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翌日。
先に龍麻の家に着いたのは、霧島諸羽の方だった。
昨晩電話したときに、とくにさやかにも言わずに来るように伝えたので、
忠実に約束を守って一人で来たらしい。
「こんにちは、おひさしぶりです、先輩」
さやかに劣らぬ礼儀正しさで諸羽は龍麻と葵、それぞれに頭を下げる。
この男にならさやかを託しても問題ない、などと部外者のくせに父親ヅラで考えながら
三人分のコーヒーを淹れた龍麻は自分も腰を下ろした。
「それで、僕にお話って何でしょうか」
諸羽から受けた視線を、龍麻が葵に流す。
タイプは違えど顔立ちの整った男二人の視線を浴びた葵は堂々とそれを受けとめ、吸収した。
真っ向から見つめかえされた諸羽と龍麻は、二対一という有利にもかかわらず各個撃破され、
あえなくうつむいてしまう。
諸羽はともかく龍麻の不甲斐なさは責められるべきだったかもしれないが、
仲間達の前では頼れるリーダー格として構える男も、たった一人美里葵という女の前では、
釈迦に対する孫悟空ほどにしかふるまえないのだった。
三人の内少なくとも二人はもどかしさを感じる時間が過ぎていく。
後輩の手前、もう少ししゃきっとしたところを見せたい龍麻なのだが、
今度葵に無視されたら尊厳など木っ端微塵になってしまう。
諸羽は他人に言いふらしたりはしないとしても、これから先、
皆の前で格好をつけられなくなるのは、できれば避けたいところだった。
それにしても葵は何を考えているのだろうか。
学校でも気まずい関係に陥っている二人をことさら対面させたところで、
原因が解決しなければうまくいくはずがないというのに。
澄まして何も語らない葵に、いくらか苛立ちも溜まった龍麻が、
痺れを切らして二度目のアタックをかけようとする。
その機先を制するように、新たな訪問者を告げるチャイムが鳴った。
誰かは判っていても、一応は家主が出迎えなければならない。
龍麻は立ちあがり、家に来たアイドルを出迎えた。
「こんにちは」
「さ、さやかちゃん……」
さやかも呼ばれていると初めて知った諸羽が愕然としている。
さやかの方は昨日聞かされてはいたものの、やはり気まずさはあるようで、
諸羽に対して見るからに演技とわかる硬い笑顔を向けただけだった。
さやかも加わって四人に増えたところで、改めてテーブルを囲む。
二組のカップルは女性は二人とも類い稀な美少女、男性の方も一人は間違いなく美少年で、
もう一人はかろうじて美男子の範疇にぶら下がっているが、今どきでない長い髪が、やや美観を損ねている。
それでも彼のパートナーはテーブルから彼を追いだそうとはしなかった――
単に家主であるからという理由だけではない、はずだ。
さやかと諸羽は互いに目を合わせず、見ていて気の毒なくらいぎこちない。
自分たちにもあんな初々しい時代があっただろうか、と感傷にふけった龍麻が、
ちらりと横をうかがうと、葵はそんな頃があったかどうかさえ怪しませる、
威風堂々たる姿勢で後輩二人の方を向いていた。
「さやかちゃんから話は聞いたわ、霧島くん」
たった一言で諸羽はすくみあがってしまった。
諸羽は櫛名田比売を狙う八岐大蛇を退治した竜殺しであり、
フェンシングの達人でもある。
その諸羽にして貫禄負けしてしまう葵の威厳に、龍麻だけはいまさら畏怖しなかったが、
若い二人は命乞いすらし始めかねないほどすくんでいた。
「恥ずかしいのはわかるけれど、こういったことも勉強しなければ男女の関係は上手くいかないのよ」
「は、はい、でも……」
諸羽の声は今にも消えそうで、さやかが痛ましげに見つめている。
苦しげな二人は龍麻をすら同情させ、面倒見はよくてもおせっかいではない男は、
もし戦いになったら俺はどっちの味方をするのだろうかと真剣に迷った。
だが、美里葵は面倒見はよくておせっかいでもある女だった。
羞恥のあまり耳まで赤くする諸羽に対し、ほとんど母親の如き存在感を見せつけた龍麻の同級生は、
この場の誰もが想像さえしていないことを言ったのだ。
「今から私たちがやり方を教えてあげる」
コーヒーを吹きださなかったのは飲んでいなかったからで、
