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 下駄箱から靴を取り出したところで龍麻は、葵に呼びとめられてしまった。
逃げるつもりまではないので、全校生徒の憧れとなっている少女がやって来るのを、
待つでもなく待ってから一緒に歩き始めた。
「もう……どうして先に行っちゃうのよ」
「どうしてって、学校の中はくっついて歩くのやめてくれよ」
「あら、どうして?」
「どうしてって、恥ずかしいだろ」
「私は別に恥ずかしくないわよ」
 ここまでで二人は既に校舎を出ていて、
大勢の生徒達が帰路に就いている、校門への道を歩いている。
生徒会長である葵はその美貌とあいまって学校中で知らぬ人間はおらず、
彼女が歩く姿はそれだけで耳目を集めてしまうのだ。
それが更に楽しそうに、男と並んで帰るとくれば、
それは新宿の交差点の真ん中で叫ぶのと同じくらいの効果があり、
少なくとも龍麻にとってはとても耐えられるものではないのだ。
しかし葵は全く気にかける様子もなく、
それどころか龍麻が油断をすれば腕を組んでこようとさえする。
諦めた龍麻はもう十月も終わろうとしているのに顔が熱くなるのを止めることもできず、
かといって葵を置き去りにするような早足で歩く勇気も持てず、ただ地面を見ながら歩いていた。
「緋勇さん!」
 突然の自分を呼ぶ女性の声に、龍麻は驚いて顔を上げた。
真神學園の知り合いに、「緋勇さん」などと上品な呼び方をしてくれる女の子はいない。
それだけでまず驚き、その声が澄んだ陶器が奏でるような快い響きであったことにさらに驚き、
とどめに声が学外の方から聞こえてきたことで、みごと驚きの三段飛びが完成したのだった。
人間から遠くかけ離れた姿の化け物と日々戦っていてもこんな驚きはめったにない。
大急ぎで声の主を探した龍麻は、三秒ほどで目的を果たすことができた。
 校門の左側、駅とは反対方向で生徒の流れが少ない方。
その電柱に半ば隠れるように私服姿の少女が、部外者の立ち入りを禁ず──
そう書かれた警告を律儀に守っているのか、
道路と校門の境目からきっちり一歩分だけ下がった位置に立っていた。
彼女は龍麻も知っている少女で、龍麻を見つけてやや安堵した様子だ。
龍麻は一瞬隣にいる女性のことも忘れ、親しげに少女に手をあげた。
「さやかちゃん!」
「こんにちは、緋勇さん。それに美里先輩も」
 少女はアイドルらしからぬ丁寧さで頭を下げ、二人に挨拶した。
 少女の名は舞園さやか。
目下のところ売り出し中のアイドルであるが、その勢いは破竹の如しで、
最近出した写真集は空前の売り上げを見せているという。
普通なら龍麻とは縁もゆかりもない彼女が、龍麻を知っているのには理由がちゃんとあって、
彼女も龍麻たちと同様、ある日突然異能の『力』に目醒め、
それがきっかけで戦いに巻きこまれたさやかを龍麻が守ったことがあるのだ。
ちなみにその時点ですでに龍麻は葵と交際していて、さやかにも恋人めいた男がおり、
龍麻とさやかが交際する可能性は限りなくゼロに近い。
龍麻も二股をかけるような屑ではなく、ただ単純に遠い存在であるアイドルに会えたことを喜んだだけなのだが、
それから三日間、葵の機嫌は氷点下に達するほど悪くなり、
しかもそれが龍麻に対してのみ向けられたので、居心地が悪いなどというレベルではない辛さの
人間関係を味わわされ、体重が一キロ落ちたほどだ。
四日目には元に戻ったものの、あと一日長引いていたら胃痛で倒れていたかもしれない。
 だから龍麻としてはさやか、というより他の女性に色目を使うなど考えられないのだが、
それはそれとしてさやかのような美少女に声をかけられて嬉しくないわけがなく、
顔にもそれが出てしまう。
自制がまるでできていない、と龍麻が気づいたのは自分の面に影が射したときで、
ごく自然に、けれども明確な意図を持って半歩前に出た葵に、
鼻の下が伸びてしまっているのを知った龍麻は慌てて口を閉じた。
 それを知って知らずか、葵は穏やかに、人好きのする笑顔で挨拶する。
「こんにちは、どうしたの? 今日は霧島くんは一緒じゃないのかしら?」
 舞園さやかと霧島諸羽はつねに二人で行動している。
それはもう公私にわたって四六時中、一緒にいないときの方が珍しいくらいで、
葵の疑問は龍麻も等しく、まっさきに抱いたものだった。
「え……ええ。ちょっと……お二人に相談したいことがあって」
「相談? いいよ、なんでも聞くよ」
 アイドルに相談を持ちかけられるなど、波乱に満ちた人生でもそうあるものではない。
基本的に善良である龍麻は舞いあがり、頼れる兄貴に何でも聞いてくれとばかりに胸を反らせた。
「そう……それじゃ、場所を変えましょう」
 そんな龍麻を完全に無視して葵はさやかを促す。
それもそのはず、三人は校門を出てすぐのところで話をしているため、
下校する生徒が必然的に目にすることになるのだ。
はじめは真神内の有名人である龍麻と葵に、次いで二人と話している少女に。
今は龍麻と葵がある程度壁になっているが、
流行に敏感なティーンエイジャー達が舞園さやかの存在に気づくのは時間の問題で、
すでにひそひそ声も漂い始めていた。
さやかは一応帽子や眼鏡など一通りの変装はしているものの、
ちょっと目端の利く者──例えば真神学園新聞部部長──が見ればすぐに判ってしまう。
それはまったく良くない展開なので、本格的な騒ぎに発展する前に、龍麻達は急いで場所を変えることにした。

 どこで見つけたのか、学校帰りにラーメンを食べるのでさえぶつぶつ言う葵が二人を連れて来たのは、
真神からほど近い、随分と小洒落た喫茶店だった。
店内は高校生、もしくはそれに準ずる若い女性ばかりで、明らかな場違いの人間である龍麻は、
見世物にされるような居心地の悪さを抱いたが、もちろん葵がそれを考慮することはない。
龍麻としては女性二人になるべくくっついて移動し、彼女たちの関係者であるというアピールをするしかなかった。
 一番隅の、目立たない席を確保した葵達は、思い思いにメニューを注文した。
龍麻はコーヒーだけを頼んだのだが、何やら巨大なパフェが運ばれてきて、葵の前に置かれる。
てっぺんに刺さっているバナナを取ったら怒られるだろうか、怒られるだろうな。
 リスクを避けた龍麻に、良く出来ましたとばかりの一瞥をくれた葵が、
スプーンをクリームの塊に突き刺してから口を開いた。
「それで、相談っていうのは何かしら?」
 アイスティーと小さなケーキを頼んださやかは、それに手をつけようともせず、
どこか思いつめた表情をしていたが、葵の問いかけに顔を上げた。
真剣な表情はグラビアなどで見る彼女とはまた違って龍麻の心を鷲掴みにする。
すると葵の眼球が龍麻にだけ視認できる程度にぎろりと動いたので、慌ててコーヒーを啜る龍麻だった。
「あの……美里先輩と緋勇さんはお付き合いされているんですよね」
「一応ね」
 一応!
