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 二つの人影が、もつれあうように消える。
一方は長身を少しだけかがめ、影だけを見たらいかにも良からぬことを企んでいそうだ。
対してもう一方、シルエットでありながら柔らかく、起伏に富んだ曲線が身体を構成しているのがはっきりとわかる方の影は、
迷いもなくドアノブに手をかけた。
 小さな音が何重かに反響する。
二人以外に人の気配はなく、その音を聞いた可能性があるのはこの年最後の満月くらいだっただろうが、
影の一方は不安げに囁いた。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「『宝探し屋ハンター』なのに、気が小さいのね」
 からかわれて憮然とする男に対し、豊かな髪を、男には気づかれない程度に揺らした女は、
媚びと愛嬌を絶妙に混ぜた、生半可な男では到底太刀打ちできないウィンクをしてみせた。
「平気よ。この学校に生徒会わたしたち以外に見回りをする人間はいないわ」
 女は天香学園生徒会書記、双樹咲重だった。
そして彼女に連れられて夜のプールに忍びこんだのは、一ヶ月ほど前に天香学園に転校してきた葉佩九龍だった。
 九龍は頷きつつも、しきりに周囲をうかがっている。
それが咲重の言葉を信用していないのではなく、彼の習性であることを知ってはいても、
小動物じみた仕種が咲重にはおかしく、彼女は小さく笑ってから九龍を中に招いた。
 学園内にある屋内プール。
今は部活も終わり誰もいない、不自然なくらいの静謐さが満ちているこの場所に、咲重は九龍を連れてきた。
 水泳部所属の咲重は、この場所が好きだった。
特にこうして誰もいなくなって、水面が鼓動よりもゆるやかにたゆたっている時が。
だから咲重は時々一人で忍びこむことがあったが、誰かを連れてくるのは初めてだった。
 しかし、おそらく學園でもっとも有名な女性に招待されるという栄誉にあずかった男は、
それにふさわしい態度をとっているとはとても言いがたかった。
建物の中に入って、ふたたび沈黙が帳をおろしても、相変わらずそわそわしている。
十二月とはいっても空調の効いている屋内にまで寒さは入ってきておらず、不思議に思い咲重は訊ねた。
「裸ってのは落ちつかないんだよ」
 正確には、いつも服のあらゆるところに収納してある、
どんな危地に陥っても自分の身を守るための道具がないのが九龍を不安にさせるのだという。
納得すると同時に、おかしくもなる咲重だった。
単身この天香学園に潜入し、教師でさえ逆らわなかった生徒会に立ち向かい、
最後には超古代の負の遺産とさえ怖れず闘った男が、女とプールに忍びこんだだけで不安になっているのだから。
「そうなの? あたしは何も着ない方が好きなのだけれど」
「……」
 胸を軽く突きだして言うと、九龍は横を向いてしまった。
この初心うぶなところも、咲重が九龍を好きになった理由のひとつだった。
老人のようにさまざまな道具の知識に長け、注意深い熟練者として罠を見破る『宝探し屋ハンター』は、
咲重が少し艶を含んだ声で囁いただけでしどろもどろになってしまうのだ。
現に今も、ほとんど裸と言ってもよいくらい布地の少ない水着を着た咲重を、九龍は一度も正視していない。
 小さく息を吐いた咲重は、横を向いたままの九龍を柔らかく抱きしめた。
水に浸かる前に、彼の体温をしっかり感じておきたかったのだ。
一瞬、逃げた身体は意を決して咲重を引き寄せる。
その力強さに、咲重は身を任せた。
伝わってくる鼓動は咲重の理想よりもやや早かった。
けれどもそれは咲重に原因があり、すぐには改善されないことがわかっていたので、
咲重は何も言わなかった。
 明日には消えてしまうぬくもりを、咲重は肌に刻みこむ。
彼に忘れないでいてもらいたいからではなく、ただ自分が忘れないために、
触れるところ全てを彼に押しあて、染みこませた。
 咲重は九龍の背中をしっかりと抱きしめていたが、
それでも、温かな身体を抱きしめているうちにものたりなくなってくる。
身体を離すのももどかしく、手を滑らせて水着に手をかけると、九龍は慌てたようすでそれをおしとどめた。
「こ、ここで脱ぐのか?」
 ここまできて恥じらっている九龍に、咲重は少しだけいらだちを覚えた。
灯りは射しこむ月だけで、ここには二人しかいない。
水の上で脱ごうと中で脱ごうと、大差はないというのに。
「抱きあっている最中に、脱いだ水着が触ったりしたら嫌でしょう?」
 この一言は効いたらしく、九龍は観念したように手を離した。
微笑んだ咲重は勝者の余裕で九龍の顎に軽くくちづけ、心変わりしないうちに水着を脱がせてしまった。
続けて自分も、申し訳程度にまとっていた水着を脱ぎ捨てる。
