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部屋の掃除を終えた龍麻は、万能テーブルの上に置いてある時計に目をやった。
時間は朝九時四十五分。
日曜日のこんな時間、朝食も済ませて掃除まで終える一人暮らしの高校生男子など、
日本中探してもそうは居ないだろう。
龍麻も本来なら圧倒的多数の一員であるはずで、それが友人たちからはまず気味悪がられる
こんな所業に至ったのには、もちろん理由があった。
もう一度部屋を見渡し、あらゆる見落としがないか再確認する。
何しろ相手はどんな小さな針の穴からでもダムを決壊させてしまうような技量の持ち主だ。
用心してしすぎるということはなく、龍麻はスパイ並みの注意力でチェックした。
見られて欲しくないものは完璧に隠し、そうでないものもきちんと整頓されていることを確かめる。
全てのものが意図した場所にあり、大きく頷いて満足した龍麻が、一度座るかどうか迷っていると、
まさにそのタイミングでチャイムが鳴った。
予定通り――十時頃に行くわ、と言い、九時五十分に来る。
それは完璧ともいえる行動で、文句のつけようもなかった。
彼女はいつもそうなのだ。
たまには少し遅れて焦るくらいが可愛いのに、と思いつつ龍麻は、
ドアノブに手をかけた時にはそんな思考はさっぱり忘れて、内開きのドアを引いた。
扉を開けた途端、真っ白な塊が飛びこんできた。
突っこんできた、と言った方が正しいかもしれないその塊は、
龍麻がそこにいるのを確信していたかのように迷いなく、
全力で龍麻の腹めがけて体当たりをしてくる。
飛びついてくるのは予想していた龍麻も、その速さまでは予想できず、受けとめきれずに倒れてしまった。
自分の家の玄関口ですっ転ぶなどかなり間抜けな事態ではあったが、
極小の時間で自身の倒れる位置と、ぶつかってきた塊に被害を与えないよう計算して
身体をひねったのは、武道の達人などが見れば感心したかもしれなかった。
「おはようタツマッ!」
もちろん白い塊は武道の達人などではなく、武術家としてそれなりの強さを持つ龍麻に一撃を与えたことも、
自分が全力で守られたことにもまるで気づかず、倒れた龍麻の胸に両手を乗せて、
魔王でさえ怯みそうな笑顔で、三十センチは離れていない龍麻にほがらかに朝の挨拶をした。
「おはよう、マリィ」
龍麻の返事はちっとも芸のないものだったが、マリィはいかにも嬉しそうに大きく頷く。
淡いウェーブのかかったくすんだ金髪が、開け放たれたままの玄関口から射す陽光に照らされて、
眩しいくらいに輝いていた。
日本人なら男女問わず羨望のため息をついてしまいそうな美しい髪に、
しばし目を奪われた龍麻は、マリィに室内に入るよう促す。
「うんッ!」
彼女が飼っている猫のような、体重をまるで感じさせないしなやかさで立ちあがったマリィは、
数歩で端に辿りついてしまう小さな部屋を軽やかに駆けていった。
あおむけのまま、ふわりとひるがえった、おそらくは義姉の影響と思われる白いワンピースの、
内側の可愛らしい配色を眼球だけで追いかけていた龍麻は、
視線を戻すといきなり目の前に手が差し伸べられていて肝を潰した。
「おはよう、龍麻。何か見ていたのかしら?」
穏やかな口調と穏やかな表情で、マリィの義姉は龍麻の心を芯から震えあがらせる、凍てついた言葉を吐いた。
同時に握った手からも凄まじい冷気が伝わってきて、龍麻は思わず手を離す。
支えを失った上体は、当然のように元の場所へと戻っていった。
ひときわ大きな、ごつんという音をまるで他人事のように聞きながら、龍麻は軽く気を失った。
その上をマリィほどではなくても、軽やかな足取りで乗りこえていく葵の、
義妹とは異なるワンピースの内側の配色が最後に見えたような気がしたのは、
夢か現の話なのか、龍麻にはわからぬままだった。
毎週日曜日の朝は、マリィと葵が龍麻の家に遊びに来るのが、この数ヶ月のならわしになっていた。
これはマリィが希望したもので、休日の朝に早起きを強いられる龍麻と、
義妹を猛獣の檻に放りこむ気など全くない葵はそれぞれ控えめに反対した。
ところが、普段はそれほど強く我を通さない、二人より二歳下の少女は、