葵の答えに龍麻は憤慨した。
二日に一度は電話しないと怒り、自分以外の女性と話すと拗ね、
泊まりもしないのに部屋に歯ブラシを置いていって、まだ一応!
龍麻は思いきり皮肉を込めた調子で言ってやったが、
残念ながら声の方が怖がって口から外に出ようとしなかったので、
抗議するのはまたの機会にしてやることにした。
 龍麻が誰にも判らない一人漫才をしている間にも二人の会話は続き、いよいよ核心に触れる。
多分無意識なのだろう、忙しくストローを掻き回していたさやかが、
形の良い唇を矢継ぎ早に動かした。
「それじゃ、その……そういうこともなさったりしてるんですか?」
 そういうこと!
男女関係無く、年頃の人間が「そういうこと」と言ったらそういうことしかないのだ。
それは龍麻はもちろん、葵でさえもそうなのだから間違いはない。
それでも、さやかが言うとなると話は別で、
龍麻はさやかの鈴の音のような声色で発せられた意味深な言葉をじっくりと鼓膜で吟味した。
できればそういうの中身を具体的にはっきりと聞きたいところだが、
そんな要求を口にすれば彼女たちは愛想を尽かせ、東京を護るという大目的でさえ
一人で勝手にやりなさいという事態になるのは間違いない。
いくら龍麻でも底の見えない、けれど下の方から猛獣の雄叫びが聞こえる崖っぷちを飛んでみようとは思わないのだ。
 どうせくだらないことを考えているのだろう男の顔に、葵は研ぎ澄ました針の一瞥をくれる。
たちまち龍麻が姿勢を正し、まあまあよそ行きの顔になったので、
それ以上は追及せず、自分も座りなおして後輩の少女の話を聞いた。
「……どうしたの?」
「……あ、あのッ、わたし、この間、初めて霧島くんと……
そのッ、したんですけど、その時に……うまくいかなかったんです」
「痛かった……ってこと?」
「……」
 さやかは黙って、こっくりと頷く。
アイドルの衝撃の告白に、龍麻は何か飲んでいる最中でなくて良かったと思った。
まじまじとさやかを見つめ、葵に思いきり腿をつねられて慌てて視線を逸らす。
 テーブルの下で呼吸するよりも自然にその動作を行った葵は、
品の良い好奇心を瞳に浮かべて続きを促した。
「ええ……それで、その後も何回かはしたんですけど、どうしても……気持ち良くなれなくって……」
 そりゃ霧島にテクが足りないんだろ。
龍麻は偉そうに小鼻を膨らませるが、実の所、龍麻がテクとやらを習得したのは葵の功績が大だった。
終わった後、男の尊厳を根こそぎ奪いそうな目つきで続きを促されれば、
いやでも上達するというものだ。
そういう都合の悪い部分は忘れ、後輩に対するくだらない優越感を抱いた龍麻のつま先に、
葵の踵が振り下ろされた。
「……!!」
 親指の付け根、急所中の急所を痛打され、
龍麻はもう少しで膝をテーブルにぶつけてしまうところだった。
 声にならない叫びを上げる龍麻に構わず、葵は見る者を安心させる、柔らかな微笑で思案に暮れる。
それも長い時間のことではなく、すぐにより柔らかな微笑をさやかに向けた。
「いいわ。さやかちゃん、それじゃ今度、さやかちゃんの都合のいい日を教えてもらえるかしら?
龍麻の家に来てほしいの。少しくらい遅い時間でも大丈夫よ」
「あ、それなら明日でもいいですか?」
「ええ。霧島君には龍麻に電話させておくから」
 ようやく足の痛みが治まってきた龍麻は、二人の会話を聞いて疑問に思った。
相談なら今ここですればいいし、諸羽がいないほうが話もしやすいだろう。
さやかもそう考えたからこそ一人で来ているのだろうに、なぜわざわざ日を改める必要があるのか?
 その疑問は龍麻だけでなく、さやかも抱いていたが、
葵は一切の説明はせず、ただ自信に満ちた笑顔を浮かべるばかりだった。



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