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扉の前に立った龍麻は、緊張した面持ちでチャイムを鳴らした。
表札には、小さく『天野』と書いてある。
普段の颯爽とした彼女とはあまり結びつかない、やや地味なたたずまいを見せるマンションだったが、
それはあえてこういう建物を選んでいるのか、
それとも単に無頓着なだけなのかは、龍麻には解らない。
解っているのは、昨日突然職員室に呼ばれ、
何がバレたか必死に考える自分にマリアが一通の手紙を差し出し、
それにここに来るよう書かれていたことだけだった。
何故急に家に呼ばれたのかさっぱり解らない
──彼女が女性の立場から自分を呼んだ、などと自惚れるほど馬鹿ではないつもりだ──が、
何かにつけて協力してくれ、また大人の視点から助言もしてくれる絵莉を、
もちろん嫌いなはずもなかったし、何より手紙には「一緒にお昼でも食べましょう」
とあったから、こうして家を訪れた、という訳だった。
待つほどの間も無く、鍵が外れる音がする。
まるで警戒する様子も無く扉が開かれ、龍麻の目線とさほど変わらない位置にある目が出迎えた。
「あ、こ……こんにちは」
「いらっしゃい、待っていたわよ」
玄関を開けて出迎えてくれた絵莉の格好はショートパンツにカッターシャツを羽織っただけという、
ラフとだらしなさの境界線上にあるものだった。
失礼にならないよう気をつけていても、絵莉の、
太腿のかなり際どいところまで見えてしまっている足は磁力でもあるかのように目を惹きつける。
「さ、上がって」
「は、はい」
思わず少しどもってしまった龍麻だったが、絵莉はそれには何も言わず招き入れた。
もちろん、視線に気付かない訳がない。
見たいならいくらでも見せてやるのに、中学生のようにチラチラと見てくる龍麻が微笑ましい。
この分なら、今日は上手くいきそうね。
龍麻の前を歩きながら、顔を見られていないのを良いことに一人ほくそえんだ絵莉だった。
居間に通された龍麻は、そこにいた先客に驚かずにいられなかった。
「マリア先生! どうしてここに?」
「フフッ、こんにちは、龍麻」
教室での朝の挨拶と変わらない声で、担任が自分に呼びかける。
その違和感に、龍麻の身体の指令中枢に混乱が生じ、機能が停止してしまった。
直立不動で固まった龍麻に、マリアは手の甲を口に当て、
機嫌が本当に良い時にしか見せない笑い方をする。
「は、はい……おはようございます。でも、どうしてここに」
「時間通りね……遅刻は良く無いわよ、どんな時でも」
ようやく衝撃から立ち直った龍麻が再び問いかけても、マリアははぐらかすように足を組替える。
そこに龍麻が見たのは、いつもの黒いストッキングではなく、病的なまでに白い素足だった。
マリアの服装も、絵莉ほどではないにせよ、かなり肌の露出の多いもので、
そうでなくても同級の女子などとは比較にならない色気を全身から撒き散らしている大人の肢体は、
龍麻にとって毒ですらある。
もっともマリアの場合は普段から派手だからそれほど違和感はなかったが、
それでも、透き通るような白い肌は人ならざる者のようにうっすらと輝いてさえ見えた。
胸元の大きく開いた服を上から見下ろす格好になって、龍麻は慌てて目を逸らす。
もし、龍麻がもう少し視線を逸らせるのを遅らせたなら、
マリアの笑みが艶麗なものに変わる様を捉えただろう。
しかし、龍麻が視線を戻した時、マリアの表情はいつもと同じものに戻っていた。
「ほら、座りなさい」
勧められるままに、どことなく緊張を覚えながら龍麻は腰掛ける。
テーブルの上には所狭しと食べ物と酒が並べられていて、
普段はラーメンがごちそうという、悲しいほど食生活に恵まれていない龍麻は、
食卓に広げられた小さな宇宙に感動さえしていた。
感激のあまり声も出ない龍麻に、絵莉が飲み物を用意しながら笑いかける。
「龍麻君のために、はりきって用意したのよ」
「どうせどこかのお店で買ってきたんでしょう」
「い、いいじゃない。ねっ、遠慮しないで食べて」
「は、はい。いただきます」
結局何しに来たのか判らないまま、龍麻は勧められるままに食事を始めた。
初めこそマナーみたいなものを意識していたが、
次々に誘惑してくる居並ぶ料理にそれも面倒くさくなり、手当たり次第に口の中に詰めこむ。
若い男の食べっぷりを好ましい目で見ていた絵莉とマリアも自分達の食事を始め、
しばらくは会話すら始まらなかった。
しかし、それも龍麻が一通り食べ物を胃に収めると、徐々に談笑にシフトしていく。
「龍麻は、確か一人暮らしのはずよね。食事はどうしているのかしら?」
「えッ!? えーと……その……その辺で適当に……」
「だめよ。きちんと三食採らなければ、身体を壊すわよ」
「す、すいません」
「そうね……今度、ワタシが料理を作りに行ってあげましょうか?」
「いッ! い、いえ、遠慮しておきます」
「あら……どうして? ワタシの料理の腕が不安なのかしら?」
「そッ、そんなことありませんですッ。……その、部屋が汚いので」
「フフッ、いいわ。掃除もしてあげるわよ。どう?」
「そッ、それは」
「いいのよ、生徒の健康を気遣うのも教師の役目なのだから」
どうしても教師と生徒という関係におっかなびっくりしていた龍麻も、
砕けた口調のマリアに、次第に打ち解けていく。
しかし、テーブルの半分が和かになっていくのに対し、
口を挟む隙が無い絵莉の側の半分には、どんよりとした帳が降りていた。
それに気付いた龍麻が慌てて絵莉に話しかけるが、もう手遅れだった。
絵莉が放った厳しい視線は龍麻を飛び越え、マリアに突き刺さる。
「公私混同はしないんじゃなかったの?」
「言ったでしょう、生徒が勉強に集中できるようにするのも教師の務めよ」
「どうかしらね。勉強とか言って、良からぬことでも教えるんじゃないの」
「アナタと一緒にしないでくれる?」
「何ですって! 大体、私は龍麻君に言伝を頼んだだけなのに、どうしてマリアまで来るのよ」
「可愛い教え子をみすみす毒牙にかけさせる訳にはいかないでしょう」
「毒牙とは何よ、毒牙とは!」
ほとんど子供の喧嘩のような言い争いを始めた二人に、
正直巻きこまれるのは勘弁して欲しいと思った龍麻は黙々と目の前の料理を片付けるのに集中する。
こうなったら食べるだけ食べてさっさと帰ろうと考えたのだ。
テーブルに視線を落としたままの龍麻を見て、マリアと絵莉は口論を続けながら目配せをした。
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