<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(2/5ページ)

 そらきた。
一旦安心させておいて、いきなり全く別方向から鋭い針を打ちこむのが真神の聖女の得意技だ。
人によっては必殺にもなりうる威力を誇るが、もう何度も受けてきた龍麻には耐性ができていて、
ダメージは少なくないものの、一発二発では倒れない。
「どうかな。そういや動物園だけど、いつ行く?」
「あら、私も行っていいの?」
 よほど研いでいたらしく、葵の舌鋒には容赦がない。
しかし、ここで「じゃあマリィと二人で行ってくるよ」などと答えた日には
あることないことないこと、いやないこと九割あること一割で彼女のあらん限りの交友関係に
噂を振りまかれること必至なので、龍麻は明らかに葵と交際するようになってから
鍛えられた忍耐強さを存分に発揮して、ここは冷静に乗りきることにした。
「当たり前だろ、マリィだってそのつもりで言ったんだろうし」
「どうかしら……ね。最近あの子、龍麻のことばっかり訊くのよ。
今日はどんな話したのかとか、学校が終わったらどこへ行くのかとか」
 何にせよ好かれるというのは悪い気分ではない。
ましてマリィのような見習い天使に好かれるのならば、彼女と一緒に天を飛び回りたいくらいの喜びだが、
見習い天使を指導する嫉妬深い天使長はとても怖ろしいので、
うかつなことをすれば胴体をまっぷたつにされてしまうだろう。
何しろ彼女の持つ剣は、悪魔の王ですら一刀のもとに断ち切るほどの怜悧な刃を持っているのだ。
たかだか黄龍ごときでは、鱗の大きさに切り刻まれてしまうに違いない。
「教えてやればいいのに、いつも葵と一緒に居るって」
「そんなこと、言えるわけないでしょう」
 葵はたしなめるように囁いたけれども、手を滑るように動かし、重ねてきた。
そのまま龍麻が無言で、少し視線を逸らしてやると、指先に、微量の意思がこもった。
抱きついてきたり肩を寄せたりせず、手だけをそっと握ってくるのが龍麻にはかえっていじらしい。
 葵がすっかり手を握ってしまうまで待ち、それから手を裏返し、
控えめに握りかえして顔を向けると、もう黒いまなざしはこちらに固定されていた。
龍麻に息を呑ませるだけの時間をあたえると、長い睫毛に縁取られた双眸はゆっくりと閉じていく。
そこからさらに二秒――これより早ければがっついていると怒られるし、
遅ければ機微が判っていないとやはり怒られるのは、経験で会得した――
待ってから、龍麻は淡く引き結ばれた唇に自分のそれを重ねた。
「……」
 甘かったのは、ケーキの味だろうか。
そんな馬鹿なことを考えながら龍麻は唇を離す。
 龍麻にとって、キスはまだ動悸をいちじるしく乱す行為だった。
特に、こんな近くに他者がいる場合は。
キスの直後に鼻息を荒くするのは、葵がもっとも嫌う行為だと熟知しているので、
龍麻は己の心肺機能にかなりの負荷をかけてそれを阻止した。
すると今度はしゃっくりが出そうになり、より一層の負荷をかけることで、のど元で無理やりせき止める。
困難な二つのミッションをかろうじて遂行した龍麻は、
葵に気取られはしなかっただろうかと眼球だけを動かしてうかがった。
「……」
 葵は目を閉じたまま、余韻に浸っているようだ。
それは、もうその気になれば葵のどこにでも触れられる龍麻でさえ、
心臓がスキップを始めてしまうような愛らしい顔で、思わずもう一度キスをしてしまった。
「……」
 葵が息を呑む、ごく小さな音が聞こえる。
二度目のキスは予想してなかったらしく、唇は、一度目よりもわずかに硬かった。
怒らせてしまったか、と冷や汗をかいた龍麻だったが、葵は押しのけようとはせず、一安心する。
ただし、そこがコップから水のこぼれないギリギリ、それ以上は涙の一滴でも垂らしたら
たちまち水はあふれ出すのがわかりきっていたので、全細胞にその場を死守せよ、
一ミリたりとも進んではならぬと命じる龍麻だった。
 顔を離した瞬間、龍麻は後悔した。