漆黒の飼い猫をぎゅっと抱きしめて強硬に意見を主張したあげく、
最後には薄いグレーの瞳に涙を浮かべたので、彼女の準保護者たちは、
あまり甘やかすと良くない、とお互いに責任を押しつけつつ、やむをえず提案を受けいれたのだった。
龍麻にしてみれば、なぜこんなに慕われるのか、というのがわからないとしても、
女性に好かれるのは悪い気分ではなく、またマリィの境遇を知る者として、
これまでの彼女の不幸は倍以上の幸福で償われるべきで、その為になら協力は惜しまないつもりだ。
だからいかにも一人暮らしの男の部屋と化していた空間を、
年頃の少女が、少なくとも嫌悪しない程度に作り替えるのにやぶさかではなかった。
しかし、初めてマリィが遊びにやってきた次の月曜日、
葵に学校で屋上へと呼び出された龍麻は、掃除の仕方も知らないなんてと、
微笑を浮かべたまま嘆息され、その日の放課後から、
龍麻がこれまで行ってきた武術の修行は遊びだったのかというほど過酷な特訓が始まった。
ガラスを拭く動きを拳法の練習として取りいれた映画があったが、
ガラスを綺麗にする方がよほど大変なのだと、映画の制作者に教えてやりたくなるほど、
次の日曜日までの六日間腰痛に悩まされた龍麻だった。
それでも、特訓の甲斐あってか、土曜日の夕方、鴉も鳴くのに飽きた頃になって、
龍麻はようやく葵から合格を告げられた。
喜ぶ気力もなく床にへたりこんだ龍麻は、初めて足を踏み入れた時よりも綺麗になった自分の部屋と、
鬼も菩薩に変わるのだという事実に、不覚にも涙ぐんでしまう。
そしてその日の葵はたいへん優しく、いつになく発奮した龍麻は、
翌日起きるときに腰が抜けてベッドから転げ落ちたのだが、
葵はまったく平然とマリィを連れて遊びに来たのだった……
鈴のような笑い声がはじけ、また生まれる。
テーブル、と呼ぶのもおこがましい、ちゃぶ台がテーブル風になっただけの角卓を、
龍麻と葵とマリィは囲んで談笑していた。
「あのね、マリィ英語の時間に、先生の代わりにみんなの前で教科書読んだんだよ」
「すごいな、俺も教えてもらおうかな」
「うんッ! 教えてあげる」
マリィは形式の上では葵の義妹であるが、実際には娘のような扱いであり、
それは龍麻から見ても同様だった。
ただし、「龍麻と葵の」娘だと言うなら、二人とも血相を変えて否定するだろう。
それはともかく、マリィの訪問は彼女が一週間で体験したことを一通り龍麻に話すところから始まり、
そのついでに葵が軌道修正を施し、勉強の復習をさせるというスタイルで進行するのが常だった。
とは言っても、この時の葵は聖女というあだ名がふさわしい優しさでマリィを扱うので、
勉強らしいことはほとんどしない。
家では義姉がどのような態度をとるのか、マリィに訊いてみたかったが、
その質問は確実に義姉に伝わるだろうから、龍麻は虎穴には入らなかった。
マリィの近況報告が一区切りついたので、二人が来る途中に買ってきたケーキに紅茶を添えて出す。
これも当初はコンビニで適当にジュースを買ってきたところ、
マリィに変な味覚を覚えさせないで欲しい、と昭和の姑じみたことを言われ、
彼女たち以外には全く使う予定のないティーポットとカップを一式、
龍麻は買いそろえさせられていた。
一月の生活費の四割にもあたるそれらの代金は、当然家主が全額出すことになり、
軽い目まいと共に支払ったのを、龍麻は昨日のことのように鮮明に覚えている。
そしてやって来たティーセットは、龍麻の部屋にある高価なもの第一位の座を譲り渡す気配もなく、
全く場違いな気品を振りまきつつ、棚の最も良い場所に堂々と鎮座していた。
「マリィはね、タツマのオヨメサンになるの!」
苺のショートケーキを美味しそうに頬張り、口の端にクリームをつけたまま、高らかに宣告するマリィ。
その口許をかいがいしく拭ってやりながら、葵が訊ねた。
「あら、じゃあ私は?」
「アオイはね、タツマのオクサン!」
朗らかな笑い声が部屋を満たす。
特に龍麻は、学園でも一、二を争う人気の葵と、
まだそばかすが残ってはいても、将来はきっと美人になり、
今でも間違いなく美少女であるマリィに慕われてすっかり頬が緩みっぱなしだった。
そのためマリィと葵の間にいる、この部屋の龍麻以外の雄が冷めた目で見ているのにもまったく気づかない。
