいる。
彼女にはそんな、やや蔭りを帯びた表情こそが似合う、と感慨を深めた九龍だったが、
取った行動は彼女にそんな顔をさせないためのものだった。
「入ってこいよ、明日香」
 目の前の幽花にではなく、背後にあるドアの向こうに声を投げる。
ためらいがちなドアノブの音と共に姿を現したのは、言い当てられた幽花の想い人だった。
髪はまだ団子を作ったままだが、ピンク色の少し少女趣味的なパジャマを着ている。
 幽花は大人でもそうは着ないワインの色をしたガウンをまとっており、
九龍は相変わらず学生服のままで、服装だけをみたらどういう結びつきがあるのか、
余人には想像もつかない組み合わせだが、この三人は、
超古代に築かれた罠に満ちた遺跡を突破し、その最深部に封印されていた
オーバーテクノロジーの生んだ怪物をもたおし、東京の平和を護った勇者達なのだった。
 立てた功績は大統領をも凌駕する三人も、それ以外の部分では十八歳の、普通の高校生と変わりない。
笑い、怒り、悲しみ、そして――恋をする、普通の男女だった。
明かりもつけていない部屋は、相変わらずシルエットを浮かびあがらせるだけだったが、
漂う空気は台風のように激しく乱れていた。
「八千穂……さん……!?」
 幽花の声は本人にも聞き取れないくらいに小さい。
我知らず唇を舐める幽花に、九龍がかけた声には、あえて台風の後の晴天を想起させるような、
やや場違いな明るさがあった。
「お前が明日香のこと好きだって言っても信じようとしないからよ、外で聞かせてたんだ」
「白岐……さん……」
 九龍は幽花だけでなく、明日香の心境もおもんばかって陽気な声を作ったのだが、
必ずしも効果をあげたというわけではないようだった。
部屋に入ってきた明日香の足取りは、はつらつな彼女とは思えないほどふわふわしていた。
わずか数メートル先にいる二人のところに来るのがやっとのようで、糸が切れたように座りこんでしまう。
 まだ驚いたままの幽花と、どこか焦点の定まっていない明日香の目をそれぞれ見た九龍は、
もう一度幽花に視線を移して語りかけた。
「実はな、こいつに告られたんだよ」
「え……?」
 今度は幽花が明日香と九龍に視線を往復させる番だった。
弱々しく笑う明日香と、表情を消した九龍は、お互いに目を合わせようとしない。
告白の結果を保留されて、気まずいのだろう。
明日香にそんな顔をさせた九龍に幽花は腹が立ったが、原因の一端は自分にもあるのだ。
と言ってこの奇妙な事態をどうしたらよいかもわからず、
悔しいながらもこの場では唯一解決策を持っていそうな男に眼差しを向けた。
 睨みつけるような幽花の眼光にも、九龍は表面上は動じなかった。
苛烈な視線をむしろ、楽しむように受けとめてから、温めていた構想を披露した。
「普通ならめでたく三角関係誕生であとはドロ沼ってパターンなんだけどな、
まあ、この学校は地下に遺跡があるなんて普通じゃねぇし、
そこにいる生徒も裸に鎖巻いてたりテニスボールで化け物倒すような奴らだからな」
「九ちゃんだって『宝探し屋』だなんていって、全然普通じゃないじゃない」
 ようやく元気が出てきたのか、明日香が口を挟む。
違いない、と笑った九龍は、まだ目を白黒させている幽花と、口を尖らせている明日香に改めて提案した。
「で、どうする? 俺は普通じゃなくてもいいんだけどよ」
 九龍は二人を等分に眺めやって、彼の意図を言葉によらず伝えた。
 それを先に察したのは明日香で、幽花のほうをちらちらと見ながら呟く。
「あ、あたしは……その、別に……嫌じゃないけど」
「だってよ。幽花はどうする?」
 幽花はこの手のことにそれほど機微が働くわけではない。
むしろ普通の人間関係すら乏しいといえる彼女にとって、
九龍の提案を理解するのは冬に向日葵を咲かせるよりも困難だった。