断腸の思いでキスを止めたのだが、葵はまだ顔を動かしておらず、
もう少し続けていても良かったようなのだ。
 三度目はかなり危険なロシアンルーレットとなる。
あと二回くらいは引き金を引けるかもしれず、次にはいきなり弾が出るかもしれない。
知り合いのギャンブラーならこんなゲームでさえ一も二もなく飛びつくだろうが、
龍麻はまだ命が惜しかった。
それでなくても、もう悪魔に魂を奪われているのだから。
 悪魔は――小悪魔などといった可愛らしいものではない、
地獄の宰相あたりを務めていても不思議はない大物悪魔は、
哀れな契約者の耳目を惹きつけるかのように睫毛を動かす。
瞼の向こうから現れた瞳は、意気地のなさを嘲笑するようにも、
そこで踏みとどまった幸運を侮蔑するようにも見えて、
何も悪いことをしていないはずの龍麻は思わず謝りそうになってしまった。
 しかし、一瞬軽い上目遣いを閃かせた悪魔は、
龍麻が何か言うより先に肩に頭を乗せてくる。
龍麻はあわてて身体の上下動を急停止させ、貴賓を迎えいれるべく安定を保った。
鼻腔をくすぐる甘い髪の香り――いや、それよりもいつのまにか絡めとられている指の柔らかさ
――いやいやそれよりも身体が触れたことではっきりと伝わってくる葵自身の体温――
どれが原因なのか判らないまま、龍麻は暴走する鼓動を意志の力だけで押さえこもうとした。
「悪いお兄ちゃんね……妹があんなに慕っているのに」
 断罪された龍麻は、どれが原因なのだろうと肩だけは動かさないで思考を追求し、
制限時間ぎりぎりになってようやく解答を閃いた。
測ったら世界記録を達成しそうな鼓動を、思いのままに解き放つ。
ミリの単位で肩を下げ、それに数瞬遅らせて指を絡め、身体ごと一気に反転させて葵と向かい合う一連の動作は、
どれが少し遅れても成立しないほど鮮やかだった。
そして艶やかな黒髪には一本たりとも触れずに耳朶だけを甘噛みし、
葵が求めるぴったりの愛情だけを与えると、耳から離れて今度は唇がいくらでも触れあう距離を保ったのは、
地獄の宰相の手下にふさわしい辣腕ぶりだった。
 もう表情も判らないくらいの至近距離で、黒い瞳がゆらめく。
それは「悪いお兄ちゃん」の出した答えが正解ではあるけれど、
もう少し早く答えなさい、と語っているようで、
龍麻は頬の内側だけで返事をしながら、葵とキスを交わした。
「さっきの話だけど」
「何?」
「俺を奪ったりしないのか?」
 あっさりと否定されたショックを、多少口調に込めて言ったものだが、葵は動じたりはしなかった。
「奪ったりしないわよ、私は。だって奪われる側だもの」
「……」
 何を言ってるんだこの女は、という思いが龍麻の頭の、割と大部分を掠める。
 葵はスタイルもいいし頭の回転も龍麻の倍ほどは速く、料理も得意なら運動も相当こなす。
隣にいるのがほとんど奇跡にすら思える彼女の、ほとんど唯一といってもよい欠点が、
龍麻と二人になると途端に一歩も引かず、容赦のない態度になるというところだった。
もしかしたら、それは葵なりに甘えているのかもしれないと、一度ならず考えたことがある。
そうとでも考えなければやっていられないほど強い押しだからなのだが、
単にこちらが葵の本性なのではという気も、幾度となくしている龍麻だった。
「なあに?」
 葵が斜め下から、覗きこむように顔を傾けて訊ねる。
応じて口を開きかけた龍麻は、一言言えばそれに倍する反撃が来るのが解っていたので何も言わず再び閉じた。
反撃が怖いのではない、口にはたくさんの機能があるのに同時にそれらはできないからだ。
だが逆に言えば、ある機能を使わせてしまえば、他の機能は使わせずに済むということでもある。
 葵の言動やら表情やら瞳の輝きやらを手がかりに、数学の勉強をしている時の、
数十倍の処理能力で最適解を得た龍麻は、間を置かずそれを実行に移した。
「! ……っ」
 葵の、夜を溶かしこんだような眼が、一杯に見開かれる。
けれどもそれは半瞬で収まって、その後は元の形に留まらず、そのまま閉じてしまった。
安心した龍麻は、葵の遠い方の肩、つまり右肩に手を置き、引き寄せる。