ちなみにこの雄は人間で言うとまだマリィより年下になるが、妙に分別くさいところがあって、
時にマリィをたしなめ、時にマリィに関わろうとする者に厳しい鉄槌を振り下ろしたりする。
そのため龍麻は自分ですら飲まないような高級な牛乳と缶詰を用意し、
彼の機嫌を取る必要があるのだった。
その全身黒ずくめの雄、名前をメフィストというまだ二歳の牡猫は、
部屋の隅で与えられたミルクをおとなしく舐めている。
タツマとかいうオスは猫に対する敬意も薄く、おまけに彼の友人であるマリィに対して、
すぐに好色そうな顔をするまったくけしからんニンゲンだが、
殊勝にも餌だけは欠かさず用意するので、見逃してやることにしていた。
そばには彼女と一緒に住んでいる、信用のおけるアオイというメスも居るから、
マリィの身は安全と言って良いだろう。
ミルクを堪能したメフィストは、さっきからずっと飽きずに談笑している三人を琥珀色の瞳で眺めていたが、
彼女たちが話を止める気配がまったくないので、開け放たれている窓から出ていった。
それがニンゲンの狡猾な罠だと気づくには、まだメフィストは幼かったのだ。
邪魔者――邪魔猫が出ていくのを視界の端で捉えた龍麻は、内心でほくそ笑んだ。
メフィストはマリィの忠実な騎士で、龍麻も信用しているが、居て欲しくない時というのもある。
以前マリィが笑いすぎて涙をこぼしたとき、一緒になって笑っていた龍麻は、
突然尻の辺りに深甚な痛みをおぼえ、飛びあがったことがある。
振り返ると、かの猫が爪を伸ばして威嚇していたのだ。
こういうとき、普通は人間に爪を立ててはいけないと叱るのだが、
メフィストの飼い主にそれを要求するのは酷であり、葵は手当こそしてくれたものの、
たまにはいい薬になったでしょうと言わんばかりの目をしていたので、
以来龍麻はこの猫と孤独な戦いを始めざるをえなかった。
今日のところは争うつもりはないらしく、メフィストはマリィに何かあったらただではおかない、
と瞳で警告を発して出ていった。
龍麻としてもマリィに手を出すつもりはなく、これは純然たる防護策だ。
笑って涙を流したのを、泣かされたと誤認するような警護には、危なくてそばにいて欲しくないのだ。
とりあえずの危険が去ったので、龍麻は会話に意識を戻した。
少女二人はいつしか真剣な面持ちで会話を続けている。
「でも……アオイはタツマのコイビトなんだよね?」
「大丈夫よ、龍麻を奪ったりしないから」
「本当?」
「ええ」
心の底から安堵の表情を浮かべるマリィと、内心が非常に怪しい完成されすぎた笑顔の葵。
龍麻は安易にどちらに同調することもできず、あいまいな微笑を浮かべ、
期せずして三者三様の笑い声が、狭い室内に重なりあったのだった。
ケーキを食べ終えたマリィが、あぐらをかく龍麻の上に座る。
親子か、あるいは恋人同士であればおかしくはないその場所も、
恋人の義妹という微妙すぎる関係の少女が陣取るのは、少なくとも波一つない水面にボートを浮かべるのとは訳が違う。
場所を提供している龍麻は、さっそくごく近くに低気圧が発生したのを感知したが、
気づかぬ風を装ってマリィが手にする本を開いた。
マリィが日本語を覚えるために使う幼児向けの絵本は、
最近では少し難しめのものを選ぶようになったのか、意外と字が多い。
安心しきって、あるいはもはやちょっと温かい椅子としか見ていないのか、
全体重を預けてくるマリィを受けとめながら、龍麻は咳払いを一つして本を眺めた。
本は動物がたくさん出てくる内容のものだった。
たぶん葵に何度も読ませ、そしてマリィ自身も読んでいるだろうから、
龍麻は少し大仰に演じて読んでやる。
同級生に見られたらさぞ冷やかされただろうが、マリィは大喜びで、
どうやら務めは果たすことができたようだった。
「ねえタツマ、今度動物園に連れてって」
摘んだばかりの苺のような声でマリィがおねだりする。
この、それまでの薄幸な運命を微塵も感じさせない少女は、
彼女の義姉と違って値段を言わずに高級なものをねだったりしないので、一層愛らしさがこみあげてくる龍麻だった。
願わくば葵もこの義妹の影響を少しでもいいから受けて欲しい、とはおくびにも出さず、
返事がないことで早くも細い眉をしおれさせるマリィに、精一杯ためを作って返事をする。