 月の灯は咲重たちのいるところまでは届かなかったが、咲重の生白い肢体は薄闇に浮きあがってみえた。
肉感的だけれどもふとってはいない身体は、尻と、とくに胸が大きく張りだしている。
學園の男なら誰もが一度は凝視してしまうという噂の豊かすぎる胸は、
咲重にとってはいささかわずらわしくもある――けれども、九龍が触れるとなると話は別だった。
 九龍の掌が乳房を押しつつむ。
はじめはどこから触れてよいかとまどうように慎ましげに、すぐに質感を確かめるように幾度も。
掌は九龍の体温よりも少し高く、咲重は心地よさにそっと息を吐いた。
 半ば意図して耳朶に吹きかけた吐息に、勇気づけられたように手の動きが大胆さを増した。
揉みしだき、捏ねまわし、丘の頂で触れられるのを待っていた蕾を指腹で転がす。
巧みではないけれども情感が伝わってくる愛撫に、咲重は密着を強め、自分からも九龍に触れて応えた。
遺跡を踏破し、神代からの遺物を解放したとは思えないほど薄い背中を撫で、ほんの少し顔を上向けて耳朶を甘噛みする。
九龍がむずかったので顔を離すと、至近距離で目が合った。
遺跡を見ている時はあれほど力強かった眼が、一目でそれとわかるほど狼狽している。
せわしなく繰りかえされるまばたきに惑わされず、目の中央だけをじっと見て咲重が喉の奥で笑うと、九龍も苦笑いで応えた。
笑いを収めた咲重は、乳房から離れようとする手を押しとどめて口を開いた。
「やっぱり、行ってしまうの?」
「……ああ」
 ためらいがちな問いかけに用意されていたのは、ためらいがちな答えだった。
 咲重の闇を払い、この学園を──世界を守った男は、明日新たな秘宝を求めて旅立つという。
彼を引きとめられないことは、咲重にはわかっていた。
彼の魂はスリルと探究心とに捧げられていて、そこに女という成分が入る余地はないのだ。
それは最初に、一目彼を見たときからわかっていたことだった。
この学園を支配し、教師でさえ畏れる生徒会。
学園に隠された秘密を暴こうとする九龍を排除しようと、その一員である咲重が彼と対峙した時から、
九龍は咲重に、いや、生徒会にすら関心を向けていなかった。
ただ彼の、日本人にはめずらしい灰色がかった瞳の向こうには、
学園の地下に広がる超古代遺跡が映っているのみだった。
過去におびえ、そこから目を背けようとする者達と、未来を紡ぐために過去を辿る者。
強靭な意志と人智を超えた『力』を持つ生徒会長、阿門帝等をすら凌駕する強い瞳の輝きを有した『宝探し屋ハンター』は、
咲重の予感どおり生徒会を退け、それ自体が巨大な檻であった遺跡の謎を全て解き、
そこに封印されていた存在を神代に還した。
その功績は決して公表できるものではなかったが、九龍が救ったもの達は、決して彼への感謝を忘れないだろう。
 そして、咲重もその中の一人だった。
咲重は直接的に九龍に救ってもらったわけではない。
しかし、過去を疎むあまり誰かにすがることでしか生きられなくなっていた咲重に、
未来を見ることを教えてくれたのは、過去を消してくれた男ではなく、過去に向きあわせてくれた男だった。
 それは、あるいは感謝の想いが思慕に変じただけなのかもしれない。
けれども咲重の気持ちに偽りはなかったし、
彼と闘って敗れたときに差しのべられた手の温かさは強く印象に残るものだった。
彼との軌跡は、ほんの一時まじわることが許されるだけで、あとはもう、決して重なることはない――
そうわかっていても、咲重は九龍の傍に居たいと望んだのだった。
 いつしか、水面みなもまでが咲重の想いを感じとったかのように静まりかえっている。
十二月の夜が射しこむ室内は、煌々と照らす満月以外はただの闇よりも深く、昏かった。
二人の男女もその蒼黒に、ともすれば溶けこんでしまいそうになっている。
 沈黙は咲重にとってかならずしも疎ましいものではなかったが、この場では水底へ導く重りとなるだけだ。
五センチほど上で困っている九龍に夜の使者が取りついてしまう前に、咲重は微笑んでみせた。
「そんなつもりで言ったんじゃないのよ、気にしないで」
「悪いな」
 九龍が学園ここにやってきてから一月、咲重が彼の、思っていたよりも細い身体に触れてからは一週間と経っていない。
それでも咲重は九龍を恨みなどしなかったし、この数日間のことは、取り戻した過去以上に貴重に感じていた。
「いいの。貴方はあたしに大切なものを幾つもくれた。それで充分よ」
 嘘を嘘と知られないよう、咲重は顔を寄せた。
背中を抱いた腕は、嘘を嘘と知って、気づかないふりをしてくれていた。
咲重はそっと力を抜いて、彼の嘘にもたれかかった。
嘘は、とても暖かかった。



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