もし口に含んでいたならさやかの前で醜態を晒さずにすんだかどうか、龍麻には全く自信がない。
それほど葵の発言は爆弾で、龍麻は大きくのけぞって目下のところ恋人と
世間的には呼ばれるポジションにいる女性を凝視した。
さやかと諸羽の反応も龍麻と大差なく、唖然と呆然と仰天味のドーナツを二つの目と口で、
合計六個作って並べている。
「お、おい、やり方って」
正気なのか。
龍麻は本当はそこまで言ってしまいたいくらいだった。
健全な男子であり葵の裸を見るために日々悪戦苦闘している龍麻だが、
他人と一緒にセックスをするなど考えたこともない。
葵の発言のあとでも賛同するつもりは全くなく、迷える子羊を救うのだと顔全体に笑顔を浮かべる女に、
どうやったら発言を撤回させられるか、そちらの方を真剣に考えていた。
葵の方では龍麻の驚きなど一顧だにせず、自分のアイデアに絶対の自信をもってさらなる説明を加える。
「先に私たちがしてみせるから、それを二人も真似してみれば解りやすいと思うの」
つきあい始めて三ヶ月、理想と現実は違うということを学んだし、
この完全無欠の人格者に見える女性がちっともそんな聖女みたいなものではない、
人間味にあふれた、実に魅力的な少女だと理解していた。
その龍麻にしてこの提案には度肝を抜かれ、間の抜けた形に口を開けたまま、
あらゆる種類の語句を声として出すことができなかった。
龍麻がこのざまだから諸羽とさやかなどはもう聞こえなかったことにしようとしているらしく、
露骨に目を伏せていた。
「そういうことだから、さっそく始めましょうか」
静まりかえった部屋の中で、葵一人が浮かれている。
部屋の主も含めた三人は、嵐の過ぎ去るのを待つかのようにじっと身をすくめていた。
もしも葵の蛮行を止めることができる人間がいるのなら、それはやはり緋勇龍麻をおいて他にはいなかっただろう。
なんといっても彼は難攻不落の要塞とも言われていた美里葵を陥落せしめ、
真神の在校生一同から伝説とまで言われた男なのだ。
「どうしたの、龍麻。足が痺れてしまったの?」
「い……いや、そんなことはないけど」
だが、人智を超えた『力』を持ち、人知れず東京を護るために仲間を率いて戦う男は、
葵に穏やかな眼差しを向けられただけで狼狽した挙げ句になぜか立ちあがろうとして
テーブルに膝をしたたかにぶつけ、低いうめき声を放って再び座ってしまう始末だった。
こうして最も期待された男は共に戦う仲間に失望を与えただけで、
八畳程度の空間はたった一人の女性に制圧されてしまったのだった。
「本当はシャワーを浴びたいのだけれど、今日は特別に無しにしましょう」
服を脱がせるところから諸羽に教える必要がある。
言外にそう言っているのを理解したのは龍麻だけだった。
諸羽とさやかは青ざめた顔でうつむくばかりで、ほとんどゾンビのようになっている。
「二人とも、ちゃんと見ていなければ駄目よ」
そんな二人にも葵はきっちりと釘を刺し、顔を上げるよう、容赦なく視線で促した。
それでも、諸羽はともかくさやかは羞恥心の方が相当に上回っているようで、なかなか顔を上げられないようだ。
これでは完全に逆効果であると危惧した龍麻は、前途ある二人のために捨て石となる覚悟を決めた。
「なあ、こういうのは当人同士の問題なんだし、何も実際に見せる必要なんてないだろ」
「甘いわ、龍麻」
葵の返答はナイフの切れ味だった。
「こういうことは放っておいて解決するものではないのよ。
昔は成人するときに大人が集まってやり方を教えることもあったそうだし、
私は霧島君とさやかちゃんのためを思って言っているのよ」
それが葵の本心か否か、龍麻に確信はない。
なんとなく嘘っぽいとは思っても、彼女の精神には巧みに防御壁が築かれていて、
龍麻はまだ突き崩すだけの実力を備えていないのだ。
ただ、諸羽とさやかには「二人のため」という文言が効いたらしく、
神のお告げを聞いた民衆のように感動していた。
「すみません美里先輩、先輩がそんなにわたしたちのことを考えていてくださったなんて」
「さやかちゃんの言うとおりです。悪いのは僕なのに」
「いいえ、違うわ、霧島君。あなたが悪いのではないの。ただほんの少し臆病だっただけ。