「いいよ、先生に褒められたごほうびに行こう」
「本当? ありがとうタツマ!」
曇天から快晴へ、一瞬にも満たない時間で表情を変えたマリィは、
言うが早いか腕の中で器用に体の向きを変えて龍麻に抱きつき、頬にキスをした。
餌を独り占めするリスのような身のこなしが愛らしくて、思わず龍麻の口元もゆるむ。
必ず近いうちに連れていってやろう、とくすぐったさもまだ残る頬に触れようとした龍麻は、
その肌に新たな低気圧の発生を感じた。
ごく近くに生まれた、規模は小さいが勢いは恐ろしいそれを直視できない。
訪れるのは雨か雷か暴風かはたまた全部か、わかっているのは穏便に通り過ぎることはないということだけという
災害から少しでも被害を減らそうと、龍麻は荒神に祈りを捧げた。
「えっと……葵はどっか行きたいところあるか?」
「あら、連れていってくれるの?」
「もちろん」
「そうね、それじゃ考えておくわ」
考えておく、ということは、本気にしたということであり、
本気にしたということは、その辺でお手軽に済ませることはできなくなったということだ。
何事もなかったかのようにマリィと話す葵を見つつ、
早めに金策を練る必要ができてしまった、と思わぬ出費に内心でため息をつく龍麻だった。
マリィが遊びに来るようになってから、緋勇家のエンゲル係数は着実に減少している。
金に大雑把な龍麻でも、そろそろ見過ごせないレベルであり、
やんわりと注意を喚起したいところなのだが、財政という言葉も知らないような無邪気な天使と、
金がなければ飯を食わなければいいじゃないくらいは言いそうな地獄の給料係とでは、
どちらに相談することもできず、かくして龍麻は世界を支配しうるほどの『力』を、
自らの腹を満たすために用いる羽目になっているのだった。
いっそ世界を支配してしまった方が早いのではないか、と考えたこともある。
それは真剣に検討する価値があるように思えたのだが、
そんなことをしてマリィが喜ぶとは思えないし、そもそも真に世界の支配者となるのは誰なのか、
という事実に思い至ってその考えを放棄する龍麻だった。
気がつけば二時ごろになっていて、マリィはすこやかな寝息を立てている。
本当の美少女というのは、どんな状態であっても絵になるものなのだ、と
親に似た感情で寝顔を見つめていた龍麻は、もう一人、龍麻以上にマリィに親心を抱いている人物を見やった。
「龍麻のベッドに寝かせてあげて」
「……ああ」
葵の判断はいつだって正しい。
同じ部屋でマリィが眠っているのに、ベッドに使い道などあるわけがないのもわかる。
けれども、もう少しだけ夢を見せてくれてもいいじゃないか、という怨嗟が、龍麻の返事を数秒だけ遅らせた。
もちろん、この聖女は邪な願いを牽制するつもりで言ったに決まっているのだ。
マリィを抱きあげるどさくさに紛れて、ごく小さなため息をついた龍麻は、
葵の指示通り今はちょっとだけ邪魔な少女をこの部屋唯一のベッドへと横たえた。
マリィに毛布をかけてやった龍麻がベッドに背を預けるように座ると、葵もそれに倣った。
肩が触れそうで触れない、抱きよせるにはもう一動作必要な、
悪魔的ともいえる絶妙な距離を無造作に保つ葵に、龍麻は感嘆を禁じ得ない。
いったいこの聖女は、どこでこうした技術を習得してくるのか、
龍麻以外につきあった男性はいないなどとぬかす唇に尋問したくてたまらないのだが、
身体を少し傾げただけで、この菩薩は小指の先を龍麻の床に置いた右手に触れさせてくる。
何気ない小指は絶対的なバリアとなってそれ以上の侵攻を阻み、
龍麻は、すごすごと引き返すしか方途はなくなるのだった。
「今日はお疲れ様、大変だったでしょう、マリィにつきあって」
そしてそんな達人級の戦(をしているなどとおくびにも出さず、葵はねぎらう言葉をかける。
先ほどの熱帯低気圧のことなど、色々気になることはあるのだが、
葵がそうしている以上、龍麻もその件には触れずに話を進めた。
「まあね、家でもいつもあんな感じ?」
「ええ、今日よりはもう少しおとなしいけれど、やっぱりお兄ちゃんだと嬉しいのかしら」
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