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四時限目の授業が終わった三年C組の教室は、あふれんばかりの解放感に満たされていた。
一時間弱の沈黙を強いられた鬱憤を晴らすかのように騒ぎ、
さっそく幾つかのグループに分かれて弁当の準備を始める。
「……っと」
熟睡していた京一は、賑やかになった教室にようやく目を覚ました。
授業を受けそこなったことなど後悔していないが、購買に出遅れたのは痛恨だ。
今日はもう、ヤキソバパンは売り切れているかもしれない──
それでも行くだけは行ってみようと、京一は友人の姿を探したが、
教室でも目立つ長身はどこにも見当たらなかった。
もう一度見渡して、やはりいないことを確かめ、
最近あいつ付合い悪いな、などとぶつぶつ呟きながら渋々一人で教室を出て行った。
ほぼ同じ頃、桜井小蒔も一緒に弁当を食べようと友人を探していた。
しかし、教室どころか学園内でも人目を惹かずにはおかない長い黒髪は、いつのまにか姿を消していた。
「あれ? ……生徒会の用事かな」
それなら一言あっても良さそうなもんだけど、と首を傾げつつ、
友人に呼ばれた小蒔は手を洗いに教室を後にした。

京一と小蒔が探した両名は、実は同じところにいた。
と言っても一緒に行動しているのではなく、龍麻はわざわざ遠いほうの階段を使って、
葵は走ると歩くのぎりぎりの境目の速さで歩いて、目的地で合流したのだ。
屋上へと至る扉を、誰にも見られないよう周到に注意してくぐった龍麻は、
誰もいない屋上に至ってもなお警戒を解かず、給水タンクの陰へと、まるで忍者のように移動する。
龍麻の友人兼正真正銘の忍者である如月翡翠が見ていたら、
筋の良さを褒めたかもしれない足取りで、陽の当たらない、
もちろん誰も来そうにない一角に着いた龍麻は、
彼を待っていた女性が振り向き、微笑んだことでようやく緊張を緩めた。
「待った?」
「ううん、今来たところ」
甘ったるさに寒気が出そうな挨拶を、恥ずかしげもなく交わした龍麻と葵は、
仲良く並んで腰を下ろした。
早速葵が、一人で食べるには明らかに多い弁当を取り出す。
もちろんそれは、葵が龍麻のために作ってきた手弁当だった。
「今日は何?」
「うふふ、開けてみて」
言われるまでもなく蓋を開けると、見た目にも鮮やかなおかずが整然と並んでいた。
早速つまみたくなるのを抑え、葵が自分の分を開けるまで待ってから礼儀正しく手を合わせる。
「いただきます」
箸を持った龍麻は、思いきり顔を綻ばせて弁当を食べ始めた。
その隣には、龍麻に劣らないくらい幸福そうな笑顔をした葵がいる。
二人は今、間違いなく真神学園で最も幸福なカップルだった。
龍麻が親元を離れて暮らしているという情報を葵が知って数日後、
弁当を作ってくれるという彼女の申し出を、龍麻は一も二もなく受け入れた。
一人暮しで食生活の貧弱な龍麻にとって、手料理というのは宝石にも優る貴重なものであり、
それが全校生徒の憧れである葵の作ったものとくれば、その価値はダイヤモンド以上だった。
しかし、龍麻に宝石を見せびらかす趣味はなく、また、
そんなことをすれば盗人をも警戒しなければならないので、
弁当を食べるのは週に一度、それもこの屋上の陰でと取り決めたのだ。
確かに苦労はある。
まず龍麻は京一から、葵は小蒔から逃れるというのが相当の難題であり、
更に二人が一緒にいるところは決して見られてはならない。
そのために選んだ屋上という場所も、十一月も半分を過ぎた今の季節、
それも日陰では決して食事をするのに良いとは言えないのだ。
しかし今のところ龍麻も葵も、それを乗り越える喜びの方が勝っていたので、