葵は抗わなかったが、龍麻の胸板に拳を添えた。
距離をゼロにはさせないという意思表示に、とりあえず龍麻は妥協し、
ゼロに近づけるだけ近づこうと腕に力をこめた。
「ん……」
 唇はどこまでも甘く、柔らかい。
性格も同じくらい柔らかければ言うことはないのにな、
と時折――ときおりというのも、随分幅広い言葉だ――
恐ろしいことを平気で言う美里家の令嬢について思いを巡らせつつ、
龍麻はもう少し積極的な行動に出た。
「……っ、ん……」
 舌先で臆病に葵の唇に触れる。
少しずつ、少しずつ、葵の唇は薄く開かれたまま、拒む気配を見せはしなかったが、
龍麻は棒を倒さないように砂を崩していく遊びよりも慎重に舌を埋めていった。
 いつもと違い、葵は腰が砕けるような技巧を披露しない。
マリィがすぐ横で寝ているからだと納得はしたものの、龍麻に物足りなさは否めなかった。
その物足りなさがやや大胆にさせたのか、龍麻はより親密に感じられるよう、
葵の肩に置いた手を滑らせる。
「駄目よ、今日は」
 ここまで誘っておいて今更、と強気に出る龍麻だが、葵は伸びてきた手の甲を冗談とは思えない強さでつねり、
龍麻は悲鳴を含んだ空気の塊を口の外に出さないよう結構な努力を強いられた。
しかし龍麻は努力だけに留まらず、つねられていない方の手をしつこく葵のブラウスの内側へと突入させた。
何度も踏破している平野を走り抜け、防がれる前にブラのホックを外してしまう。
「……!!」
 葵の抵抗が弱まり、これはいけると龍麻はたたみかける。
だが、葵は義妹のいる場所ではどこまでも義姉だった。
「マリィがいるでしょう」
 冷めた声と強い力で手首を掴まれ、ブラウスの外側へと放りだされる。
 いるのに誘ったのはそっちじゃないか、と無言で、しかしこの上なく真剣に訴えたが、
葵はすでに恋人から友人にまで龍麻を格下げし終えた顔で突き放した。
あるいは、この男の魂は大して旨味がないと気づいた悪魔の顔だったかもしれない。
 どちらにしても、葵の判断はいつも結果の方がすり寄ってくるとしか思えない的確さだったが、
今回はそれが外れたようだった。
「……何してるの?」
 頭上からねぼけた天使の声が降りそそぐ。
「こ、これはね、マリィ」
 マリィに背中を向けていて、全く気づかなかった葵は、
全霊をこめた非難を正面の龍麻に浴びせるが、マリィの方を振り向いたときにはもう義妹向けの顔に戻っている。
それでも、声の狼狽までは隠しきれなかったようで、らしからぬ焦りがありありと滲んでいた。
 意気消沈していたのもどこへやら、こんな葵もいいものだ、と、
葵が知ったら非難では済まされなさそうなことを考えつつも、龍麻もここは共同戦線を張った。
「違うんだ」
 マリィが決定的瞬間を目撃したのかどうか、やぶ蛇にならないように言葉を選ぶ。
隣で葵が大きく頷き、二人がかりで丸めこんでしまおうと目さえ合わせずに連携を成立させた。
「……マリィもする」
「え?」
 ところが、阿吽の呼吸で行われようとした作戦は、天使の一言でたやすく崩壊してしまった。
何をするのか、と間の抜けたことを考えた二人は、同時に喋るのを止めてしまったのだ。
「タツマとアオイがしてること、マリィもする」
「……あ、あのねマリィ、これはね」
 防衛戦をいきなり突破されて、葵は狼狽している。
大きくはだけていた服を今更のように直そうとしたが、ブラが外されていたので上手くいかないようだ。
 慌てふためいている葵を横目で捉えつつ、ここで支援しなければ後で何を言われるかわかったものではないと、
龍麻は崩壊した戦線を一人食い止めようと試みた。
「マリィは何をして欲しいんだ? 俺たちはマリィがメフィストとするみたいに、
ちょっとじゃれあってただけだぞ」
 ほとんど意味がない、と龍麻自身が思ったとおり、そんな言い訳には何の意味もなく、
それどころか、より致命的な事態を招き入れてしまった。
「マリィにもキスして」
「え……」
 決定的な一言を放ったマリィは、ライトグレーの瞳を、