深く、浅く、一度ずつ呼吸を行って、彼の発した言葉の意味を考える。
九龍が、一組の男女ではなく、三人で関係を結ぼうと言っているのだと結論づけるのには、
旅だった秒針が元の位置に戻ってくるまで時間が必要だった。
 九龍の提案を一蹴するのはたやすい。
九龍は自分が口にしたことが、普通ではないと十分承知しているのだから。
けれども、それでは明日香の想いも、そして幽花自身の想いも散ってしまう。
散るのは構わない――むしろ咲かせるつもりもない、咲かせてはいけない想いだと、今この時まで思っていたのだから。
八千穂明日香は誰からも好かれる女の子で、同じ女性である自分が告白などすれば、
どれだけ迷惑をかけることになるか、容易に想像がつく。
だからこの種は土に埋めたまま、水も与えずに枯らしてしまうつもりだったのだ。
しかし、九龍はその花を咲かせようとしている。
この機を逃せば、種は永遠に、芽を出す機会さえ与えられないだろう。
幽花は逡巡し、そして――顔を上げた。
「私も、嫌じゃない……わ」
「よし、決まりだな」
 提案者である九龍は小さく手を打ち鳴らし、三人の間に協定が結ばれたことを確かめた。
多少強引ではあったものの、誰も損をしない取引であるはずだ。
肉体の都合上、九龍は他の二人よりも少しだけ得をするだろうが、
それくらいは提案者の役得として許されるだろう。
善行を施したつもりになっている、実は稀代の悪徳商人であるかもしれない男は、
巻きこんだ二人の顔を等分に見比べて成立させた取引の履行をさっそく求めた。
「それじゃ、誓いの証を立てようか」
「誓いの証……?」
 明日香が怪訝そうに訊ねる。
幽花はもとより何もわかっていない様子で、九龍はごく簡単に説明してやった。
「こういう時に誓いっていったらすることはひとつだろうが」
「え……? ……あ……!」
 気づいた明日香の顔が、一気にツツジのように赤く染まる。
幽花はといえばまだ見当すらつかないようで、物問いたげに明日香を見るばかりだった。
 こういうのは勢いが肝心であると知っている九龍は、せき立てるように幽花を明日香の正面に据えた。
「じゃあ幽花からだな、ほら、明日香にしてやれよ」
「してやれって、何を……?」
 まだわからないらしい幽花に肩をすくめた九龍は、今度は明日香の両肩を掴んで押しだした。
「ちょ、ちょっと九ちゃん」
「あの……八千穂さん、証って……?」
「あ……えっと、それはね」
 説明をしようとした明日香の、ひどく近くに幽花の顔がある。
真剣な目をまばたきもせず向けている幽花の顔は、明日香にある情動を呼び起こした。
九龍に対して抱いたものよりも、もしかしたら強いかもしれないその気持ちは、
明日香の口を思い通りに動かせなくしてしまう。
二度ほど口を開閉させて役に立たないのを悟った明日香は、おもむろに幽花の肩を掴み、顔を近づけた。
「八千穂、さん――?」
 自分のものであるはずの声が、幽花はひどく遠く――そう、幾千年も昔から聞こえてきたような気がした。
それほど全身から感覚が失せ、たったひとつの場所にだけ集中していた。
明日香の唇が、触れている――
頭では判っていても、心は現実についていけなかった。
ただ、伝わってくる明日香の小さな息遣いだけが世界の全てになる。
「……っ」
 明日香の唇は、幽花が思っていた通りの温かさだった。
そしてどこまでも柔らかく、触れているだけで一緒に溶けてしまいそうな心地をもたらしてくれる。
乱れる呼吸を整えようとして、慌てて幽花は途中で止めた。
ほんの少しでも花を揺らせば、そこに止まっている虫は飛び去ってしまう。
明日香が虫だ、などと例えるつもりはないが、
幽花は自分の呼吸が止まってしまうとしても、平穏を保とうとした。
 それでも、虫がいずれは他の花へと飛び立つように、明日香の唇も離れていく。
薄れていく恍惚を、今までに一度も味わったことのない甘い痺れを、