でも心配することはないわ。私たちが教えてあげるから」
「美里先輩……!」
涙まで流しそうな勢いの二人と、彼らを教導する葵とを、龍麻は醒めた目で見ていた。
確かに葵の説得には鴉が白いと言われても信じてしまいそうな力があるが、
それにしてもあっさりと信じすぎだ。
世の中はもうちょっと疑うことを覚えないと渡っていけないのだ、と諭してやりたいところを龍麻はこらえた。
今話したところで二人が聞くとは思えないし、その前に葵からの手厳しい反撃があるに決まっている。
それに、いまさら気づいたのだ。
二人に教えるということは、当然実技指導もあるはずだ。
だからこそ葵は二人を呼んだのであり、だとすれば、だとすれば。
態度を決めた龍麻は、一番よそいきの顔を作って二人に向けた。
「ああ、俺たちに任せておけば大丈夫だ、二人とも。
何しろ俺は『黄龍の器』の他に『愛の伝道師』って通り名もあるくらいだからな」
「凄いです、さすが緋勇先輩!」
「僕たち、しっかり勉強させてもらいます!」
もはやどんな言葉にも感激する二人に、得意気にうなずく龍麻の鼻は、
後日葵に通り名について問い詰められるまでどこまでも高くなっていったのだった。
正座して目を閉じる葵に、龍麻は心の中で悪態をつく。
ここまで仕切っておいていざ鎌倉となったら男に委ねるなど、
いかにも自分が慎ましやかな女であるとアピールしているようではないか。
それにいつもはもっとしなだれかかってきたり耳に息を吹きかけてきたり
自分からキスしてきたり色々するというのに、こんな風に構えられては、
飾りつけされたパフェのごとく、どこから崩せばよいのかわからない。
かといってやりたいようにやれば「二人のためにならない」とかなんとかいう理由で
後日説教が待っているのは間違いなく、クリームを口の周りにつけないように、
せいぜい上品に食べなければならないだろう。
横から二人の初々しい、そして熱っぽい視線が注がれているのを頬で感じつつ、龍麻は自分の恋人を見た。
こうして真神の制服を着て、軽く顎を突きだしつつキスを待っている彼女を見ると、確かに葵は可愛く見える。
つやつやの額や筋の通った鼻、それに形良く膨らんだ紅い唇など、個々のパーツも組みあげられた完成図も、
アイドルのさやかに勝るとも劣らない――否、間違いなく勝っていた。
これでもう少し、そう、あとほんの少しだけ仕切り癖、有り体に言えば姉さん女房的な性格をひっこめてくれたら、
ためらいなく宇宙で一番好きだと言えるだろう。
現に今だって、龍麻の意見は全く、一言さえ聞かないままに若い恋人達に指導してやるなどといった
目茶苦茶な、おそらくこの場にいる彼女以外の全員以外望んではいなかった事態を招来しているのだ。
あげくに初めてのキスですらこんな控えめな態度ではなかったくせに、
よほどイメージを大切にしているのだろうか。
などと不平を次々に浮かべながら、龍麻は指の背で葵の頬を撫でる。
艶やかな頬は彼女の親友のようにぷくぷく膨らんだりはしないが、つきたての餅のような柔らかさに満ちていた。
こうやって戯れるように触るのは、随分と久しぶりな気がした。
最初の頃は、こんな風に意味もなく触ったりしたはずだ。
けれども葵はあまりそういう触られ方が好きではなかったようで、いつしか龍麻も止めていた。
だが、今にして思うのだ。
あれは葵の照れ隠しだったのではないかと。
言うべきことははっきりと、言うべきでないことはさりげなく、
どちらにしても龍麻が察知するまで態度に表わす葵だから、
そういった照れだの恥ずかしがるだのといった気持ちも、見せないのならないのだと思っていた。
けれども、葵もやはり女の子なのだと、龍麻は改めて思った。
でなければこんなに頬が柔らかなはずがなく、口唇がこんなに艶やかなはずがない。
顎の稜線をなぞると、葵は唇をほんのわずか震わせる。
その小さな震えにたまらない愛おしさを感じつつ、龍麻は静かに唇を重ねた。
どこかで何人分かの息を呑む音が聞こえたが、すぐに気にならなくなった。
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