今にも雨が降り出しそうなダークグレーに染めて詰め寄る。
 葵の義妹は精神的にはともかく、見た目はまだ女性とはとてもいえない、少女の半ばにさしかかった程度だ。
けれどもこうして至近距離で見る少女の表情は、男を困惑させるに充分なもので、
龍麻は助けを求めるように少女の義姉を見やった。
「あのね、マリィ」
「嫌」
 容姿端麗、才色兼備といった四字熟語がよく似合う真神學園の聖女マドンナも、
思春期に突入した少女にかかってはかたなしのようで、何を切り出す間もなく否定されてしまう。
葵はもとからこの、数ヶ月前に突然できた妹には甘い傾向にあったが、
今回はさらに義妹を拗ねさせた原因が自分たちにあるので、諭すこともできないようだった。
「マリィも好きだもの、タツマのこと」
 加えてこんなことを言われてしまっては、もうどうしようもない。
血は繋がっていないけれど本当の姉妹以上に仲が良かったはずの葵とマリィは、
実は恋敵でもあったのだ、という事実を受けいれるしかなかった。
「しょうがないな、マリィ……本当にいいのか?」
「ウンッ!!」
「ちょっと、龍麻」
 あっさりと節を曲げた軟弱者に対する、葵の、刺というか剣山めいた声を龍麻はあえて無視する。
龍麻にも言い分はあって、どうも美里家に来てから甘やかされっぱなしらしいマリィは、
少し癇癪持ちになりかけている。
その是非は後で論じるとして、まだ『火走りファイアスターター』としての力を失っていないマリィを
怒らせるとどんな惨事を引き起こされるかわからないし、彼女自身のためにも力は使わせない方がよい。
だから、いわば緊急避難的な意味合いで、マリィのわがままを今はやむをえず聞きいれようじゃないか。
 端から見れば一見説得力がありそうなこの主張も、要は龍麻が得をするだけなのだから、
葵を納得させることはできなかった。
だいたいつい今しがたまでキスしていたのに、
舌の根も乾かぬうちに他の女とキスしようなどと、普通の女なら許せるはずもない。
ましてマリィは葵が愛してやまない義妹であり、どこの馬の骨かも判らぬ男に渡すなど容認できるものではなかった。
 しかし、その義妹はベッドから跳ぶように下りると、そのまま龍麻に抱きついてしまう。
その笑顔は心底幸せそうであり、それを奪い取ろうとすれば、マリィは龍麻の言ったとおり、
強大すぎる『力』で抵抗するだろう。
龍麻一人が黒こげになるのは構わないが、マリィが警察沙汰になるのは絶対に許されない。
 せめてマリィの治療が終わってからなら他の手もあったかもしれないのに、
と結局葵は二人がキスを交わすのを承諾するしかなかった。
 少女の身体は温かくて、ぎゅっと抱きしめたくなる。
無防備に正面からしがみつくマリィを両腕で支えながら、龍麻は欲望と戦っていた。
 たぶん、抱きしめてもマリィは怒らず、むしろ喜ぶだろう。
けれども龍麻はとりあえず、キス以外の行為は極力控えるつもりだった。
それは自分の欲望が暴走してしまうから、ではなく、
マリィの義姉が横でじっと、見ないふりをしつつしっかり見ているからだ。
ごくわずかに細められた眼はマリィとの関係を決して遊びでは済まされないと告げており、
かと言ってキスをしないでマリィを泣かせることも許さない、とも語っていた。
 進退極まった、のではあるが、この場合、ならば前に進んで死のう、と龍麻が考えたのは当然だった。
「それじゃ、するよ、マリィ」
「ウン」
 マリィは目を閉じ、殊勝にも顔を傾ける。
パフェの上に乗ったさくらんぼのように突きだされた唇に、なぜか違和感を覚えつつも、
龍麻は葵と初めてしたときよりは多少マシなくちづけをマリィにした。
「ん……」
 顔を離すとマリィはもうお終い? とばかりに目を開ける。
それはもちろん何度でもしてやりたいところではあったが、何しろお目付役が真横で凝視しているのだ。
軽はずみなことをすれば、成層圏まで放りだされかねないので、ここは自重の一手だった。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>