週に一度のひそやかな楽しみを止めようとは思っていなかった。
それどころか、寒いことを口実にしてお互いに寄り添う。
忙しく箸を動かしながら、龍麻はどれだけ話しても話したりない、
とりとめのないことをずっと話していた。
葵は穏やかに相槌を打って話を聞いてくれる。
やがて弁当箱はご飯の一粒に至るまできれいに空になり、龍麻はまた行儀良く両手を合わせた。
「美味しかった?」
「ああ、ごちそうさま」
女は作る喜びを、男は食べる喜びを存分に満喫し、笑顔を見せ合う。
この後は五時限目が始まるまでの時間、二人きりの逢瀬を楽しむのが無言の約束だった。
「今日さ、帰りどうする?」
「図書館に寄りたいの」
「いいよ。俺も本借りるから」
「何の本?」
「この間借りた本の続き」
「面白かったの?」
「まあまあだったけど、最後までは読んでおこうかなって」
「うふふ、そういうものよね。あ、そうだ、昨日マリィがね、『タツマは今度いつ遊びに来るの』って」
「いつ……って、でもそんなにしょっちゅう行ったら悪いだろ」
「あら、誰に? 私は別に構わないけど」
「本当?」
軽やかな会話の最中に、膝が触れる。
会話のリズムを崩したくなくて、龍麻はあえて動かない。
葵も同じ気持ちなのか、大げさに動こうとはしない……と思っていたら、
少し寒さを感じていた、膝の上に置いた手が、そっと包みこまれた。
これには龍麻も驚き、全く無反応というわけにはいかなくなってしまう。
声を詰まらせ、ぴくりと肩を震わせると、葵が勝った、とばかりに笑った。
穏やかで幸福な笑いはすぐに龍麻にも伝播し、
二人は現代の東京ではすっかり貴重なものとなってしまった感のある笑顔を見せ合った。
葵の手に、わずかに力が篭る。
一瞬で緊張を漲らせた龍麻は、静かな期待を込めて葵の瞳を見つめた。
葵の目許はほんのりと朱に染まり、龍麻の期待が間違っていないと知らせる。
彼女の長い睫毛が伏せられ、顔が傾いていった。
龍麻は一杯の幸福を胸に、愛の証を交わそうとする。
その時だった。
はじめにその音に気付いたのは、龍麻だった。
もう触れんばかりだった顔を離し、軽く眉を寄せて音源を探る。
控えめな声で話している自分達よりも更に控えめな足音と、微かな息遣い。
まさか、昼間の学校を何者かが襲ってくるわけもないが、
妙にくぐもった感じのする声はただごとではないように聞こえ、
気配を殺して陰から目だけを出した。
「……」
目の前にあった音の正体は、確かに意外なものではあった。
顔を引っ込めると、さっそく葵が目で訊ねてくる。
説明しようと口を開きかけた龍麻は、直接見せた方が早いと思い、葵と場所を代わった。
甘い一時を中断させられた葵は、わずかな不満と抗議を瞳に浮かべ、
それでも指示通りそっと陰から目だけを覗かせる。
「……」
反応を楽しみにしていた龍麻だったが、葵は龍麻から見ると腰を突き出した、
結構魅惑的なポーズのまま中々向き直ろうとしなかった。
辛抱強く待った末、痺れを切らして肩に手を置く。
すると葵は、ばねのおもちゃが弾け跳んだよりも激しく飛び上がった。
振り向き、一杯に見開かれた目と、それに劣らぬくらい口を開いて何かを言おうとする。
龍麻は慌ててその口を塞ぎ、もう片方の手で静かにするよう合図した。
こくこくとせわしなく頭が振られ、落ちつきが取り戻されていく。
龍麻が手を離すと、葵は衝撃も醒めやらぬ様子で元いた場所に座った。
何もうぶな小娘じゃあるまいに、と、
龍麻は大きく上下動する豊かな胸を押さえている葵の横顔に視線をくれつつ思った。



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