幽花は無意識に追いかけ、自らの口唇をなぞった。
「エヘヘッ……キス、しちゃったね」
 ぼんやりとしている幽花に、明日香が語りかける。
キスは全く勢いでしてしまったものだけれど、こんな、見たこともない幽花の表情が見られるのなら、
して良かったのだと思った。
たぶん――間違いなく、幽花もキスなんて初めてに違いない。
白い頬をほんの少しだけ朱に染め、黒い瞳を霞がからせてぼぅっとしている幽花は、
お姫様のように可愛くて、明日香は優しく微笑みかけた。
「八千穂……さん……」
 薄い唇からこぼれでた自分の名前が嬉しくて、もう一度キスをする。
今度は、さっきよりも唇を少しだけしっかりと押しあて、少しだけ長く触れさせた。
幽花はほとんど無反応だったけれども、明日香には充分すぎるほど、彼女の想いが伝わってきていた。
 唇を離した明日香は、茫洋としている幽花の肩を掴み、母親のような優しい声で語りかける。
「白岐さん、ホントにいいの……? 九ちゃんの口車に乗せられたらだめだよ?」
 口調と異なるひどい言いように九龍は抗議しかけたが、
それよりも先に幽花が小さく頭を振ったので慌てて口を閉じた。
幽花はまず九龍に、次いで明日香に視線を移し、弾みをつけるように黒髪を揺らして言った。
「わたしは……いいわ。いえ、むしろ望んでいたのだと思う。
八千穂さんも、葉佩さんも、私にとってとても大切な人だから」
 珍しく、一気に幽花が言い切ったので、明日香もそれ以上は強く言えなかった。
もしかしたら自分よりもずっと強い意志でこの関係を受けいれたのかもしれない幽花に小さく頷き、
明日香は九龍と場所を変わった。
「次は九ちゃんの番だよね」
「お、おう」
 答えた途端、九龍は心臓が凄まじい勢いで鳴りだしたのを感じた。
遺跡を踏破し、秘宝を発見したときなど比べ物にならない鼓動は、耳鳴りを伴うほどだ。
口の中はすでに砂漠で三時間過ごした時よりも干上がっており、意味のない呻きさえ発せない。
自分でもなぜこんなに緊張しているのか判らないまま、九龍は幽花の細い、
今にも消えてしまいそうな両肩をしっかりと掴んだ。
「そ、それじゃ幽花……いいか?」
「……ええ、よろしく、九龍さん」
 幽花の返事もかなり的から外れているのだが、それに気づいたのは傍観者である明日香だけで、
九龍は受け取った返事を噛みしめる余裕さえ失っていた。
じっと見つめる幽花に、顔を近づけていく。
真っ白な幽花の顔は、まるで人形のように全く動かない。
このままキスしてしまって本当にいいのだろうか、若干の迷いを生じさせながら、
九龍は唾を飲みこみ、幽花に息がかかってしまう、寸前の距離で一度動きを止めた。
「……」
 至近距離で幽花と見つめあう。
いつか目を閉じるだろうと思っていた幽花はまばたきすらせず、
結局先に根負けしたのは九龍の方で、ほとんど当てずっぽうで幽花の唇に自分のそれを押しつけた。
「……」
「……」
 ひんやりとした感触が、身体中の全感覚を支配する。
幽花の唇はとても小さく見えたのに、キスをしたのは自分の方なのに、くちづけた途端、
九龍は吸いこまれるような錯覚さえ覚えたほどだった。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、九龍はキスを終える。
終えたい、と思ったわけではないのに、唇が勝手に離れていくのはなんとも不思議だった。
「……」
 名残惜しさを顔に出さないよう、九龍は顔の筋肉を引き締める。
淡い期待をこめて視線をはしらせたが、残念なことに幽花はキスを終えても
特になにがしかの変化があるようには見えなかった。
もっとも、明日香とのキスでも特に喜んだようには見えなかったから、
感情を表に出すのが苦手なだけなのかもしれない。
まずはキスできたのだから、と自分を納得させる九龍だった。
「それじゃ最後はあたし、だよね」
 二人のくちづけの間はさすがに一言も差し挟まなかった明日香が、控えめに申し出る。
さすがに恥ずかしいのか九龍の顔は直視せず、いかにも健康的な唇を下に向けたが、
すぐに何かの衝動に呼ばれたかのように、勢いよく顔を上げた。
「ねぇ、九ちゃん……好きって言ってくれない?」
「い、今ここでかよ」
「うん……お願い」
 幽花の、まがりなりにも想いを寄せる相手の目の前で、
他人を好きだと言うのはいくら九龍でもためらわざるをえない。
しかし、明日香の想いを一度は受けいれなかったという引け目と、
今日の明日香の可愛らしさ、それに四つの眼にじっと見つめられて、遂に九龍は決意した。
大きく咳払いをして、背筋も伸ばして明日香に向き直る。
「ありがとう……な。お前が居てくれて探索は楽しかったよ」
「九ちゃん……」
「だからその、なんだ……好き……だ、明日香……」
 九龍の告白はさんざん口ごもった挙句に肝心の部分は口の中でごにょごにょと言ったにすぎない、
実に男らしくないものだったが、明日香は目を潤ませたりしている。
そうすると九龍にも幾らかは罪の意識めいたものが芽生えるというもので、
今は暗所用のゴーグルはかけていない頭を強く掻き、恋する少女の肩に手を置いた。
「えーと……それで、な、あの」
「ううん、もういいよ」
 小さく頭を振る明日香に、九龍は胸にかつてない痛みをおぼえた。
これ以上は何を言っても、この場にいる三人皆を傷つけることになってしまう。
九龍が焦りと狼狽のあまり踏み越えそうになったラインを、
明日香は身を挺して押しとどめてくれたのだ。
まだ少し潤んでいる明日香の瞳を見て、九龍は自分の裡に、
ようやく本心から彼女を想う気持ちが芽生えたのを知った。
しかし、それを形にしようとして、また過ちに気づく。
 もう間違いは軌道修正できないほど遠くへ九龍を連れ去っていたが、
それでも、少なくても直そうとする努力はしなければならない、と九龍は必死に取り繕った。
「け、けど探索が楽しかったのは本当だぞ、今までそんな風に思ったことはなかったんだから」
「えへへッ、その言葉で充分だよ」
 もう一度、目許の涙を拭った明日香は、静かに目を閉じる。
ここで時間を置いては男として最低である、とさすがに思った九龍は、
明日香の、幽花のと較べるとずいぶんとふっくらとしている唇にくちづけた。
「ん……」
 どういう効果によるものか、ずいぶんと儚く見える明日香の肩が、わずかに震える。
 想像以上に柔らかかった唇の感触もさることながら、かすかに漏れた吐息の色っぽさに、九龍は驚いた。
「明日、香……」
「なに?」
 しかし、思わず呟いた名前に対して反応した明日香の声は元に戻っていた。
それを残念に思いつつも、九龍は少女の身体を、その想いが命じるままに抱きしめた。
「あっ……痛い、よ、九ちゃん……」
 今心にある気持ちは、嘘ではない。
それを明日香に伝えるように、九龍はなかなか両腕の力を緩めようとはしなかった。

「えへへッ、それじゃはじめよっか」
 抱擁から解かれた明日香が、恥じらいを含んだ調子で切りだす。
三人で、というただれた関係を始めようと切りだすことに、九龍はかなり気恥ずかしさを覚えていたので、
明日香が言ってくれたのは大いに助かった。
 とは言っても反応したのは九龍だけで、幽花はきょとんとした顔をしている。
どうも何から始めるのか解っていないようで、九龍と明日香は期せずして顔を見合わせ、苦笑いしてしまった。
「よし、んじゃお前からいくか」
「あ、あたし!?」
 九龍としても、実は幽花の服を脱がせるにはまだ数段心構えの砦を築く必要がある。
もし、というかほぼ確実に幽花は無言であり、細い腰に腕を伸ばしてガウンを解いた時、
あの瞳に見つめられたら前世の悔いまで懺悔してしまいそうなのだ。
たとえ引っぱたかれたとしても、こういうときは明日香の方が格段に楽だった。
「うー……」
 熱い瞳と冷たい瞳に見つめられて、明日香は進退極まったうなり声を出す。
しかし言いだした手前断ることもできず、やがて意を決したように顔を上げた。
「わかった……いいよ」
「何を……始めるのかしら……?」
 二人の間で進んでいく会話に、幽花はややうろたえているようだ。
その横顔をちらりと見やった九龍は、説明はせず、いきなり明日香の方へと腕を伸ばした。
 九龍の手がパジャマの一番下のボタンにかかる。
明日香は自分で脱ぐときは上から外す派だったが、そんなことを気にしている余裕などなかった。
なにしろ生まれて初めて他人に服を脱がされるのだ。
もう心臓はすでにボタンを弾きとばしそうなくらい鳴っていて、
息が苦しいのだけれど、九龍に吐息を浴びせるのも恥ずかしく、明日香は必死に耐える。
ところが罠を解除するときはあれだけ器用に動く九龍の手は、
たかがボタンを外すだけなのにちっとも進まず、みるみるうちに呼吸が苦しくなっていった。
「ま、まだ……?」
「お、おう、あと二つ」
 もう三十秒くらいは経っているのに、まだ終わらないことに苛立っている明日香は、
ふと顔のすぐそばに気配を感じ、閉じていた目を薄く開いた。
「八千穂さん……」
「し、白岐……さん……」
 いつのまにか、幽花が眼前にいる。
 パジャマを脱がせようとする九龍にすっかり気を取られていた明日香は、
思いもかけず近くにあった幽花の顔に息を呑んでしまった。
わずかに震える長い睫毛は、同性であっても見とれてしまうほど美しい。
そして髪に劣らぬほど深く黒い瞳は、まばたきも許さぬほどまっすぐに見つめている。
沈黙が追試よりも嫌いな明日香も、息遣いさえ感じ取れる近さで見る、
圧倒的な美しさには口をつぐむしかなかった。
口紅を塗っていないのにもかかわらず、ひどくなまめかしい紅色をした唇。
小さくて、薄くて、とても形の良い口唇は、ほどなく明日香の視界から消えた。
消えた? それとも、消した?
どちらが正解なのか、明日香にはわからなかった。
目を閉じたのと少し濡れている唇が触れたのとは、ほとんど同時だったからだ。
「……っ」
 幽花の唇はぴったりと吸いついていた。
ほとんどのことに無関心だった彼女とは思えないほどの強い意志が伝わってくる。
幽花の唇は少し冷たくて硬かったけれど、でもとても心地よくて、明日香はゆっくりと身体の力を抜いた。
「ん……」
 幽花の息遣いが聞こえてくる。
それに合わせるように、明日香も少しずつ呼吸を整えていく。
二人で沈んでいくような感覚に身を任せていると、やがてお腹の辺りが、
少し肌寒さを感じ始めるのだった。
 まず上半身だけ下着姿になった明日香は、慌てて胸を隠す。
脱いだからといって恥ずかしくないわけなどなく、まして二人はまだ服を着たままなのだ。
こうなったら一秒でも早く、どちらかを共犯にひきずりこまなければならなかった。
明日香は一瞬ずつ二人を見やり、次の脱衣者を選んだ。
「九ちゃんも脱いでよ」
「お、おう」
 威勢良く返事はしたものの、九龍の動きはズボンに手をかけたところで止まってしまった。
なにしろ好きな女性と好かれている女性、双方にまじまじと見つめられているのだ。
しかもズボンの内側ではさっきからずっと性器が臨戦態勢に入っていて、
それをいきなり見せつけることになる。
この分野に関しては百戦錬磨どころか初陣である九龍がためらうのも無理はなかった。
しかし、明日香を先に脱がせておいて脱がないわけにもいかない。
九龍はじっと眼球すら動かさずに凝視している二人の、ちょうど真ん中に視線をやると、
覚悟を決めて一気にズボンを脱いだ。



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